shin-1さんの日記

○涙の訳

 今日は私が代表運営委員を務める「えひめ地域づくり研究会議」の2ヶ月に一回の定例運営委員会がありました。結成以来19年も続いている地域づくりでは県内では老舗のような団体ですが、近年の社会環境の変化とりわけ市町村合併によって取り巻く環境も様変わりして、もうそろそろ私たち老兵は去らねばならない時期にきていることを実感しています。今日の会合は今年度の総括と20周年を迎える来年度の取り組みの道筋をつける大切な会と位置づけて終始熱心な議論がなされました。

 今日の会合のもう一つの目的は、えひめ政策研究センターに四国中央市から出向して研究員をしている鵜野さんの研究発表と送別会が予定されていて、いつもの運営委員会とは少し違った雰囲気でした。私の司会進行で運営委員会を終わったのは17時30分、いよいよ鵜野研究員の発表です。鵜野研究員はこの2年間センター研究員として県内外の先進地やまちづくり人の所を回って様々な勉強をしてきましたし、最後の一年は研究会議の事務局としてお世話をしてくれました

 彼の発表は予定された通り20分の時間でしたが、さすが2年間の研修を積んだだけあって、要領を得たものでした。まち・町・街・地域などで表現される「まちづくりとは一体何か」という基本を探して彼が見つけたものは「まちづくりとはまちと向かい合う姿勢」でした。「ややもすると頭では理解でき、口では分ったようなことを言うけれど、それは単なる評論家に過ぎない。本当のまちづくり人は両論家ではなく実践家である。今日から自分は実践家としての道を歩むことを宣言する」と最後は力強く結ばれました。

 今日の彼の発表を聞いて感動したのは、彼の20分の発表の締めくくりの頃には感極まってウルウルになったことです。多分発表の過程で様々な思い出が去来したのでしょうが、参加した運営委員も思わず貰いウルウルでした。涙を流すほど感動した彼の松山での2年間は、これまでの自分の人生ににはなかった体験だったかも知れません。またひょっとしたら彼の人生にとってこの2年間の松山の暮らしは遠回りだったかも知れません。でもこの体験、この遠回りが本当の宝物になるのです。

 彼はもう一週間もすれば住み慣れた松山を後に四国中央市へと帰って行きます。この2年間で愛媛県内も70市町村から20市町へと大きく様変わりしました。時代の流れの早さ変革の大きさに驚くのは、自分のふるさとに帰ってからでしょうが、大きく成長したことに自信を持ちしっかりと大地に足をつけて頑張って欲しいものです。ただ謙虚さと冒険心という二つの道具を使い分ける技量だけはくれぐれも忘れないように・・・。

  「旅に出て 外からふるさと 観察し それを土産に 桜咲く中」

  「人生は 芭蕉に似たり あっちこち 回り道して 糞と小便」

  「極まって 脳裏に浮かぶ 思い出が 涙となって 流れ出てくる」

  「去る人が いると思えば 来る人も だから世の中 帳尻合って」 

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shin-1さんの日記

○帽子の行方

 私は帽子が大好きです。ですから外へ出るときは帽子を被る習慣があります。しかし帽子は家の中へ入ると脱がなければなりませんので時々忘れておいとますることがあります。昨日親類へ新彼岸の線香を手向けに行って家を出てから気がついて、再びその家へ立ち寄ってしまいました。ものを忘れるのは今始まったことではないのですが、これも歳のせいだと諦めています。

 私の帽子好きは妻も承知しており、家を出る時「お父さん帽子は」、家に帰った時「お父さん帽子は」といつも注意をしてくれるのですが、「あっ、忘れた」が何度もあるのです。その都度「帽子くらいはまあいいか」なんて諦めるものですから随分と紛失し、その都度新しい帽子を買ってもらいます。昨日数えてみましたら何と私の帽子は10個を上回り、農作業用の麦藁帽子などを入れると数え切れないほどあるのに驚きました。その殆どは無造作にあちらこちらへ置かれていますが、それでも愛用と呼ばれるよく被る帽子は帽子掛けに掛けていつでも間に合うようになっています。

 今気に入って被っている帽子は昨年カナダ旅行に行った時妻が買ってくれた野球帽です。濃紺の生地に前はCDのデザイン文字、後ろには英語でCANADAと刺繍されています。お気に入りといってもいい被り具合です。

 私にはもう一つ被らない帽子があります。帽子を整理する度に妻から「こんな古臭い帽子は捨てたら」と言われている帽子です。それは北極まで歩いていった冒険家河野兵市さんが双海に来た時に貰った見るからにみすぼらしい帽子です。何処にでも売っているような安い帽子ですが、彼のサインが入っているのでどうしても捨て切れません。旅の途中で死んでしまった彼のことを思うと胸が痛くなるのです。彼とはそんなに長い付き合いではなかったのですが晩年、シーカヤックの大会が双海町である度に出会い、夢を語った間柄だけに何故か思い出の一品として大切にしまっておきたいのです。

 酒を飲む度に忘れた帽子、船から強風にあおられて海の藻屑と消えた帽子、破けて捨ててしまった帽子、

未だに使いもしないのに箪笥の中で眠っている帽子、あなた名前を書いている帽子を下さいと言われて譲った帽子、勿体無いと捨ててた帽子を拾って洗濯して今も愛用している帽子などなど、帽子にはそれぞれの思い出がいっぱい詰まっています。私の体を直射日光から守ったり、かっこよく見せたりした帽子の数々は

今も私のよき思い出です。

  「禿白髪 隠すつもりも ない帽子 被って鏡に どうだ格好」

  「被らない 思い出帽子 家の隅 しまって六年 いつかは処分」

  「麦帽子 恋し季節に なりました 親父早くも 帽子変えてる」

  「いい帽子 褒められカナダ 持ち出して 得意満面 相手渋顔」

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shin-1さんの日記

○母ちゃんの夢を見ました

 昨日の夜母ちゃんの夢を見ました。私のような田舎育ちの人間は母のことを都会の人のようにお母さんとか母上なんて格好よく呼ぶことはせず、物心ついてから死ぬまで「母ちゃん」と愛情を込めて呼んでいました。その母ちゃんが昨晩夢に出てきたのです。夢に出てきたシーンはお節句、母ちゃんがせっせと巻き寿司を巻いたり羊羹を作っていました。多分4月3日の節句弁当を作っている光景だったと、夢から覚めて思いました。私たちが小さい頃は戦後の物の不自由な生活でしたから、盆や正月といったハレの日はご馳走が食べれるとあって何日も前から指折り数えてその日を待ちました。特に節句は格別で重箱に巻き寿司とオカズが2段重ねで自分だけの弁当が作られるのですからこれ以上の喜びはありません。

 私たちが寝ている夜の間に母は台所に立って様々な料理を作っていました。朝になると気のあった友達が数人迎えに来て、風呂敷包みの弁当を提げて歌いながら山道を登り、数日前から作っておいた陣地のような所で弁当を開けるのです。一斉に開けた弁当を見てみんなの口から歓声が上がり、母ちゃんに感謝しながら美味しそうに食べたものでした。その弁当の美味かったことはこの歳になっても

忘れるものではありません。

 母ちゃんが亡くなったのは2001年10月4日のことですからもう既に5年余りが経過しています。私の人生で最も悲しかったことはと問われたらやはり母ちゃんの詩を思い出すでしょう。私の誕生日の明くる日に80歳で亡くなったのも何か因縁めいていますが、亡くなったはずの母ちゃんが時々夢に出てくるということは、私の心の中に今でもしっかりと生きているということでしょう。死んだ後に比べれば母ちゃんが夢に出てくる回数は極端に減って、最近は殆ど夢への出演がなくなっていましたが、夢から覚めた今朝は改めて仏壇に向かい線香を手向けて祈りました。

 「心が安定していないと夢を見る」のだそうです。そういえば度々夢を見た若い頃のように夢はみなくなりました。その文歳をとったのか心が安定しているのか分りませんが、次に母ちゃんが夢に出てくるときは必ずセリフを忘れないようにしたいものです。どんなセリフを用意しようかとふと思いました。「母ちゃんみんな元気だよ」「父ちゃんも母ちゃんが死んでから寂しそうだけど何とか元気だよ」「孫も元気、一心が結婚しました。いい嫁さんです」「母ちゃんがせっせと耕していた池久保のみかん畑には人間牧場を立てました」「もう直ぐお節句です。母ちゃんの巻き寿司を思い出しました」なんてセリフだろうなあ。

  「母ちゃんが 巻き寿司巻いてる 夢を見た 節句間近な 春の眠りで」

  「一言も 言葉交わさず 目が覚めて 線香手向けて 母への祈り」

  「ゴミを出す 通りかかった 野良犬も 親子仲良く 畑中ゆっくり」

  「今度見る 夢の続きは セリフ言う つもりで用意 言葉数々」

 

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