○大杉年輪塾の開塾(その1)
昨日は私が塾長を務めている年輪塾の移動塾が、山一つ峠ひとつを越えた大洲市柳沢田処であり、大番頭の米湊さんを12時20分に双海町地域事務所前で乗せ、更には12時30分にしもなだ運動公園前で小番頭の松本さんを乗せ、県道下灘~大洲線を走って田処を目指しました。沿線には名残の桜が路面をピンク色に染めて散っていたり、野山に咲く山桜の花がそれは見事に映えて、いいようのない幸福感に浸りました。
この街道は車の交通量も殆んどなく、ゆっくりのんびり気心知れた3人で、世間話をしながら30分も走ると、目的地である旧田処小学校へ到着しました。この学校は丁度一年前に児童数の減少を理由に閉校になっていますが、敷地内に農村活性化センターという体育館や集会室を兼ねた立派な生涯学習施設があって、調理室ではいつもの女性軍が集まり、夜の懇親交流会に出される料理の調理真っ最中でした。
旧学校周辺のさくらも少し盛りを過ぎていましたが、まだまだ花見が出来るほど残っていて、時折たまげたように、さわやかに吹く春の風に花吹雪が舞っていました。私が主宰する21世紀えひめニューフロンティアグループでは、千本桜の森づくり事業でこの地にも、100本余の桜がプレゼントされ、地元の人たちの手で植えられ、大事に育てられているのです。10年後の成長花見が楽しみです。
今回の移動塾は、午後2時から清水さんが八幡浜市日土で開塾しているあらし山年輪塾が、遠隔地と清水さんの体調の都合、それに講師の都合で日土で開けないため、旧田処小学校の教室をお借りして開き、午後5時から農村活性化センターで大杉年輪塾の開塾式、午後6時から第一回目の夜学、20時から懇親交流会と続く超ロングなスケジュールなのです。
今回の年輪塾移動塾は、昨年双海町翠小学校で開いた二宮尊徳公開セミナーの講師を務めた、二宮金次郎の七位目の子孫に当たる中桐万里子さんへのリクエストが多かったため、中桐さんには午後と夜との二回講演という、過酷なスケジュールとなりました。あらし山年輪塾に参加した20人ほどの塾生は、昨年の公開セミナーで中桐さんの話を聞いているので、今回は中級編とでも言うべきもので、前回の続きの話を2時間に渡って興味深く聞きました。主宰した清水さんの網膜はく離手術後の経過も良好で、元気な姿であらし山年輪塾の運営に当たられました。その話の内容は主宰者である清水さんの、ブログでの書き込みがあると思われますので、委ねたいと思います。
中桐万里子さんの話はいちいち納得することばかりでした。ことばを選んで訴えるように話す話芸はとても洗練されていて、講演を数多くこなしていながら未だに百連発の機関銃のようにまくし立てて話す私とは大きな違いで、とても参考になりました。
この日も二宮尊徳学の基本となっている水車の話を中心に話されましたが、二宮尊徳が栃木県桜町という寒村を復興した苦難の10年間の話、特に成田山のお寺で煩悩と闘い断食修行した苦悩の話は多いに心に響きました。
講演が終わって質問タイムになり、私は水車の話について質問しました。講演で触れなかった水車の心棒についてです。即答の解答に納得し、自分なりの整理が出来たように思いました。
続いて行なわれた開塾式は、高知県馬路村の木下さんの配慮で送ってもらった魚梁瀬杉の輪切りに、松本さんが腕を振るった看板が亀本さんに贈られ、塾長である私のあいさつに続いて、大杉年輪塾の西田さんが決意表明し、塾生証が交付され昼の部を終えました。
「久方に 訪ねし里に まだ桜 残りて愛でつ 仲間に会いぬ」
「野も山も まるで錦絵 見てるよう 桜桜に 目を奪われて」
「この地にも 住む人ありて 長閑なり 煙上りて 夕餉の支度」
「金次郎 子孫の話 営々と 遺し伝えて 今に至りぬ」