人間牧場

〇まるでローカル放送局みたいな人
 私の住んでる田舎には色々な人が住んでいます。中でも私より少し年上の女性で、町内のことだったら「この人に聞いたら分かる」と言われるくらい、地域の話題をよく知っている人がいます。それもそのはずで、車に乗れないためマイピアで朝から晩まで仕事もせず、あっちへ行ってはお喋り、こっちへ行ってはお喋りの連続の尻軽さで自ネタを仕込むのです。

 私ももう20年前この人の餌食に会いました。「あら若松の進ちゃんじゃない」から始まり、「あんたガンで入院していたそうだが、どこのガンじゃったんぞな」と唐突に話しかけられました。「私は入院をしてはいたもののガンではありません。その話誰から聞いたの?」と切り返すと、「あんたが知らないだけで『若松の進ちゃんはどうもガンらしい』とみんなが噂しよる」と言うのです。「ところでどこのガン?」と問い返されました。「おばちゃん、本人を目の前にしてどこのガンかは聞かない方がいいよ」とたしなめました。

「進ちゃんのことはには言わないようにと、聞いた人から釘を刺されていたのに言うてしもうた。ごめんなさい」「ふつう私は口が堅いほうなのですが・・・」と平謝りに謝まられましたが、「自分で言う程口は堅くない」後の祭りに大笑いをしました。昨日久しぶりに出会いましたが、そんな昔のことなどケロリと忘れ、今日も「あの人は若嫁と仲が悪い」とか、「あの人は認知症がひどくなり少々可笑しい」などなど、他人の噂話をいっぱい聞かされました。この人のことを近所の人は「ローカル放送局」と呼んでいて、「あの人の話は半分嘘」というレッテルが張られているようです。聞いた話をうかつに人に話すととんでもないことになるので、今日おばさんから聞いた話は「聞かなかったこと」にしておきます。

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇今日は楽しみにしていた人形納品の日でした
 今年の私の初夢は、昨年「108体の人形が語る漁村の昔の暮らし」をさらに進化させるため、人形完成の目標を200体と定め、108体で語れなかった漁村の昔の暮らしを作ることにして、人形作家林さんとタッグを組み、制作に取り掛かりました。

 既に①村の囲炉裏端寄り合い(9体)、②子ども亥の子(8体)、③昔の遊びハンカチ落とし(6体+2体)、④盆飯と磯遊び((8体+7体)、⑤漁家の結婚式(25体)が出来上がり、納品して総勢65体の人形を海の資料館海舟館に仮置き展示をしています。

 今日は4回目の納品の日です。⑥子どもの遊び追加(6体)と、➆紙芝居とギョーセン飴(6体)の77体が、目出度く出来上がりました。その模様は明日から私自身のFacebook でお披露目しようと思っていますが、元々の発想は人間牧場を開設して今年で20年になり、10月5日に20周年記念事業をやるプロローグとして、「夕日つれづれ草・木の書」を手作りで発刊する予定に加え「200体の人形が語る漁村の昔の暮らし」を考えていたのです。

 まだ企画の段階なので、どうなることか分かりませんが、内容的にも大番頭の松本さんや、小番頭の赤石さん、それに年輪塾筆頭塾生の浜田さんたちの意見を聞いて早々にまとめたいと思っています。ちなみに今進行している人形づくりは、⑧漁村の昔の小学校授業風景(12体)の子どもで二十四の瞳+おなご先生(1体)+用務員さん(1体)∔校長先生(1体)∔二宮金次郎像(1体計16体)体)、⑨子ども神輿10体、水難救護船乗組員(10体)で、計算上は計画を大幅に超え113体になるかも?です。

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇双海の花火復活に挑む
 今日の愛媛新聞朝刊8面地方版に、「双海の花火復活に挑む」「伊予市 運営協議・寄付集め有志が奔走」「人口減っても心豊かに」という3本立ての見出しの記事が載りました。

 伊予市と中山町、それに双海町の1市2町が20年前合併して新生伊予市が誕生しました。合併のメリットが強調され、当時70市町村あったまちやむらが、20市町に統合されました。しかし人口が一時的に増えたような錯覚は長く続かず、行政サービスは遠のくばかりと嘆く人もいるほどです。

 合併に最後まで異議を唱えていた私の意見など取るに足らないとかき消され、今に至っていますが、もう後戻りできない中で生き延びていくには、自分たちの力で何とか自立の道を探っていくしかありません。

 そんな中双海の花火を復活しようと、心ある人たちが寄付集めに奔走しています。合併前に様々なまちづくりを担当し、夏祭りや港まつりなどのイベントに深く関わっていた私としては、何はともあれとても嬉しいニュースです。1口千円以上と言うことなので、年金暮らしゆえ千円に毛が生えた程度を親友を通じて寄付をしました。久しぶりの朗報に今から夏の来るのが楽しみです。頑張って・・。

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇どうして「人間牧場と名前を付けたの」
 人間牧場を造って20年になります。案内看板もなくましてやカーナビにも出ない標高130mの高台にある人間牧場に多い年には年間1000人もの人がやって来ます。「1000人とは凄い」と自分でも思いますが、1ヶ月に100人来れば×12ヶ月で1200人ですからそれほど胸を張る人数ではありません。

 「人間牧場は何するところ」とその奇妙な名前ゆえよく聞かれることがありますが、今から35年前ひょんなことから東京市ヶ谷にあった市町村役場ロマン亭という居酒屋の主人鈴木繁夫さんと知り合いました。鈴木さんは「かがり火」という情報誌も出版をしていましたが、その後足繁く出会ったり一緒に全国へ講演に出かけるようになりました。

 30年前に私が塾長を務めていた21世紀えひめニューフロンティアグループが双海町東越えの廃屋を借りて1年に4回、10年で40回の開塾を目指したフロンティア塾にも平成6年5月21日~22日に講師とそて来てくれ熱弁を語ってくれました。その後鈴木さんは不治の病にかかりお見舞いに出かけた東京の病院で、ベッドに伏した鈴木さんから、「私はもう間もなく命が亡くなる。夢だった人間牧場を造りたかったが実現することができない。私の遺志を継いでくれるのはあなたしかいない。やってくれないか」と手を握り涙ながらに頼まれました。

「何が何でもそれだけは」と思いましたが、死ぬ間際の頼みを断ることも出来ず行き掛かり上約束をしてしまいました。その後鈴木さんは天国へ召されましたが、約束を果たさなければと思い、建設に必要な総額1千万を死に物狂いで貯め、20年前教育長を最後に現職を退いたのを機に、母親が作っていたミカン畑を開墾し、「人間牧場は見事に完成」しました。「人間牧場」は「人間を放し飼いにする場所」などとうそぶいて、あれから20年があっという間に過ぎ去りました。鈴木繁夫さんの顔が思い出される今日この頃です。

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇技術革新のはざまでどう生きるか
 ある技術をアメリカ人の25%以上が使うようになった時、その技術が「普及」したとみなすことにして、様々な技術の発明の年からそれが普及するまでの年数を調べた年数があります。1880年に発明された電話はおおよそ35年かかったそうです。1900年に発明されたラジオは20年、1930年発明のテレビは16年のようです。

 パソコンや携帯電話の発明は80年代後半でしたが普及までの時間はわずか10年少々で、90年代に出てきたインターネットは僅か6年で普及しました。電話やラジオ、テレビ、パソコン、インターネットは今の社会では常識化していますが、どんな技術もある面で人間にとって限りない恩恵をもたらすからこそ発明されるのですが、そこには思っても見なかった負の面や悪い面もあるようです。

 人間同士のコミュニケーションとは、古来より取り交わされた内容の意味に基づいて自分の行動や考え方や社会関係を変えるという行為だと言われています。しかし人のコミュニケーションでは有用な事実に関する情報だけでなく嘘も多いことを忘れてはなりません。顔の見えないことに乗じて騙したり騙されたりすることが何と多いことでしょう。

 最近の情報技術の進歩進展はテキストやメッセージ、画像の送信という点では優れたモノになってきていますが、人のコミュニケーション行動の全体像を残念ながら視野に入れていないようです。そんな中子どもが使っているアナログな教科書をデジタル化しようとしているようで、「小さな子どもにとってコミュニケーションとは何か」を考えた時、もっと議論する必要あるような気がしてなりません。人間の知能を人工知能AIが超えるような勢いの時代だからこそ、コミニケションの真の意味を考え直さなければならないようです。

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇甘夏柑が美味しい季節です
 みかんの産地といえど、もうとっくに雑柑類も姿を消し、端境期となりましたが、わが家の果樹園には甘夏柑が樹上になったまま初夏を迎えていて、先日も知人友人に送りましたが、まだ沢山実をつけていて、毎日若嫁宅5~6個、私たち夫婦は2~3個収穫し、若嫁と妻がそれぞれに外皮、内皮を剥いでタッパーに入れ冷蔵庫で冷やし、食後のデザートとして食べています。

 

 若い孫2人はこの甘夏が大好きでリクエストがあるので、若嫁は大忙しです。毎日タッパーの冷やした実を食べまくっているようですが、他の柑橘類に比べ酸味が強いのが特徴ですが、それがまた性に合っているのか、ビタミンCの補給だと言っています。

 今日も夕食後デザートに甘夏間を食べましたが、明日の分を確保するため、夕食が終わった午後7時ころ妻に頼まれて畑へ行き3個収穫をしました。若嫁は今日は日曜日で仕事が休みだったので無農薬のオーガキック甘夏なので、外皮をマーマレードにしてみんなに差し上げて喜ばれていたようです。

「樹になった ままで越冬 甘夏柑 初夏のこの頃 収穫デザート」
「今年は 甘夏柑が 豊作で 毎日美味しく いただいてます」
「歳とると 酸っぱい物は 口合わず だけど甘夏 格別美味しい」
「孫たちは ビタミンCと 横文字で 私しゃ甘夏 日本語果物」  

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇知人友人の音信
 私には沢山の知人友人、仲間、親類、近所の人がいます。つい最近はそんな人たちが病気になったとか亡くなったとかの話がよく耳に入るようになりました。今朝もウォーキング途中に出会った知人が立ち話で、「〇〇さんが体調を崩しているそうだ」と教えてくれました。

 風の噂も届かず知らなかったので、心配して〇〇さんの自宅に電話してみました。運よく奥さんが在宅中で、あれこれ話を聞きました。聞くところによるとその知人は最近3度目の脳梗塞を起こし、最近まで病院へ入院して治療を受けているとのことでした。

 病院は1ヶ月以上は入院できないので、リハビリ専門の病院へ転院するそうですが、もう車の運転も出来ないので車を先日処分したようでした。コロナ以来見舞いも制限がかかっているので、奥さんも洗濯物の交換に1週間に一度病院へ行っても受付で受け渡しするだけのようでした。

 私はいつも思っていますが、長生きしても寝たっきりや体が不自由で行動が制限されていては決して幸せではないようです。夫婦で健康で長生きするためにはどうすればいいかよく考えて、体と脳と心を健康にする方法を自分自身で見つけ出し努力することだと思い、日々努力を積み重ねています。

自分流のその方法は「ひ・み・つ」です。(大笑い)

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇明日は晴男に軍配が上がるかも?
 私は自称晴男です。今年やった夕日を観る会は、曇り空で少々寒かったためシーサイド公園のイベントホールでやりましたが、最後の一瞬に夕日が顔を覗かせました。また先日のNHKテレビでの夕日中継も誰もが「何が何でも今日は無理」と思っていたのに、徐々に晴れ渡り、最後は雲に隠れた後真っ赤な夕日が顔を出し、エンディング吹いた私のハーモニカもばっちり決まってみんなを驚かせました。

 私が関わる子ども体験塾も雨男と言われた公民館主事のAさんとタッグを組み何度かやりましたが、いつも私に軍配が上がり晴れの幸運をつかみました。今回出海公民館主事が異動で転出し、Tさんという主任さんが後任として赴任してきましたが、本人に聞けばどうやら「雨男」らしいのです。そんなこんなで心配していましたが、明日の天気予報だとタッグを組んでいる谷崎主事さんと私に軍配が上がるようです。

 昨日も今日もあれこれ忙しく、来客も何組かあって事前準備は公民館職員にお願いしましたが、お天気も良く準備は着々です。今日は元公民館主事の隅田さんが休みを取って準備手伝いに駆けつけてくれました。嬉しいことです。さあまた新しい年度が始まります。明日は徳島県佐那河内村から佐那人が助っ人として得意の歌声を引っ提げてやって来ます。楽しみです。

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇妻のガーデニング
 妻が目の病気を発症したため、急遽長年務めた歯科医院を退職して1ヶ月ほどが経ちました。片方の目を、手術をしたり8月にもう片方を手術することになり、目薬を一日に4回入れるなど、養生を続けています。

 そんなこともあって妻が一日中在宅しているものの、大事をとって車の運転を自粛しているため、私が妻のアッシー君として大活躍?の日々ですが、最初は几帳面に妻の言うことを聞いていましたが、最近は少し煙たがって敬遠気味になっていて反省をしています。

 家にいるため妻は気晴らしに家の庭の草引きをしてくれるので、庭が随分綺麗になりました。また退職を機に始めたプランターによるガーデニングも、水遣りから雑草取りをして大事に育てているため、プランターながら綺麗な花が咲いて、少し自慢気味に私を花見をするよう誘っています。

 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

〇自分の人形とご対面
 100体の人形が語る昔の漁村の暮らしに続いて200体の人形作りの挑戦していますが、先日出来上がって納品してもらった漁村自宅での結婚式の人形は主役である新郎の私と新婦の妻、仲人さん夫婦、おんちょ・めんちょの子ども、謡と舞を舞う知人、記念写真を撮影する写真屋さん、それに両家の親族など総勢24人の集団が畳の間にそれぞれ座布団を敷いて座る大がかりのものです。

 仲人さん夫婦、謡と舞の夫婦の他、わが家の親族では親父、おふくろ、ばあちゃん、姉の夫が他界し、妻の親族も父親、母親、兄夫婦、妹も他界しています。一昨日近所に住む姉がやって来て、自分の若かりし54年前の姿をした人形と初対面を果たしました。夫は既に亡くなっているだけに、感慨も一入の様子で、人形を手に取って、よくぞ作ってくれたと喜んでいました。

 私たちの結婚式から早54年の歳月があっという間に流れました。世の中も家族の有り様も随分変わりましたが、人生100歳まで生きれる時代といいながら残された余命はそんなに多くはなく、余命をどう生きるか考えると複雑な気持ちです。今は亡き夫と自分の人形を手に取って見る姉の姿を見て、もう一度スイッチをゼロに戻し、夫婦でしっかり生きて行きたいと思いました。

[ この記事をシェアする ]