人間牧場

〇21世紀えひめニューフロンティアグループの総会

 昨日の夕方、今治市新谷の河上和夫さん宅をお借りして、私が代表を勤める21世紀えひめニューフロンティアグループの総会を行ないました。かつてグループの定宿は私の家と煙会所を20年ばかりずっと使っていましたが、今治に3人も会員がいるのでこの5~6年、彼らのことを考えてグループの総会は河上さん宅で新年早々やるようにしているのです。
 昨日私は砥部町で、JAえひめ中央城南支所の生産者大会で講演を頼まれ、その後夕食懇談会に出席していたため懇談会を途中で中座し、メンバーの藤本尚枝さんと奥道後入り口のセブンスター前で落ち合い、奥道後~水ヶ峠~玉川~今治~新谷と裏道能面道路を走って、午後7時に河上さん宅へ到着しました。仲間は全員勢揃いしていて、すでに美味しい料理を食べながら宴会は始まっていました。

 

河上さん宅での総会
河上さん宅での総会
大野事務局長の誕生パーティ
大野事務局長の誕生パーティ

 早速代表である私のあいさつに続き、大野事務局長の作った資料に基づいて総会が始まりました。グループが3年前に始めた愛媛県内に桜の苗木千本を植える「千本桜の森づくり事業」も、今年三年目になり、今年2月・3月植樹分を含めると、目標の千本を超えることが報告されました。嬉しい目標達成です。
 私たちのグルーはも無人島キャンプやフロンティア塾など先進的な企画を次々発表し、それらを実践してきましたが、会員の高齢化はいかんともしがたく、その手立てとして自己変革のために国内の世界遺産を巡る旅を取り入れています。既に石見銀山・広島原爆ドーム・安芸の宮島・姫路城・奈良京都の古都・熊野古道・白川郷などを巡っていますが、今年は九州の南に浮かぶ屋久島への旅が計画されていて、4月12日から3日間の日程で実行することが決りました。

 会計決算も関奉仕財団の継続的なバックアップによって、健全財政が維持できていて、何の問題も無いことが報告され了承されました。また次年度も代表である私を初め役員は全員留任で担当することが決りました。私にとって21世紀えひめニューフロンテティアグループという組織は、私の青春の生き様、シンパシー(共感・共鳴)そのものです。会員人数は15名ほどの小さな団体ですが、①今やれる青春、②一年一事業、③社会への揺さぶりという3つのテーマを掲げて、もう30年近くも活動をして、大きな成果を得てきたのです。このグループは既に目的を達成していて、解散してもいいのでしょうが、青春の情熱をたぎらせて活動した実績を持つだけに、軟着陸する仕方もわきまえていて、このまま活動を続けようと思っています。
 私の人間牧場も、年輪塾も元はといえばフロンティアグループの先進的活動がフェースシートとなっているので、私にとってはしっかりと進化論が継続しているのです。

 他のメンバーは酒を飲みおご馳走を食べたため、河上さん宅に泊めてもらいましたが、私と藤本さん、それに河野さんは、明くる日の予定がそれぞれあって、10時過ぎにお暇して帰宅の途につきました。自宅へ帰ったのは12時近くになっていましたが、起きて私の帰宅を待っていた妻に、フロンティアグループのあれやこれやを話しして聞かせてやりました。妻にとってもフロンティアグループのメンバーの消息は気になるようでした。昨日は奇しくも大野事務局長の64回目の誕生日だったようで、心優しい北原さんと河野さんがわざわざ誕生パーティ用のケーキを買ってきていて、みんなで誕生日を祝ってあげました。大野さんも早64歳、私も68歳、みんないい歳になりましたが、青年期から今日までボランティア活動に参加して大いに活動したため、満足の行く半生だったと、昨晩は過去と未来を大いに語り合いました。

  「青春を たぎらせ活動 した仲間 歳をとったが どこか満足」

  「千本の 桜を植える 目標も お陰なことに 今年で達成」

  「パトロンの お陰で活動 継続し 今年も世界 遺産を訪ね」

  「フロンティア その名の通り 生きてきた 青春活動 これから先も」

 

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人間牧場

〇節分の風習

 「お父さん、明後日は節分よ」と、妻が寝る前私に言いました。そういえば私たちが子どもころ節分には、オニグイというイガだらけのタラの木を切ってきて、四つ割りや八割にしてパリパリ柴を挟み込み、それらを玄関や神様仏様に供えていたのです。その仕事はもっぱら子どもの仕事と位置づけられていました。母は私の取ってきたパリパリ柴を使い、素焼きのホーロクという平たいものに大豆を置いて、下から焚いた火で大豆を炒ってくれました。その大豆を「鬼は外、福は内」などと叫んで投げつける所作がいかにも子どもたちの茶目っ気に合っているため、日ごろの鬱憤を晴らすように、多いに悪ふざけをして遊んだものでした。そのうち夕食になると、自分の年齢分豆を食べろと言われて年齢分食べましたが、親父や母親は10歳を1個に省略して食べていたようです。

山から切ってきたオニグイとパリパリ柴
山から切ってきたオニグイとパリパリ柴
切り揃え割ったオニグイ
切り揃え割ったオニグイ

 今朝は夜来の雨がまだ少し残っているようでしたが、長靴を履いて散歩に出かける時、鎌を持って出かけました。妻の言った「節分」が気になって、オニグイを切って帰ろう思ったのです。最近ではオニグイは春の山菜としてタラの芽が珍重されるため、そこら辺では中々見つからないのですが、そこは子どもの頃から腕白だった私のことゆえ、ウォーキングパラダイスの道沿いにタラの木を数本見つけていたのです。
 散歩がてらに切って持ち帰ったオニグイを、鋸で約15センチの長さに切り分け、少し小さいので4等分に割りました。割ったオニグイに切れ目を入れ、一緒に採ってきたパリパリ柴を挟んで一丁上がりです。それらを籠に入れ、息子が玄関や神様・仏様などに置いて回りました。傍で見ていた親父も、私や息子ののこうした古いしきたりを守ってやってくれる姿に満足したように、目を細めて見守っていました。

出来上がったオニグイ
出来上がったオニグイ
息子が玄関先や神仏に供えてくれました
息子が玄関先や神仏に供えてくれました

 私たちの身の回りからこうした古い風習がどんどん捨てれています。正月の注連縄や夏越しのためにヨモギと茅を結んで屋根に放り上げる風習も次第に廃れようとしているのです。これらの風習は非科学的で何の根拠もないと思われていますが、天気さえも神仏に頼った時代には、これらの生活文化がしっかり息づいていたのです。私は古い人間だし、親父ももっと古い人間です。こうした風習を次世代に伝えることは、分かっていても容易なことではありませんが、幸い息子家族も同居するようになっているので、長男や孫にこのことをしっかり伝えようと思い、土曜日で休みの息子をオニグイ作りに加わらせようとしましたが、孫が昨晩から嘔吐下痢症になって若嫁が病院へ連れて行くため、結局息子は参加せず、出来上がったオニグイを玄関や神仏にお供えしてくれるだけとなりました。それでも節分を迎える気持ちが芽生えたことを嬉しく思います。

  「節分に 魔除けのつもり オニグイに パリパリ挟み 供えて回る」

  「節分は 鬼は外だが 福は内 人間都合 勝手なものだ」

  「今晩は 豆炒り撒いて 邪気払う これも風習 息子手ほどき」

  「色々な 伝統風習 廃れ行く 寂しかりけり 現代生きる」 

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人間牧場

〇改正養蜂振興法という法律ができたようです

 私は年輪塾という私塾の代表である塾長をしています。私がこの人と指名して塾頭になってもらった農協マンの清水和繁さんはパソコンに詳しく、彼が中心になって作っている年輪塾ネットとでも言うべきサイトを使ってお互いがお互いの情報を受発信していますが、ネットに馴れている皆さんはそれぞれこのネットを最大限に活用して、大いに活動しているのです。どちらかというとパソコンに弱い私などはもっぱらネット会員のメールを見ながら暮らしているといった感じで、書き込みより読む方が圧倒的に多いのです。

 昨日その清水塾頭から、ギョッとするような「養蜂の届出の義務化について」とい見出しの情報をもらいました。年輪塾ネットの会員の中には私が知るだけでも、野村町山奥組の井上登さん、高知県馬路村の木下彰二さんに加え私と、少なくても3人は養蜂をやっています。他の2人がどれほどの養蜂をやり、どれほどの蜂蜜を収穫しているのか分かりませんが、少なくとも私のやっていることは養蜂とはいえないほどの小規模ゆえ、届け出がいるかどうか分からないと半信半疑で、メールに添付してくれた手引書をプリントアウトして早速読んでみました。

 手引書によると法律の名前は「改正養蜂振興法」というのだそうで、25年1月から施行されるというのです。蜜蜂を飼育する場合は飼育届が必要で、蜜蜂の飼育者は毎年1月中に、飼育届を住所地の都道府県に住所地の市町を経由して提出しなければならないのです。手数料はかかりませんが巣箱一つでも届出が必要と書かれているので、当然私もその対象のようです。
 清水さんのメールには蜜蜂飼育届の様式まで添付してもらっているので、早速記入して地域事務所へ届けようと思っています。

 飼育届に書き込むことは飼育状況と飼育計画の二つで、私の場合飼育場所は2ヶ所で飼育蜂群数は8群です。飼育計画も同じで当面8つの巣箱を設置して今年も蜂蜜を採集しようと思っています。農協などでは届出しないで採集した蜂蜜は販売しない方針だそうですが、販売はしませんので手引書に書かれた販売表示は不用と思われますが、届出等また厄介な仕事ができたようです。
 昨日わが家の裏の蜜蜂たちは早くも春の目覚めを感じるようになったのか、日中巣箱の周りを飛び始めているようです。冬越しした蜜蜂に頑張ってもらって、今年もいい成績を残したいものです。

  「何とまあ 蜂に法律 できたよう 届出せずば 法律違反」

  「計画じゃ 今年も十升 取りたいと 甘い目論見 蜂は笑って」

  「今日にでも 届出書いて 市役所へ 出して公言 養蜂始む」

  「今年早 蜜蜂春が 来たことを 知らせるように 箱の周りを」

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人間牧場

〇高知県四万十市西土佐へ(その2)

 愛媛県の田舎は言うに及ばず高知県の田舎でも、過疎化・高齢化・少子化・産業不振などが同時進行し、集落存亡の危機に貧しています。田舎を歩くと、既に人の住まなくなった空き家が目立ち、その空き家も長年の風雪に耐えかねて、崩れしままの醜態をさらけているのです。これほど文明が進んだ世の中なのに「何故」人は田舎を離れて行くのでしょうか。それは私がいつも言うように、田舎の文化の低さなのかも知れません。
 ポンプアップしない限り水は必ず高い所から低い所に向かって流れますが、人間はどうやら水とは逆に文明の低い所から高い所に向かって流れるのかも知れません。じゃあ田舎の文明を高くすれば人が集まってくるはずだと、文明を高くするよう努力してもそこには限界があって、都会を幾ら模倣しても投資に限りがあるのですから、もっと別なことを考えなければなりません。

 そこで考え付いたのが都会には真似のできない長年培ってきた文化を見直し、文化で田舎の魅力を発信するという考え方です。役所に勤めている人に「文化って何ですか?」と問いかけても、「ウーン」というほどですから、一般の人には分かりづらく、ましてや「文化と文明の違いは何ですか?」と聞けば益々疑問の館へ入り込んでしまうのです。文化とは人間の生活様式のことで、生活の仕方や行動の仕方といったソフトです。文明とは道具や機械等のハードウェアーだと説明すれば、少しずつ分かりかけてくるのです。田舎が何かにつけて不便で選択が狭いのに対し、都会は便利で様々な便利なモノを選択できるのですから、田舎が幾ら文明で都会に近づこうとしても勝てっこないのです。私たちはこれまで文明の発展した便利な都会に憧れてきました。20世紀は田舎が都会の文明に憧れる時代だったのです。

 しかし最近人間や自然を犠牲にして発展し続けてきた、文明にかげりが見え始め、文明よりも文化の大切さに気がつき始めたのです。都会の喧騒に疲れた人たちが田舎の文化の良さを再認識し始めたのです。しかし残念ながら時既に遅しで、文化に目覚めないまま諦めた田舎の群集は、一人で立ち上がることすらできないほど疲弊しきっているのです。
 追い討ちをかけるように学校は統廃合され、公共交通機関も廃止され、ガソリンスタンド難民、商店街の消滅によって買い物難民という新語まで現れ、限界集落は増加の一途を辿っています。
 昨日講演に出かけた高知県の集落も、今年度の春小学校が休校になっていました。休校は子どもが増えれば再会できると聞こえはいいのですが、多分増える見込みはなにので残念ながら消え去る運命にあるようです。

旧須崎小学校で開かれた小さな講演会
旧須崎小学校で開かれた小さな講演会

 学校の跡地をどう利活用するかは、これまた大きな問題です。西土佐では今年度から小学校も中学校も統廃合してそれぞれ一校となって、廃校は旧村内にゴロゴロするほどあるのです。昨晩の講演会は心ある10人余りの人が集まり、講演終了後にはお酒付きの交流会まで開いてもらい、議論を深めました。
 会場となった旧須崎小学校は愛媛県松野町と境を接する、目黒川沿いにありました。夜9時40分に会場を後にして、目黒を通って松野~鬼北~三間と走り、三間から高速道路を伊予まで抜けました。帰宅した頃を見計らって和田さんから確認の電話が入りました。無事11時45分に自宅へ帰り着きました。往復30キロを越えていました。

 

  「便利ゆえ 都会がいいと 思ってた 気がつく遅く 立ち上がれない」

  「文明は 少ないけれど 自慢する 文化がありて 俺は田舎で」

  「田舎では 都会予備軍 何人も 育てることに 熱中してた」

  「廃校が 村内ゴロゴロ どうするか もはや庶民の 手には負えない」

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人間牧場

〇孫の保育園の餅つき大会

 息子家族と同居を始めるようになって間もなく2年近くになりますが、五歳の希心と三歳の奏心が通う家の近くの上灘保育園では、小さいながらも運動会や発表会など一年を通じて色々な催しがあるのですが、私は殆ど毎日朝、ふたりの孫を連れて通園するものの、運動会や発表会のお誘いを受けながら、忙しくてまだ一度も孫たちの勇姿を見る機会がありませんでした。
 数日前若嫁から、「お父さん、1月29日の午前中空いている?」と声を掛けられました。早速スケジュール表を見たところ、運よく空いていたので餅つき大会に参加することにしました。後で気がついたのですが、この日若嫁は勤めに出ているため、代役を私に頼んだようでした。

 若嫁が妻に「お父さんにエプロンと三角巾、それにタオルを持たせてあげて下さい」と指示があり、それらを袋に入れて9時の集合時間5分前に保育園に到着しました。保育園のグラウンドでは園長先生が少し土を掘ってかまどの準備をしていました。私が一番折だったのでそれを手伝い、早速かまどに段ボールを破ったり小さい薪を入れ、はがまにお湯を入れて着火マンで火をつけました。薪が杉の残材だったため、またこの日は無風の好天に恵まれたため火は直ぐに勢いを増しました。園児に見合ったもち米は一臼一升余りの小臼で、セイロに仕掛けたもち米はあっという間に蒸せました。
 やがてまるでお月さんの餅つきとでも表現したいオモチャのような木の臼と杵が用意され、園児たちが元気に出てきました。

小さな臼と杵
小さな臼と杵

 

みんな仲良く
みんな仲良く

お手伝いの父兄の殆どは、お母さんたちが働いているのか、私たちのようなおじいちゃんやおばあちゃん族だったため、段取りもテキパキできて園児たちが順番に掛け声をかけてつくお餅を、丸めたりイチゴ大福にしたりしました。
 私は園児たちが杵で餅をつく介添えを担当し、順番に子供たちと一緒に怪我しないように餅をつきました。この日は子と七番の冷え込みでしたが、厚着をしていたためお陰様で大汗をかいてしまいました。園児たちはつきあがったいちご大福や餡餅をお行儀よく並んで座り、「美味しい、美味しい」と言いながら食べていました。私たち父兄もお裾分けをいただきましたが、園児のついた餅は実に美味しくいただきました。

孫奏心君
孫奏心君
孫希心君
孫希心君

 孫たちは家庭で時々悪ふざけをしますが、家を出る時悪ふざけをしないよう指切りして約束をしていたため、私の顔色を時々覗っていましたが、自宅に帰った孫たちを「よくやった」と誉めてやりました。
 餅つきは11時過ぎに終りましたが、買い物ごっこをするのでどうぞと誘われましたが、来客予定があったので、お餅のお土産を貰い草々に保育園を後にしました。結局エプロンも三角巾も使わず終いで、忘れて帰ってしまい、お昼に再び取りに行きました。
 育爺の仕事も忙しくて中々できていませんが、「これからも機会を見つけて是非保育園へ来て下さい。来年度は是非ご講演をお願いします」と延長さんに頼まれてしまいました。昨日は楽しい一日でした。

  「孫たちの 通う保育園 餅つきに エプロン持って 参加しました」

  「可愛らし まるで兎の 餅つきの ような臼・杵 ペッタンペッタン」

  「孫たちが 摘んだ蓬の 草餅を 食べて早春 季節移ろい」

  「育爺も 少しだけだが 役に立つ 孫もお利口 約束果たす」

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〇壱岐原の辻遺跡(壱岐への小旅行その4)

 私は今回の旅でラッキーにも、壱岐の原の辻遺跡を見学することができました。博物館からいただいた資料には原の辻遺跡について次のような紹介文が書かれていました。

原の辻遺跡
原の辻遺跡
原の辻遺跡
原の辻遺跡

 原の辻遺跡は今から約2000年前の弥生時代に栄えた多重の環濠を持つ集落です。中国の歴史書「三国志」の中に書かれた「魏志」倭人伝には邪馬台国をはじめ、様々な国の様子が記されています。記された国の中で、国の場所と王都の位置の両方が特定されるのは国内で唯一「壱岐・原の辻遺跡」だけです。魏志倭人伝の2008文字の中で57文字が壱岐に関する情報として記されていて、立地的に豊かな自然に恵まれていること、多くの人が息で生活していたこと、海を舞台に積極的に積極的に交流していたことが伺えるのです。遺跡からは東アジア最古の船着場跡や大陸との交流を物語る遺物が多数発見されています。玄界灘に浮かぶ壱岐は大陸や朝鮮半島と日本を結ぶ架け橋として重要な役割を果たしていたことが分かる遺跡として、遺物でいうと国宝にあたる「国の特別史跡」に指定された日本を代表するいせきの一つです。

降籏課長さんとともに
降籏課長さんとともに

 

 かつて佐賀県にある吉野ヶ里遺跡や青森県三内丸山遺跡を見学して環濠集落などについてはおおよその知識を持っていましたが、それらに匹敵する素晴らしい遺跡でした。
 原の辻遺跡の見える小高い丘の上に壱岐市立一支國博物館がありました。日本を代表する建築家黒川さんが設計したという施設は屋上緑化されていて、まさに自然に溶け込んだ素晴らしい施設でした。
 3日目の研修プログラムはこの施設内の3階で行なわれたため、施設内の見学もさせてもらいましたが、展示物は超一級品ばかりでジオラマも精巧にできていました。

 

環濠集落のジオラマ

 

交易船の模型

  この施設には離島としては珍しい長崎県の埋蔵文化センターが併設されていて、普通埋蔵文化財は別の収蔵庫等があるのですが、ここでは収蔵品も展示するという施設となっていました。シルクロード・ビューシアターでの映像紹介が終わると、スクリーンが自動的に下がり、本物の原の辻遺跡が眼下に広がって見えるストーリーは脱帽でした。島ゆえ見学者の数は少ないと思われますが、一度は訪ねてみたい超一級の展示施設でした。

  「原の辻 環濠集落 遺跡見る 弥生の人の 暮らし彷彿」

  「三本の 指に入ると 自慢する 宝箱物 生かす手立てを」

  「有名な 建築する人 考えた 立派建物 目耳に疑問」

  「魏志倭人 聞いてはいたが 目の当たり 五十七文字 ロマンかき立て」

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人間牧場

〇念願の長崎県壱岐へ(その2)

 長崎市香焼町に住む親友の武次さんの一本の電話から、長崎県壱岐への小さな旅のドラマが始まりました。「1月26日の予定は空いているか」という携帯電話での連絡に、「前日は終日日程が詰まっていて、長崎経由で壱岐へ行くには道中が長過ぎて、当日の移動は無理かも知れない!」と否定的な返事をしました。武次さんには昨年の11月に長崎へ招聘したいという話を、「鳥取県岩美町へ出かけてる予定があって」と断わっていた経緯もあるので、とに角依頼のあった長崎県担当者の話を聞いて判断すると、お茶を濁してしまいましたが、おっつけ連絡のあった長崎県教育庁の松尾先生の話だと、長崎県だのに博多から、壱岐への高速船が出ているので、間に合うかも知れないということで検討を始めました。博多発は10時35分、壱岐芦辺着が11時40分だと前日の夜博多入りしておけば何とかなると、長年の念願が叶って壱岐へ行けるという嬉しさもあって、あっさり引き受けてしまいました。

講演会場に掲げられた看板
講演会場に掲げられた看板

 今回は「日本の宝『しま』体験交流事業」という名称で、青年を対象にした事業でした。地域おこしに関心のある20歳以上の青年20人ほどを2泊3日の日程で、県内から募集するという話には大いに賛成ながら、果たして青年が集まるかどうか多少不安もあったよですが、人数も確保されての開催となったようです。
 芦辺港まで長崎県庁の生涯学習課長さんや、担当の古瀬さんにわざわざお出迎えいただき、昼食後一般の方々も参加して私の講演となりました。若者に少しシフトをさせながら90分間話をさせてもらいましたが、どの青年も熱心に私の話しを聞いてもらい大満足でした。
 県の降籏生涯学習課長さんは文部省からの出向で来られた方でした。以後島を離れるまでの2日間、研修や交流会等の暇を見つけて意見交換を行ないましたが、担当の古瀬先生ともども、中々人間的にも温かく大いに盛り上がって話をさせてもらいました。
 先日西海市生涯学習推進大会が終ってから、11月14日~15日の両日、長崎市で開かれる第43回九州ブロック社会教育研究大会の記念講演の講師を引き受けてくれないかと内諾打診があり、引き受けることを内諾していて、またまた長崎とのご縁が深まろうとしているのです。

講演会場
講演会場

 今回の研修に参加した青年たちはみんな真面目で、わずか1泊2日の研修でしたが、20人ほどの小集団ということも幸いし、大いに話しこむことができました。今の自分や地域の置かれている立場、今やっていること、これからやりたいこと、今思うことなどなど青年たちの悩みも深いようですが、私は多いにシンパシー(共感・共鳴・共有)を働かせることができ、再会を約束して別れました。
 ふと私が彼らのような若い頃何を考え、どんな行動をしていたのだろうと、若い頃を振り返ってみました。私は18歳から26歳までの8年間青年団に入団し、青年団長や青年学級委員長をこなしながら、仲間・主張・ふるさと・感動・夢という5つの道具を手に入れることができました。また青年の船に乗ってアメリカやメキシコへ行くことによって大いに異文化ギャップを体験し、大きな価値観の変化を得たのです。また21世紀えひめニューフロンティアグループを組織して、無人島に子どもたちを連れて行くなどボランティア活動にも積極的に取り組みました。今の自分があるのは青年期に人生の土台を、しっかりと作ったからだと述懐するのです。青年時代の生き方が自分の人生を決めるのですから、青年たちには大いに頑張って欲しいと願っています。

  「友人の 口利き講演 ありがたや 小さな旅の ドラマ活き活き」

  「いい人に 巡り逢ったよ 今回も 少しだけれど 進化の後が」

  「青年の 時期の生き方 人生の 土台なるゆえ 頑張らなくちゃ」

  「また会おう 硬い握手を 忘れない この次どんな 成長してる」

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人間牧場

〇今回もいい旅の思い出ができました

 一度は行きたいと思っていた憧れの島、長崎県壱岐へ行って来ました。今年は春からいい予感です。続きは帰宅が23時50分と深夜になっているので、明日にします。お休みなさい。

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人間牧場

〇練習を怠っているハーモニカ

 以前は家庭にいる時、よく練習していた手持ちのハーモニカも、最近はすっかりご無沙汰で、吹いていないことに気がつきました。というのも県外の出張先から帰宅して、出張の間に読まなかった新聞を、まとめ読みした折、1月21日(月)付けの新聞朝刊に、4ページに渡って「日本の演歌・全126曲」という見出しのユーキャン広告が載っていたからです。美空ひばり・北島三郎・八代亜紀・三波春夫・川中美幸・舟木一夫・五木ひろし・島倉千代子・千昌夫・鳥羽一郎・石川さゆり・村田英雄・吉幾三・細川たかし・都はるみ・森進一・水前寺清子・大川栄策などなど、往年の演歌歌手の顔写真がずらりと並び、昭和から平成までのヒット人気曲126曲が納められているCDを、通販限定で買わないかというお誘いでした。

ユーキャンの新聞広告
ユーキャンの新聞広告

 見開きのページを開くと、第1巻から第7巻まで、1巻にそれぞれ18曲が納められているのです。私はどちらかというと古い時代の人間といわれる古風なタイプで、演歌が好きで、酒を飲んでいた頃は二次会・三次会と繰り出してカラオケで、下手糞ながらマイク片手によく歌っていました。下手糞を自認しているのに、お客さんが拍手をしてくれるので、酒の勢いを借りて有頂天になって歌うのですが、エコーの効いた声とテレビ画面に映し出されたイメージ画像に酔い痴れ、まるでスター気取りのようでした。
 酒を飲まなくなってから、早くも10年以上が過ぎました。足繁く通っていた馴染みの店もすっかり遠のき、歌うことなど殆どなくなってしまいましたが、古きよき時代だったとしみじみ思うのです。

 北の宿から・さざんかの宿・おもいで酒・浪花恋しぐれ・矢切の渡し・王将・柔・ふたり酒・チャンチキおけさ・風雪ながれ旅・昔の名前で出ています・祝い船・兄弟船・霧にむせぶ夜・人生峠・奥飛騨慕情・嫁に来ないか・悲しい酒・人生劇場・北帰行・哀愁波止場・長良川艶歌・ふるさと・襟裳岬・星影のワルツ・北国の春・酒よ・高校三年生などなど、懐かしい歌が目白押しでした。
 私は早速書斎に置いているハーモニカと、木になるカバンの中に忍ばせているハーモニカを取り出し、思いつくまま何曲か吹いてみました。今年最初の練習だけに最初はこわごわでしたが、そのうち口も滑らかに吹けだしましたが、そのハーモニカの音色を聞きつけた孫が書斎にやって来て、「それ何という歌」とか、「ドラえもんの歌を吹いて」と、あつかましくまとわりつきました。いやはやハーモニ家を自認する私も、孫にあったら形無しでした。

 「涙にくれる切ない夜に、ふと酔いたい歌があります。」「日本男児の熱い人情と心意気、歌って元気が湧いてくる。」「行き交う男女の情愛を語る、大人の歌に聴き掘れる。」などと書かれた中見出しは、私の忘れかけていた昔を思い出させてくれました。演歌は古いとかよく言われますが、演歌には日本人が忘れかけていた温もりを感じます。古いと言われても私はこれらの歌をハーモニカで吹きながら心の中で歌い続けたいと思っています。歌っていいですね。でもこのCDを買う勇気もお金もないのです。

  「新聞の 演歌広告 懐かしく ハーモニカ吹く 昔ありあり」

  「カラオケで 歌った歌を 思い出す あの人今は どうしているか」

  「ドラえもん 吹いてと孫に せがまれて 吹けぬ自分が 恥ずかしくなり」

  「演歌など 古いと人に 言われよが やはり私は 演歌が似合う」 

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人間牧場

〇活字は選択の技術や方法が学べる智恵である

 私の町には残念ながら本屋がありません。故に活字の読み物は毎日届く新聞朝刊や、市から毎月届く広報程度なのです。活字離れの時代といわれていますが、こうも活字不毛な場所に住まなければならないのかと、嘆きつつ日々を暮らしています。私と同じ年代に生まれ、私と同じ職場に勤めて退職し、私と同じ町内に住んでいる人がいて、私と同じ境遇を嘆いて生きているだろうと思いきや、先日出会って立ち話をしたのですが、そんな悩みは何処吹く風で、静かで一向に困っていないという言葉が返ってきました。
 その人は役場を退職した時、パソコンのような面倒くさいものはやらないと心に決めて、パソコンからも遠ざかっていて、パソコンでの活字にも出会わず、私が毎日武器のように使って読んだり書いたりしているブログ等、「ブログって何?」という有様で、まったく話がかみ合いませんでした。その人はこの3年間、一度も本屋さんに入ったことがないそうで、本屋さんに覗かなかったということは本を一冊も買わなかったと推測できますが、それでもその人は、何の不自由も感じないまま生きていられるのですから、世の中や人生はまか不思議な世界なのです。

 このところ出張した所が小倉や博多、大阪、松山といった私たちの町から見れば大都会だったため、乗り継ぎの少しの時間を見つけて本屋に立ち寄りました。そして小遣い銭をはたいて10冊ほど文庫本を買い求めて帰りました。本は重たく、同行二人を決め込んで持ち歩いている、二宮金次郎のブロンズ像とともに、背中に背負ったリュックは、肩にズシリと堪えるほどでしたが、読むことの喜びが上回って、さほど苦にはなりませんでした。
 私が買って帰った新刊図書の山を見て、「これほど沢山の本があるのにまだ買うの?}と今回も妻に笑われましたが、私の知的エネルギーの源だけに、パソコンや本に払うお金に対しては、妻も余り文句を言わず今のところ助かっています。

 自主的に選ぶことができなくなったとき、私たちは生きる意味を失います。生きるとは選ぶことです。私は今回の講演旅行で寸暇を惜しんで本屋に立ち寄るという、取るに足らない小さな選択をしただけで、新たな選択の無限の世界が広がり始めました。少し高い本だったので、買わず立ち読みに留めましたが、たまたま開いた燻製づくりの本は、アウトドアーの過ごし方に大きなヒントを与えてくれました。早速昨日は列車の中で思いつくまま、旅程をプリントした用紙の裏側に、ボールペンで下手糞ながら絵を書いたりして楽しみました。
 今私たちは混迷したりスピードの速い時代の中に生きています。そして洪水のように流れる情報の中で何を選ぶか迷いながら生きています。故に選択は現代人の私たちにとってもっとも重要なことであることは、誰しも認めるのです。活字はその選択の技術や方法を学ぶ智恵かも知れません。さあうず高く積み上げた買ったばかりの本をしっかりと読みましょう。

  「これほどに 本があるのに また買った 呆れた妻の いつもの言葉」

  「この三年 本屋へ行かない 友がいる それでも彼は 不自由もなく」

  「本代は 知恵に生かせば 安いもの これから先も 本は読みたい」

  「空想を 巡らすことが 楽しくて それを絵に書き 一人微笑む」

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