shin-1さんの日記

○小学校の卒業式

 先日地元の中学校の卒業式に招かれ感激した涙もまだ乾かないのに、今度はやはり地元の小学校の卒業式に列席しました。中学校の卒業式に比べると、小さな子どもゆえ、感涙咽ぶような涙はありませんでしたが、それでも純真さが漂って、とてもいい雰囲気でした。

 卒業式は体育館で行われましたが、式典は全てステージを使わずワンフロアーとして使われたことが中学校と小学校の大きな違いでした。更に中学校のように送辞・答辞を特定の個人が行わず、みんなが主役というのも大きな違いでした。

 先日の中学校の卒業式もそうでしたが、この卒業式も「気をつけ・礼」などという、私たちが経験した軍隊式の規律はなく、実にてきぱきとこなしていました。今日の卒業式で感心したことが二つありました。6年生担任の大山先生が卒業生の名前を読み上げる時、何の台本も持たずに宙で言ったのです。普通は台本か台帳のようなものを見ながら読み上げるのですが、大山先生は見事に卒業生全員の名前を呼び上げました。僅か13人の卒業生だからそんなの当たり前だと言えばそれまでですが、あんな緊張した式典の席上で、中々言えるものではありません。大きい学校が持て囃され、小さな学校が肩身の狭いような雰囲気の昨今ですが、担任の先生が子どもの名前を丸暗記する何でもないことが出来ない先生が多い中で、とても立派な出来事だと思いました。

(卒業証書授与)

 卒業生と在校生が向き合い、片方に先生と両親、そしてもう片方に来賓と、見慣れた光景ではありますが、全てが見える配置は素敵でした。

(在校生)
(PTAやご両親)
(13人の卒業生)

 もう一つ嬉しかったのは、卒業生が最後に自分の夢を発表する姿でした。「私は学校の先生になりたい」「私は看護師になりたい」「私は動物園のキーパーさんになりたい」「サッカー選手になりたい」「人を助けるような仕事がしたい」「医者になって人を助けたい」などなど、とても立派な決意でした。私が小学校を卒業した頃とは随分違っているなあと思いつつ、耳を傾けました。今日発表した夢が中学生になると学力や体力の程度が分り、砕けて行くのですが、せめてこれらの夢を追い求め続けて欲しいものだと思いました。

 私は小学校5年生の時、図書室で読んだ「ジョン・万次郎の生涯」という伝記に感化され、アメリカへ行きたいという大きな望みを持っていました。「アメリカへ行って何をするの、何になるの」といわれればそれまでなのですが、そんなささやかな夢を持ち続けた結果、30歳の時本当に建国200年のアメリカへ行くことが出来、自分の人生観が大きく変わったのです。「まだ小学生だから夢なんて」と思うかも知れませんが、どうして、今日の夢は自分の人生を決めてしまうような夢になるかもしれないのです。

 卒業は新たな旅立ちです。後2週間もすれば今日の半ズボンであどけない姿が一変し、詰襟の学生服に変わって、大人のような格好をするのですから不思議です。

 中学校でも純真な今日の気持ちを忘れないで欲しいと願っています。

 来賓照会で「学校評議員の若松さん」と紹介され、ふと我に返った私でした。

  「将来の 夢を大声 堂々と このまま強く 生きて欲しいね」

  「四年間 この学び舎で 校長も 人事異動で 隣の街へ」

  「半ズボン 明日から長く なりにけり 子どもと大人 丁度境目」

  「手を振って 馴染みの子ども 合図する 人偏牧場 出会い度々」



 

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shin-1さんの日記

○懐かしい二本の電話

 昨夜懐かしい人から相次いで二本の電話がかかってきました。一本は私が携帯を書斎の机の上に置いて別室居間で大相撲観戦中らしく、留守電メールが入っていました。その電話の主は現在横浜に住むHさんという女性です。Hさんといっても、別に変なHではなくなめの頭文字がHさんだけなのです。Hさんと私は第十回総理府派遣青年の船に乗って建国二百年のアメリカへ行った旧友女性です。彼女は八幡浜出身で既婚ながら旧姓を名乗っているところを見ると養子さんなのでしょう。昨年の秋に里帰りした折出会い、その後何度か電話をいただきましたが、今回は春の彼岸のお墓参りらしく、今日会えないかという相談でした。私の今日の予定は朝から地元小学校の評議員をしているため、卒業式に出かけるが、午後は夕方の会議まで空いていると、これまた出ない相手の携帯に留守電で連絡しました。

 夜10時頃だったでしょうか、彼女から電話があって「明日午後2時28分伊予市着の八幡浜発特急宇和海で来るから、夕方の飛行機で帰る予定なので空港まで送ってね」の以来に、市もにもなく約束しました。彼女と何でこんなに頻繁に電話するかというと、今年の秋10月、私と彼女が所属している第十回青年の船班長会を松山ですることになっているようなのです。彼女が受けた計画なのですが、班長会には最初の頃東京であった一度きりしか参加していない私にとっては、縁の遠い集会なのです。というのも青年の船を下りてからこれまでの33年間は私にとって、命がけの仕事だったため、年に一度といいながらハワイでもやるような班長会へ出席する余裕は正直なところなかったのです。毎年届く班長会の案内に行きたい気持ちを押さえながら悶々した時期もありましたが、「あいつは来ない班長」と烙印を押され悪口三昧を言われている班長会が、いつの間にか遠い存在になっていました。その間何人かの班長と出会う機会もあったっり、昨年は奈良のT班長と仕事で出会うこととなり、ついに「若松が来ないのなら愛媛でやろう」と欠席裁判に掛けられ、Hさんも手伝うからという条件をつけた愛媛での集会が計画されているのです。今日のHさんとの出会いで更にその計画は進むような雲行きです。

 もう一本の電話は、高知県四万十市に住むWさんです。昔は「おいこら」の間柄で頻繁に交流していましたし、最近も妻にアロエクリームを送ってくれるなど、今も良好な関係が続いている、合併して村役場職員から大出世して市役所の職員になった方です。彼は高知の人全てがそうだと思うほど酒が大好きです。私も昔は彼たちと夢を語りながら深夜まで酒を酌み交わしていました。体調を崩してからきっぱり酒を止めた私が物足らないのか、酒を飲むと嬉しい事に私がよく知っている周りの人を巻き込んで、嬉しい事によく電話をかけてきます。酒に酔っても私の事を思い出してくれるのですからこんなに嬉しいことはありません。一昨年は彼の肝入りで20回も四万十市へ講演に出かけました。

 昨日はどこで飲んだのか、どこの酒の席なのか分りませんが余り酔ってはいませんでした。友人の人事異動の話、自分の仕事の話、最近の話など何故か懐かしさが込み上げてきました。彼も課長になって孤独な仕事をして誰にも相談できないで悩んでいるのでしょうが、そこら辺が垣間見えるような相談ごともあるようで、一度出会わなければなるまいと思った次第です。

 相次いでかかってきた二本の電話で私は目が冴えてしばらくの間寝れませんでした。Hさんとは今日会えるのですが、青年の船の思い出は私の青春時代の大切な宝物なのです。また四万十市のWさんも私の人生にとってかけがえのない思い出の数々なのです。こうして古い時代の思い出に引き戻させてくれる仲間がいるという幸せは、年齢を重ねると余計身に染みるものなのです。私はこの二人をこれからも大切な友人としてつき会いたいと思っています。

  「酒呑んで 電話かけくる 友ありて 懐かし日々が 昨日のように」

  「えっ何で 毎日俺の ブログ読む 故に知ってる 巷の噂」

  「寝食を ともに過ごした 船の上 あの頃互い 若さ溢れて」

  「彼らより 一歩先行く 使命感 なくば嫌われ 電話もないぞ」

 

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shin-1さんの日記

○坊ちゃん劇場での演劇鑑賞

 今日は朝から雨です。昨日から始まった甲子園球場での選抜高校野球選手権は、まだ大阪まで雨の区域が到達していないため何とか持ちそうな雲行きです。

 数日前ぼっやん劇場から、ミュージカル「龍馬」のお披露目公演のご案内をいただいていて、出席返信をしていたので、孫とドラえもんの映画を見に行くという約束を妻に頼んで出かけました。故に普通自家用車は妻に渡し、田舎のオープンカーと呼んでいるトラックでの観劇なのです。

 今日のお披露目には四国アイランドリーグの石毛さんや顔見知りの有名人の招待されていて、私のような田舎者に何故招待状が届いたのか分りませんが、甘んじて参加させていただきました。

 偶然にも隣の席には偶然にも嬉しい事に生協の白川さんが座り、美しい人ゆえに奥さん?と間違われて右往左往しました。私の席はS席く列9番いう結構前の席で、見やすい角度でした。第一作のミュージカル坊ちゃんで馴染みの常設劇場だけに安心して見ることが出来ました。


 さて今回のミュージカル「龍馬」は、ジェームス三木さんの脚本で演出です。ジェームス三木さんはパンフレットの中で、「龍馬は閉鎖的な武家社会の中で、自由奔放に生き、幕府という組織をくつがえした人です。刀を差して靴を履いた写真とか、日本最初の新婚旅行とか、積極的でものごとにこだわらない性格が窺えます。個人と組織の関わりは、現代でも重要なテーマですから、竜馬の人気は衰えません。私たちに生きるヒントを与え、勇気づけてくれるのです。

 今回は龍馬がミュージカルになります。ちょん髷をつけた武士が、歌ったり踊ったりするわけですから、とんでもないことになりそうですが、竜馬の精神を伝えるには、案外ぴったりな形式かも知れません」と述べています。

 舞台はその通りでした。特に龍馬がタップダンスを踊る姿や見回り組の役人が観客に尋問する姿は思わず感嘆の声を上げ笑いを誘いました。

 今回の龍馬は、33年短い生涯の中の薩長同盟から大政奉還、近江屋襲撃事件に至る僅か2年間を扱っていますが、近江屋にて11月15日、中岡慎太郎とともに暗殺されるシーンはいつ見ても新鮮です。

 あるときはサムライとして、あるときは貿易商人として、あるときは政治家として、またあるときは恋に翻弄される一介の男として、幕末という激動の時代に「希望」という灯をかざしながら、駆け抜けていった志士「坂本龍馬」の生き様をリアルに描いた見応えのあるさわやかな作品でした。

(公演修了後花束を受けるスタッフ)
(舞台挨拶をした脚本・演出のジェームス三木さん)

  「常小屋で 演劇鑑賞 する余裕 竜馬と自分 ダブらせながら」

  「誕生と 命日同じ 数奇人 短いけれど 成す事多し」

  「百余年 越えても龍馬 なおヒーロー あんな生き方 したいけれども」

  「撮っちゃ駄目 言われて撮らず いたけれど ストロボ消して 最後だけでも」

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shin-1さんの日記

○人事異動の春

 昨日の地元紙朝刊には、県内の自治体及び公立小・中・高校の先生の異動名簿が掲載されていました。小・中学校より高校の方がランクが上なのか、高校の校長先生は顔写真付きで一面記事、小・中学校は14・15面記事、自治体は8・9面記事と、それぞれ掲載される場所が違うのも勘ぐりたくなる差別のような気がしてなりません。まあそんなに目くじらを立てることも無いので区別くらいの軽い気持ちで見流しましょう。

 リタイアして3年が経つと知人友人の数もどんどん少なくなって、どの人が変わろうが自分の暮らしにはそんなに影響はないのですが、それでもお世話になった人たちや思いで多い人たちの名前を虫眼鏡で見るような小さな活字で見つけると、嬉しさや寂しさがこみ上げてくるのです。

 特に退職欄には悲喜こもごもの思いがあって、「ああ、あの人も退職か」と寂しく思うのです。特に3年前に起こった地方の激震ともいわれる合併によって同じレベルなのに一方は課長、もう一方は部長と大きく水をあけられて辞める人の活字は、文句の一つも言いたげな雰囲気が漂ってきます。でも退職後は部長も課長も平もないんだと、エールを送りたい気持ちです。退職した人は4月から始まる自由人としての暮しや再就職の生活が舞っていることと思いますが、くれぐれも「こんなはずではなかった」と天と地の落差に驚かず、不自由のなかの自由を最大限に発揮して生きて欲しいと思うのです。

 地元小中学校の校長先生も5校のうち3人までが換わったようです。特に私のブログに何度かメールを送っていただいた上中原田校長先生は松山の中学校へ転勤だそうです。3年間でしたがとてもいいお付き合いをしましたし、由並の栗田校長先生、下小の池田校長先生も少年少女おもしろ教室で度々人間牧場へ来ていただきました。池田先生は松山、栗田先生は市内への異動のようです。

 今朝メールが届きました。国立大洲青少年交流の家の浅野長武先生からです。この3年間最も近い関係で人生を語った人です。私のブログもいち早く読み、いち早く感想を送ってくれるメールの達人です。先生の弟さんは三崎で果樹園を営んでいますが、伊方町で偶然合い、ハガキのやり取りもしました。浅野先生も今回の異動で三崎中学へ赴任するそうです。地元の中学校なので気心の知れた異動でしょうが、少し遠くなってゆくものの、夕やけこやけラインや潮風メロディーラインをつなげばそんなに時間のかかる場所ではないだけに、今後も出会いたいものです。

 今朝のメールで浅野先生は素敵な言葉を送ってくれました。

 世界を変えるって そんなに難しいことじゃない

 世界は私たち一人ひとりからできている

 だから あなたや私が

 ちょっと変われば せかいはやっぱり

 ほんのちょっと変わってゆく

         (セヴァン・カリス=スズキ)

            1992年 国連地球サミット(リオ・デジャネイロ)にて

 味わい深い言葉です。異動先での皆さんの心がけはこうでなくっちゃあ。ご活躍を祈ります。

  「春が来た 異動の季節 こもごもの 思い巡りて 旅立つ人あり」

  「ご苦労の 言葉をかけて 迎えたい 退職組の 仲間にエール」

  「上や下 組織の中のみ 存在す 辞めればただの 人たちだから」

  「どうするの まだ決めてない 先のこと 聞く度返る 同じ言葉」


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○孫と二人で磯遊び

松山の幼稚園に通う孫朋樹が今日から春休みとなりました。待ちに待ったように昨晩電話があって、「遊びに行きたいので迎えに来て欲しい」というのです。昨晩からそのつもりで朝を迎えましたが、朝隠居へ行くと親父がどうも風邪気味なので、病院へ連れて行って欲しいというのです。普通親父は90歳ながら7キロ余り離れた診療所へ自転車で行くのですが、この日は往復14キロの行程を自転車で行くのが自信がないのか、自転車をトラックで積んで一緒に診療所まで連れて行けというのです。帰りは自分で帰るということなので、言われるままに出かけました。今日は土曜日ながら診療所は開いていて点滴の予約をとって親父と別れました。

 その足で松山の娘のマンションまで走り、孫尚樹を少しの間あやした後、孫朋樹を乗せて途中長男宅へ立ち寄りました。昨晩わが家へ電話がかかってきて、子どもの初節句なので外飾りにするか打ち飾りにするか、妻と相談していました。息子は外飾りの鯉幟が欲しいようなのですが、妻は長男の鯉幟を揚げたり下したりする手間が大変と、内飾りを主張しているようです。確かにわが家は庭が広いし外飾りの鯉幟も悪くはないのですが、妻の言うことも一利あるだけに、私としては妻の意見に賛成なのです。ただ私の子どもとはいいながら孫は息子の子ですからその意見も尊重しなければなりません。辛い選択なのでしょうがここは妻の意見の方に軍配が上がりそうです。

 私と朋樹は家に帰って直ぐに身支度を整えて田舎のオープンカーに乗って人間牧場を目指しました。久しぶりの人間牧場界隈はもう梅の花も殆ど散って、畑には蕗が沢山芽を出していました。間もなく子の蕗も大事な食材として味わいたいものです。

 水平線の家の窓の戸を朋樹に手伝ってもらって全て開け、早春の風を室内に思い切り入れました。少し肌寒い感じもしましたがやはり気持ちのいいものです。

 私は早速地下足袋に履き替えて昨日買っていたプルーンやスモモの苗5本を植える準備をしました。苗木は既に芽吹いていて、少し遅い感じがしないでもないですが園芸店の話だとまだ充分だと聞いたものですから、植えない木は育たないとばかりに植えたのです。昨年森林組合の稲田さんの紹介で植えたスモモは一本だけ枯れましたが、後は順調に育っていて、早くも芽吹いて生育著しく、この分だと来年頃にはボツボツ実を付けるのではないかと思われる程の生育です。

 孫は私の姿が見えなくなると、大きな声で「おじいちゃーん」と大きな声で私を探します。孫の今日のお目当ては木々を拾い集めてユンボを造るのだと張り切っていました。日頃は狭いマンションの室内で、滅多なことも出来ず、悶々の日々を過ごしているのでしょうか、双海へ来ると孫は俄然張り切って工作遊びに遊びに熱中するのです。

 3時になったのでツワブキを採取して帰る途中、海で磯遊びをする人たちを見つけました。朋樹が「おじいちゃん砂浜で遊んで帰ろう」というので、適当な歩道に車を止めて国道を横切り唐崎近くの海岸に下りて行きました。大潮なのでしょうか、海岸は干潮で沢山の人がワカメやヒジキ、それにニナという小さな貝を採っていました。朋樹と二人で石をはがし、意思の下にあるニナを取り始めました。あいにく買い物用のナイロン袋しか持ち合わせていなかったので、その中に採取したニナを入れて行くのです。期待していなかった割には沢山取れてナイロンの袋に半分以上も取れたのです。朋樹はここでもよほど嬉しかったのか、キャーキャーいいながら、やれカニだとか小魚だとか歓声を上げて夢中になって追い掛け回しました。

 ニナも一回食べるほどは確保しました。帰ってすぐさま貝を水で洗い水をためて塩を入れました。これで砂分を吐き出して綺麗なニナとなり、明日は湯がいて爪楊枝で引き出して食べれるのです。とっさの思い付きでしたが、孫にとっては余程印象に残ったのか、夕方まで外でこの貝を観察していました。

  「春休み わが家にとっては 春忙し 孫のお守りも 意外と疲れ」

  「マンションに 暮らしていると 何となく 自由が利かず 悶々日々を」

  「山と海 子どもにとって 楽しみだ だのに子姿 殆ど見えず」

  「さあ明日は ニナを湯がいて 食べようぜ 可哀想だと 優しき孫は」

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shin-1さんの日記

○誤字脱字が巻き起こす思考

 毎日朝夕、パソコンに向って文章を書くのが日課になりつつある私ですが、パソコンは凄い仕事をしてくれる反面誤字脱字の天才で、使う私が少しでも気を抜くと、もう訳も分らず大変な活字を画面の上に表示するのです。その都度その誤字脱字を変換して私の意に沿うよう直して行くのですが、頼まれた原稿以外はさして気にもせず書き流してしまうのです。特に日記のような気楽な気持ちで書くブログなどは、自分の書いた文章が不特定多数の人々に詠まれていることをすっかり忘れて、校正しないまま完了と思い込み世に送り出しているのです。でもこんな私のブログでも、多い日には千人を超えるアクセスがあって、毎日都度都度アクセス数やランキングがシビアに表示され、一喜一憂したりするのです。

 先日「観光」関係の雑誌から原稿を頼まれ原稿をメールに添付した後で重大なミスに気がつきました。「観光」を「感光」と変換したまま送ってしまったのです。気付いた私は直ぐに訂正して再送し事なきを得ましたが、でもそれから私は「観光」なる変換ミスをいいことに、言葉遊びをしてみました。あるわあるわ、でもひょっとしたらこの変換ミスで出てくる観という漢字の次に出てくる一文字はどうやら観光のキーワードとなりそうな気配なのです。

 ・観康-温泉・健康・ウエルネス・美容・医療

 ・観口-グルメ・ヘルシー・地産地消・食文化・郷土料理

 ・観香-花・自然・季節・風景・若者

 ・観購-ショッピング・カスタムオーダー・ギフト・ふるさと小包・宅配便

 ・観好-好学・好物・愛好・好きなコト・モノ・人・ブライダル物語

 ・観交-交友・交遊・社交・コンベンション

 ・観興-花火・祭り・ライトアップ・観光会社

 ・観攻-カジノ・競馬・コンテスト・レース・ゲーム・スポーツイベント

 ・観工-モノづくり・伝統工芸・産業観光

 ・観校-修学旅行・研修旅行・廃校利用・子ども遊びの学校・ツーリズム大学

 ・観航-航海・航空・航空レジャー・観光漁業

 ・観幸-シルバー・ブライダル・民宿

 如何でしょう。今朝パソコンをいじくっただけでもこれほどの観光のキーワードが出てくるのですから凄いものです。もし観光の講演依頼があったら、これらをもっと吟味してレジメを作ればもう1時間半の講演はOKなのです。ひょっとしたら「嘘から出た誠」となるかも知れないと、ひとりほくそ笑みながら吹きだしてしまいました。

 パソコンは正直だし嘘だらけです。使うこちらが操作を誤るととんでもない間違いを起こします。その間違いに気付き、その間違いを直すのは、どこか子育てに似ているような気もします。子どもだって間違いの天才です。その間違いを直し正しい方向に導く親の資質が今問われています。パソコンという子どもとそれを使うという親との関係はとても役に立つ関係かも知れません。

  「パソコンの 変換ミスが アイデアを 生むとは知らず 次から次へ」

  「観光を 考え変換 試みる なるほど思い 十二の熟語」

  「朝起きて こんな馬鹿げた 考えを 妻は知らずに 夢をさまよう」

  「パソコンを 子どもに見立て 考える 気がつき直す 気付き必要」

 

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shin-1さんの日記

○性格の合わない二人

 私が26歳、妻が25歳のときに結婚したのですから、私たち夫婦はもうかれこれ37年間も連れ添っている計算になります。どこがどうだったのか分らぬままたった5分間のお見合いで結婚を決意し、貧乏生活にも耐えて今日までどうにかたどり着きました。その間子どもが四人誕生したりその子どもの成長に合わせて色々なことがありましたが、幾つかの壁を乗り越えた今は結婚して良かったといえるまでになっています。というのも病気や怪我をする度に妻の私を思いやる心に触れて感謝したことも大きな要因なのです。したがってたまには病気もするものだと、冗談をいっていますが、もう先が少し見えてくるような年齢になると、お互いが支えあわなければ老いは乗り越えれないと、周りの老いた人たちを見て思うからかも知れません。

 しかし結婚して37年間も経つのにまだ妻のことはよく分らないし、妻も私の事を分ったようなつもりでも分らない部分が多いのです。

 私たちは一緒の風呂に入り一緒の部屋で一緒の布団に寝る事を結婚してからずっと励行してきました。先日友人の女性が「私たちは夫婦が別の部屋の別の布団で寝るし別々にお風呂にも入ります」。「へえー、あなたたち夫婦は一緒なの?」と感心せられて、これまたこちらが不思議に感じたりしました。

 今晩も「お父さんそろそろお風呂に入りますか」と誘われました。私は書斎でパソコンの前に座って原稿を書いていたので、その声に応えて一緒に風呂に入ったのです。すると妻は最近凝っている「○○の湯」とかいう「温泉の元」を入れるのです。私はどちらかというとさら湯のような透き通った混じりけのないお湯が好きなので、いつも風呂に入る度に「入れる」「入れるな」といい合いが始まるのです。たったこれだけでも夫婦の好みは随分違うのです。

 私は食後にどころか全然コーヒーを飲みません。ところが妻はコーヒーが大好きで、息子嫁の実家から貰ったコーヒーをしっかりと食後に飲むのです。「ご飯の後口が消えないか」といえば妻は、「食後のコーヒーは最高」とこれまた不一致です。もっとせい反対派私は朝早く起きるのに、どちらかというと妻は朝が苦手な方です。私は毎朝4時に起床しますが妻は6時まで寝ます。妻はビデオをよく見ますが私はビデオは余り見ません。

 まあこんな具合で、周りの人は「ふうふのことだから犬も食わぬ」と呆れた話と捨て置かれそうですが、人間不思議なものでこんなささいな揉め事でも二人の間は小競り合いになるのです。

 最近は私の方が折れることが多いと妻に言えば、「お父さんの頑固さは天下一品」というのです。このまま歳をとってこのままお互いの我を張り合うといい老後ではないと思うのですが、妻はいたって平気で、「二人が違う性格をしているからこそいい」とむしろ反感反目も当たり前のような口ぶりなのです。

 それでも最近は若い頃と違って私も随分性格が丸くなって、妻にあわせることが多くなりました。これも老後を楽しく生き抜くためのテクニックなのでしょうか。

  「俺は好き 私は嫌いと 張り合って いつの間にやら 元気の元に」

  「ことごとく 気に入らないと 思う時 些細なことで 背中合わせに」

  「結ばれて 三十七年 経ったのに 未だに長い トンネルの中」

  「いいことは 俺に似ている 子の仕草 妻に似ている 悪い仕草は」

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shin-1さんの日記

○島人からの贈り物

私の町は双海町という名前が示すとおり、ほぼ東西に一直線の海岸線が北に広がる瀬戸内海に沿って伸びています。雨の日の海、晴れの日の海、時化の日の海など海は四季折々その趣きを変えて私たちに語りかけ、悪さもするが大きな恵みを与え続けているのです。その海の彼方にぽっかりと島が幾つも浮かんで見えます。毎日見ているはずなのに、町民はこの島の事を殆ど知らないし、また生きるために余り必要がないからか知ろうともしないのです。私は子どもの頃からこの島々や水平線にとても興味があって、親や大人から随分色々な事を聞かされました。そしていつか大きくなったらあの島に行って見たい、また見えぬ水平線の向こうにも行って見たいと淡い夢を描き続けていました。その夢のお陰でしょうか、とてつもない水平線の向こうである建国二百年のアメリカや、赤道を越えた珊瑚海まで行くことが出来たのです。そして身近な島では由利島も20年間に渡って無人島キャンプで関わり続けることが出来たのです。

 その沖合いに浮かぶ温泉郡中島町大浦、いや合併したので正式には松山市中島大浦に住む旧友古野セキヱさんから先日「いつも一緒」という素敵な本が届きました。古野さんは私が公民館主事をしていた頃からの友人で、女性ながらと言っては大変失礼ですが、長浜町の菊地さんとともに私が最も気を許して活動した人の一人なのです。彼女は品格があって達筆で文章が上手い、そして理路整然と話せるという、これまた失礼ながら女性には珍しい行動派なのです。私が県公連の主事部会長をしていた折、菊地さんとともに、副部会長として活動を一緒にやりました。

 何処でであってこんな深い間柄になったのか、もう随分前のことなので出会いのきっかけなど忘れてしまいましたが、役場に勤めていた頃は宿直があってその度によく電話を掛けて意見を戦わせたものでした。私より少し年齢が上のため一足早くリタイアして、家業である農業をご主人としながら、穏やかな日々を暮らしていますが、愛媛新聞の「てかがみ」欄や「川柳」欄には度々時々の想いが作品として紹介されていました。

 私の尊敬する元校長先生の金本房夫さんは古野さんの義理の姉、つまり金本先生の奥さんなのですが、これまた達人で書いて良し喋って良しの凄い人なのです。血のつながった兄弟ではないのですが何故かよく似たところがあって、お互いいい刺激や影響を受けて成長したようです。

 今回の本も金本先生が「老いてなお青春」という序文を書き編集も手伝ったようで、その分何処かセンスの良さを感じるのです。この本は僅か42ページの短さなので、一気に読める気楽さがあります。私が先日出した「夕日徒然草」もそうですが、活字の大きさと活字の容量は今後考えなければならないとしみじみ思いました。

 早速私は彼女にハガキをしたためました。達筆な彼女にハガキを書くのは多少ためらいがありますが、やはり手書きのハガキはいいものだと信じて出しました。また声が聞きたくて電話もしました。残念ながら彼女は留守でご主人が出ましたが、私のことも昔から知ってる間柄なので、いい会話が出来ました。

 若い頃あれ程仲良くした人たちでも、音信が途絶えてしまった人は数え切れません。しかし古野さんのようにいつも何となく気になり音信を通じ合える人は数少ないのです。彼女の本から滲み出る「老い」を迎える一抹の寂しさは誰にでも訪れる宿命なのですから、お互い音信を気にしながら生きて行きたいものです。

 今夕もう一度電話をかけました。電話の向こうの弾んだ彼女の声が何とも嬉しい便りでした。

  「てかがみと 川柳綴る 一冊の 本が届いて 勇気付けられ」

  「達筆で 文章書ける 達人も 老いはどうにも 逃れすべなく」

  「あの島に 暮す友人 今頃は どうしているか 島見る度に」

  「夕日まで 味方につけた まちおこし 俺を詠んでる 歌と知りつつ」

  

 

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shin-1さんの日記

○「日本一細長い佐田岬半島を夫婦でドライブ

 今日は昨日からの春雨も上がって久しぶりの好天に恵まれました。彼岸の中日なので殊勝にもお墓参りに行こうと妻と相談がまとまり出かけることにしました。妻の職場の同僚が家庭の都合でお休みしているため、職場の仕事が少しハードでお疲れモードなので、気分転換のつもりで出かけました。リタイアしたといいながら妻はまだパートに出ているので、中々二人の休日が出会わないし、たまの休日には子どもたち家族がやって来るので、妻の休暇は久しぶりなのです。

 まず近くのお寺の境内にあるわが家のお墓に向いました。今年は寒い冬だったことあってしばらくそこら辺を散歩していなかったのですが、トレセン前の土手には私が若い頃に植えた杏の花が満開で今を盛りと美しく咲いていました。その後海岸国道378号を長浜、保内経由で行き、妻の実家のお墓がある八幡浜まで足を伸ばしました。お彼岸らしく大法寺の墓地には沢山の墓参りの人が上り下りしていました。遠く見下ろす八幡浜の湾内はもう春の穏やかな海で、北東の風が強く吹いていた瀬戸内海とはうって変わった穏やかさで、九州と四国を結ぶフェリーの汽笛や航跡が何ともいえない雰囲気を醸していました。

 墓参りを済ませ妻の実家に立ち寄りました。前年に喉頭ガンの手術をした義兄のその後の様子を見舞うためです。義兄は家にいましたが思ったより術後の経過も良く元気な姿を見せてくれました。ただ声帯を取っているため、対話は筆談しか出来ず、私たちの話にいちいちうなずくばかりでした。

 実家をおいとまして、私たちは元来た道を保内まで引き返し、国道197号を以下多方面に向って走り、伊方の亀ヶ池温泉を目指しました。最近出来た温泉ですが、私はまだ一度も行ったことがないのです。妻は民生委員の研修会で一度行ったというので、ドライブがてら出かけました。国道から宇和海に向って九十九折れの山道を下りると亀カ池に出ます。その湖畔に綺麗な温泉が出来ていました。

 丁度昼過ぎだったので妻は瀬戸御膳、私はとんかつ定食を注文しました。このレストランは三崎の大岩さんの系列店らしく、メニューも凝っていました。近頃は夫婦仲が良いのか悪いのか分りませんが、二人で食事に行くと必ず別々の違った品を注文します。そして二人でそれぞれの料理を半分ずつ食べて満足するのです。

 妻の注文した瀬戸御膳は瀬戸町の特産品である釜揚げのシラスがたっぷり乗ってるどんぶりに刺身がついていました。私のとんかつ定食はオーソドックスながらキャベツが沢山ありました。妻の刺身は私が、私のとんかつの半分は妻が、そしてシラス丼は半々に食べ堪能しました。

 やがて妻の予約した岩盤浴の時間になったので男湯、女湯に別れてそれぞれゆっくりとお風呂を楽しみました。風呂は新しくて清潔で、塩サウナまである豪華さです。私はサウナに二度三度入ってたっぷり汗を流しました。妻だけではなく私も少し体がお疲れモードで、休憩所で仮眠をしてゆったりと過ごしました。途中「若松さんじゃないですか」と、知っているような知らぬような人から何人も声をかけられ、立ち話をしたりしました。

 帰りは亀ケ池の近くの旧国道を通って町見や九町を通り、山道をビジターハウスまで登りました。そこでソフトクリームを買い、帰りに長浜町の村上薬局に立ち寄りました。過日私が風邪をひいた折、助けてもらった返礼に行ってない事に同乗の妻が気がついたのです。村上のご主人は奥さん店員共々笑顔で迎えてくれました。気持ちのいい店です。お店はこうでないと繁盛しないと思いました。例によって元気の出るホットニンジンエキスをご馳走になり、身も心もリフレッシュして恋する二人の「日本一細長い佐田岬半島を巡る早春ドライブ」(笑い)を終えました。目出度し目出度しでした。

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shin-1さんの日記

○刀の手入れ

私の親父は若い頃から骨董に興味があって、やたらと色々な物を集めていて、家の敷地内にそれらを展示する海の資料館「海舟館」という個人の資料館を開設しています。資料館といっても家の倉庫を改造した簡単な建物なのですが、多分公立でもないような珍しい物を展示していて、我が家を訪れた殆どの人はその珍しさとこだわりに目を見張って驚くのです。

(わが家秘蔵の刀剣類です)

 親父の偉さはそこら辺に落ちているガラクタ同然のものでもしっかりと手入れをして磨きこみ、しっかりと展示に耐えるようにしているセンスのよさです。例えば親父は元漁師ですが、自分が底引き網の操業中網にかかって引き上げられた戦闘機の機銃を根気良く磨いて展示をしているし、ナウマン象の化石だってきちんと塩抜きをして展示しています。また自分の乗ったり見たりしたことのある瀬戸内海で活躍した木造船の模型を自分で手づくりし20隻も展示しています。

 そんな展示に混じって、刀や槍、火縄銃といった日本古来の美術品も展示をしています。多い時には刀など10振りも持っていましたが、息子や親類に剣道をやる人間が多く、譲ったため今は刀が5振り、槍や薙刀、火縄銃などが所狭しと並べられています。

(刀の手入れをする親父)

 今朝親父の隠居に行くと、刀箱から刀や槍を取り出して時代劇映画で見るような姿で刀の手入れをしていました。そして「お前も長男だし、これらを大事に孫子の代まで伝えるためには、手入れの仕方をもうそろそろ習わなければなるまい」と神妙に言うのです。「まだまだ親父の仕事だ」と思いつつ、「そうじゃねえ」と同調しました。親父の話によると刀や槍は2~3ヶ月に一度は箱から取り出し、刀を保存鞘から抜いて打ち粉を打ち、それを拭き取ること二度三度、その後刀用の油を引いてもとの鞘に収める、次に柄をを抜いて手元の手入れも怠らないようにと、指導を受けました。打ち粉を振り過ぎるといけないし、油をつけ過ぎると光が鈍くなるなど、刀の手入れは細心の注意が必要だと厳しく注意され、手ほどきを受けました。親父のいうのにはそれらの作業はわが息子にも既に伝授しているそうで、知らないし出来ないのはどうも私だけだったようなのです。

(親父自慢の一振りです)

 親父が一番自慢にしている刀は昭和41年に打った現代刀ながら「肥前国住兼元」作の一振りです。これはかなりの金をつぎ込んで手に入れたもので、鑑定書では「重要貴重刀剣」にランクされているのです。親父は元々古刀が趣味ですが、この分厚くて長い優れものを大切に保存してきました。「わしが死んでもこの刀と機関銃だけはこの家の宝物として孫子に伝えて欲しい」というのが口癖なのです。

 刀箱に入れ大切にしまっているこれらを私は長男としてしっかり受け継ぐ決意をした朝でした。それにしても3ヶ月に一度手入れが出来るか心配です。

  「長男の お前が受け継げ そういって 刀の手入れ 仕方教える」

  「値打ち物 売れば値打ちを 感じるが ただあるだけで 値打ち分らぬ」

  「そういえば 二人の弟 嬉しげに 刀貰って はしゃいでいたっけ」

  「三ヶ月 一度は刀に 向き合って 打ち粉油で 手入れする羽目」 




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