shin-1さんの日記

○人間牧場で芋端会議

 食物の成長は早いといっても、昨年12月に落ち葉を拾い集めて土づくりを始めてからもう10ヶ月が経ちました。その間種芋を伏せてビニールで被覆し、種芋から芽を出させました。その芋ツルを5月24日に植えつけ、草引きなどをした結果の収穫ですから気の遠くなるような作業でなのです。その間イノシシに3分の1を食べられ、網囲いの修復作業でどうにか3分の2を守っての芋掘りなのです。正直いって今年は疲れて気をもみましたが、子どもの明るい笑顔を見るとその疲れも吹っ飛んでしまいました。 

 長期予報によると今日は雨でしたが、天気の回復が予想以上に早く今日は曇っていたものの雨も降らずまずまずの天気です。子どもたちは8時30分に支所前に集合して人間牧場を目指しました。私は風呂の準備もあるので軽四トラックに乗って一人で一足先に到着です。水平線の家の戸を開け、ロケ風呂にお湯を張るためボイラーのスイッチを入れお湯を出しました。その間掃除をしたり片づけたり結構忙しく動きました。そのうち子どもたちの歓声が聞こえ、ボランティアの人たちとともに下山してきました。ところが作業の道具一式を積んで早めに出たはずの車が道に迷ったのか中々到着せず、作業に取り掛かることができないのです。仕方なく開会式を行い、時間つなぎの意味もあって私の講話となりました。

 子どもたちにとって芋はただの作物でしょうが、私は戦後の混乱期に育ったため芋は常食で、嫌というほど食べました。また芋を作る農作業の手助けも随分させられました。家の床の下には芋つぼという芋を保存する室があって、モミガラを入れたその薄暗い所に入って芋を取り出した記憶もあるのです。また芋のツルは料理の仕方によっては美味しいのですが、砂糖も醤油も砂不足の時代ですからそんなに美味しいとは思いませんでした。今日はその話を体験してもらうため芋のツルを使った料理を一品加えることにしました。

 やがて私の話が終わるころ道具を積んだ車が到着し、いよいよ芋掘りに挑戦です。張り巡らせていたイノシシ囲いの網を取り除き芋ツルを切って行きました。そして自分が植えたと思われる場所を陣取って手スコップで芋に傷をつけないよう掘って行くのです。田舎の子どもはかなり逞しく芋を掘り当ててはあちこちから大きな歓声が聞こえていました。

 イノシシの被害に遭ったため昨年より収穫量は減りましたが、それでもかなりい芋ができていて、その芋を焼き芋、芋の天ぷら、イモケンピにすることにしました。洗った芋をアルミホイルで包んで焼く焼き芋班、芋を輪切りにして衣をつけて油で揚げる天ぷら班、芋を短冊状に切って素揚げし砂糖でからめる芋ケンピ班に分かれクッキングをしました。


 今年の芋は鳴門金時の「里むすめ」という品種でした。油で揚げると濃い黄色に変色し、ミネラル豊富というだけあって、つまみ食いしましたがとても美味しい品種でした。料理が終わりウッドデッキで班毎に芋づくしの昼食を食べましたが、まあ子どもの食欲は旺盛で、用意した焼き芋、芋ケンピ、てんぷらを殆どペろりたいらげてしまいました。そのため残念ながら今年は種芋を確保することはできませんでしたが、また来年は来年の風が吹くのかも知れません。おすそ分けの芋を少しだけ貰い人間牧場を後に帰って行きました。

  「イノシシに 食われ残った 芋を掘る それでも豊作 子どもに笑顔」

  「焼き芋と 芋の天ぷら 芋ケンピ 芋しか食べぬ 昼食楽し」

  「来年も 必ず来ると 手を振って 牧場去りし 子ども見送る」

  「里むすめ 優良品種 だけあって 美味いのなんの 子ども完食」

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○虹をつかんだ男

 「虹をつかんだ男」なんてタイトルをつけると、何か格好良く聞こえますが、私は子どもの頃から虹が大好きで、虹を見た日は何か良いことが起こりそうな気分になるのです。多分それは子どものころに読んだ「虹をつかんだ男」という本の影響ではないかと思うのです。もう昔のことなのでその本の詳しい内容は忘れましたが、いつも遊んでばかりいる野良な男がある日草原に寝そべってウトウトしていると、空に綺麗な虹がかかったのです。男は夢の中にかかった虹とも知らずその美しさにすっかり見とれてしまいました。その時夢の中に一人の老人が出てきて、「虹の根元に宝物が埋まっている」と言いました。やがて夢から覚めた彼は老人の言葉を信じて、毎日虹が出た根元をどんどん掘って行きました。いつの間にか男の周りの草原に、は鍬で掘った広くて立派な畑が出来上がり、その畑に沢山の小麦や野菜や果物が実り、お金持ちの百姓になっていたのです。ある日のこと再びあの老人が男の夢の中に出てきて、「宝物は額に汗して働きさえすれば土の中から生えてくる」といいました。男ははたと気が付き、それからは一生懸命働いて、近郷近在一の立派な庄屋さんになって幸せに過ごしました。

 一昨日、私は軽四トラックで下灘に向かって走りました。その帰り道下灘駅のすぐ下でこの時期としては珍しい虹を見たのです。路側帯に車を止め、車のガラス戸を開けて虹の写真を撮りました。残念ながら私の肉眼で見える実物ほど写真は綺麗に写りませんでしたが、それでも初めて虹を写真に撮りました。

(青島の横に見えた綺麗な虹の架け橋)

 日本でいちばん海に近かった下灘駅の下という、場所が場所だっただけにふと昔のことを思い出しました。私は私が読んだ本の主人公のような野良な人間ではありませんが、この駅のベンチでフーテンの寅さん(下灘駅は山田洋次監督の寅さんシリーズ・殿様と寅次郎の舞台となった)も寝そべって夢を見ていましたし、私もこの駅のプラットホームで夕焼けコンサートをすることを夢見ていたのです。寅さんは夢から覚めて大洲へ旅立ちましたが、私は夢を現実のものとして実施してそれが出世作となり、後の夕日によるまちづくりへと発展していったのです。それはまさに「虹をつかんだ男」という形容がぴったりだと、改めて思ったのです。やがてその虹はものの2~3分で次第に薄くなり消えてゆきましたが、すっかり虹に見とれて我に返りましたが虹はいいものです。

 虹には不思議な魅力があります。赤・橙・黄・緑・青・藍・紫と7つの色が見事に表現されるのです。太陽の光が霧や水蒸気、水滴に乱反射して見える、実像ながら人間の目の錯覚なのですが、何とも言えない淡い色合いは私にとって理想の色なのです。レインボーなどと表現されますが、東京の連ボーブリッジや、虹に見立てたレインボープランなど様々な代名詞として使われているようです。

 再び「虹をつかんだ男」になるためには、何がしかの夢を見なければなりません。64歳になって夢も希望もしぼんでいますが、気力も体力も充実しているこの時に、夢よ再びと奮い立って頑張りたいと思い、虹に一人ささやかな夢を誓いました。

  「夢つかむ 男になって 夕日をも つかんだ俺は 幸せ者だ」

  「寅さんの 夢は鞍馬の 天狗なり 夢から覚めて 大きなあくび」

  「七色の 虹はどうして こんなにも 俺の心を ときめかせるか」

  「もう一度 虹に誓って 夢つかむ 男なりたい 密かに思う」

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○思わぬハプニング

昨夕は大洲市柳沢田処の地域づくり講演会に招かれ、妻と二人で出かけました。田処といえば西田和子さんや亀本幸三さんがいて、知人友人も沢山いるため、お言葉に甘えての夫婦二人連れでの参加となりました。時折激しく降る雨に中を朝ヶ峠を越えて行きました。曲がりくねった道の苦手な妻は車に酔ってしまい、運転すれば酔わないため法師という集落の手前で妻と運転を交代しました。

(子どももいて会場いっぱいの参加者)

 会場には少し早く来られ、夕食を食べてから始めるとの案内だったので、控室で芋炊きとお寿司、それに酢の物を御馳走になりました。手の込んだ手づくりの料理はどれも美味しく、二人で舌づつみを打ちました。背後の黒板には西田和子さんが書いたであろう私たち二人を歓迎する文字が大書され、何とも面映ゆい感じでした。

 やがて予定通り7時半に講演会は始まりましたが、子どもも含めると100人を超える盛況ぶりで、改めて田処地区の地域づくりに対する思いの深さと実力を見せつけられました。特に小学生6人という小規模な田処小学校の生徒や中学生が全員参加して前の席を陣取り、熱い視線を最後まで送ってくれて感激の面持ちでした。また公演の最後には花束までいただき嬉しい限りです。

(ハーモニカを吹く私)

 終了後は私たちも参加して懇親交流会が持たれましたが、私も長い間地域づくりにかかわり、この地域の人とも交流をしているため、殆どの人が顔見知りで驚きました。

 「明日の朝が早いからと、10時にはお暇をし、再び元来た道を妻と二人で帰ったまでは良かったのです。ところが内子町への枝分かれ道付近で車を走行中何やら少し大きなショックを受けたのです。所々に落石注意という看板があるくらいですから、落石に乗り上げた衝撃だろうと運転を続けていると、今度は車が左右に揺れだしました。一瞬「パンクだな」と思い、路側帯に車を寄せ、降りしきる雨の中を傘を差して降りて見ると案の定右前輪の空気が抜けていました。

 それからです。この車になって初めてのパンクとあって、何をどうして良いのか分からず、とりあえず妻に傘を差させ、トランクからスペアタイヤとジャッキを取り出しタイヤ交換の準備をしました。懐中電灯も手袋もましてや作業服もなく、ずぶ濡れになりながら孤軍奮闘しました。しかし残念ながら暗闇のためヘッドライトの明るさだけではジャッキを何処へ固定すればよいのか見当もつかず、思案にくれました。タイヤパンクのタイヤ交換もできないのかと、妻んに思われたくない一心がより焦りの心を誘発しましたが、結局ずぶ濡れになっただけでタイヤの交換は不発に終わりました。

 妻は「お父さんJAFに加入しているので電話してみようか」と寝ている娘に電話をかけ、JAFを呼び出しました。「加入会であることの確認や、居場所の確認、所要時間などを携帯電話で話し、予想される到着時間が約1時間後と約束しました。妻も少し濡れていてずぶ濡れの私と二人暖房を入れた車内で1時間も不安な時を過ごしました。先ほど花束を貰った時の余韻はどこかに消えて吹き飛びました。

 やがて12時過ぎJAFの車が到着し、手慣れた手つきでタイヤを外し、空気の抜けたスペアタイヤに空気を入れ、12時40分すべての作業を終えて帰路に着いたのです。思わぬハプニングでしたが、妻の機転とJAFの協力により、そして結果的には骨折り損のくたびれ儲けだった役立たずな私の苦労で、田舎の山道から脱出することができました。

 一張羅な背広もズボンも雨と泥と油でぐしゃぐしゃですが、クリーニングすれば元に戻ります。またタイヤも今朝近所の修理工場へ修理に運びました。思わぬハプニングは思わぬ私の醜態と思わぬ妻の冷静さという副産物に気づいて一夜の物語となって終結したのです。妻は少し寝不足、少し風邪気味、私はいたって健康な朝を迎えました。

  「花束を 貰ったまでは 良かったが 人生そんなに 甘くはないな」

  「パンクさえ 対応できない 駄目亭主 妻の目線が 少し気がかり」

  「JAF呼んで JAFが来てくれ JAF直す JAFは神様 JAFのおかげで」

  「携帯と 妻の機転で 脱出す 風呂に入れる 幸せ噛みしめ」


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○山里に同級生を訪ねる

 今朝妻から、「お魚が少しあるんだけど中野さん宅へ届けてくれない!」と頼まれました。中野さんとは旧姓徳山貞子さんのことです。中野さんは双海町松尾地区の出身で私と中学校の同級生なのです。東京オリンピックのあった年にひと山越えた大洲市柳沢田処の中野博樹さんの元へ嫁がれました。結婚してもう45年が過ぎている計算になります。彼女は大洲市柳沢地区公民館の嘱託職員として10年余り勤務していましたが、その折地域づくりの拠点だった柳沢地区公民館にちょくちょく出かけていたため、深い仲ならぬ集団での深い付き合いが始まり、今も家族ぐるみで知り合いなのです。

 私は彼女の家には2度ばかり行ったのですが、残念ながら夜ばかりでその場所を覚えていないのです。そこで家の電話番号を調べて電話し、在宅かどうか、家への侵入場所はどの辺だったか大まか聞きました。そして出発したのです。下灘から国道378号を左に曲がって大洲・内子線の曲がりくねった見慣れた県道を走りました。そして双海町と大洲市の境にある朝ヶ峠を超えました。峠を超えてもしばらくの間は伊予市分ですが、やがて彼女の説明にあった東境という地区名の看板がありました。どことなく見覚えのあるような風景を見ながら東集会所辺りで携帯電話を入れると彼女が出て、お堂や銀杏の木など目に見える目標物をさらに細かく教えてもらい、すんなり到着です。

(庭にそれは見事なケイトウの花が真っ赤に咲いていました)

 彼女の家は雲海が見えるような急峻な高地にありました。私たちの町の人はこいった場所を「空」と呼んでいて、「空」という表現がぴったりだと思いました。家では彼女と姑さんが温かく迎えてくれました。「まあお茶でも」と勧められるままに家に上がって雑談に講じました。姑さんの息子さんとは顔見知りなので親子のそっくりな風貌に感心しましたが、今日は私の町はお祭りなので、神輿がやってくるから早く帰るよう妻から言われていたのでお茶を飲み干し、早々にお暇しました。お土産にクリやユズ、梅干し、ヒシオ味噌など沢山の産品までいただきました。(そういえば何年か前、大分県大山町の緒方さんから「梅干しの主張全国大会」という変わったイベントに梅干しを出品するよう、頼まれて中野貞子さんに送ってもらった経緯があるのです。

(田処の地域に溶け込んで、すっかり田舎のおばさんになっている旧姓徳山貞子さんと、仲睦まじい嫁ぎ先中野の姑さんをカメラに収めました)

 私が訪ねた時は雨も小ぶりでしたが、分かれ道に下りると、かなり強い雨が降り出しました。わかれ道の看板は合併していない時のまま「双海」という表示が残っていて時の流れを感じながらも、双海という知名で生きた時代が長かったため少しだけ嬉しいような気分になりました。

(双海という地名がまだ残っている大洲市田処にかかっている看板)

 雨に煙る山里はもう秋たけなわで、ウルシの葉っぱが赤みを帯び、ケヤキも心なしか黄色く見えました。私の通った路線も昼間は殆ど通行量もなく、下まで降りる間に3台しか車に出会いませんでした。

 聞けば田処の小学校も児童が激減、し間もなく廃校だそうです。中学校は学力の保証をしなければならないので統合はやむを得ませんが、私の持論は「小学校は歩いて行ける距離」が理想だと思うのです。でも金がないことを理由に自治体は合併し、その検証もしないまま今度はいよいよ悲しいかな学校の統廃合です。学校がなくなれば地域がさびれる、これは当たり前の理論ですが、最早反対する馬力もなく社会の荒波に飲み込まれようとしているのです。日本の政治の貧困さに憤りすら覚えるのです。

 私は今夕再び々道を走って麓の田処にある活性化センターへ講演に行く予定です。今晩はそんな悲喜こもごもを話そうと思っています。雨で足元が悪いゆえ、しかも夜間午後7時30分からの講演会とあって果たして人が集まるかどうか心配していますが、夜の集会に向けてご案内いただいた妻と二人、間もなく出かける予定です。

  「懐かしき 同窓の友 嫁いでる 山の向こうに 秋を訪ねて」

  「看板に 今はもうない 地名見ゆ 少し嬉しく 少し寂しく」

  「山里に 燃えて咲きたる 赤い花 夏の名残りか 一際綺麗」

  「この川の 水はいずこに 流れ行く 延々海へ 水を集めて」

 

 

 

昨晩の集会のお誘いが

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○3つのデジタルこぼれ話

 ①FAXが届かない!

 私の家のFAXは電話と併用番号です。3年まで不具合が見つかり買い換えました。その折は娘の家のFAXと2台セットで買ったためかなり安く買い求めることができたのですが、そのFAXもカーボンの調子が悪く読みづらい上、時々プリントされた用紙を巻き込んでしまうのです。2ヶ月前だったと思いますが電話がかからないと友人から苦情が寄せられました。色々いじくりましたが残念ながら治らず、NTTの故障が刈りに電話をして調べてもらいましたが、結果的には受話器の故障と分かりました。しかし3年前に買い換えた時NTTの機種ではなかったため、NTTでは直らないとけんもほろろでした。仕方がないので修理にきた下請けの技術者と相談してNTTの機種を買い求めることにして、新しいのが来るまで代用電話を取り付けてもらいました。

 そのうち新品の電話兼FAXは順調に作動し、相手から送られてくる文章も以前にもまして鮮明で、4万円も出した値打ちはあると妻も私も納得していました。ところが私が送るFAX文章が相手に届かないと、再三再四連絡が入り始めました。私への情報は主にパソコンを使っているのですが、相手がFAXを指定するとそれで対応しなければならないためまたひと騒動です。結果的には以前のFAXは原稿入力が裏向き、今度のFAXは表向きの違いだったのです。折しも青年の船の班長会を松山で開くべく準備をしていた時でもあって、多くの方からブーイングのお叱りを受けました。「若松さん、あなたもやっぱりアナログ人間でメカに弱いのね」とは友人女性の弁、要らぬところで恥をかいてしまいました。

 ②パソコンがつながらない!

 私のパソコンが不具合になったのは今年の正月ころからでした。ブログが書けなくなったり、Eメールが入りづらくなくなったのです。パソコンから悲鳴ともとれる異音が聞こえ、まるで病気に侵された人の終焉を見る思いでした。パソコンが故障すると一番困るのは記憶させている情報が消えることです。悶々の日々の中で結局は妻を説得し13万円を臨時出費してもらい、娘婿に頼んで私の程度に合わせたTOSHIBAのdynabookというパソコンを購入したのです。私にとってWindowsXPはかけがえのないものだっただけに、機種の変更はとても不安でした。初めて使うWindowsVistaは使い勝手が悪いと思いつつ使って2ヶ月になりますが、結構手に馴れてきたようです。古いパソコンの情報は廃棄せざるを得ないと諦めていましたが、娘婿がやってきて古いパソコンと新しいパソコンを並べ、半日がかりで全ての情報を移動入力してくれたのです。傍で見ていた私は右往左往するばかりでしたが、余りの手際の良さに感心したり嬉しくなったりでした。その折パソコン回線の入力コードを古いパソコンから新しいパソコンにつなぎ忘れ、メールが入らないと苦情が届き散々でした。アナログ人間の私にはまだまだパソコンやデジタルは未知の世界のようです。

 ③デジタルカメラが写らない!

 私が初めてデジタルカメラを使ったのは教育長に就任した今から5年も前のでした。地域振興課の職員やシーサイドの関係者が役場を退職する私にプレゼントしてくれたのです。その時はフィルムを入れることもなく写るデジカメを、「なんて便利な物だろう」と感心したものでした。しかしその使い方が中々分からず、特にパソコンに取り込んだり、それを送ったり縮小してブログに使くことなどは想像以上に気をもみましたが、今では何のこともなく使っているのですから不思議な話です。そのカメラも故障して、息子がさらに良い性能のデジカメをプレゼントしてくれたので、今は修理をしたものの書棚の隅でひっそりと眠っているのです。でもこのカメラは私にとって大切な記念品なので大事にしたいと思っています。

  「FAXも デジタルカメラも パソコンも 私にゃ少し 重いお荷物」

  「不具合が 起こった時に どうするか 訳も分からず 右往左往し」

  「裏表 間違い送る FAXに 相手は俺を 幼稚と悟る」

  「妻機嫌 故障の度に 悪くなる 臨時出費も そろそろ限界」

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shin-1さんの日記

○野菜の収穫

 わが家の家庭菜園は家のすぐ横にあるため、「お父さん、ネギを取ってきて」と妻が言うと、私が畑へちょいと走っただけで間に合うのです。今朝も味噌汁が出来上がって食べようとするとネギがないことに気づいて取りにゆきました。家庭菜園はそろそろ夏秋野菜を終わりを告げ、冬の根菜類に変わりつつあるようです。それでも夏の渇水ですっかりあきらめていたピーマンやシシトウ、それに長ナスがここにきて豊作になり、毎日そんな野菜を沢山食べているのです。

 今日は久し振りの休みなので庭の草削りをしました。わが家の庭は広過ぎるほど広く、草削りも私一人が一生懸命やっても半日は十分かかるのです。今日は夕方から雨と予報が出ていたので、無風、しかも温度がかなり高かったため汗をいっぱいかきました。加えて厄介なやぶ蚊もいてきつい作業でしたが、かなり綺麗になりました。今日は宵祭り、明日は双海町の地方祭なので子ども神輿がやってくるので、庭が見苦しいと妻が言うもので草削りと相成ったのです。

 滅多にしない私の姿を見て親父が「雨でも降らなければいいが」といったことが的中し、作業を終わった午後5時に雨がぱらぱらと降り始めました。私たちの地域では滅多に仕事をしない人が仕事をすると「雨が降る」ということわざがあるようで、親父の言葉の敵中に思わず一人苦笑してしまいました。

 草削りの中休みに家庭菜園に行きました。見るとこの2~3日家を留守にして収穫していなかったナスやシシトウ、ピーマンなどが食べごろになっていました。発泡スチロールのトロ箱と鋏をを持って畑に入り野菜を沢山収穫しました。

 9月に種を播いた大根も葉っぱは青々としてもう大人の大根のようですが、一番太いのでもまだ蛍光灯の大きさくらいで、後一週間しないと大根の用をなさないようです。今年も大根は昨年に続いて方策の予感がしています。今年はこれ以外にもカブとチンゲンサイ、それにブロッコリーやキャベツの苗を沢山いただいたので、その苗が日増しに大きくなってすくすくと育っているのです。

 今日はカブとチンゲンサイの間引きをしました。二種類のカブとチンゲンサイはまだそれほど大きくはありませんが、もう料理には使えそなのです。今晩はその野菜を使ったナスの煮物、チンゲンサイ・ピーマン・シシトウの炒め物、ネギをまぶした変わり刺身などの料理が食卓を賑わせました。

 わが家は子ども4人がそれぞれ独立して家を出てからは、野菜と魚中心の食事に変わりました。特に私が胆のうを患ってからは、妻も料理に気を使うようになり、極力油物を控えているようです。昨日の友人の葬式があったばかりで、少々気が滅入っていましたが、友人の分まで長生きしなければと気持ちを切り替えました。新鮮な野菜を作ってくれる親父に代わって少しずつ野菜の手入れもしなければならに歳になったようです。

  「菜園の 野菜収穫 早速に 食卓並び 味を楽しむ」

  「大根は 今年も豊作 予感する 数日すれば 大根三昧」

  「無農薬 自慢をしても どれ程に 体にいいか 分からず終い」

  「中国の 野菜農薬 残留を いいつ国内 消毒野菜」


 

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○季節の便り第一便

 青い国四国にも遅い秋がやってきて、県内各地から秋の便りが届くようになりました。特に紅葉の便りと秋の味覚、それに秋祭は新聞もテレビも毎日のように報道しているのです。伊予路では松山祭りや西条・新居浜の大きな祭りも一応終わりましたが、これからは地方の祭りへと移って行くのです。先日八幡浜へ友人を送って行った帰り道、八幡浜舌田の海沿いで獅子舞を見ました。長閑な漁村のお旅所に近所の人が集まって、笛や太鼓に合わせ賑やかに獅子舞が舞っていました。

 このころになるとみかん産地の愛媛では、極早生品種に代わって早生品種の取り入れが始まり、にわかに忙しくなるようです。昔はわが家でもみかんをたくさん作っていたので、母がミカン畑でミカンの収穫作業に追われ、私も暇を見つけては手伝いましたが、母が亡くなる前から私の忙しさもあって荒れ放題となり、残念ながら今は皆無となってしまいました。

 でも、愛媛といえばみかんと連想されるほど知名度の高い特産品なので、わが家では日ごろお世話になっている全国の仲間に愛媛の味、若松の味としてみかんを送らなければならないのです。春先の晩柑類や甘夏みかん、夏のハウスみかん、この頃の極早生、わせみかん、正月用のみかんを合わせると一年間に送るみかんの量は数えきれないほどなのですが、これらの箱詰めは主に郵便局を介して全国に発送しているのです。

 昨日は頼んでおいた友人からみかんが10箱届きました。今年は天候も良く味も良いようですが、今回届いたみかんはマルチ栽培といって、地面に銀色のシートを敷いて極力水分を抑え、銀色シートの反射によって味を濃くするような栽培方法で育てたものなので、先日松山市で開かれた総理府派遣第10回青年の船班長会でお世話になった方々にまず第一便を送るべく、昨晩あて名書きして今朝郵便局の窓口に持って行き発送を完了しました。郵便局の話だとすべて明日中に届くようなので安心しているところです。

 郵便局も民営化になって小荷物や宅配事業のノルマがあるようで、郵便局の駐車場に軽四トラックで積んで行くと局員がわざわざ運んでくれたりするサービスぶりでした。

 世の中は便利になったもので、このみかんが明日には全国の家庭に届くのですから驚きです。私がまちづくりの仕事や講演行脚をしていることもあって、わが家には郵便局員や宅配員が驚くほど全国各地の友人知人から特産品が送られてきます。その対応はもっぱら妻が細かく対応してくれているのですが、これも人間関係を大切にする手立てなのです。

 先日は新潟県に行く途中、ほくとう総研の清水さんの案内でぶらり立ち寄った、越後湯沢ぽんしゅ館の高村秀夫さんからは美味しい魚沼産のこしひかりが届きました。週末にやってきた娘はこのお米を食べて「今まで食べたお米の中で一番おいしいご飯だ」と驚き、おすそ分けをして取って帰りました。妻は中山町産の栗を手に入れ送ったようですが、「四国から栗を送るの?」と思いましたが、高村さんからは喜びのハガキが届きました。

 まるで物々交換ののようなこうしたお付き合いも嬉しいもので、みかんを食べながら私のつまらない顔でも思い出してほしいと願っています。

  「秋便り みかんに託し 郵便で 明日の夜には みかん囲んで」

  「あの顔や この顔思い あて名書く 宅配ラベル 行先示す」

  「送り賃 高いといつも 思いつつ 自分が持って 行けぬジレンマ」

  「愛媛では みかん稔ると 秋深く 空にイワシの 雲が浮かんで」  

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○第50回青少年赤十字研究会に参加しました

 今日は朝から忙しい一日となりました。旧友で先輩の大森安幸さんが亡くなり、伊予市のルミエールという葬祭会館で11時から葬儀が行われました。本来なら何はさておいても葬儀に参列しなければならないのでしょうが、青少年赤十字研究会の講演を頼まれていて、やむなく少し早目に葬祭会館に到着して、柩に入った葬儀前の先輩の顔を見せてもらい最後のお別れをいいました。

 午前中はそんなこんなで何かと忙しく取って返し、少し重たい気持ちを抱えながら約束の12時に間に合うよう下灘小学校に向かいました。結果的には少し遅れるかも知れないと電話で予告していたものの遅れず懐柔に到着しました。来賓控室である校長室には日本赤十字愛媛県支部の皆さんや伊予市の教育長さんたちが午前中の分科会や公開授業を終え、既に昼食の真っ最中で、失礼ながら私もその末席を汚して昼食をいただきました。

 今日の集会には130人ほどが出席していて、いつになく盛会でした。この集会は1年前から計画されていて、私は異動して今は松山市内の小学校に勤務する池田前校長先生から講演のご依頼があった時は、こんな大きな集会とは知らなかったものですから、安請け合いに引き受けてしまい、今更ながらその軽率さを恥じましたが、これも後の祭りなので、腹をくくって望みました。

 勇壮な下灘太鼓の演奏が終わるといよいよ午後の研修会の始まりです。最初に開会式が行われたあと下灘小学校の西尾先生がこの2年間の研究成果を発表されました。スライドを使ってするプレゼンテーションは中々のもので、存分に実力を発揮して、発表に対する質問も途切れることなく、いい研究討議でした。

 続いて壇上に立った県教委義務教育課の田坂先生の指導助言も中々味のある話で、私の出番の前にそつのない二人の話が続いて少しだけプレッシャーを感じました。

 青少年赤十字指導者協議会副会長鈴木先生の身に余る講師紹介をいただいた後壇上に立った私は80分間しゃべり続けたのです。

 私の話は最初6歳から11歳まで果敢な少年時代に下灘小学校で3つの大きな影響を受けた話から入りました。

下灘小学校の北側眼下に広がる瀬戸内海に沈む夕日を見続けていた原風景の影響、校庭にあった二宮金次郎の銅像が読んでいた大学の一節の教え、さらには学校図書室で読み、誕生日に一人の先生からプレゼントされたジョン万次郎の生涯という本の影響など、私の原点となった話をしました。

 参加者に手を挙げてもらったところ、私の話を聞いた、若しくは私の名前や顔を知っているという人が殆どで、私は少し話の内容を変えなけらばならないと直感し急遽話を差し替え社会の変化をしゃべりました。

 青少年を取り巻く社会の変化

 ①子どもの数が減った

 ②子どもの家庭的・社会的役割が減った

 ③子どもの遊びが変わった

 ④子どもの毎日が忙しくなった

 ⑤子どもの周りが危なくなった

 ⑥子どもの親の生き方が変わった

 ⑦子どもが物質的に豊かになった

 ⑧子どもに仏壇教育ができなくなった

 ⑨子どもにふるさと感が少なくなった

 ⑩子どもに夢や仲間が少なくなった

 その上で、これからの青少年教育への提案を行う予定でしたが、時間切れとなり項目羅列で終わってしまいました。

 ①新しい自分を発見させる。②自分の生き方を設計させる。③広い世界を体験させる。④失敗経験をさせる。⑤感動する心を育てる。⑥ふるさと教育を行う。⑦目に見えない偉大な力の存在を知らせる。⑧役立ち感を養う。⑨命の大切さを育てる。⑩人間力を育てる。と結びましたが、残念ながら普通より10分間短い講演時間でタイムスケジュールの歯車が狂ったようです。でも壇上からの感触は受け入れられたような感じでした。

  「知り人が 殆ど顔を 揃えたる 研修会で 大いに喋る」

  「赤恥を かいたであろう 研修会 やっと終わりて ホッと一息」

  「このところ 少しハードが 続き過ぎ 充実するも オーバーワーク」

  「進ちゃんと 呼ばれ思わず 振り返る 馴染みの子ども 声をかけくれ」

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○SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)の時代がやってきた

 私は35年間にわたって田舎の役場に勤めていたお陰で、それなりの情報を手に入れることができました。その殆どは時代を反映したアナログな情報でした。新聞や雑誌や本などから得る情報は、今から考えると乏しい情報でしたが、それでもかなりの量の情報を入手でき、それなりに広い視野を得て仕事や活動に役立たせてきました。しかし役場を退職して自由人になってからはその道も半ば閉ざされ、町内情報さえ「そんなことも知らなかったのか」と落胆するほど情報音痴になっているのです。多分そのまま放っておいたら他の同僚だった人たちと同じように情報を得ることもなく自分の人生を終える運命にあったと思うのです。

 しかし幸いなことに遅ればせながら、また力不足ながらパソコンとインターネットという武器を手に入れることができて、芥川龍之介のクモの糸ではありませんが、かろうじて情報が入るようになっていることは重ね重ね嬉しいことなのです。先日出会った役場の同僚だった人が、「役場を辞めてから煩わしさはなくなったが、情報が入らなくなってしまった」とこぼしていました。またある友人に私のブログの話をすると「ブログって何?」と頓珍漢なはなしをしていて、私のブログの秀作も知らない人には分からないものだとしみじみ思ったものです。

 私は何人かのグループ作っている情報ネットワークを幾つか持っています。そのネットには近況から仕事、プライベートな話題、まちづくりの情報などが毎日のように書き込まれ、身近な情報を入手できるようになってます。お陰さまで情報音痴になることもなく最低限の情報は入ってくるのです。

 しかしこの情報ネットワークもただ入ってくる誰かの情報をただ読んだり目にしたりするだけではいけないと思うのです。情報は受信も大切だが発信こそがいい情報に巡る会う手段だと思っているのです。私の「shin-1さんの日記」というブログもその一つで、飽きもせずもう3年間も毎日2本のブログ記事を書き綴っているのです。多い日には1500人もの人が読んでくれるのですからこの上ない情報発信手段です。ペーパーしか伝達手段のなかった昔は考えられないような時代になっているのです。

 パソコンの不具合で何日か書き込みができない日々がありましたが、毎日読んでいる相手は正直で途端に読んでくれる人のカウントが下がるのですから、止める訳にもいかないし、ここが踏ん張りどころと3年間こつこつ書いているのです。

 近頃メーリングリストに名を連ねながら、殆ど書き込みをしない人も何人かいて、逆に「はてあの人は最近音信不通だが元気でいるのやら」と心配する人も何人かいます。逆に書き込みを使って遊び半分でつまらない十方を流す人もいます。使わない人よりはましですが、何か勘違いしているような人もいるのです。

 まあどこかでそんなネットを整理して自分の役に立つ、また人の役に立つSNSがこれからは求められているのかも知れません。

 これまでの地域づくりでは考えられなかったような情報過多の時代がやってきました。重要情報・必要情報・聞き流し情報・廃棄情報の見極めも必要でしょうが、ネットワークシステムを武器として使う時代がやってきたようです。

  「情報が ないので寂しい 言う人が 何人もいる だが何もせず」

  「情報は 発信する人 のみぞ受く 受信だけでは 廃棄情報」

  「ブログ何 そんな仲間も いるんです それでも生きて それでも仕事」

  「もし俺に パソコンなくば どうだろう 今日からお手上げ グリコの看板」

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shin-1さんの日記

○友の死

 今年67歳になる先輩であり友人でもある大森安幸さんが亡くなりました。大森さんは双海町役場の建設課長などを歴任した技術職の人でした。

 私がはじめて大森さんを意識したのは私より2年前に青年団長になった頃でした。彼は双海町の成人式に来賓として出席した折、振り袖で着飾った女性を前に、「もっと質素に」と祝辞の中でいらぬ説教を成人に向かってしたのです。そのことがきっかけとなって町では生活改善運動の一環として、長い間洋服での成人式が続き、県下でも有名になっていたのです。

 彼は小柄ながら若いころから白髪が目立ち、シルクハットと自慢するほどの総白髪でしたが、染めることもなくその髪をトレードマークにしていました。

 酒はそれほど強くはありませんでしたが酒の席は好きでよく一緒に飲んだものです。部類の愛煙家で「たばこを止めるくらいなら死んだ方がましだ」と、私や周りの人の忠告も聞かず、「たばこを止めれない人は可笑しい。私はもう8回も止めた」とまるで漫才のネタになるようなジョークを飛ばして豪語していましたが、皮肉にも愛煙家の最も良くかかる肺の病気で死んだそうなので、これも定めと思うのです。何せ多い時には一日に2箱も吸っていて、私は彼のことを「陸蒸気」とあだ名をつけていました。

 役場で四人が夜明けの会などという訳も分からぬ会をつくり、酒を飲んだりお祭りにはお互いが出かけたりの交流をしたし、家の新築にも招かれたり招いたりしましたがその交流ももうできなくなりました。

 彼とは役場を辞めてから同じ自治会長として仕事をしました。彼が自治会長会の会長で私が副会長でしたから、色々な会合でもご一緒しましたし、忘れられないのは旧双海町役場の改築提案書を依頼され作ったことですが、残念ながらその提案は日の目を見ることなく闇に消えたようです。

 彼が病気だと知ったのは2か月前でした。それまで役場などでたまに出会うと顔が随分ふっくらしていましたが、私たちにリウマチ治療の薬の副作用と説明していました。何度か通院するうちに肺に異常が見つかり市民病院に入院していました。1か月前に見舞いに行った時は抗がん剤の副作用で髪の毛が薄くなって、呼吸しずらいと訴えていましたがまだ元気で病室の入り口まで歩いて私を見送ってくれました。

 その後3度、松山へ行ったついでに病室を訪れ話し相手になりましたが、一週間前には個室に移って併発した肺炎の治療に専念して、基の病気の治療はひとまず止めていると説明してくれました。都合4回病院で生前に出会い、色々なおみで話をしたので私にとっては思い残すことはありませんが、それにしても今どきの67歳の死は若い旅立ちです。

 昨日の夜自宅で通夜があり友人2人とそろって出かけましたが、奥さんの嘆きはいかばかりかと声をかけてお暇しました。

 今日は11時30分から伊予市で葬儀が行われますが、私は今日下灘小学校で午後講演が予定されているので、少し早目のこれから式場に行き最後のお別れをするつもりです。

 21年後あの世で会うことを楽しみんしています。大森安幸さんのご冥福を心からお祈りします。合掌。

  「友逝きし 寂しき秋の 友まぐれ 坂を登りて 通夜人となる」

  「奥さんの 涙に新 涙出る 和尚枕辺 読経節々」

  「陸蒸気 そんなあだ名で 呼んでいた 友はあの世へ 帰らぬ旅に」

  「ああついに 俺の番かと 順番を 指折り数え 少し寂しく」  

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