shin-1さんの日記

○青年の船班長会の案内状

 昭和51年に第10回総理府派遣青年の船に班長として乗船してから、早いもので34年が経とうとしています。私が30歳の時の出来事です。私は建国二百年のアメリカやメキシコ、ハワイなどを歴訪するこの大きな旅で人生観が変わるほどの体験をし、以後の自分の生き方に大きな影響を与えてくれたのです。もしもあの船に乗らなかったら自分の人生はこれほど充実していなかっただろうと思うのですから、青年の船は私の大恩人なのです。

 青年の船には私と同じように班長と呼ばれる指導者が30人選ばれて乗船し、班員の指導に当りましたが、それぞれ立派な方で私を基準にすれば既にリタイアした人、そろそろリタイアする人など、人生の転機を迎えていることだと思うのですが、下船後も班長会を組織して毎年一回持ち回りで交友を温めているようです。私は下船した時自分に言い聞かせていました。というのも、青年の船に班長として乗船したある先輩から、「班長で乗船したからといって、青年の船の仲間と付き合うことを重視する必要はない。そんな暇があったら、自分のふるさとの若者を育て、ふるさとのためになることをやりなさい。それこそが大事な事後活動である」というのです。同感した私は34年間の間にたった1回しか班長会に出席していないのですから、班長の仲間からは当然ブーイングが起こるのは当たり前なのです。私はそんな信念を持っていましたが、毎年案内状を貰う日時が多忙で行けなかったというのが正直な話です。

 昨年の班長会も東京で外国とのテレビ会議が重なり出席が叶いませんでしたが、どうも昨年の班長会で、「次回は愛媛県松山で開催し不義理をし続けている若松に担当させよう。そうすれば嫌でも若松は参加する」と欠席裁判に合い、私に前回の責任者本田さんからその旨電話が架かってきたのです。

 あの時の青年の船には愛媛県出身で今は横浜に住んでいる八幡浜出身の林富佐子班長さんがいます。彼女と二人で今回の班長会はやらねばと、相談しながら準備を進め、第一回目の予備連絡に続いて一昨日正式な案内状を全国に向けて発送しました。もとより、自分の時だけは来て欲しいなんて虫のよい話は全然考えていません。また日頃不義理をしているためそれ程の参加期待もできないものですから、まあ誠心誠意粛々と受け入れ準備をしたいと思っています。先日林さんから電話が架かってきました。お盆の帰省で実家に帰っているとのことでしたが、私は残念ながら広島と岡山へ出張中で、出会うことが出来ませんでした。心配して電話をかけてくれた事に感謝しながら案内状を出しました。

 最近はハガキや封筒の印刷もパソコンで出来るような便利な世の中になっていますが、私はそれ程能力が高いわけでもなく、四苦八苦しながら本田さんからいただいた班長さんの住所氏名を打ち込み、案内文と返信用ハガキを作成しました。文房具屋さんに行って四角い封筒を買い求め住所氏名をプリントして発送する作業は一人でするため結構時間がかかりましたが、やっと発送にこぎつけました。後は締切日を待って対応すればいいのです。気になっていた作業だけに無事終ってホッと一息といったところです。

 今日早くも嬉しい出席通知第一号返信用ハガキが舞い戻ってきました。広島県の松永さんからです。



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shin-1さんの日記

○しまなみ海道から瀬戸大橋を巡る旅②

 瀬戸田を出発したのは午後9時半でした。満月にも似た月を追うようにしまなみ海道から山陽道に出て、福山、倉敷を経て岡山に着いた頃はもう11時を過ぎていました。カーナビに入力した岡山駅前の予約ビジネスホテルにチェックインして、友人たちが集まるホテルの近くの居酒屋に顔を出しました。私が岡山に来るというニュースをかぎつけて5人ほどが集まって歓迎会をしてくれたのです。夜も遅いのでと誘いをお断りしましたが、聞き入れてもらえず、深夜の出会いとなりました。皆さんはもう出来上がっていて、随分と酒の肴にされてしまいました。前もって仲間に話しをしていたので12時杉には無罪放免となりました。ホテルへ帰ってシャワーを浴び、テレビを見ながら本を読み、いつの間にか夢の世界へと旅立っていました。私は自宅にいると通常は12時頃に寝て午前4時頃に目を覚ますのが何時ものパターンですが、この日は旅の疲れかぐっすり寝込み、気がついたら朝6時になっていました。やることもないので早速起きて顔を洗い早朝読書をした後ホテルを出ました。旅先では出来るだけ界隈を歩くようにしていますので、のんびりゆっくり岡山駅前辺りを歩きました。岡山駅は大阪や山陰に向う中継点としてよく利用しますが、駅舎を出ることは殆どなく、歩いてみると駅のイメージが随分と変わったような気がしました。朝の散歩で携帯に付いた万歩計を見るとと6千歩も歩いていました。ホテルに帰ってシャワーを浴び身支度を整えてチェックアウトし、この日の目的地であるテクノサポート岡山へ向かいました。

 テクノサポート岡山は岡山空港に近く、また岡山インターにも近い市内からは少し離れた郊外にありましたが、車だとスイスイ行けて9時にはもう到着です。車の中でカーテレビを見ながら過ごしていると、高田事務局長さんが見えられ中に用意した控え室へ案内されました。岡山県が威信を掛けて作ったのでしょうが、まあそれは立派な建物で、森を切り開いて作った広大な敷地には幾つかの企業も進出していましたが、空き地もまだ多く、手入れの行き届かない空き地周辺や道端には夏の雑草が生い茂り美観を損ねているようでした。

(広場に設置さいたモニュメントが岡山の威信を物語っていましたが、どこか繁栄の遺物のようにも見えました。

 さて、この日の研修会は農業団体である岡山県経営構造対策協議会の主催で開かれ、その研修会の講師に招かれました。農業の振興のための指導助言や調査、情報提供、組織人材育成などを主な任務にしているようで、参会者も県内各地から認定農業者、集落営農団体、農協、市町進担当者、県民局、普及指導センターなどから100人近くの人が集まっていました。いわゆる農家を取り巻く支援者たちの集まりなのです。

 私の演題は「まちづくり・人づくり・拠点づくり」でしたが、90分の短い時間なので用意したDVDもついには利用することなく終ってしまい、セットして1時間半もその操作を今か今かと待ち続けた担当の方にブログ画面を通じ衷心よりお詫びいたします。

 農業の体力が落ちているのは誰もが認めるところです。そしてその中心となる集落の体力減退は農業不振、過疎と高齢化によって限界集落への道を突き進んでいるのです。これは最早国家的な支援をもっても再生不可能だとさえ思える凋落ぶりです。自給率は40パーセントまで落ち込み、農業への期待は大きい反面、農業、集落、農業者の今の体力では持ち堪えられなくなっています。このような集会に行く度に、どこか重く垂れ込めた暗雲のようなものを感じますが、へこたれたり諦めたりすr余裕はなく、もしこの日集まった人たちが本当にやる気になって農家を指導すれば再生は不可能ではないと力説しました。

 講演が終わって経営構造対策協議会の高田事務局長さんや、農業会議の中力事務局長さん、愛媛県今治市と縁の深い県農林振興課大内課長さんの三人と昼食をともにしながら様々な話をした後会場を後にして、岡山インターから高速道路に乗り、瀬戸大橋を渡って帰って来ました。

 思えば僅か2日間の近くで身近な小さな旅でしたが、車のメーターは557キロも走っていました。途中トイレ休憩のために立ち寄った豊浜サービスエリアで早めの補給をし、長旅の疲れを心配した妻からの携帯電話に返信をしました。また途中電話のあった山口県からの講演依頼も車を安全な場所に止めてお話をしました。

  「行き帰り 別の大きな 橋渡り 周遊の旅 いつものように」

  「対岸と いえど広島 岡山も 知らない場所が 幾つもありて」

  「出先まで まるでで追いかけ られるよに 次々架かる 電話にもしもし」

  「農業の 厳しい姿 これからも 益々悩み 深くなりつつ」  

 


 

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