人間牧場

〇わが家の思わぬハプニング

 昨日の朝、わが家ではちょっとしたハプニングが起こりました。昨日は毎週一回のプラスチックごみの収集日でした。妻は朝ご飯を作りながらプラスチックごみを集めてゴミ袋に入れ、10メートル以上離れた県道沿いの収集場所にゴミ袋を持っていった帰り道、スリッパの先が少し段差のある道に引っかかって転倒したようです。スネと手の平を怪我し、リバテープで応急処置をしたものの所々血が滲んで、見るも無残な痛々しい姿になっていましたが、仕事があるので痛みを堪えて自転車で500メートル向うの職場へ出かけたようです。

 私は昨日の午前中、前日の草刈りの後片付けやコンニャク畑の草引き作業が残っているため、人間牧場へ出かけて作業に汗を流しました。弁当も持っていないし、携帯電話で講演依頼があったものですから、その確認もあって12時過ぎにわが家へ帰りました。
 家の居間には昼食に帰った妻がいましたが、どうも様子がおかしいのです。聞けば自転車に乗って職場まで出かけて、自転車を降りた瞬間スネに激痛が走ったようで、仕事を続行するのが困難と判断し、勤務先である歯科医院の若先生が自宅まで運んでくれたそうでした。

 早速着替えて近くの病院へ行こうとしましたが、私の介助がないと歩けないため、玄関先に車を回しやっとの思いで車に乗せ、たけます医院へ運び車椅子を借りて診察室へ入りました。12時30分だったので午前中の診察に何とか間に合い、診察をしてもらいましたが、レントゲンの結果骨に異常はないものの、打撲衝撃で内出血してかなりの溜まった血を、注射器で取り出したようでした。肉離れと診断されたようで診察室から出てきた妻は松葉杖をついて、少し歩けるようになっていました。

 近くの薬局で薬を貰い、自宅へ帰ったものの動くこともできず、私が用意した椅子に座らせ、布団を敷いて寝かせました。事の重大さに疲れたのか昼食も食べず妻は眠っていたようでしたが、トイレに行くのも一苦労のようで、はてさてこれからどうしようと内心困ってしまいました。
 とりあえず夕方仕事先から帰った若嫁が、私たちの夕食と親父の夕食を作ってくれました。私も何かをしなければならないのでしょうが、日ごろ何もしない私にはなすすべもなく、結局松葉杖をついた妻の指導で、冷蔵庫から鱧の骨切りしているパレットを取り出し、小切りにしてフライパンで鱧の付け焼きをすることにしたものの、容量が分からず妻の言うままに醤油や砂糖を入れ、言うがままに付け焼きをしました。

 少し時間が早かったものの、食事の準備できたので、二人で若嫁の作ってくれた煮物や焼き飯に鱧の付け焼きを加えて、美味しく夕食を食べました。降って湧いた妻の怪我で、わが家の暮らしの歯車は大幅に狂ってしまい、私はただ右往左往するばかりでした。若し妻が倒れて私が介護する身になったらどうしようと、正直なところ思いました。家庭では文句ばかり言いながら、自立できていない自分を情けなく思いましたが、「これを機会にあなたも自立してね」と憎たらしくも正直な言葉を妻に言われ、少しだけ考えさせられた一日でした。妻の怪我が早く全快することを祈っています。

  「ゴミ出しで スッテンコロリン 妻転ぶ スネに怪我して 立ち上がれもせず」

  「病院で 手当て受けたが 松葉杖 頭かすめる 寝たきりの妻」

  「妻の怪我 私は動転 何もせず 右往左往と 言われるままに」

  「松葉杖 ついてトイレへ 行く妻の 不自由見つつ 同じ布団で」

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人間牧場

〇人間牧場での修行

 修行は、仏教における精神の鍛錬を意味する用語です。財産や名誉、性欲といった人間的な欲望(相対的幸福)から開放され、生きていること自体に満足感を得られる状態(絶対的幸福)を追求することをいいます。人間牧場は財産や名誉・性欲から開放された人間的平等社会をうたっているのであるなら、ある意味人間牧場での様々な活動は何の報酬もないので修行だとも思えるのです。
 数年前人間牧場を造った時、その構想を新聞で見た浜田久男さんが人間牧場建設現場を訪れ、「人間牧場で修行したい」と仰々しい申し込み書面を持ってやって来ました。7年も前の出来事ですが、私は今でもそのことをはっきり覚えているのです。人間牧場の建設だけに目と心が向いていた私にとって、この一枚の書面は「何のために人間牧場を造るのか」といった、目的(基本コンセプト)を考えさせられる、ある意味大きな衝撃でした。人間牧場へやって来る人はどうであれ、少なくとも自分にとって人間牧場は「人間修行の場所」でなければならないと思ったのです。

小豆色のススキの穂ばらみ

 私は修行の基本を「求心力」に置こうと思いました。自分の外面より心の内面を研くことです。内面を研くには座禅がありますが、私はむしろ静的な座禅手法より額に汗して働く動的な実践を重んじ、汗の代償として何かを学ぶのです。手っ取り早いのは「掃除」です。かつて松下幸之助さんから学んだ「掃除もできない人間は大口を叩くな」という言葉に心を動かされて、これまでにも掃除修行をやって来ました。今では語り草となってしまった、シーサイド公園での毎朝3時間の掃除を役場を退職するまでの12年間、やり続けることができたのも、修行だと思ってやったから出来たことなのです。
 私は浜田さんの修行入門を認め、以来たった二人だけの修行を今も続けているのです。浜田さんは一年に三~四回人間牧場へ修行と称し一人でやって来ます。そして私と二人で水平線の家の掃除をしっかりするのです。昨日は「時間が空いたから」と午前11時頃にやって来ました。私は今年最後の草刈りの最中だったので、とりあえず水平線の家の部屋内の荷物を浜田さんと二人で全部ウッドデッキに出して、部屋を空にしただけで草刈りに専念しました。

一人黙々と掃除をする浜田さん

 浜田さんは空になった部屋を箒で丹念に掃き、掃除機で埃を吸い込ませてから、板間にワックスを刷毛で塗って行くのです。普通は私と二人で分担するワックスかけを一人でするのですから、涼しくなったこの時期とはいえ、額に汗を滲ませて文字どおり孤軍奮闘でした。
 草刈機のエンジン音にかき消されて、昼の音楽サイレンも聞き取れないほどでしたが、ひとまず12時を過ぎたので、エンジンを止めて草刈り作業を中断しました。ウッドデッキに上がってみると、ワックスかけは終わりに近づいていました。その後私が持参していた妻手作りの握り飯弁当を二人で分け合って食べながら色々な話をし、浜田さんは何事もなかったように人間牧場を去って行きました。
 私の修行は、刈っても刈っても直ぐに伸びる草刈り作業です。今年も黙々と草を何回刈ったことでしょう。先日は草を刈ったばかりの人間牧場への進入路を、10メートル以上にわたってイノシシに荒され、車も通れないほどになりましたが、これも天が与えた修行だと思えば、汗をかくことの意味があるとばかりに、黙々と取り除きすっかり綺麗になりました。浜田さんと私だけしか知らない修行はこれからも続きそうです。

  「修行だと 思う草刈り 秋迎え 一段落と 一息つきぬ」

  「小豆色 ススキ穂ばらみ 秋迎え 季節の移ろい 感じながらも」

  「七年も 続いて掃除 する二人 いい汗かいて 人を迎える」

  「北東の 風吹く秋の 一日を 人間牧場 こまごま動く」  

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人間牧場

〇手作りのポストカード

 私は「毎日3枚ハガキを書いたら人生が楽しくなる」という言葉を信じて、毎日ハガキを3枚書いていますが、忙しい時には表書きはさて置き、裏に書く文章にそれほど詳しく書く暇がないので、手持ちのプリンターで、パソコンに入っている写真の中から適当に見繕って、写真入のポストカードを使ってごまかしています。こうすればポストカードの半分を写真で埋めれて、書きスペースが大幅に減り、ハガキを書く時間が短縮できるのです。最初はそんなよこしまな考えで始めた、写真入りのポストカード作りでしたが、最近はこれが馴染んで結構楽しんで使っているのです。

 昨日は夕方食事が終って、ノルマのブログを一本書き終った後、9月の記事をプリントアウトして一冊の綴りを作りました。プリンターから出てくる9月に書いた記事を見ながら、一ヶ月があっという間に過ぎて行く時の流れの早さに、内心驚きながら少しの間時を過ごしましたが、さて手持ちの官製ハガキに、とりあえず夕日の写真を挿入してプリントしようと思い、パソコンの中身を検索したところ、面白い写真を見つけました。多分何処かへ講演で出かけた折見つけたものを、デジカメで撮影したものと思われますが、知人友人に出すハガキくらいならいいだろうと勝手に思い、早速ポストカードを20枚ほど作り、この1週間に出会った人に、何と20枚もハガキを書いてしまったのです。

 「お父さん、疲れているのだから早く寝ないと」と妻から注意を受けましたが、気がつけば20枚のハガキを書き終わった頃には、12時を過ぎて今日になっていました。「1日三枚」を日課にしている私ですが、久々に「一日20枚」のハガキを書いてしまいました。故に昨日は朝書いて投函した3枚を加えると、23枚も書いた計算になるのです。三枚で幸せになるのなら、23枚では大々的な幸せだと勝手に思い込んでしまいました。さて昨日選んでポストカードにしたお目当ての夕日の写真は、珍しい飛行機と夕日の組み合わせでした。

夕日を抱えた飛行機

 私は夕日に魅せられた、いわば夕日の気違いとでも言うべき人間で、これまで沢山の夕日の写真を撮ってきましたが、その殆んどはデジカメで簡易にブログ用に撮影したもので、画質も画素数もそんなに良いものではありません。ゆえに引き伸ばすこともできませんが、まあブログとポストカードくらいなら何とか活用できるのです。昨日作ったポストカードの夕日は掲示された印刷物を、デジカメで撮っているので醜いのですが、まるでメダカが卵を抱えて産み落とす時と同じように、飛行機が夕日を腹に抱えて飛んでいるいる、一瞬のシャッターチャンスなのです。こんな写真は余程の技術とチャンスがないと撮れないのです。いやあ凄い写真です。

  「PCの 中に内臓 した写真 ポストカードに プリントアウト」

  「絵葉書を 作る楽しみ 見つけたり 省エネタイプ 文字半分で」

  「二十枚 ハガキ書いたら 幸せが もっと増えたと 一人喜ぶ」

  「ああ今日も 幸せでした 感謝して ハガキ三枚 ノルマ達成」

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人間牧場

〇松山地方の秋祭り

 10月に入ると県内のあちこちで、五穀豊穣と家内安全を願った秋祭りが行なわれるようになってきました。東予地方新居浜の太鼓台や西条のだんじり、南予地方の牛鬼や五鹿踊りなどのような大掛かりで有名な祭とは違って、私たちの住む中予では、神輿と獅子舞くらいしかない比較的地味な祭りですが、それでも松山の喧嘩神輿や、神輿を海に投げ込む北条の祭りなど、それなりに祭りは盛り上がっているようです。
 県下のトップを切って昨日まで松山では秋祭りが行なわれていました。昔は神輿を担ぐのは男性ばかりで、女人禁制のようでしたが、今は威勢のいいお姉ちゃんが蓮を作って女神輿を担ぐ、勇ましい姿も見られるようです。しかし概して田舎では、祭りが平日では担ぎ手が集まらないため、祭りの日を土日にするなど対応はしているものの、右肩下がりのようです。

孫尚樹

 

神輿を担ぐ園児たち

 祭りに一役買うのが地元の保育園や幼稚園の園児で、可愛らしい子どもが豆絞りの祭りと書いた鉢巻を締め、ワッショイワッショイと掛け声を合わせて、町内を練り歩く姿は何ともほほえましいもので、子どもたちも祭りの盛り上げに一役買っているのです。
 4日前松山に住む娘から、「孫の尚樹が神輿を担ぐのだけど、平日なので私もも主人も仕事で見に行くことができないので見に行って欲しい」旨の電話が入りました。あいにく妻もこの日は仕事で、私も夕方から遠出の出張が予定されていましたが、午前中だというので私がその役割を引き受けました。
 孫は松山の飲み屋街のど真ん中にある、愛媛幼稚園に通っています。わが家から車を走らせても40分はかかります。幼稚園近くの有料駐車場に車を止め、歩いて幼稚園へ行きました。兄の朋樹が同じ幼稚園だったので、先生たちも私の顔を覚えてくれていて、不審者と間違われずに園内に入れてもらいました。

大街道一番町口付近での記念写真

 やがて10時30分になると園児たちが、鉢巻をして教室から出てきました。かなりの人数なので同じような背丈の同じような格好をした園児の中から、目当ての孫の姿を探すのは大変ですが、孫尚樹も私が行くことを知っているので、早速目と目が合いお互いが手を挙げてあいさつが出来ました。近くの大街道まで歩道を歩き、歩行者天国の大街道で、既に運ばれていた神輿に、順番で群がりひと班10メートルほどをリレーするような形で練り歩きましたが、写真が撮りづらいほど人が群がって、私も一緒に歩きました。
 年中組の孫尚樹は意外とクールな姿で神輿を担いでいたようでした。私は娘に頼まれていたのでその一部始終をデジカメに治めましたが、そのデジカメを持ったまま、少し長めの旅に出たので、すっかりそのことを忘れていました。昨晩妻がその写真を見たいというので、デジカメを取り出し見せてやりました。老眼に虫眼鏡という何とも可笑しな格好で、デジカメ写真を見る妻の姿に、思わず吹き出してしまいました。今日あたり写真をプリントアウトして娘の元へ送ってやりたいと思っています。
 私たちの町の地方祭は今月22日・23日の両日に行なわれる予定です。

  「幼稚園 祭り鉢巻 凛々しいが 同じ格好 誰が誰だか?」

  「手を挙げて 私の存在 確認し 孫はほほ笑み 私も笑顔」

  「お神輿に 父兄集団 ゾロゾロと デジカメ・ビデオ まるでスターだ」

  「注連縄と 幟はためく 商店街 歩行者天国 練り歩きつつ」 

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人間牧場

〇滋賀県米原へ講演に出かけました(その1)

 「私を知っている人が日本全国にはどの位いるのだろうか?」と思いつつ、老いのわが身も省みず知人友人からのお誘いの言葉を真に受けて、昨日は滋賀県米原市まで出かけました。何がきっかけでこのまちと出会ったのだろうと、比較的長い道中の間、歳とともに薄れ行く記憶の彼方を必死に探すものの、結局探し当てることは出来ませんでしたが、会場に来てくれた澄子さんとの思い出話で、やっとその疑問の館から抜け出すことが出来ました。
 聞けば澄子さんこと澄ちゃんと出会ったのは、私が双海町役場で地域振興課長をしていた頃、福井県鯖江市で開かれた地域づくり全国大会だったそうです。私と同僚の二人で優秀地域づくり活動団体にノミネートされ、発表で順位を競うという大会に参加していました。学習院大学大学院教授の伊藤滋先生が審査委員長、審査委員にはNHKの山根基世アナウンサー等、そうそうたる人が名を連ねて壇上に居並び、私たちはその前で8団体の一つとして発表をしました。審査の結果は国土庁長官賞、全国地域づくり団体実行委員長賞という最高賞を受賞し大いに気を吐いたのでした。

 その日の夜のレセプションでは私たちの前に長い行列が出来、持参した名刺が一夜で300枚も売り切れたのです。私は多い時は一ヶ月600枚もの名刺を使っていましたが、自分の人生の中で一日の名刺使用量の最高を記録したのです。その時澄ちゃんも300枚の中の1枚を名刺交換したようで、私は澄ちゃんの名刺を見て、「役場のまちづくり担当者になったからまちづくりの仕事をするのだったら、できるだけ早く止めなさい。まちづくりは地域住民である限り一生の仕事にするような気概を持ってください」と言ったそうです。澄ちゃんはそのことをしっかりと覚えていて、役所を辞めた今もルッチ大学の卒業生たちが組織した団体の代表として、指定管理者となってまちづくりに貢献しているのです。
 米原と合併した旧山東町のルッチ大学にはそのことがご縁で、以後何度か招かれ、ルッチ大学の修学旅行先にわが町を選んでもらったこともあって、ルッチ大学生を沢山知っているのです。

駅前壁面を飾る東日本大震災と親子

 

元町長さんと澄ちゃん

 米原駅に1時間ばかり早く着いたので、生涯学習課の担当である長野温子さんに電話を入れ、改札口を出た所で迎えの車を待っていました。正面の壁面に東日本大震災の現場で「親子」というテーマで写真を撮り続けている写真家ブルース・オズボーンという人の写真展が開かれている写真が目に留まりました。陸に打ち上げられた船や漁具、瓦礫の中で親子が写っていました。真ん中には米原市長さんのメッセージがあったので、一通り読ませてもらい、直ぐに紙の裏に走り書きで書き写しました。
 「日本百名山の一つ息吹山を有し、国内最大の湖・琵琶湖の一大水源である「水源の里まいばら」は多くの生き物や農作物を育む水や空気のふるさとであると同時に、「この繁栄した現在に生きる人々の心のふるさとでもあります。しかし、同じように日本の繁栄を支えてきた東北の多くのまちでは、東日本大震災によって大きな被害を受けました。被災地では今も多くの方々が力を合わせ、逆境に耐え、様々な苦悩と懸命に闘っておられます。
 水源の里の理念は、上流と下流の支えあいの中で活動を行い、過疎化、高齢化により地域の活力が低下している集落の、持続的発展を目指すものです。その鍵となるものが、ふるさとを育んだ親子の絆であり、人と人との絆、地域の絆であります。米原市はこの失われつつある絆を再生することこそが、現代が抱える課題の解決につながり、まちの未来を築くためにとても大切なことであると考えています。(以下略)
                      滋賀県米原市長 泉峰一

 

車椅子で面会に来てくれた九十二歳の杉本さん

 

米原の曳山まつり

 いやあ素敵なメッセージでした。私はこのメッセージを午後からの、講演とパネルディスカッションで紹介しようと思いました。米原駅の東口で迎えの車を待っていると、米原曳山まつりの曳山が賑やかに曳かれているのを、ラッキーにも遠目に見ることができました。全国各地にはそれぞれ地域に相応しい祭がありますが、残念ながら近くでは見れなかったものの、いいものを見せて貰いました。
 会場となっているルッチプラザはこれで3度目ですが、施設も人も変わらぬ姿で私を温かく迎えてくれました。特に92歳になる杉本宇エ光さんが車椅子を使って、私のいる控室まで面会に来ていただいたことは大きな驚きでした。杉本さんは高齢のためデイサービスに週に4回通っているようですが、私が吹いたハーモのかの音色を覚えているそうで、硬い握手を交わしてくれました。いやあ何よりも嬉しいことでした。

  「澄ちゃんの 話によれば 福井県 鯖江で名刺 ドラマ始まる」

  「車椅子 九十二歳の おじいちゃん 私に逢いに やって来てくれ」

  「米原の 駅にて曳山 見るチャンス 伝統文化 ここに息づく」

  「駅前の 壁面飾る 写真展 メッセージ読み 走り書きする」 

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人間牧場

〇木になるカバンを提げて明日も全国行脚

 「よく行く所もあるねえ」と妻が感心するほど、この歳になっても全国各地からお声がかかり、その度に愛用の木になるカバンを提げて、全国行脚を続けています。双海町役場を退職してから早いもので7年半が経過しました。訪ねたまちの数はおびただしく、出会った人の数は数え切れないほどです。
 最近スローライフという言葉をよく耳にしますが、田舎に住んでいるからスローライフというのは大間違いで、都会に何となく住んですることもない人から比べると、私の場合に限ってはハイスピードライフではないかと思うのです。とにかく一日が忙しくて楽しいのです。

 昨日は愛媛県だというのに広島県尾道市因島を経由して、講演に出かけました。講演のない日は畑仕事や人間牧場での活動、各種集会への参加などスケジュールはかなり過密です。こうした状況がいつまで続くかは疑問ですが、まあ今が青春と思って楽しく生きたいと思います。
 明日は出張でブログがかけないため、明日の分を今日短か目に2本書いておきます。明日お急ぎの方は私の携帯へお電話ください。

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人間牧場

〇束の間の広島県尾道市因島水軍城(その1)

 昨日は久しぶりにしまなみ海道を通って、広島県尾道市因島経由で上島町弓削島へ講演に出かけました。早朝にわが家を経ち今治からしまなみ海道の来島海峡大橋、大島大橋、大三島橋、多々羅大橋、因島橋と、いつものことながらまるで橋の世界的見本市を見るように、絶好の秋日和も手伝って、それぞれの橋や島々の景色を存分に堪能することができました。
 因島といえば村上水軍と造船の島、除虫菊咲く島で、特に造船繁栄の時代には人口も10万人を超えていたようですが、今は人口も1万人台とか聞き、その面影だけは残っているものの、隣の尾道市と合併したためどこか寂しさを感じました。私は何処かへ出かける時は必ず、目的地以外にプラスワンのおまけ見学を考えて行動するようにしていますが、今回は少し家を早く出て水軍城を選びました。

山頂にある水軍城

 上島町社会福祉協議会の福田さんから指示があった、因島南ICで高速道路を降り、土生長崎桟橋と反対の道を走り看板に沿って水軍城へ向かいました。因島は青年会議所の招きや尾道市教育委員会の金本さんの招きで何度か講演に来ているため、よく知った島なのです。またかつて因島青年会議所の皆さんと交流していた頃、ヒマヤラ桜の苗を植樹交流するため、わが町の潮風ふれあい公園へ大勢がやってきたこともありました。はたまた先日広島県旧総領町で開かれた逆手塾で出会った今井和美さんの家にも、泊めていただいたことなどを思い出しながら、急な坂道を登って行きましたが、村上水軍城はあいにく木曜日が休館日で、外からの見学だけとなってしまいました。看板に書かれた水軍の故事来歴や、金蓮寺というお寺の裏の墓地内にある、村上水軍ゆかりの無数の宝経院塔や五輪塔などをただ一人巡りましたが、まさにつわものどもが夢の跡でした。

 

金蓮寺山門に建つ「あ」の仏像

 

「うん」の仏像

金蓮寺というお寺の山門入口には珍しい「あ」と「うん」の石仏像があることを思い出し、墓地のあるお寺の裏から山門をくぐりました。私の記憶どおり仏様の像はありましたが、何ともユーモラスな感じがして、思わず一人ほほ笑んで対峙してしまいました。私たちの地方ではお墓に飾るのはシキビなのですが、この地方では生花を飾る風習があるらしく、お墓の前には綺麗な花が沢山備えられていました。

金蓮寺裏にある村上水軍の墓地

 その後そろそろ時間だと思い看板に沿って峠道を越えて土生長崎桟橋へ向かいました。福田さんから「この周辺は沢山の桟橋があるので間違わないように」と、注意のメールが入っていたので、確かめるように4階建ての市営有料駐車場へ車を止めるべく入りましたが、あいにく満車で困ったと思っていると、運よく一台出てくれ大助かりで。4階の駐車することができました。エレベーターで一階まで降り、待合所らしき所で暇そうにテレビを見ていた、店番のおじいさんに、「弓削島へ行く船はここから出るの?」と尋ねると、「弓削島へ何をしに行くのか」といきなり問われました。「はい講演に出かけます」と答えると、足の先から頭の先まで眺めながら驚いた様子で、「生名に渡って橋を渡る方法があるが、そこから歩く自信があるのか」と言われたりしましたが、「それだったらあの船に乗れ」と急がされました。しかし指差すその小型のフェリーは、既に桟橋を離れバックしていました。しかし私の存在に気付いた船は、わざわざ私一人のために引き返してもらい、30分も一便早い船に乗船することができたのも、田舎ならではのほのぼのとした光景でした。

因島海峡を縫うように長閑に走るフェリーの航跡

 因島と生名島の間は300mほどの海峡で、この海峡の間に目には見えない広島県と愛媛県の県境が存在する不思議な場所で、壺井栄の「二十四の瞳」の冒頭に出てくる、「岬かと思えば島なり、島かと思えば岬なり」を地で行く風景を、フェリーの船内から堪能することができました。特に5年前に生名島には佐島から立派な橋がかかり、弓削島と陸続きになっていました。
 船賃は240円で、乗船すると直ぐに船員さんがキップを船内で販売する仕組みになっているのも珍しい光景です。マッチ箱のような小さなフェリーで、僅か15分で弓削島到着です。自著本を販売したらどうかという福田さんの提案で、本を風呂敷に包んで持参したため、かなり重いことを実感覚悟していましたが、会場となるせとうち交流館は桟橋の目と鼻の先にあるので、重さを実感する間もなく会場へ到着しました。

  「プラスワン 今回の旅 水軍城 運が悪くて 木曜休館」

  「水軍の つわものどもが 夢の跡 史跡訪ねて 一人散策」

  「岬かと 思えば島の 県境を 小さなフェリー のんびり走る」

  「桟橋を 離れたフェリー 引き返す 島人優し 私を乗せて」

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人間牧場

〇誕生日の花束プレゼントに涙

 昨日は私の68回目の誕生日でした。その前日の2日、愛媛新聞カルチャースクールでの講義を終え自宅へ帰って玄関の戸を開けると、玄関先に何やら大きい花束が2つ置かれていました。「もしや」と私のシンパーシー回路が動き始め、緒方二三子さんと西岡真由美さんの名前と顔が同時に思い浮かびました。
 緒方さんと西岡さんとの最初の出会いは定かではありませんが、私が地域振興課長をしていた15年も前、いつものように朝ふたみシーサイド公園の掃除をして、集めたごみや空き缶を砂浜から汗だくで駐車場まで運び上げていると、若い二人の女性が花束を持って現れました。その頃の私は毎日忙しく働いていて、その日が自分の誕生日であることさえ忘れていたし、自分の誕生日に花束をプレゼントしてもらうことなど夢にも思っていなかったのです。

母の命日お供えの花

 突如として二人の女性は私に「誕生日おめでとうございます」と花束を渡してくれましたが、居合わせた漁協女性部のじゃこ天の皆さんや、かなり沢山の見知らぬギャラリーも加わって、総勢100人もの人に取り囲まれ屋外の花束贈呈となったのです。
 二人の顔に見覚えはあったものの、失礼ながら何処の誰かも分かりませんでしたが、花束に書かれたメッセージカードに、「お誕生日おめでとうございます。緒形二三子・西岡真由美」とシンプルに書かれているのを見て、二人の名前が分かったのです。あれから何年経ったのでしょうか。私は退職し自由人となりましたが、それでもいち市井の人なのに、10月3日が来れば二人の女性は必ずこうして花束を届けてくれるのです。

 ところがどういう訳か今年は花束が2つありました。一つは明らかに誕生日を祝う華やかな花束でしたが、一つは少し控え目な花束でした。そのうち留守番をしていた親父がやって来て、「若い娘さんが二人やって来て、花束を置いて帰った。二人を海の資料館海舟館に案内してあげた」と言うのです。94歳の親父に名前まで聞くのは野暮だと思い、「二人とも喜んで帰った」と言う報告にとどめました。
 そのうち私は花束を妻にも見せなけれればと思いそのままにして、急用ができて市役所地域事務所へ出かけて帰ってみると、妻が玄関先に座り花束を解いて、二つの少し大きめの花瓶に活けていました。一つは玄関先に、一つはわが書斎に飾ってくれました。(母の命日にと届いた花は早速仏壇の前に移動して飾りました)

誕生日に贈られた花束

 夕方お礼の電話をしようと思い、パソコンの住所録から名前を検索し、妻が144番に電話して電話番号を調べてくれました。食事が終ったころ二人にお礼の電話をかけましたが、運よく在宅で二人と直接お話をすることができました。お二人はこれまで何度も花束を持って、一年に一回わが家を訪ねていますが、海の資料館海舟館を見学すしたのは始めてらしく、親父の説明を聞きながら見学したことを、大層喜んでいただきました。それにしても毎年届く花束に少々赤面しながら、今年も甘んじて花束を受け取りました。勿論私としてはこの上ない喜びですが、立派な花束はお金もかかるであろうことを思うと複雑な気持ちです。
 電話で聞けば、もう一つの控え目な花束は私の誕生日の明くる日に亡くなった、母への供養だそうで、これまた凄い気配りでした。伊方町瀬戸の名産金時芋とシラスの釜揚げまでいただき、柄にもなく少し涙ぐんでしまいました。親父の言葉を借りれば「若い娘さん」の緒方二三子さん・西岡真由美さんありがとうございました。これからも一生懸命生きて行きます。

 

 

  「玄関に 何やら二つ 花束が メッセージ見て 感動しきり」

  「留守番の 親父言うには 若娘 花束持って 来たので案内」

  「私には 貰う理由が 見当たらぬ 顔も落伍で 足も短い」

  「花束が 届くその度 心して 生きて行こうと 誓い新たに」

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人間牧場

〇68歳の誕生日を迎えるに当って

 1944年(昭和19年)10月3日に生まれた私は、今日が68歳の誕生日です。織田信長の「人生50年・・・・・」というくだりから比べると、現代日本は「人生80年時代」ともいわれ、100歳位以上の人口が5万人を超える世界一長寿な国になりました。私が23歳の時に人生目標目標として掲げた年齢の85歳から計算すると、私の寿命はあと僅か17年ですから、いよいよ向こうが見えてきました。そんなことを考えると、誕生日を迎えたからと手放しで喜ぶことは出来ず、むしろ誕生日が来る度に「×××・・・」と気が滅入って複雑な心境になるのですが、まあそれでも今年一年大きな病気や事故もなく元気で過ごせ、誕生日を迎えることが出来たのですから、これはもう喜ばなければなりません。

 私の誕生のルーツである親父は、94歳と高齢ながら元気で私たち家族と一緒に、ひとつ屋根の下で暮らしていますが、私を産んでくれた母親は14年前既に80歳で亡くなっています。「母親の年齢と父親の年齢を足して2で割ると自分の寿命年齢が分かる」という話が本当だとすると、私の寿命は2歳延びて87歳の予定ですが、85歳にしろ87歳にしろ仕上げの人生とも思えるこれからの余命を、健康的にするためには、万人幸福の栞に書かれているような次のことに注意をして、前向きに余命を生きて行きたいと思います。

  ①今日は最良の一日、今は無二の好機
  ②苦難は幸福の門
  ③運命は自らまねき、境遇は自ら造る
  ④人は鏡、万象はわが師
  ⑤夫婦は一対の反射鏡
  ⑥子は親の心を実演する名優である
  ⑦肉体は精神の象徴、病気は生活の赤信号
  ⑧明朗は健康の父、愛和は幸福の母
  ⑨約束を違えれば、己の幸せを捨て他人の福を奪う
  ⑩働きは最上の喜び
  ⑪物はこれを生かす人に集まる
  ⑫得るは捨つるにあり
  ⑬本を忘れず末を乱さず
  ⑭希望は心の太陽である
  ⑮信ずれば成り、憂えれば崩れる
  ⑯己を尊び人に及ぼす
  ⑰人生は神の演劇、その主役は己自身である

 昨日第一火曜日は、愛媛新聞カルチャースクール「街中の人間牧場移動塾」の、月に一度の開講日でした。私が自費出版している「夕日徒然草・地の書・水の書・火の書・風の書・空の書」をテキストにして講義を行なっていますが、早いもので4月に開講してから半年6ヶ月が経ちました。3ヶ月を目途に始めたものの6ヶ月も続き、後3ヶ月は続きそうなのです。昨日は私の誕生日を明くる日に控えていることもあって、前述の「万人幸福の栞」を題材に話をさせてもらいましたが、「日々を楽しく暮らし人生を幸福に生きたい」と思う心は万人の等しい希望だと思うのです。

  「また一つ 歳をとるかや わが人生 目出度いようで 目出度くもなし」

  「父と母 足して二で割る 計算を すると私の 寿命年齢」

  「幸福の 栞読みつつ かく生きる 決意も新た 誕生日前」

  「幸福に 楽しく生きる 青い鳥 心の中で しっかり羽ばたけ」

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人間牧場

〇花二題「彼岸花と沙羅双樹」

鳥取県南部町に咲いていた彼岸花

 先週の金曜日、松本さんと浜田さんを交えた3人で鳥取で開かれた全国大会に参加しました。暦の上では初秋といいながら、中国地方の山々は、まだ紅葉の気配も感じられませんでした。しかし田圃のあぜ道には真っ赤な目にも鮮やかな彼岸花が至る所に今が盛りと咲いて、群生地では目を奪われてしまいました。
 昨日私の友人で先輩でもある玉井恭介さんのブログ「考える村村長だより」を読みました。その文章の中にも博学にして研究熱心な玉井さんらしく、彼岸花のことを詳しく紹介していましたので、彼岸花の薀蓄は割愛しますが、毒花なのに何故か日本のあちこちにはこの頃になると彼岸花が沢山咲いているのです。
 私たちが訪ねた鳥取県南部町の文化財巡りの途中の道端にも、綺麗な彼岸花が沢山咲いていました。

お寺の境内で見つけた沙羅双樹の看板
沙羅双樹の木

 旅の途中余裕の時間を使って訪れた、山陰きっての名刹である投入堂という国宝のお寺の境内で、沙羅双樹という珍しい木を見つけました。今は花の時期ではないため花を見ることは出来ませんでしたが、何故か看板に目が行き、デジカメで撮影しました。
 平家物語の冒頭で、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」と書かれている言葉は余りにも有名ですが、どうして「沙羅双樹の花の色」が「盛者必衰の理」をあらわすのかは、私のような凡人には知る由もないのです。ものの本によると「釈尊が沙羅林に横たわった際、季節はずれに花が咲き、散って釈尊の実を供養した」とか、「釈尊が横たわったところの東西南北に、各一対の沙羅の木があり、入滅と同時に東西の二双と南北の二双が合わさって、それぞれ一樹となり、釈尊を覆った」などなど書かれていますが、沙羅双樹の花は「咲いて一日で枯れてしまう」が「理」かも知れないと勝手に思ったりしました。

沙羅双樹の花

 沙羅双樹の木について書いていると、どうしても沙羅双樹の花が見たくてインターネットで調べてみました。さすが平家物語で名高い花だけあって、ネットでは花の写真が沢山紹介されていますが、その花の殆んどは夏椿で、沙羅双樹と夏椿は別のものという説に納得して探しましたが、今朝は見つかりませんでした。
 実は夏椿ならわが家の庭の隅にも、友人から貰った一樹が植えられていて、この花より少しピンクがかかっているようです。
 彼岸花も沙羅双樹も仏様に関係の深い花であることはよく分かりましたが、来年の沙羅双樹の花の咲くころに、何処かのお寺へ本物の沙羅双樹の花を見に行きたいと思っています。

  「沙羅双樹 この目で理 確かめに 出かけてみたい そんなワクワク」

  「夏椿 ならばわが家の 庭にある だけど違うと 多少混乱」

  「彼岸花 彼岸過ぎても 咲きにけり 真っ赤な帯が 田圃の畦に」

  「調べれば 余計に謎が 深くなる 沙羅双樹とは う~ん深いな?」

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