人間牧場

〇高知県四万十市西土佐へ(その2)

 愛媛県の田舎は言うに及ばず高知県の田舎でも、過疎化・高齢化・少子化・産業不振などが同時進行し、集落存亡の危機に貧しています。田舎を歩くと、既に人の住まなくなった空き家が目立ち、その空き家も長年の風雪に耐えかねて、崩れしままの醜態をさらけているのです。これほど文明が進んだ世の中なのに「何故」人は田舎を離れて行くのでしょうか。それは私がいつも言うように、田舎の文化の低さなのかも知れません。
 ポンプアップしない限り水は必ず高い所から低い所に向かって流れますが、人間はどうやら水とは逆に文明の低い所から高い所に向かって流れるのかも知れません。じゃあ田舎の文明を高くすれば人が集まってくるはずだと、文明を高くするよう努力してもそこには限界があって、都会を幾ら模倣しても投資に限りがあるのですから、もっと別なことを考えなければなりません。

 そこで考え付いたのが都会には真似のできない長年培ってきた文化を見直し、文化で田舎の魅力を発信するという考え方です。役所に勤めている人に「文化って何ですか?」と問いかけても、「ウーン」というほどですから、一般の人には分かりづらく、ましてや「文化と文明の違いは何ですか?」と聞けば益々疑問の館へ入り込んでしまうのです。文化とは人間の生活様式のことで、生活の仕方や行動の仕方といったソフトです。文明とは道具や機械等のハードウェアーだと説明すれば、少しずつ分かりかけてくるのです。田舎が何かにつけて不便で選択が狭いのに対し、都会は便利で様々な便利なモノを選択できるのですから、田舎が幾ら文明で都会に近づこうとしても勝てっこないのです。私たちはこれまで文明の発展した便利な都会に憧れてきました。20世紀は田舎が都会の文明に憧れる時代だったのです。

 しかし最近人間や自然を犠牲にして発展し続けてきた、文明にかげりが見え始め、文明よりも文化の大切さに気がつき始めたのです。都会の喧騒に疲れた人たちが田舎の文化の良さを再認識し始めたのです。しかし残念ながら時既に遅しで、文化に目覚めないまま諦めた田舎の群集は、一人で立ち上がることすらできないほど疲弊しきっているのです。
 追い討ちをかけるように学校は統廃合され、公共交通機関も廃止され、ガソリンスタンド難民、商店街の消滅によって買い物難民という新語まで現れ、限界集落は増加の一途を辿っています。
 昨日講演に出かけた高知県の集落も、今年度の春小学校が休校になっていました。休校は子どもが増えれば再会できると聞こえはいいのですが、多分増える見込みはなにので残念ながら消え去る運命にあるようです。

旧須崎小学校で開かれた小さな講演会
旧須崎小学校で開かれた小さな講演会

 学校の跡地をどう利活用するかは、これまた大きな問題です。西土佐では今年度から小学校も中学校も統廃合してそれぞれ一校となって、廃校は旧村内にゴロゴロするほどあるのです。昨晩の講演会は心ある10人余りの人が集まり、講演終了後にはお酒付きの交流会まで開いてもらい、議論を深めました。
 会場となった旧須崎小学校は愛媛県松野町と境を接する、目黒川沿いにありました。夜9時40分に会場を後にして、目黒を通って松野~鬼北~三間と走り、三間から高速道路を伊予まで抜けました。帰宅した頃を見計らって和田さんから確認の電話が入りました。無事11時45分に自宅へ帰り着きました。往復30キロを越えていました。

 

  「便利ゆえ 都会がいいと 思ってた 気がつく遅く 立ち上がれない」

  「文明は 少ないけれど 自慢する 文化がありて 俺は田舎で」

  「田舎では 都会予備軍 何人も 育てることに 熱中してた」

  「廃校が 村内ゴロゴロ どうするか もはや庶民の 手には負えない」

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