人間牧場

〇虹を見ていると幸せ気分

私が自宅から撮影した虹
私が自宅から撮影した虹

 私は子どものころから、虹を見ると何だか夢を見ているような幸せな気分になります。それは下灘小学校に通っていた少年のころ、図書室で「虹を掴んだ男」という一冊の本を読んだからでした。その本によるとある日何をしても長続きしない飽き易な男が、寝ていて夢をみたお話です。夢に神様が現れ「虹を見たら急いで虹の付け根まで行き、虹が消えぬ間にそこを掘ったら莫大な財宝が眠っている」というのです。男はその話を信じ、雨上がりの空に虹が出ると、仕事をほったらかして、虹の根元を目指して一目散に走りましたが、いつも途中で虹は消えてしまいました。近所の人は仕事もせずに虹ばかりを追いかけ、田畑は荒れ放題になっているその人のことを、いつしか「虹ボケさん」と呼んであざ笑っていました。夢で見た虹のことなどすっかり忘れかけていたある日のこと、一人の男が息せき切ってやって来ました。実はその男も同じような夢を見ていて、今日その虹の根元が虹ボケさんの畑であることを突き止めたそうです。

本多さんが撮影した日輪の虹
本多さんが撮影した日輪の虹

二人は虹が消えぬ間に急いでそこら辺を掘り返しましたが、結局財宝は出てきませんでした。疲れ果ててあぜ道にしゃがみ込んだ二人の前の、荒れ放題だった田畑は掘り返されていつの間にか立派な田畑に生まれ変わっていました。男は神様が言った言葉が「田畑をしっかり耕せば稔がやって来て暮らしが豊かになる」ことに気付き、それ以来一生懸命働き、長者になったというお話でした。
 私もご多聞に漏れずお金持ちになりたいし、もし虹の根元に財宝が埋まっているのなら、追いかけてありつきたいものですが、平凡な田舎の暮らしに満足しているので、男のような人生は歩みたくないと思うのです。でも何故か虹を見るとこの本のことを思い出し、何とも不思議な七色の虹を見ながら、その話を思い返すのです。

 何日か前、夕日が沈むころ西の空に小さな虹のような虹が見えました。「虹のような虹」と表現したのは、それが虹であるかどうか疑問だからです。ところが双海町地域おこし協力隊の本多さんが偶然にもその虹を写真に収めて、Facebookにアップしていました。私が撮影したのは自宅からだったので、半分しか写っていませんでしたが、本多さんは全てを写していたので、拝借することにしました。それにしても虹は見る場所によって違って見えるのです。今回の虹は日輪で、水滴の虹とは少し様子は違っていましたが、目には虹に見えました。
 虹は光の織り成す虚像です。七色に見える姿はまさにメルヘンです。虹を見ていると何だか幸せな気分になれるのです。私は感動人間を自負しているから・・・・かも。

  「ある本で 虹の根元に お宝が 眠っていると 読んだ思い出」

  「虹は何故 七色なのと 孫が聞く 答えられらい 粗末なお爺」

  「七色の 虹を見てると 何となく 幸せ気分 だから大好き」

  「同じ虹 見ている人が 一人いた 多分その人 幸せ男」

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〇昨晩は楽しいひと時でした

 昨日は午後から久しぶりに所用で県庁を訪ねました。人事異動のあった部署も沢山あって、持ち合わせた名刺が足らなくなるほどでしたが、短い時間に10課ほどを回り、あいさつを済ませました。もうこの歳になると私を必要とする部署等殆どないはずなのに、色々な仕事の絡みもあって、必要最小限度外せない所もあるようでした。
 午後5時に年輪塾の浜田さんと待ち合わせして、和楽笑明神という居酒屋へ行きました。このお店は愛媛新聞カルチャースクールで今年3月までの2年間、私が講師を務めた街中の移動年輪塾の受講生だった明神紋子さんがお母さん、お姉さんの3人でこの日松山2番町にオープンした店なのです。座敷と止まり木のあるこじんまりとしたお店でした。

 14年前から酒を飲まなくなった私は、会合の後の食談や懇親会を除けば、飲み屋へは殆ど覗いていないため、久しぶりの居酒屋は新鮮な感じがしました。実は明神さんのお母さんは、私が23歳の時、NHK青年の主張に応募して原稿審査をパスした折、一緒に原稿審査をパスしていたことを、浜田さんを通じて知らされていました。もう40年を越えた半世紀も前の出来事なので、お失礼ながら顔も名前も覚えていませんでした。ひょんなことからカルチャースクールで娘さんの紋子さんと知り合いましたが、人の縁の不思議と世の中の狭さを感じたものでした。
 昨日46年ぶりに居酒屋でお母さんと出会いました。少しだけ心がときめき感激の面持ちでしたが、厨房で忙しく調理をしていたため、会釈程度のあいさつで言葉も交わすことは叶いませんでした。

 私はお品書きの中から、カツオのたたき、きんぴらごぼう、冷奴を頼み、生ビールや冷酒を飲む浜田さんを他所に、ノンアルコールのビールを飲みながら1時間余り歓談してお店を出ました。普通であればここで帰るところですが、少し気分が高まっていたのか、昔馴染みの六五呂という昔私が行き付けだった居酒屋へ立ち寄りました。10年ぶりだというのにママさんもお客さんの中の一人も、私の顔と名前を覚えてくれていて、昔話に花を咲かせました。過去は時として蘇ります。この店に足繁く通っていたころは、私が最も輝いて生きた時代だったため、多くの人と連れ立って立ち寄り、時にはカラオケを歌い、大いに飲みながら夢も語りました。もうあんな時代は望むべきもありませんが、私の良き思い出として心の中に、これからもずっとずっと終っておこうと思っています。昨晩はとても良い一夜でした。

  「県庁の 各課を回り ポケットの 名刺を配り 近況報告」

  「居酒屋の 開店誘われ 客となる いささかなりの 祝い届けて」

  「若い頃 青年の主張 選ばれた 少しのご縁 顔も名前も」

  「酒止めて とんとご無沙汰 居酒屋に 10年ぶりに 訪ねてあいさつ」

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〇マッチ箱のような列車が走る風景

 私が住んでいる双海町には、町の中心部に上灘川をまたぐように架かる長い鉄橋があります。市役所地域事務所裏の堰堤を含めると500メートルもあって、上灘保育園から潮風ふれあい公園へ通じる裏道から登る道から見える、町の中心部の光景はまさに絵になり、度々色々な資料の表紙に使われてきました。
 最近は車社会となり列車に乗る人も少なくなったため、本数も少なく行き交う列車も朝夕の通勤通学時を除けば全て一両のワンマン列車ですが、ゆえに海沿いを長閑に走るローカル線として、度々旅番組などでも紹介されているのです。

長い鉄橋を渡るマッチ箱のような一両の列車
長い鉄橋を渡るマッチ箱のような一両の列車

わが家がこの地に引っ越してから40年余が経ちましたが、引っ越した当時はまだ周囲に家の数が少なかったため、鉄橋を渡る列車が一望でき、そのころは内山線が開通していない頃だったので、予讃線の本線として特急宇和海も走っていました。ゆえに4両仕立ての長めの列車が夜走る姿は、まるで列車が空中を走っているようで、「銀河鉄道」と勝手に呼んで、私の家の私設公民館煙会所の窓から、居ながらにしてその様子を楽しみながらみんなでお酒を飲んでいました。「まるで銀河鉄道みたい」と評した愛媛県副知事だった松友孟さんも既に他界し、一緒にお酒を飲んだ面々も老域に達しているようですが、思い出は時として蘇り、出合う度に「あの光景が忘れられない」と話すのです。

長いJR鉄橋
町の中心に架かる長いJR鉄橋

昨日の夕方、家の裏庭に登って蜜蜂の巣箱の手入れをしていると、ガタゴトと音を立てて鉄橋を渡る、一両の上り列車が目に留まりました。思わず持っていたデジカメで一枚撮りましたが、アップにすることができず、列車の姿は余り捉えることはできませんでした。多分あの列車は17時43分上灘駅発の松山行き上り各駅停車の普通列車だと思われます。
 そういえば列車にも随分乗っていないようで、列車の存在すらすっかり忘れていました。今夜松山へ出る機会がありますが、県庁やあちらこちらへ立ち寄る所用があるため、自家用車で行かねばなりません。それでも私はまだ講演などで遠出する時は、列車に乗ることが多いようですが、近所の人などはもう10年間も列車に乗っていないと言っていました。「暇ができたら列車に乗って駅弁を食べながら旅をしたい」とは、妻のささやかな夢です。下灘駅や上灘駅は今までも今も、これからも私にとって始、発駅であると同時に終着駅でもあるのです。

  「裏庭で ふと見返ると 鉄橋を 列車が一両 長閑に走る」

  「四十年 前は四両 特急が 銀河鉄道 髣髴するよう」

  「マッチ箱 形容するよな 一両の 列車長閑に 海沿い走る」

  「わが町の 駅は私の 始発駅 これから先も 終着駅かも」

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〇妻の心配

 幾つになっても心配の種は尽きぬものだとしみじみ思います。結婚して子どもが産まれそうになると、「元気な子どもを産んで欲しい」と思うし、学校に入学すると「早く走れて勉強ができて」と、また学校を卒業するといい会社に」なんてその都度その都度、まるでいつ果てるとも知れないハードル競争のような、子育ての悩みを持って生き続けているのです。
 子どもがそれなりに成長すると、今度は子どもの結婚について考えます。結婚には社会通念として適齢期のようなものがありますが、私たち夫婦が結婚したのは私が26歳の時でした。ゆえにそのことを基準として妻は考えているようです。

 晩婚化や一生独身の傾向が著しい時代だとは言いながら、やはり動物は子孫を残さなければ持続可能な社会はできないので、妻は絶えずそのことを口にします。娘が始めて結婚した時の嬉しさは口では言えないほどの嬉しさでしたし、跡取り長男の結婚もそれに変わらぬ嬉しさでしたが、近頃になって適齢期を過ぎようとしている次男と三男のことが気になって、妻は知人友人に縁談を頼んでいるようですが、当の本人たちはまるで人事のようにわれ関せずを貫いて、妻の苛立ちをより深刻にしているようです。私も気にならない訳ではありませんが、妻ほど深刻に考えず行動しないため、そのことも妻の機嫌を損ねる原因になって、時々口喧嘩もしています。

 さて次男と三男の相手となる女性はどこに住み、どんな暮らしをしているのでしょう。そんな折の昨年末、次男に縁談の話が持ち上がりました。まだブログで公表するようなところまでは行っていませんが、私が始めての見合いで結婚を決意した26歳の時から比べれば10歳も遅いデビューです。願わくばいい方向に向かい今年の秋ごろにゴールインして欲しいと、妻も私も淡い期待を抱いていますが、どうなることやらです。
 私たち夫婦には息子二人の結婚問題に加え、新たな悩み生まれています。それは95歳になった親父のことです。つい最近急速に体力と気力、記憶が衰え始め、日々の暮らしがおぼつかなくなりつつあることです。今のところ私たち夫婦の健康状態はいいものの、そろそろ体の異常が出ても可笑しくない年齢になってきました。親父の老いの悩みは解決することはなく、むしろ深刻になる傾向にあるので、妻の悩みはもし次男の縁談がいい方向に進んでも、まだまだ解決することはないようです。

  「わが息子 一人良縁 兆しあり 妻の悩みは まだまだ先も」

  「結婚が 全てじゃないと 思うけど 親の願いは そちらに向いて」 

  「また一つ 峠の向うに 峠あり 多分死ぬまで 峠は続く」

  「いい人に 巡り合わせて やりたいと 思うが思う 通りに行かぬ」

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〇すっかり男前になりました

 このところ火急の用もなく、ハレの場所へ出かけることもなかったのか、普段は1ヶ月に一度行くはずの散髪を、することをすっかり忘れていました。歳をとると身だしなみに無頓着になるのはどうやら本当のようで、妻から「お父さん、髪が伸びたようだから散髪に行ったら・・・。歳をとると余計身だしなみをきちんとしないと、人に嫌われるよ!!」ときつく言われてしまいました。「わしも忙しいんじゃ」「どこへも行かんのだからまだかまわん」「消費税が3%上がったんだから少し勘弁しようと思って」などなど、意味不明な小理屈を並べて抵抗していましたが、毎朝鏡を見たり、風呂に入る度に妻から指摘を受けるので、お節句だというのに一昨日近所の理髪店に行きました。

2014年4月4日の散発を終えた男前の自画像
2014年4月4日の散発を終えた男前の自画像

 「今回は少し伸びましたね!!」と、理髪店のご主人と奥さんにさりげなく散髪が遅れたことを指摘されましたが、それもそのはず今回は2ヶ月も髪が伸びたままになっていたようです。私の頭はまるで丸刈りのような髪形です。3つある椅子の真ん中に座り、まず髪を濡れタオルで拭いてからバリカンで襟足を刈り上げます。その後は頭の側面や天辺をクシと鋏で刈り上げて行くのです。鏡に写る時計でおおよその時間を毎回見ていますが、刈り上げるのに25分、髭剃りに25分、合計50分が過ぎると、さっきとは打って変わった男前の私が出来上がるのです。費用は3400円です。最近は千円散髪の理髪店が市内のあちこちにできて、そちらの方へ客足が流れているようですが、私としては少々高いと思いつつ、馴染みの理髪店を変えるつもりはなく、これからも死ぬまでこの理髪店に通うつもりです。

 それにしても3400円×12ヶ月=40800円は、年金暮らしの私には少々高い出費です。いっそのことバリカンを買って妻にやってもらおうかと思ったこともありましたが、人前で話すことの多い身だしなみを大事にしなければならない商売柄それもできず、結局は諦めています。
 散髪をして自宅に帰ると妻が、「まあ男前になって、惚れ直したわ」と歯の浮くようなお世辞を言ってくれました。その気になってこの顔で、鏡に写った自分の顔を「まんざらでもないな」と思う私は、「誉めれば豚も木に登る」大馬鹿者です。私は最近デジカメ自画像をやっていて、1年に数回自動シャッターを操作して、自分の顔写真を撮っています。もう4~5年になりますが、たった4~5年でも自分の姿が、少しずつ老いの方向に向かっていることを感じます。多分昨日撮った自分の顔写真がこれからでは一番若い頃の写真となるはずです。自分の顔に自信を持ってこれからも、時々撮り続けようと思っています、「よう、男前!!」

  「二ヶ月も 散髪せずに 髪伸ばす 何ぼの勘弁 電卓計算」

  「巷には 千円一枚 理髪店 私は三倍 出すのですから」

  「散髪を 終えた私の 姿見て 誉めてくれるは 妻ばかりなり」

  「一年に 四万円も 金を出す 年金暮らし かなりの出費」 

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〇昨日の夕日は抜群でした

 慣れてきたからでしょうか、私の身の回りには、夕日の話をする人が最近めっきり減ったような気がします。夕日に思いを寄せてきた私としては、折角夕日の町として情報を発信してきただけに、少し残念な気もしますが、まあそれも時の流れだと思いながら、また少し夕日にまつわる様々な仕掛けをしようと思っています。その際たるものは何と言っても、自分自身が夕日を見る機会を多くし、スキルをアップしなければなりません。

昨日の夕景
昨日の夕景

その手始めに昨日は久しぶりに急な思いつきで、夕方5時過ぎに西の端に傾いた夕日に染まった本尊山の姿にハッと気付かされ、単車を走らせて夕日のメッカふたみシーサイド公園へ一人出かけました。この時期の夕日は北西の沖合いに浮かぶ台形をした八島辺りに沈みます。八島の台形に丸い夕日が乗るような姿も一興でした。シーサイド公園の恋人岬辺りではウエディングドレスとタキシードの若いカップルが、寒い北東の風が吹く中、結婚写真の前撮りをしていました。朝からの大風で漂流ごみが少し流れ着いて美観を損ねていて少し心が痛みました。

モニュメントの上に
モニュメントの上に

 この時期の夕日は何といっても、恋人岬のモニュメントの穴にスッポリ入る夕日が見えることです。本当は春分の日が一番ベストなのですが、今でも砂浜からは十分この天体ショーがを見ることができるのです。昨日も何人かのカメラマンが美しい夕日を、様々な角度から狙っていたようですが、知ってか知らずでかラッキーポイントで狙ったのは私一人でした。
 昨日は北東のかなり強い風が吹き、海もかなり荒れていましたが、その分空気が澄み切っていたのか、綺麗な夕日が見えました。モニュメントの上に夕日を置いたり、穴の中に入れたり、横に配置して、何枚かの写真をゲットすることができました。 幸い私はブログとFace Bookという情報発信手段を持っています。ブログの愛読者やFece Bookの仲間にこれからも折に触れ、夕日を自慢しようと思っています。残念ながらブログもface Bookも地元に住んでいる人には伝わりにくい恨みがあります。何よりも大事なことは地域の人がこの美しい夕日を見て感動することです。観光の原点はまず内なる自分、次に地域、そして外なる人であることを認識しなければなりません。
 さあ、また新しい挑戦を始めましょうか!!。

 

 

 

 

  「そういえば 最近夕日 話題にも のぼらなくなり 少し心配」

  「本尊の 山が真っ赤に なるを見て 一目散に 単車走らせ」

  「わあ綺麗 これこそ日本 一だなと 自分自身で 納得しつつ」

  「結婚の 前撮り若い カップルを 優しく包む 夕日暖か」

モニュメントの穴の中に
モニュメントの穴の中に

 

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人間牧場

〇平凡道を非凡に歩め

 青年団に入って活動していた私が若い頃、ある博学な人から「平凡道を非凡に歩め」という言葉を聞きました。当時は平凡や非凡がどういうことも分らぬ凡人だった(実はその後も進展がなく今でも凡人)ため、さして気にも留めず平凡道を歩いて来ました。その博学な人は既にもう亡くなってこの世にはいませんが、あの時「平凡道を非凡に歩め」という言葉を上の句とするなら、まるで下の句のような「そのためには小さなことをコツコツ続けること」という、注釈的言葉を言っていたことが頭の隅ににこびりついていました。

 私のような平凡な人間は、」大きなことを夢見てもできません。でも小さなことだったらできる気がするのです。私は誰でもできるシーサイド公園の海岸の掃除を朝5時から8時まで3時間やりました。これは平凡な行いです。でもそれを休まず1年間、そして12年間やり続けました。こんな田舎町に10億円も投資して、道の駅を造ったところで人など来るものか、赤字になったら誰が責任を取るのかと、当時は非難ごうごうでした。歯向かえば歯向かうほど向かい風は強くなる一方での毎日の掃除は、売名だとも揶揄されましたが、私のひた向きな掃除を続ける姿が、いつしか向かい風を追い風にして雪解けとなり、多くの共感・共鳴を得たのです。

 人は得てして大きな夢を見るものです。一攫千金の大きな夢を叶えた人も中にはいますし、生まれつき非凡な人はそんな努力をしなくても、王道を歩める人もいます。私たちはスポットライトを浴びなくても、分相応のささやかな営みを毎日の暮らしの中で繰り返して行くなら、人から見れば平凡でも、自分にとっては満足の行く非凡な道となるのです。
 物心が付いて社会人となった18歳の時から半世紀50年が経ちました。私の人生は青年の時博学な人から聞いた、「小さなことをコツコツ続ける」という言葉を信じて実践したお陰で、少しだけ非凡に歩めたようだと、述懐するのです。

  「青年の 頃博学な 人に聞く 小さなことを コツコツ続けと」

  「平凡な 私ながらも 少しだが 非凡に歩め 少し満足」

  「王道を 歩めるすべは ないけれど これから先も 教え守りて」

  「平凡が 一番いいと 近頃は 背伸びをせずに わが道コツコツ」

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〇送られてきた蜜蝋

 昨日私の蜜蜂の師匠である西予市野村町釜川に住む井上登さんから、郵便小包で蜜蝋が送られてきました。井上さんとはえひめ地域政策研究センターの主宰する、地域づくり人養成講座で知り合い、蜜蜂を飼いたいという思いもあって急速にご縁が深くなり、井上さんの指導を受けて蜜蜂を飼い始めました。養蜂はやればやるほどが深く、私の浅はかな腕ではどうすることもできませんでしたが、井上さんの微細な手助けもあって、5年5升の目標をものの見事にクリアーして、大豊作だった昨年は20升という、私にしては凄い金字塔を打ち立てました。それもこれも井上さんの骨折りに負うところが多く、5年経って6年目になろうというのに、未だその域に立たず右往左往しているのです。

井上さんから送られてきた蜜蝋
井上さんから送られてきた蜜蝋

 先日巣箱の掃除をしたことをブログにかいたところ、井上さんが私のブログを読んでいて、蜜蝋を塗ることや、やがて井上さんの自宅で咲く日本ラン・キンリョウヘンのおすそ分けなどについて、ご指導がてらのメールが届きました。桜が咲き始めるこの時期には巣箱の掃除と蜜蝋を塗る作業がありますが、あいにく蜜蝋を持ち合わせていないと、メールで相談したところ、昨日井上さんから蜜蝋が2個送られてきたのです。
 家の裏に設置した巣箱の様子を覗えば、そろそろ分蜂の季節なので、今日にでも蜜蝋を塗ってバーナで溶かして定着させようと思っています。これまで5年間蜜蝋塗りの作業は、井上さんが直接やって来てやってくれましたが、今年は自分でやろうと心に決めているのです。

 蜜蝋は蜂蜜を採った後の蜂の巣をある一定温度のお湯のの中に入れると、分離してできる蝋分です。蜜蝋は家の床を磨くのに蜜蝋ワックスとして使うことは比較的知られていますが、巣箱に塗った蜜蝋が蜜蜂を誘引するのだそうです。
 ある養蜂家の話によるとミツバチは、桜が満開になってから2週間後くらいが、分蜂の目安のようです。そういえばこれまで私の家の巣箱に入居した時期も、4月下旬から5月いっぱいのようです。これから当分の間は毎朝裏に設置した巣箱を、見に行くのが楽しみな時期です。さあ今日は井上さんから送られてきた蜜蝋とバーナを持って、これから人間牧場へ作業に出かけようと思っています。今日は夕方から雨模様なので急がねば・・・・・。

  「蜜蜂を 飼い始めて 早5年 師匠の教え 忠実守り」

  「小包で 送られてきた 蜜蝋を 今年は一人 手助けもなく」

  「これからは 巣箱見回り 楽しみな 日々が続くが 落胆もあり」

  「蜜蜂を 飼いたいという 人ありて 5年も前の 昔懐かし」

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人間牧場

〇私はわらしべ長者かも?

 むかしむかし、ある所に正直者ですが運の悪い男が住んでいました。朝から晩まで働けど働けど貧乏で、運がありませんでした。
 ある日のことです。男は最後の手段として、飲まず食わずで観音様にお祈りしました。すると夕方暗くなった時、観音様が目の前に現れ、こう言いました。「あなたはこの寺を出る時転がって何かをつかみます。それを持って西に行きなさい」。男はお寺を出ようとした時転んで何かをつかみました。それは一本のわらでした。何の役にも立たないと思いましたが、男はわらを持って西に歩いて行きました。アブが飛んできました。男はアブを捕まえるとわらの先に縛りつけて歩きました。

 町にやって来ると赤ん坊がわらの先のアブを見て泣き止みました。嬉しそうな赤ん坊を見て男は、わらを赤ん坊にやりました。代わりに赤ん坊のお母さんからミカンを3つ貰いました。しばらく行くと娘さんが道端で苦しんでいました。水を欲しがっていたので男はミカンをあげました。娘さんはよくなりお礼に綺麗な絹布を貰いました。しばらく行くと侍と元気のない馬に出会いました。美しい絹布を見て侍は馬と交換して欲しいと頼みました。男は夜通し交換した元気のない馬の面倒を見たお陰で、朝には元気になりました。
 馬を連れて西の城下町にやって来ると、長者さんがその馬を見てたいそう気に入りました。男は長者さんの家に招かれました。娘さんが長者さんと男にお茶を持ってきました。何とその娘さんは、男がミカンをあげた娘さんでした。長者さんは不思議な縁と男の優しさに心打たれ、娘を男の元へ嫁がせることにしました。男は観音様に言われたとおり、わら一本で長者になりました。男は生涯わら一本も粗末にしませんでした。村人はその男のことをいつの間にか「わらしべ長者」と言うようになりました。めでたしめでたし。

いただいた沢山のシイタケ
いただいた沢山のシイタケ

 この男のような正直者でも運が左程悪くもない私ですが、昨日は二つの良いことがありました。大潮を利用して前日磯で採ったワカメを、親類縁者にお裾分けして上げました。一人は伊予市内に住む水口マリ子さんに、軽四トラックに積んで行き、木のトロ箱に山盛り差し上げると、お礼にとキャベツとブロッコリー、それにトマトの苗を沢山いただきました。ワカメが野菜苗に変わりました。また大洲市田処の亀本さんに連絡したところ、私の大好物である山崎の豆腐と沢山のシイタケを持って来てくれ、ワカメを発泡スチロールのトロ箱に山盛り二つ差し上げました。ワカメが豆腐やワカメに変わりました。

乾燥カットシイタケ作り
乾燥カットシイタケ作り

 昨日は早速畑に出て冬野菜の残菜を抜き取り、いただいた苗物を植える畑こしらえをしました。また大量に頂いた少し開き気味のシイタケを、茎を取って包丁でスライスして、サナの上に並べ、カット乾燥シイタケを作りました。勿論夜には妻が山崎の豆腐でマーボ豆腐を作ってくれ、シイタケは付け焼きにして、ワカメのメカブとともに美味しくいただきました。いやはや私もわらしべ長者ならぬワカメ男となって、大いにハッピーな一日でした。世の中は捨てる神もありますが拾う神もあるものです。人を思う気持ちがあれば、出会いが広がり縁も深くなり、行き着くところ運が転がり込むのです。昨日も私にとっては、めでたしめでたしの一日でした。

  「一本の わらが次々 幸運を 最後は長者 私もあやかる」

  「磯遊び 採ったワカメを 差し上げる あれやこれやに 変身いただく」

  「昨晩は ワカメお礼に いただいた 豆腐シイタケ ふんだん至福」

  「シイタケを スライス干して 保存食 自給高まり またまた嬉し」 

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人間牧場

〇最高に美味しいワカメのメカブ丼

 春は冬の名残の大根や白菜、高菜、ホーレンソウなどの野菜と、グリーンボールのような柔らかい春キャベツが家庭菜園から採れるため、ふんだんに野菜を食べて、体調もすこぶる順調で今のところ不調な場所は見つからず、日々を健康に暮らしています。と同時に磯遊びで収穫したヒジキとワカメも同時に食卓に並び、美味しい春を実感しています。
 3日前町内のある人から、ワカメのメカブが欲しいと連絡が入りました。「何で私に?」と思いましたが、どうやら私なら八方手を尽くして手に入れてくれるものと錯覚したようでした。連絡が入ったその日は、あいにく海が小潮だったので、磯に出てもワカメを採ることができませんでした。仕方なく海岸に出て時化る度に海岸に打ち上がるワカメを、5~6株拾い集め海水で綺麗に洗って手渡そうとしました。

 その足でシーサイドのじゃこ天のお店に立ち寄ると、漁協女性部の松本さんと坂本さんが裏の加工場でワカメを湯がいている最中でした。聞けば漁業後継者が海に潜って採ったもののようでした。そこで湯がいたワカメとメカブも頂き、ある人のリクエストに無事お応えすることができました。その夜わが家でも妻がメカブを使って、メカブ丼なるものを作ってくれました。幸い義弟からもらって冷凍保存しているアナゴがあったので、メカブと穴子のコラボ丼となりました。
 まずワカメのメカブを湯通ししてまな板の上で、包丁で細かく刻みネギと鰹節と少しの醤油で味付けします。アナゴはフライパンで蒲焼風に煮付け、少し大目のタレも一緒に作ります。

 日ごろ使っている夫婦揃いの少し小さめの丼に熱々のご飯をよそい、その上に穴子、更にその上に刻みメカブを乗せて、真ん中にくぼみを作り、産みたて卵を一個入れて、穴子の出し汁をかけると出来上がりです。卵の白身と黄味が熱いご飯で程好く蒸れて、いやはや何ともいえない美味しい丼です。勿論漁協女性部からいただいたつみれと豆腐、それにワカメを入れた味噌汁に、自家製白菜の漬物が付くのですからこれはもう最高です。
 メカブは細かく刻むとまるで納豆のようにネバネバが糸を引いて、独特の食べ物に変身します。多分体にいい旨味成分が入っているだろうと信じて食べるため、食べ終わるとどこか元気が沸いてくるような気分になるから不思議です。昨日は大潮だったので磯に出て、少しワカメを採ってみんなにお裾分けしたので、こに時期にしかできないネカブ丼を、妻に頼んで今日も作ってもらおうと思っています。幸せ幸せです。

  「ネカブ丼 わが家開発 穴子入れ これは最高 味噌汁添えて」

  「このところ 春を実感 するような 海山幸が 食卓並ぶ」

  「さあ今日も 採ったワカメを 茹でて干す 自給高まり 暮らしも豊か」

  「消費税 3%も 上がるゆえ 自給防戦 暮らしは知恵だ」

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