人間牧場

〇思い出の宇和島を訪ねる

 果敢な青少年時代に大きな漁師になるため3年間、親元のふるさとを離れて3年間遊学した宇和島市は、私にとって第2のふるさととでもいうべき場所なので、西予市宇和町から宇和島市吉田町に通じる法華津湾を見下ろす国道辺りを通るといつも、何故か郷愁のような胸騒ぎがするのです。当時はふるさとを離れ宇和島入りするのは蒸気機関車でした。急勾配な法華津峠のトンネルを幾つも出入りする時感じるときめきも、もうすっかり過去のものになりましたが、何時通っても変わらぬ懐かしい風景を、昨日も横目で見ながら自家用車を運転して、講演を頼まれ宇和島入りしました。

正面玄関横のえひめ丸慰霊碑

 講演会は午後2時からでしたが、講演に招かれた宇和島市青少年補導委員連絡協議会長の藤田光弘さんから、前日電話が入り、昼飯でも食べようとお誘いを受けました。少し早い時間に宇和島へ入ったため、とっさの思いつきで、母校の宇和島水産高校を訪ねました。校門に入ると穏やかな秋の日差しを受けて、えひめ丸事故の慰霊碑に祈りを捧げました。2001年2月10日にハワイ沖で起こった事故で、9人の尊い命が奪われましたが、さすがに10年を超えると人々の記憶も遠ざかりつつありますが、慰霊碑の前には今も綺麗な花が飾られていました。

私が乗船した初代の愛媛丸

 正面玄関から学校校舎の中へ入り、窓口で名刺を差し出し校長先生に面談を申し込んだところ、運よく校長先生も在校していて校長室へ通されました。この学校の漁業科の卒業生であること、実習船愛媛丸で遠洋航海に珊瑚海まで出かけたことなどを一通り説明し、和やかにお話をしました。校長先生はわが町に住む磯田先生のことをよく知っていて、縁の不思議を感じました。正面玄関の脇には宇和島水産高校の顔とも思える実習船の模型が、5隻並んで展示されています。アメリカの潜水艦グリーンビルと衝突して沈んだ船は4代目の船で、現在は5代目の船が活躍していますが、私が半世紀50年前に乗船した愛媛丸は、初代の214.5tの小さな船なのです。この実習船で赤道を越え、南太平洋を航海したのかと思うと無性に懐かしく、船首部分にあったキャビンでの生活や、甲板後部にある延縄倉庫を食い入るように見つめました。この船での体験は私の人生観を大きく変えたのです。

ハワイ沖で沈没した4代目のえひめ丸

 学校を出て待ち合わせ場所のかどやというレストランに行き、藤田さんと日替わり定食を食べながら色々なことを話しました。その後藤田さんは準備があるというので一旦別れ、私は腹減らしの散歩に出かけました。宇和島市体育館や造船所、市場や築地、港の風景を見ながらのんびり歩いていると、フォークリフトに乗った野本さんに偶然出会いました。かつて私と一緒の時代に青年団活動をしていた頃の野本さんは、真珠養殖業をしていましたが、長引く不況で生業を断念し、今は秀長水産に勤めているそうでした。40年も逢っていない人に、行きずりで逢うなんて奇遇だし、ましてやお互いが一発で顔と名前を思い出すのも嬉しいことでした。

 講演会場となっていた福祉センター駐車場へ明神教育長さんたちの案内で車を止め、エレベーターで4階まで上がりましたが、伊予銀行上灘支店の田中元支店長さんと義兄弟姉妹という人に声をかけられたり、何年か前この場所で、パネラーとしてご一緒したという女性と出会ったり、現在愛媛新聞カルチャスクールに来てくれている脇谷さんと出会ったり、まあ沢山の人たちと出会い、会話を交わしました。
 講演は80人ほどの前でどうにか楽しくお話しすることができ、会場を出て即高速道路に乗り、大洲から地道を長浜回りで走り、夕方無事自宅へ帰って来ましたが、私にとって忘れられない一日となりました。

  「久方に 半世紀前 住んでいた 宇和島訪ね 思い出浸る」

  「玄関の 慰霊碑頭 深々と 下げて合掌 感慨深く」

  「この船で 南太平洋へ 行ったのか 模型見ながら 在りし日思う」

  「宇和島は かけがえのない 土地ゆえに これから先も 見守り続けて」

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