人間牧場

○目は口ほどにものを言う

 数日前、年輪塾の塾頭をしている清水和繁さんから、「緊急入院するので、3月末に予定されている塾生の送別会に出れない」と連絡がありました。聞けば「網膜はく離」という目の病気だそうで、聞きなれない病名に驚きました。病気が分かってから即入院、即手術というのですから本人も心配をしていました。入院すれば少し長引くし、手術後の経過を見てお見舞いに行こうと思っていた矢先、浜田さんから一緒に見舞いに行こうと誘われました。うっかり明日の午後1時で約束をしてしまいましたが、明日は香川県へ一泊二日の出張が組まれていて、急遽今日の11時で調整しました。
 今日は家の入り口にあるお大師さんの縁日なので、妻は朝早くから赤飯を炊いてお接待の準備をしていました。私はタッパに注ぎ分けた赤飯をゴムバンドでとめて近所や親類に急いで配り、親父に代わって縁日のお大師さんの幟を立てました。赤飯を備えていると隣の叔父さんが、これまたいつものとおり、お菓子を沢山お供えしに来てくれました。

 下灘へも赤飯を配り終え急いで県立中央病院へ見舞いに出かけました。病院に通じる道はかなり渋滞していて、中々車が進みませんでしたが、携帯電話で連絡を取り合い、仲間から聞いていた本館5階、ナースセンター隣の4人部屋へ向かいました。友人の稲葉さんも駆けつけてくれ、見舞いに来ていた奥さんを交え賑やかな会話となりました。
 清水さんの説明によると網膜はく離はフスマが破けるような病気で、レザーで焼いて修復するのだそうです。医学が進んでいるため完全によくなるそうですが、手術してからこの4~5日は下向きになって養生をしなければならなかったそうで、それがかなりきつかったようです。いつも私たちは両目で何の疑いもなく物を見ていますが、片目を閉じて物を見たり暮らすと、遠近が分からなかったり、それはもう大変なようでした。何につけても洞察力の凄い清水さんですから、今回の病気や手術でまた今までにない新しい発見をすることでしょう。

 今朝パソコンをいじっていたら、「人間の耳は不思議な耳で、聞こうという心がなければ、聞いていても聞こえない」という言葉を見つけました。確かに私たちの周りにはありとあらゆる音が聞こえていますが、その気になって聞かないと聞くことはできないのです。これと同じように「人間の目は不思議な目で、見ようという心がなければめ見えていても見えない」という言葉も成り立つのです。
 私たち人間は聞こえることや見えるもの以外にも、心耳、心眼があれば聞こえたり見えたりしますが、人間の五感の一つ一つである耳も目も、正しい聞き方正しい見方をしなければ役には立たないのです。耳が聞こえる、目が見えるという当たり前のことに感謝しながら生きて行かねばと、清水さんの姿を見て思いました。そういえば私の目は67歳の今日まで近眼や老眼にもならず、まだメガネの世話にならなくても、新聞が読めるのですから有難いことです。これは死ぬまで老眼の世話にならなかった母親の遺伝かも知れません。「顔が悪いので目だけはいい」などと、ふざけたことを言って仲間を笑わせていますが、目のいい、目のよく見える子どもに産み育ててくれた母親に感謝しています。

  「顔悪い けれど目だけは いいですと 人を笑わせ 自慢をしてる」

  「見舞い来て 貰うことより 見舞い行く ずっといいなと 健康感謝」

  「何げない 暮らしの中に 幸せが 見える聞こえる 有難きこと」

  「四十二や 還暦来ると そこここが 傷み始める これが厄年」

 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

○おどろがんすレディ山んごす京子という女

 「おどろがんすレディ山んごす京子」という今日のブログのタイトルを見て、「これ何?」と思うのは当然かも知れません。実は昨日、伊予地区生活研究協議会の一行7人が、研修会と称して人間牧場へやって来ました。双海町の小西千鶴子さんが会長をしていて、地域事務所の松本さんを通じて研修受け入れの相談があったものですから、娘の子どもを預かる予約を急遽キャンセルして、受け入れることにしたのです。予定通り11時に人間牧場へやって来た皆さんは、かまどで炊いたご飯と味噌汁に加え、それぞれが持参した自慢の漬物を添えて、いきなり楽しい食談となりました。
 研修のテーマは「地域資源の活かし方と特産品開発のヒント」でしたが、参加した皆さん方は日ごろ熱心に活動している方ばかりなので、私の話など何の役にも立たず、ただ生き方のヒントや自分の生き方に納得するための会合のようでした。ゆえに私は多くを語らずむしろ私の生き方にふれてもらえればいいという軽い気持ちで話の輪の中に入りました。

 メンバーの殆んどは顔見知りで、話は上げたり降ろしたりと終始なごやかでした。中にぎんこい市場代表の向井京子さんというやる気満々の女性がいました。積極的な発言やその中身が濃いので、ついつい引きこまれましたが、ご主人が建設会社に勤めていたものの、両親の病気や老いを機に広田村へ帰郷し、仲間と共に松山市銀天街にぎんこい市場という空き店舗を利用したお店を出店し、話題となっている人なのです。
 彼女には自分で名前をつけているもう一つの愛称があって、それが「おどろがんすレディ山んごす京子」なのです。「おどろがんす」というのは人が入り込めないほど荒れた所と、私も田舎者ですから直ぐにその意味が分かりました。「山まんごす」とは「山の奥」を意味します。要は私と同じく「田舎者」を強く意識し、田舎を見せびらかせて生きているのです。「山奥組」など男性なら田舎を自慢して生きている人は沢山知っていますが、女性では高知県四万十市西土佐の「山間屋」を名乗る中脇由美さんを知ってて、彼女に匹敵するパワーの持ち主のようでした。「地産外商を企てる「おどろがんすレディやまんごす京子」という愛称は大いに気に入り、直ぐにお友達になったような気持ちになり、今後の交流がとても楽しみになりました。

 さて京子さんとの議論で最後に話題になったのは、やはり今後の情報発信の仕方でした。彼女はかつて私がそうであったように、非人間的なインターネットやメール等を余り信用していないようで、通信手段ももっぱらFAXを多用しているようでした。私の例を話しながら、これからは好む好まざるに関わらずインターネットやメールでの情報発信は、欠かせない世相になっていることを話しました。彼女のバイタリティーや溢れる生き方や、FAXに書いている日常の何げない話はもう飛びっきりいい田舎発の情報なのです。ネットやメールが全てではないものの、世界に通じる情報手段を手に入れて、それを蓄積すれば凄いことになるのです。
 かくいう私も7年前までは彼女と同じでデジタルに疑心暗鬼でした。それがブログをやり始めてから滅茶苦茶面白くなって、ブログやメールの蓄積は今や人から見れば気違い沙汰のようなのですから驚きです。私にとってブログやメール、それに人間牧場という施設は強力な武器であり、この武器なしで「ザ・ワカマツシンイチ」を語ることは出来ないのです。
 若松進一という人間のこの7年間の進化は、あれ程夢中になってやった夕日によるまちづくりをしのぐ勢いなのですから驚きです。私の勧めで始めた島根県西ノ島町の角市さんや、私に影響されて始めた伊方町三崎の浅野さんなどはもう私より何歩も先へ行っていますから、驚く他はないのです。「おどろがんすレディ山んごす京子」さんも、来年は見事に変身していることでしょう。大いに期待したいものです。愛を込めて・・・・。

  「愛称を 聞いて驚く この女 田舎者だと 看板背負って」

  「ブログ書け 熱を込めたる 訳がある 俺さえ進化 できたのだから」

  「この女 やり手ひと目で 惚れました 他人の女に 惚れるだなんて」

  「世の中にゃ 達人いるもの 連れ添いの 顔が見たいと ついついニヤリ」 

 

 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

○昨日の日曜日広島県福山へ出かけました

 一昨日は広島県廿日市から大勢の視察がやって来たり、6月9日~10日に第30回記念逆手塾の記念講演が決まっていたり、また早々と10月17日に広島県公民館大会の記念講演がスケジュールに入るなど、このところすっかり広島県とのご縁が深くなっています。そんな中、1月21日の福山市松永地区に続いて、昨日は同じ福山市の中央地区へ生涯学習と地域づくりのミックス事業として、講演を頼まれ出かけました。
 広島県広島市へは岡山県岡山市と共に、その先へ向かう中継点としてよく足を運びますが、広島県尾道市もしまなみ海道の基点だけに、その先へ向かう場合必ず通過するのです。本当は伊予インターから小松ジャンクションを経ていまなみ海道の基点今治から、行くのが時間的には一番近道ですが、今治市内の高速道路がまだ未開通なため、私は松山から一般国道196号線を海岸沿いに走り、今治北インターからしまなみ海道へ乗るのです。
 昨日は朝から弱い小糠雨が降っていました。周りの視界も霧が出て春霞といったところでした。昨日は予定されていた早朝の打ち合わせ会が雨で中止になったので、予定を変更し少し早めに出て少しゆっくりを心がけて走りました。途中の大浜サービスエリアでトイレ休憩をして、カーナビに会場となる生涯学習施設ローズコムを入力すると、近くにバラ公園が表示されたので、急遽ちょっとだけ立ち寄ることにしました。

 

バラ公園
 バラ公園の入り口にある駐車場に車を止め、公園内を散策のつもりで一人ゆっくり歩きましたが、バラも今はまだ芽吹きの季節で、剪定されたバラの枝には、芽を吹こうとする新芽が、このところの陽気と雨に誘われて、顔を覗かせていました。散閑とした公園内のバラに目をやりながら、中核都市の会議に植えたと思われる全国の名だたる市長さんの銘記プレートの中に、「松山市長中村時広」という現愛媛県知事の名前を見つけて、柄にもなくつい嬉しくなってしまいました。
 待ち合わせ予定の12時30分近くになったので急いで会場へ引き返し、藤本さんに携帯を入れ、出迎えに出てくれた小川さんと藤本さんの案内で車を駐車場へ止め、生涯学習センターの中へ入りました。いきなりお茶と共に広島風お好み焼きの昼食が用意され、一人控え室で食べましたが、この量が半端でではないボリュームのたで、残しては失礼とばかりに、ゆっくりと時間をかけて食べました。とても美味しかったものの満腹過ぎて、公園に差し障りはしないか心配しましたが、かえって腹が座っていい雰囲気で話が出来ました。
まちづくりフォーラム
 まちづくりフォーラムの一部は発表で、霞学区の「道三川選定・ばら花壇整備事業」と久松台学区の「緊急情報カードの取り組み」の事例が詳しく紹介され、最前列で聞かせていただきました。
 発表の中身は特長があって中々のものでした。私の話は15時からの予定でしたが、発表が早く終ったので2時45分から始まり、その分早く終るようにとの指示があったので約90分間「まちづくりの新しい風と題してお話しました。参加した人は少し年齢的に高いようでしたが、午後の眠くなる時間ながら居眠りする人もなくあっという間に終ってしまいました。予定していた持参したDVDの映写も取り止めてしまいましたが、中部ブロックのまちづくりフォーラムの役割を果たし、16時20分に会場を出発し、雨の上がった夕空に向かって来た道を引き返しました。
 北条辺りで雨上がりの西の空に綺麗な夕日が見えました。残念ながら運転中だったため余所見をしないよう注意をしつつ、ちらちらと夕日を眺めながら、約3時間余り経った7時30分頃に自宅へ到着しました。社教主事の小川さんは何年か前、私の話を聞いて直ぐに奥さんと二人で双海町へ夕日を見に来られたそうです。生涯学習センター次長の藤本さんも、わが家の私設公民館煙会所まで何年か前来ている懐かしい仲間です。今回も深いご縁をいただいたり確認しあったりした、とても印象に残る小さな度でした。
北条の夕空
「幾つもの 橋を渡りて 中国へ 近くなったと 思いつ出かけ」
「バラ公園 咲く頃夢に 描きつつ 名前なぞりて 一人楽しむ」
「雨上がり 西空向こう 夕日出る 家路急ぎつ 心さわやか」

 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

○視察効果

 昨日は広島県から地域づくりの団体が双海町へ視察にやって来ました。会場や資料の手配のこともあって、地域事務所の松本さんに連絡したところ、休みにもかかわらず快く出席してくれることになりわが意を得たりと喜びました。合併して7年が間もなく終ろうとしていますが、この7年で双海町へ視察にやって来た団体や個人は数知れず、その都度最初は市役所を通すようにしていましたが、会場使用料がいるとか、土日は休みなので受け入れられないとか、依頼の公文書を出して欲しいとか、手続きや対応が面倒で、そのくせ当日は対応してくれなかったりするものですから、ついついこちらも面倒くさくて、最近は私が勝手に対応することが多くなっていたのです。一昨年えひめ地域政策研究センターに出向していた松本さんが帰って来て丁寧に手配をしてくれるので大助かりです。

熱心に私の話に聞き入る視察者

 視察に来たいと私に電話がかかってくる場合は、私が講演などで全国を歩いているため、私の話が聞きたいという人が圧倒的に多いのですが、中にはシーサイド公園や人間牧場の視察もあって、最近は大忙しなのです。昨日の団体は広島県廿日市の後藤さんという代表をしている女性の方から相談がありました。後藤さんの最初の希望は人間牧場見学と私の話でしたが、20人乗りのバスでも車高の比較的高い中型バスなので、乗り入れすることが出来ず、結局はシーサイド公園の夕日のミュージアム内で、説明をすることにしました。
 私の持ち時間は僅か40分でしたので思いつくまま話しました。最後は松本さんがコンビ宜しきを得て恋しぐれや夕やけソフトクリームの話をしたものですから、お買い物タイムには商品が空になるほど買ってくれました。これを視察効果というのでしょうか。

 

 しかし視察効果は経済的なものだけではなく、本当は私と松本さんが広島県廿日市の団体から逆に受ける人の縁と人からの学びなのです。昨日の団体には団体代表の方々が沢山いて、様々な話をさせてもらいました。最近は高学歴社会でしょうか、また団塊の世代がリタイアして地域づくりをするようになったからでしょうか、見識のある方が増えているのです。向学の意思さえあれば居ながらにして学べるのですから、これほどいいチャンスはないのです。
 一行は閏住の菜の花畑を寄り道見学して帰って行きました。私はワカメの実験をある人とするため、シーサイド西の海岸で漂流ワカメを少しだけ拾って持ち帰るため、最後までお付き合いすることが出来ませんでしたが、昨日は気温が20度近くまで一気に上がる雨上がりの天気に恵まれ、視察した廿日市の人は春を連れてやって来てくれた感じがしました。気象庁は昨日、九州・四国・中国で春一番が吹いたと発表したようです。

  「土日だが 視察したいと 連絡が サンデー毎日 喜び受ける」

  「バス一台 重たいほどの 買い物を 視察効果は 大したものだ」

  「視察とは 言いつつ逆に 学ばせて 貰う喜び 感謝をしつつ」

  「春一番 連れて視察が やって来る ポジティブ生きる ゆえに恩恵」 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

○ハッピーな人生でありたい

 近所の歯科医院にパートで勤めている妻には只今のところ、土曜日は終日仕事のため日曜・祭日しか休みがありません。したがって泊り込みで出かけたりすることが出来ないため、只今のところ行く場所が限定されるのです。この歳になっても妻に働かせるのは夫たる私に甲斐性がないからだと自責の念に駆られていますが、当の本人は働くことは嫌がらず、むしろ少しだけ緊張感があると喜んで毎日働きに出かけているようです。
 妻の楽しみは何年か前アナログ放送から地デジにテレビ放映が変わったころ、買い求めた35インチのビデオ再生機能内蔵のテレビで、毎朝起きると番組予約表をチェックして、見たい旅番組やサスペンスドラマなどを録画して、帰宅夕食後の夜寝る前にビデオを見ることのようです。私は会議などでリタイア後も結構夜家を開けることが多いので、まあそれもいい趣味だと横目で見ていますが、いつの間にかテレビのチャンネル権は妻の手に移ってしまっていて、私など入り込む隙間もないのです。

 仕方がないので私は書斎でパソコンや読書を楽しんでいますが、余り夫婦のすれ違いは好ましくないと妻の横に座って妻の選んだ番組を見せてもらっているのです。昨日は泉ピン子さんと大杉漣さんが主演のドラマを妻と二人で見ました。伊豆半島稲取という漁村が舞台のドラマは診療所に赴任してきた女医と頑固一徹な漁師、そして震災の津波で家族を失った診療所の看護師、漁師の息子などが心の葛藤を繰り広げるのです。2時間番組の途中にはこれでもかというほどコマーシャルが入っているので、その都度コマーシャル部分だけ妻が早送りしてくれ、トイレに行くのも我慢して見続けました。漁師の奥さんは病院をたらい回しにされて亡くなりましたが、生前夫にしてもらいたかった10のことをメモに書いて亡くなりました。「食事を食べたら美味しかったと言って欲しい」とか、「屋根の雨漏りを直して欲しい」「家族3人で花見に出かけたい」など何げなく他愛のないささやかな10のメモは、夫婦の対話の素材になり大いに盛り上がりました。

 はてさて酒好きな漁師が妻に果たせなかった10の望みから比べると、私は妻に及第点を貰うほどいい夫として妻に貢献していると思っていたのに、妻に言わせると私もこの漁師と50歩100歩だと手厳しく言われました。
 「このテレビドラマだけはあなたに見せたかった」と、いいながら見たドラマのストーリーはハッピーエンドでした。わが家もこれから先はどうなるか分からないまでも、蓄えや財産・名誉がある訳でもなく大きな喜びこそありませんが、ささやかなハッピーで推移をしているようです。
 人は悲しいかな何かをなくさないとその存在に気づかないものです。病気になって健康の有難さに気づいたり、家族を失うことで家族の絆の大切さに気づくのです。「人は何のために生きるのか」、このドラマはそのことを問いかけているようでした。家族のため、地域のため、明日のために生きることが正解のようでした。

  「いつの間に テレビチャンネル 決定権 妻に渡って 私おろおろ」

  「何のため 生きているかと 問われたら 家族や地域 明日のためと」

  「深夜まで 二人でテレビ 視聴する あれやこれやと 比較しながら」

  「このドラマ あなたにだけは 見せたいと 妻のたっての 願い叶いて」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

○春が近づいています

満開のさくらんぼの花

 朝晩は冬の余寒がまだ冷たく、一枚羽織らなければなりませんが、日中は吹く風もどことなく柔らかくなって、春が近づいているなあと実感するようになりました。散歩途中の道端に、さくらんぼの花が咲いているのを見つけました。このところの陽気に誘われたのか、今朝はもう満開のように咲いていました。傍で畑仕事をしていた近所のおじさんと立ち話をしましたが、草取りや次の作付け準備をしている姿を見て、他人事ではなくわが家の菜園も、そろそろ作業をしなければなるまいと少々焦りましたが、今は少しだけ体調不良なので我慢のしどころと思っています。

 体調不良といいながら、それでも昨日は午前中1つ、午後1つ、夕方1つ、夜1つと、一日に4つの会合を重ねました。特に午後2時からの愛媛海区漁業調整委員会は、日ごろ使っている水産会館が使えず、少し離れた道後にある県民文化会館の会議室を使ったため、車の駐車を探して娘のマンションに出かけたものの、あいにく娘婿の車が置いてあって駐車できず、止む無く近くの有料駐車場に入れました。会議は1時間ほどで終りましたが、バタバタしてしまいました。
 会議が終って帰宅途中、松前町のギノー味噌本社に立ち寄り、社長さんにお願いしていた味噌の試供品を50個いただいて帰りました。この味噌はスポンサーになっていただいて先日出来上がった名刺と共に、月曜日の生活改善グループの会合と、週末日曜日に出かける広島県福山市での講演会に持参して、ギノー味噌の宣伝に使うのです。

 夕方の子どもおもしろ教室は私が実行委員長をしているので外す訳にも行かず、僅か1時間ながら会議の方向をまとめました。同じ会場で夜7時からサイコーダイガクも昨日が最後のミーティングでした。27日には最後の成果発表会があるようです。一日に4つも会を重ねると、現職でもないロートルには多少疲れを感じますが、年度末と年度初めは、このような終わりの会と初めの会がつきものなので、少し我慢して消化したいと思っています。

双海中学校卒業証書授与式

 今日は朝から双海中学校の卒業式でした。学校評議員をしているので出かけましたが、下灘・上灘とそれぞれの中学校に入学し双海中学校を卒業する最後の生徒たちなので思いも一入の、とても印象に残るいい卒業式でした。

  「何げなく さくらんぼ咲く 道歩く 季節巡りて やっと春来る」

  「別々の 学校入学 したけれど 同じ校門 揃って卒業」

  「一日に 四つの会議 ああしんど ロートルわが身 少し重荷に」

  「味噌五十 二つの会に 持ち歩く 味噌は如何と 名刺を添えて」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

○巨樹風雪と若人の火の移設

 若い頃愛媛県青年団連合会の副会長や会長を歴任して、国立大洲青年の家の誘致運動に情熱を燃やした私にとって、青年の家の持続的な発展は大きな願いであり、国立大洲青少年交流の家と名称が変わった今もこれからも、その願いは変わることはないのです。ゆえに人間牧場主という寂れた肩書きしか持たない私ながら、国立大洲青少年の家の所長から請われるまま、今も運営委員会の末席を汚しているのです。
 15年前青年の家でちょっとした騒動が持ち上がりました。玄関先に青年の家のシンボルとして設置していた樹齢330年の栂の木の大木と中に設置しているトーチを、玄関先が手狭になったことを理由に撤去するという話でした。昭和57年2月、四国の屋根小田深山から営林署等に頼んで払い下げてもらって設置して以来、多くの参加者を玄関先で迎えてくれていた思い出の切り株だけに、その話を聞いた時は耳を疑いましたが、処分するのであれば何とか別の場所へ移動してでも保存したいと願っていました。幸い当時の担当者も私と同じ気持ちだったため、とりあえず双海町へ持ち帰ることになりました。

 当時の丸山町長さんにそのことを話し、わざわざ青年の家まで足を運んでもらって現物を見て、役場のロビーに置くことを決めたのです。予算がないので当時議員をしていた袋田さんに頼み込み、林業に使うクレーンのついたトラックに、共栄製材で借りた台車を積んで、たった二人で引き取りに向かいました、当時はまだその重量は2t近くあったように思いますが、苦労の末トラックに積み込んで持ち帰り、役場職員総出でロビーの中へ押し込み手押しだけで立てたのです。玄関先の自動ドアを痛めないよう注意を払い、突き出た枝をチェンソーで切り落とすハプニングもありましたが、ロビーの真ん中に威風堂々と座りその存在を15年間も誇示し続けてきました。
 その後国立大洲青少年交流の家の職員が替わる度に巨樹風雪を、元の場所へ返して欲しいという話が持ち上がりましたが、いわく因縁を知っている私としては、「はいそうですか」と簡単に応じる訳にも行かず、悶々の日々でした。特に前所長さんと前課長さんは熱心に里帰りを懇願されましたが、市町村合併などのゴタゴタもあって、元町長さんに「お前に任せる」という一任を取り付けてはいたものの、元町長さんの事故による逝去や支所の手続きもあって、それなりの苦労を重ねました。

 折りしも支所ロビーの改修工事という幸運や現支所長さんたちの配慮もあって、また新山所長さんの熱意が一番の実を結び、先日ロビーから運び出されることになりました。城戸運送の運送チームが特注した300kgの特注特製枠を持って支所を訪れ、朝早くから傷をつけたり樹皮を剥がすことのないよう細心の注意を払って、半日掛りでロービーから運び出し、国立大洲青少年交流の家まで里帰りして、展望棟まつぼっくり館に設置することができました。その模様は現地でその一部始終を見守った新山所長のブログ「にいどん」に詳しく記されているので割愛しますが、記録に残すため写真の一部を拝借することにしました。
 木編に母と書いて「栂」(つが)と読みます。考えてみればこの巨樹は元々国立大洲青年の家のロビーにあったものですから、木の母なる場所へ帰るのが一番かも知れません。小田深山から大洲青年の家へ、大洲青年の家から双海町役場へ、伊予市双海支所から大洲青少年交流の家へ、巨樹が旅に出た僅か15年間の間に双海町も青年の家もいつの間にか名前が変わっていました。変わらないのはこの巨樹に寄せた私や所長さんたち関係者の想いだったことが、唯一の救いだったのかも知れません。
 折りしも巨樹の移転に奔走した新山所長さんは4月1日付で、4年間住み慣れた大洲青少年交流の家を後にして、福島の青少年交流の家へ異動が決まりました。

  「巨樹移動 終って所長 自らも 異動するとは 寂しくもあり」

  「栂の木の 空洞燃える 火を見つめ どれほどの人 勇気づけたか」

  「木遍母 これで栂とは 読んで妙 安住の地 やっと見つかる」

  「今は亡き 元町長の 墓前にて 一部始終を 手合わせ述べる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

○風おこしという情報紙

 かつて私が代表を務めていたえひめ地域づくり研究会議が1年に2回「風おこし」という情報誌を発行しています。タブロイド版4ページなので開けると全紙になる新聞形式です。もともと「風おこし」とう表現は研究会議を結成した折、私が「風おこしのちかい」という文章を書いた中から引用していますが、編集委員会から、研究会議の助成を受けて開いた年輪塾公開セミナーについて執筆して欲しいと清水塾頭を通じて依頼がありました。年輪塾の塾長ですから仕方がないと諦め、1000字程度の原稿を書き上げ、年輪塾の事務局をしている松本さんに送り、先日行なわれた年輪塾の修学旅行報告書の中から武田さんの文章を選び、合わせて編集委員会に送ってもらいました。

 昨日そのゲラ校正を経て出来上がった1ページがPDFファイルになってメールで手元に送られてきました。

風おこしで紹介された公開セミナーの様子

 私の書いた文章はいつもながらの拙文で、そこへ行くと羅列的に並んだ渡辺浩二さんや武田信之さんの文章は、言葉を選んで実に見事で私の文章だけがどこか見劣りがして、寂しい限りです。言った言葉は「言った言わなかった」といいながら記録に残りませんが、文字で印刷されあちらこちらに配られると、それは記録として残るのですから、用心しなければなりません。
 渡辺さんは今回の風おこしで、昨年一緒に深く関わったものづくり文明機構シンポジウムでの畠山重篤さんのことを書いていますが。もし私に同じような原稿依頼があってもこうは書けなかっただろうと思いながら読ませてもらいました。また修学旅行をルポした武田さんの記事も、博学な彼らしい視点で整然と書かれていました。
 ブログに文章を毎日書くようになってから、幾分か上達していると過信していた自分が急に恥ずかしくなりました。

 私が書いたり、私を書いた記事や映像は、地域づくりの現場で永くやって来たゆえに膨大な数量に上ります。何と暇になったらかこれらの資料類を整理をしたいと思いながら、日々の雑事に追われて緒に就くことするらできないで悶々の日々を過ごしています。でもブログという優れものに出会ったお陰で、こうして仲間がPDFファイルにして送ってくれたものを、私の日記に取り込むことができているのですからありがたい世の中になったものです。
 もう少し修行して、いい文章が書けるよう努力したいと思いますが、ひょっとしたら私の書く能力はここいらで上げ止まりかも知れないと、少々弱気になったりもする今日この頃です。

  「同じ欄 仲間の書いた 文章が 載って赤恥 下向き加減」

  「能力の 限界少し 悟りつつ 性懲りもなく 今日も文書く」

  「恥外聞 気にせずこれが 自分流 気を取り直し 胸張り生きる」

  「新聞や 雑誌に載った 記事多数 いつかは整理 したい思いつ」

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

○在宅介護支援センターの出前講座

 昨年の12月5日、奥道後の入り口付近にある愛媛県在宅介護支援センターの招きで講演に出かけました。松山から奥道後を経て水ヶ峠を越え、今治に向かうこの道は短時間で今治へ出かけられるので、曲がりくねった道ながら私は時々走るのですが、その折国道に立っている「愛媛在宅介護支援センター」という看板を横目に見ながら走っていましたが、まさかそこへ講演で出かけることなど夢にも思っていませんでした。講演が終え帰ってから間もなくセンターの室長さんから、「西予市と内子町へ出前講座に行って欲しい」とご依頼がありました。「中身は12月5日に聞いた話がとても良かったので」とおだてられたものですから、調子に乗って出かけることにしました。

西予市文化会館中ホールで行なわれたボランティア研修会

 西予市は3月6日ボランテァ協会の会員さん相手で、西予市文化会館中ホールで百人を越える大勢の人の集まりでした。西予市にはこのところ地域づくりグランプリの審査や全国過疎問題シンポジウム、物づくり文明機構シンポジウムなど、片手の指に余って出かけていて知り人も多く、中には私が講演に来るからとわざわざ駆けつけてくれる熱心な知人友人もいて、嬉しい出会いを重ねました。
 この日は天気も良かったので少し早めに出かけて伝建地区の町並みを見学してから会場入りしました。偶然にも入り口付近で、卯のほたる実行委員長の藤本明美さんに出会いました。藤本さんは軽い脳梗塞で体調を崩しているらしことを風の便りで聞いて心配していましたが、元気な姿での久方の出会いを嬉しく思いました。講演を終わって帰宅後日、藤本明美さんや何人かの参加者から嬉しいお便りをいただき、恐縮してしまいました。

 

 内子町は介護老人保健施設「アンビションうちこ園」という施設でした。JR内子駅の裏手高台にある施設で、インターネットで調べた地図に沿って坂を登って行きました。施設内に入ると看護師長の柏木公子さんが、自分の部屋へ案内してくれました。聞けば20年以上も前、八幡浜市千丈小学校へ私が講演に出かけた折、私の話を聞いて大いに勇気付けられたというのです。柏木さんのことはよく覚えていませんが、千丈小学校へ講演に行ったことは今もはっきり覚えていて、縁の不思議を感じました。
 この日はうちこ園を利用しているお年寄りの家族会研修の日で、30人ほどの人が集まっていました。同じ出前講座でも相手や人数が違うし目的もまちまちなので、多少戸惑うこともありますが、何とか役目を果たすことができました。

 私に講演の依頼をする人たちの多くは、まず「お金がないので」と前置きをします。事実私の講演相手先は社会教育や福祉、それに地域づくりなどが多いのですが、それらの分野はこの20年間、相も変わらず予算の増えない活動を強いられています。「お金がないので」を前置きされると、「お金があったら私以外の人に頼むの?」と言いたくなりますが、そのことを理由に断わる訳には行かず、「はいそちらの都合で結構です」と快く受諾するのです。まあ年金で何のとか暮らして行けるので、むしろ私はお金の多少よりも、講演の充実感ややる気の方を大切にするのです。出前講座は現場のそうした懐事情を解決する方法のようでしたが、2会場とも熱心な主催者や参加者に助けられいい研修会となりました。

  「金がない まず言う言葉 名セリフ 断わる訳に 行かず快諾」

  「出前だと 少々冷めたり のびたとて 文句は出ない そんな気持ちで」

  「二十年 前にあなたの 話聞く 言われて記憶 辿りたどりて」

  「会場に 知人友人 来てくれて いつも変わらぬ 話に花を」 

[ この記事をシェアする ]

人間牧場

○191交流協議会”輝”に招かれて

 広島県から島根県へ通じる国道191号沿線に生活圏をおく島根県益田市豊川・真砂・東仙道・都茂・二川・道川の6地区が、191交流協議会”輝”を設立して活動をしています。そのリードオフマンはそれぞれの地区公民館で、それぞれの地域の課題解決、活力ある地域の再生、地域を支える人材の育成を目的として、お互いの取り組みを尊重しながら助け合い、連携・協力を進めています。
 この会が設立された時、この地域の生涯学習などの講師として深く関わっていた私に大庭会長さんから顧問就任の依頼がありました。顧問くらいだったらと安請け合いで引き受けていたことを、すっかり忘れていましたが、会長さんから毎年のように講演の誘いがあって、その都度広島宇品まで送り迎えしていただくリップ待遇で、今年も昨日出かけました。送り迎えはその都度会場となる地区の公民館が引き受けるためまちまちで、誰が担当するかはその日にならないと分からないのです。今回は島川館長さんが送り迎えを担当してくれました。

 昨日は「輝き」の念願であった青年部を立ち上げることになり、10人ばかりの青年が大谷温泉に集まって昼食を兼ねたランチミーティングという小粋な集会が持たれ、私も顧問兼講師として招かれました。美味しい昼食を食べながら自己紹介を兼ねた話し合いが行なわれ、請われるままにショートコメントをはさみながら2時間ばかりお話が進みましたが、どの若者もしっかりしていて、いよいよ若者たちの出番であることを強く感じました。私はこの日のために愛媛特産のデコポンを5kg用意して運び、皆さんにご賞味していただきました。
 来年度は是非青年のメンバーで人間牧場を訪ねたいと言っていたので交流を楽しみにしたいと思っていますが、それにしても青年層がまちづくりに関わることの少なくなった昨今、こうして立ち上げようと努力した大庭館長や島川館長のひた向きな努力に、さらにはその呼びかけに呼応して参加した青年たちに大きな拍手を送りたいと思いました。

 公民館やまちづくりの現場に出向くと「青年が集まらない」とう言葉をよく耳にします。確かに青年団も殆んどなくなり、公民館やまちづくりの現場から青年の姿が消えましたが、それは集まらない青年が悪いのではなく、むしろ青年を集めることができないのではないかと思ったりするのです。特に田舎では青年の数は確かに減りましたが、青年全てがいなくなった訳ではありません。青年を集めるには青年の集まる条件を整備してゆかねばなりません。必要課題と要求課題のバランスも大切です。私たちのように自らが青年活動をやった経験のある人間には、そこら辺のサジ加減が分かるのですが、青年の意識や行動を分からない人や分かろうと努力しない人には、青年を集めることは不可能に近いことなのです。
 いつの時代も青年の瞳の輝きがない地域は輝かないし、未来の輝きも期待できないのですから、「輝」という集団が「青年の瞳の輝き」に期待するのは当然のことかも知れません。私も今一度顧問という役職に少しだけ軸足を置き換え、彼ら青年たちの自立に向けた活動の手助けしてみようと思いました。

  「『顧問です』 言われてそうか 思い出す これも役職 軸足移し」

  「青年の 瞳輝く 地域には 未来が見える 頑張れ拍手」

  「ランチ食べ 一人ひとりが 自己主張 昔の私 見ているようで」

  「往復に 十時間もを 費やして たった二時間 だけどいい会」 

[ この記事をシェアする ]