人間牧場

○島根県益田市へ出かけていました

 今日は朝5時30分に妻が早い朝食を作ってくれ、身支度を整えながら食事を終らせ、5時に軽四トラックで自宅を出ました。カーラジオのスイッチを入れると東日本大震災から一年ということもあって、早朝から東北の地震や津波、それにその後の様子が特番で組まれ放送が始まっていました。「早一年か!」と思いつつラジオを聴きながら車を走らせました。目的地は島根県益田市へ行くため、瀬戸内海を船で渡るための船着場である松山観光港です。早朝なので港までの道は空いていて松山観光港まではゆっくり走って40分ほどで着きました。今日は集まった人たちにデコポンを差し入れするため5kg箱を運ばなければならないので、一旦観光港まで荷物を持参して、友人の家の駐車場まで引き返し、車を置いて10分ばかり歩きました。早朝の道を散歩がてら歩くのは気持ちがいいもので、十六夜の月が私について歩き足元を照らしてくれました。

 (帰宅後ここまで書いて、風邪気味で体調がいまひとつなのを気づかった妻から、「ブログ書き」を止めるように言われましたので、今日はこの辺で納めておきます。お休みなさい)。

 (今朝続きを書いておきます)

 松山観光港から広島県広島市宇品までは高速船とフェリーが走っていますが、宇品港での待ち合わせが9時なので、6時25分発のフェリーに乗れば9時に着く計算でフェリーを選びました。昨日は日曜日ということもあって乗客も多く、私は乗船すると座席でなくマス席の隅を選んで横になりました。貸し出し用の毛布と枕を借り仮眠を取りました。早朝で疲れていたのか1時間余りぐっすり寝込んで、音戸の瀬戸のループ橋の下をくぐるころ、差し込む朝日で目が覚めました。船は穏やかな瀬戸内海を走り、途中呉港に寄港して宇品に向かいましたが、その間持参したジョン万次郎に関する本を読みながら、同室した若いカップルがイチャイチャする姿を横目にリラックスして時を過ごしました。

 港には島川館長さんとセンター長さんが迎えに来てくれていました。察するに多分私と同じ時間ころ家を出たのではないかと思われ、改めて頭が下がる思いがしました。宇品から広島高速~山陽道~国道191号を通って益田へ向かいましたが、恐羅漢スキー場付近からは猛吹雪となりました。予期せぬ季節はずれの吹雪に足元を掬われた車が何台も立ち往生していましたが、島川館長さんの車は四WD、しかもスノータイヤなのでスイスイ走り、あっという間に中国山脈を越え、約3時間で目的地の大谷温泉へ到着しました。大谷温泉は山間の奥まったたった一軒の温泉宿でした。沿線には沢山のアジサイやつつじが植えられていて、また川の両護岸は見事な石積みが続いて、小川のせせらぎやカジカ、蛍、花の頃はさぞかし美しかろうと推察しました。

  「同じ頃 出たと思しき お互いが 待ち合わせして 同行三人」

  「時ならぬ 恐羅漢の 猛吹雪 行く手を阻み それでも先へ」

  「雪と風邪 あなどるなかれ 妻の弁 雪はさて置き 風邪悩まされ」

  「山奥の 大谷温泉 一軒家 若者集い 話弾みて」

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人間牧場

○送られてきた月刊ガバナンス

 2~3日前、月刊ガバナンスという一冊の本が送られてきました。現役の頃は仕事に役立たせようと、こうした類の月刊誌を何冊か定期購読して、情報入手の手段にしていました。決して高くもない役場職員の給料の中から、毎月決まったように出てゆく本代は、財布を預かる妻にしてみればもどかしい気もしたでしょうが、妻も私の向学心を理解してくれ、本代が高いとか付き合い酒を止めろなどとは一度も言いませんでした。私もそのことを承知して、極力小遣いを使わないよう気を使ったつもりでした。
 月刊ガバナンスはぎょうせいという出版会社が作っている雑誌ですが、同じような第一法規という出版会社があります。いずれも法規や法令集、条例などの加除が主な仕事で、官公庁向けの出版も手掛けているのです。

 先日松山市内を歩いていたら、私が現職のころ本を売りに役場にちょくちょく顔を覗かせていた、第一法規の人にばったり出会いました。立ち話で余り長い話はしませんでしたが、最近は市町村の役所に行っても、本を買ってくれるような人は殆んどいないそうです。インターネットが普及して本の役割が終ったのか、役所の人が勉強しなくなったのか分かりませんが、確実にそういった人にめぐり合わなくなったと嘆いていました。役所の人に言わせると今は給料氷河期で、毎年のように給料が下がって、人事院勧告などあってもないようだそうです。確かにこう世の中が不景気だと税金で賄う公務員の給料は、世間から比べると安くなったといいながら、ノルマがある訳でもないし、余程悪いことをしなければ止めさせられることもないのですから天国かも知れません。ゆえに公務員志望は相変わらず多いのです。しかし給料が安くなったから勉強をしないというのは筋違いで、論外もはなはだしいのです。自分の能力を進化させてゆくためには、それ相応の投資が必要で、投資なくして効果はあり得ないのです。

 さて私に、何故月刊ガバナンスという雑誌が送られてきたのか、意味不明のまま封筒を開けると、編集局記者の名前で献本文書が入っていました。少しの時間を割いて目を通しましたが、P106を開いてやっと献本の意味が分かりました。「もっと自治能力を」「広がる自主研修・ネットワーク、「地域に飛び出す公務員を応援する首長連合」「公務員よ!・飛び出せ!、やり出せ!、頭出せ!」とまあ過激な中見出しが沢山目に止まりました。「地域に飛び出す公務員を応援する首長連合(代表=古川康佐賀県知事)の初サミットが1月28日、松山市内で開催された。職員と首長が思いを率直に語り合う首長&職員飛び出す甲子園なども実施。首長連合の支援を得て、今後、さらなる地域に飛び出す公務員の活躍が期待される」とリード文は続いていました。
 元祖!飛び出す公務員の自負を持つ私も、この集会にゲストコメンテーターとして招かれたことが、「人間牧場主若林進一さん(元愛媛県双海町職員」と、誤字でほんの数行紹介されていました。若松が若林になっていたことくらいで目くじらを立てることはありませんが、献本していただいた記者に感謝しながら、折に触れて中身を熟読させていただきました。

送られてきた月間ガバナンス

 その中に「人は紙なしでは生きられない」という新しいフレーズを見つけました。確かに活字を印刷した紙類は少なくなりましたが、トイレだっていくらウォッシュレットになっても紙なしでは用も足せないのです。リサイクルや植林等紙を巡る社会も随分様変わりしてきました。一方ではこうして送られてきた一冊の月間ガバナンスという本でさえ、多分今年の内には紙ごみとして捨てられる運命にあるのです。
 紙は私たちに多くの恩恵をもたらしました。ペーパーレス化がいくら進んでも紙の要らない社会はないのです。今一度そんなことを考えながら、紙から得るであろう情報を大事にして生きて行こうと思いました。

 

  「献本と 書かれた雑誌 若林? 俺はいつから こんな名前に?」

  「献本の 意味も分からず 封を切る 中身は濃くて 一瞬昔」

  「売れないと 嘆くセールス 久しぶり 原因PC いやいや勉強」

  「この本も 今年中には 紙ごみに 紙を大事に 言いつつ処分」 

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人間牧場

○3月8日はみつばちの日

 昨日の朝、いつものように書斎の壁に掛けている大きな日めぐりをめくっていると、3月8日は満月・国際女性デーとともに、「みつばちの日」であると書かれていました。この3年間、人間牧場や自宅の裏山で日本みつばち飼って、いささかなりともみつばちに思いを寄せている私にとっては、みつばちの日が特別な日のような気がするのです。早速昨日は朝食時にトースターで焼いたパンに、ハチミツを塗って妻と二人でみつばちの日のことを話しながら、美味しくいただきました。
 私がみつばちを飼うようになったのはもう三年も前です。人間牧場を作ってからアウトドアーな生き方に興味を持ち始め、地域づくり人養成講座で野村町山奥組の井上登さんと交流会で知り合い、早速彼の元に入門しました。入門といっても特別な修行がある訳ではありませんが、春の蜜蝋塗りや日本ラン・キンリョウヘンでの誘引、ハチミツの採取などなど、幾つものハードルを手取り足取り今も教えてもらい、手助けを受けているのです。

 お陰様で初年度の3年前には4升余りのハチミツを採集しました。残念ながら2年目は不作ででした。それでも3升5合は採れたのですから立派です。そして昨年は秋採りも含めると5升以上となり、私が最初計画した1年目1升、2年目2升、3年目3升、4年目4升、5年目5升という目標を3年間で達成する充実振りでした。しかしこれらの成果は井上さんの手助けなしにはできなかったことだし、馬路村の木下さんを介して山岡さんからもらったみつばちの巣箱のお陰なのです。
 昨年から同居を始めた長男息子も私に輪をかけたアウトドアー派で、私が採集したはちみつを勝手にいろいまくり、インターネットで容器の瓶を購入したりラベルを作ったり、時には糖度計で水分を85パーセントまで引き上げるなど、独自の勉強をして勝手に薀蓄を並べているのです。お陰であたかも商品化されたような綺麗なハチミツの瓶詰ができて、仲間や友人にお裾分けをしているのです。

 ハチミツにどの程度の栄養があるのか、またその栄養は体にどのような効果をもたらすかはまた不明ですが、エジプトピラミッドの時代からその存在が確認されているのですから、これはもう立派な自然食品だと思うのです。私は師匠が首を横にしか振らないのに、昨年秋採りを敢行し、多くのみつばちを犠牲にしてしまいました。裏山には種蜂として秋採りをせずに残していた箱に、少し気温が上がるとみつばちが出入りして様子を伺っているようです。寒かった冬もやっと峠を越し、間もなく花の季節がやって来ます、みつばちは花に群がり蜜を集めます。みつばちが集めた蜂蜜を人間様が横取りするのですから、多少心が痛みますが、これも世の中の流れでしょうか。今年の目標は少し控え目に4年目5升です。採集したハチミツは皆さんにお裾分けして少しでも味わってもらいたいと思っています。

  「みつばちを 飼ってハチミツ 集めたる 3月8日は 感謝の日です」

  「この3年 何度みつばち 刺されたか しっぺ返しの 刺し傷痛む」

  「ハチミツは 体にいいと 妻が言う 知らないくせに 息子も同じ」

  「今年の 目標4升 ノルマ立て そろそろ準備 養蜂作業」

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人間牧場

○花二題

 私が北海道へ行っている間に、新聞に二つの花の話題が乗っていたようです。一つは双海町閏住地区の菜の花が咲いたという話題です。伊予路に春を呼ぶのは椿さんだといわれていますが、今年は椿さんも1月末に終ってしまい、厳しい寒さだっただけに、菜の花の咲く春が待ち遠しくて、やっと咲いたかと、閏住の菜の花畑の前を通る度に、その咲き具合が気になって仕方がありませんでした。双海といえば早春の水仙、双海といえば春の菜の花といわれるようになるまでには、みんなの努力があってこそで、何にもない地域でも事を起こして地道に活動すれば、それなりに成果はあるものだと、皆さんの努力を讃えたいと思うのです。

愛媛新聞に掲載された菜の花の話題
 もう一つは桜の話題です。今年は日本列島を寒波が襲い、北日本ではドカ雪が降り、西日本でも年明けから寒い日が続きました。そんなこともあって、気象庁が話題を提供している桜の開花は4月にずれ込むのではないかと危惧されていますが、春の来ない冬はないので、桜前線の北上を待ちたいと思っています。
 私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループでは、3年間で1000本の桜を愛媛県内に植える、「千本桜の森づくり事業」を行なっていますが、3月5日の新聞に、伊予市中山町佐礼谷の住民グループ「住民自治されだに」が、私たちの事業に賛同して110本の桜を4日に植えたことが載りました。今回植えた桜は、10年もすれば花見の出来る立派な桜の公園が出来るはずで、1000本桜の森づくり事業も順調に進んでいて、私は北海道へ行っていて顔を覗かせませんでしたが、フロンティアのメンバーが世話をしてくれました。
3月5日の愛媛新聞に掲載された桜植樹の話題
 菜の花にせよ桜にせよ、みんなが努力さえすれば必ず花を咲かせるのです。蒔かない菜の花は生えないし、植えない桜は育たないのです。とくに桜はこれから10年、草刈りや施肥等をしなければ立派な公園になることはないのです。今年も私たちのメンバーである日浅大工さんが、桧の柱で標柱を作り、そこへ佐賀山さんが腕をふるって、文言を書いて桜の隅に立ててくれたものと思われます。大野事務局長のこうした気配りも裏にあるのであるのです。10年後が楽しみです。
  「菜の花が 咲いたと新聞 紹介す 春が来たぞと 嬉しくなりて」
  
  「蒔かずんば 種は生えない 植えずんば 木々は育たず 言いふらしつつ」
  「もう私 いなくなっても 大丈夫 花守人が 多く育ちて」
 
  「10年後 俺は七十 七となる 桜の花見 出来るだろうか」
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○北海道旅日記(その7)

 冬真っ只中の北海道の旅は僅か二泊三日でしたが、私にとっては今回も船木さんと井田さんご夫妻のお陰で、思い出多い旅となりました。千都山から見た網走周辺の景色は好天だったこともあって、はるかに知床連山まで見渡せ、また雪に覆われた大地はどこが畑でどこが湖なのか想像がつかないほど真っ白で、あらためて北海道の広さと魅力を満喫しました。
 女満別空港へ少し早く着いてカウンターで荷物を預けようとしましたが、少し大きめのカバンの中に木になるカバンを入れていたので、中に入っている金属製のハーモニカ2本がレントゲン検査に反応し、荷物を人前で開けさせられるハプニングもありましたが、乗り継ぎの中部空港を経由して最終目的地の松山空港まで届けてくれるため、身軽な姿で飛行機に乗れるのです。空港2階のレストランで少し遅い昼食を取りました。先日津別の西洋軒で食べた3代目の塩ラーマンの美味しかった味が忘れられず、ここでも塩ラーメンとハーフサイズのイクラやシャケの乗った丼を、井田さんご夫妻と一緒に美味しくいただきました。

 女満別空港で井田ご夫妻と別れ、少し早くチェックインしました。間もなく律儀にも船木さんがわざわざ飛行場まで見送りに来てくれました。チェックインしているため外に出あられず、携帯電話で話せることも忘れて、内と外の窓越しに大きな声でお互いの心を二言三言交わしましたが、少し心残りとなりました。前回来た時も船木さんや女満別の女性たちが、空港の屋上で盛大な見送りをしてくれた思い出が蘇りました。飛行機は予定通り14時45分に空港を飛び立ち、絶好の天気の中を飛行しました。左窓側の19番席だったため眼下に北海道の広大な真っ白い大地が広がり、やがて大雪山や太平洋が見えました。その後下北半島や津軽湾、青森市街、秋田、鳥海山、白山、新潟市街等をまるで日本地図を見ているように機窓から眺め、雨の中部空港へ降りました。
 乗り継ぎ時間が1時間余りあったので、空港の通路に置いてあるインターネット用のパソコンの前に座り、この日のブログを2本走り書きしました。空港でブログを書くのは2日前往路のこの場所で書いて以来2度目ですが、いい記念となりました。

 三日ぶりに帰郷した愛媛松山は残念ながら雨でした。それでも心配された飛行機の欠航トラブルもなく無事ふるさとへ帰って来ました。空港近くのコナンパーキングで愛車の軽四トラックと再会しました。帰宅後は船木さんや井田さんからいただいたホタテの干し貝柱を、息子たちにお裾分けして三日分の旅の思い出を存分妻に話してやりました。
 今年はどういう訳か県外への出張が多く、今月もこの度の北海道を皮切りに、この週末には島根県益田へ、そして香川県小豆島、広島県福山市と目白押しです。多分この歳なので今回の北海道サロマへの旅が一番遠いものと思われますが、退職して7年が終ろうとしているのにこの忙しさは、やはり尋常ではありません。心をしっかりともって仕事をこなし、行く先々の姿を目と心に焼き付けておきたいと思っています。今回の旅も私にとっては忘れられないものとなりました。船木さん、井田さんご夫妻、そして出会った人々に感謝をしつつ、北海道旅日記を終ります。写真の添付は間もなく・・・・。

   「恐らくは 一番遠い 旅だろう 講演終わり やっと一息」

  「今回も 行く先々で ご縁あり お礼のハガキ 次々届く」

  「お礼にと いつも変わらぬ デコポンを 郵便局から 北海道へ」

  「どうしたの? 今年は県外 行く機会 やたらと多く 困惑しつつ」

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人間牧場

○北海道旅日記(その6)

 温根湯の大江本家というホテルで北海道3日目の朝を迎えました。遠く離れた四国愛媛県ではこの日、菜の花まつりが開かれる予定でしたが、雨で出鼻をくじかれそうだと妻から電話があったものの、北海道はとてもいい天気で、朝の気温が氷点下15度でした。北海道は夜がふけるのが早い分、夜が明けるのがとても早く、折角の温泉地なのでホテルの大浴場で朝湯を存分に楽しみ、また朝食もバイキング方式だったため、北の大地の贈り物である冷たくて濃い牛乳を風呂上りに鱈腹いただきました。
 この日は移動日とあって別に用事もないので、井田さんご夫妻が私の案内役を買って出てくれました。まず温根湯温泉近くの道の駅に向かい、日本一大きいからくり鳩時計を見学することにしましたが、残念ながら真冬で寒いため、春までお休みで少しがっかりしました。海にも川にも余りご縁がない平地の場所ながら道の駅の横には水族館もあるようでしたが、これも改修工事のためお休みでした。

 私たちは温根湯から氷結した佐呂間湖を見るため佐呂間町へ入りました。井田さんたちが日ごろ生産活動をしている港も全て氷結していました。何年か前来た時見た筏の作業小屋は全てなくなり、内港がすっかり様変わりしていました。筏小屋は近代的な共同作業施設となっていましたが、この時期は作業は行なわれていないのです。
 かつて訪ね泊まったことのあるホテル、馬牧場のすぐ傍にある道の駅で流氷ソフトクリームを食べ、道の駅の駅長さんや店員と色々な雑談をしました。井田貴子さんの今回の研究テーマも、駅長さんは好意的に協力してくれているようで、早速貴子さんは打ち合わせをしていました。
 佐呂間湖が一望できる近くの展望台に上がりましたが、一面真っ白い雪原がどこまでも広がる姿は、かつて秋の頃の佐呂間湖を見ているだけにとても印象的でした。

 貴子さんのご主人である井田勝人さんは佐呂間漁協の理事さんです。佐呂間湖は三つの町にまたがった、周囲100キロの全国で3番目に大きな湖です。沖合いには砂州が取り囲むようにあり、二ヵ所で海とつながっている汽水湖なのです。湖はホタテの養殖に適していて大きな恵をもたらせているのです。勝人さんの案内で一般人は通れない砂州に通じる雪道を水門まで通らせてもらいました。なだらかに続く道を進むと、さっきまで陸地部から見えていた佐呂間湖が、沖合いから見えました。水門には大量の土砂が流れ込んで、それを取り除く工事や橋げたを高くする工事が行われていました。水門の向うにはオホーツクの海が開け、流氷が海岸近くまで迫っていましたが、残念ながら流氷の上に上がることはできませんでした。
 アッケシソウで有名なのとり湖や網走湖などの周辺を走って網走市内に入りました。天都山という小高い丘の上に登り、網走刑務所、網走市外、流氷に埋まったオホーツク海やはるか彼方に知床半島を望む眺望を楽しみました。そしてその近くの感動の坂道を登ると、貴子さんが通っている東京農大網走分校のキャンパスがあり、車の中からでしたが見学させてもらいました。

  「今日だった 菜の花祭り 思い出し 天気どうかと 携帯入れる」

  「氷結の 厚さ聞いたら 一メーター 桁が違うと 感心しつつ」

  「ほらあそこ 網走刑務所 へえそうか 行って見たいが 行くべきでなし」

  「湖も 畑も区別 できぬまま 眼下見下ろす 北国の冬」 

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○北海道旅日記(その3)

 女満別空港行きの飛行機の機内は、3月2日金曜日の昼間ということもあって、座席は空席が目立っていました。「間もなく女満別空港に着陸します」という機内アナウンスとともに、きちんと除雪している滑走路へ予定通りの時間に着陸しました。冬の女満別空港は2年ぶりで、松山空港で預けていた少し大きめのカバンを受け取り到着ロビーに向かいました。空港には船木さんが出迎えに来ていてこれまた2年ぶりの嬉しい再会です。船木さんはいきなり私に、「今からだと間に合うので流氷を見に行きましょう」と誘ってくれました。わが妻のように流氷を見るためにツアーで来ても見れない人間もいるのですから、早速その言葉に甘えて網走まで車を走らせました。

 流氷観光船が出る船着場には沢山の観光バスが到着してかなり混雑していましたが、予定通り観光船に乗り少し岸から離れた沖合いまで走りました。「せっかくだから特等席で見よう」というので船木さんが1人400円を出して中に入りました。何年か前に見た流氷ほど大きなものではありませんでしたが、それでもそれぞれの氷がまるでオオオニバスのような格好をしていて、とても幻想的でした。観光船は小売を押しのけるように沖合いまで進み、私も他の観光客に釣られてデッキに出て、船が小氷を割る迫力を目の当たりに見学しましたが、やはり氷点下10度の世界は肌を刺すような寒さで、そのうち室内へ入りました。何匹かのオジロワシが流氷の上で休んでいる姿を見ながら港に帰って来ましたが、今回の旅の土産話となる予定の流氷を見ることができて大満足でした。

 船木さんの車で津別町まで戻り、津別の西洋軒という塩ラーメンが美味いという店へ入りました。ここで夜の講演会を企画した津別町議会の篠原眞稚子副議長さんとお会いしました。大変失礼ながら女性で5期目の議員さんですから、さぞやおっかないと思いきや、気さくでとても素敵な方で安心しました。ラーメンを食べながら演題が「地域を支える人へのメッセージ」、50人くらい集まる、グリーンツーリズムの話や観光でのまちづくりなどについて話して欲しいなどなど、少し話の実態が見えてきました。
 ラーメン屋かのすぐ近くに会場となる木造の立派な建物はありました。町長さんや役場産業課職員、ツーリズム関係者、中には隣町美幌町議会の上杉さんの顔も混じって、北海道とはいいながら何人か顔見知りの人もいて、少し安心少し不安が交錯しました。

 講演は予定通りの人が集まって予定通りに始まり、約一時間の講演のあと30分ばかり質疑応答を行ないました。この町はご多聞に漏れず少子化が進んでいるそうで、そのことが気になるようでしたが、子どもの医療費を無料にするなどやっている子育て対策が具体的な実績になるまでのホームランはまだ打てていないようです。「津別はどんな町?」と印象を聞かれましたが、正直なところ普通のどこにでもあるような町とお見受けしました。だからといって何もないことを卑下する必要はなく、自分の住んでる町のいいとこを見つけ、それをオンリーワンに仕立てて行けば必ずいい町はできるのです。楽しいこと、美しいこと、新しいことをみんなでやれば、ひょっとしたらオンリーワンながら日本一になる可能性があるのかも知れません。

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人間牧場

○北海道への旅(その2)
 中部国際空港のロビーにて(3月4日午後6時前)

 今回の北海道の旅が決まってから、私の周りも少し慌しくなっていました。私は講演に行く場合極力短時間で行ける方法や安く行ける方法を探すのですが、今回はいくら早くても2泊3日なのです。しかも安いルートを探そうにも、目的地の北海道佐呂間町へ行くのには遠方のため空路以外交通手段は考えられないし、早特割引やパックなどで安い方法を探しても、もし大雪・強風・悪天候で飛行機が飛ばなかったら変更が効かず大変なことになるので、多少高くてもしっかりとした方法でチケットを手配しなければ相手に迷惑がかかると思いました。

 松山空港から女満別空港へ行くには東京羽田経由と中部空港経由の方法がありますが、息子にチケットを手配してもらったので、今回は中部空港経由を選びました。乗り継ぎ時間が1時間程度あるので、多少飛行機が遅れても乗継が可能なのです。でも何年か前北海道美幌町へ講演に出かけた折、大雪大荒れ手飛行機が飛ばず、東京で1日間足止めされ、明くる日の代替チケットを取るのに苦労したことを考えれば、羽田の方がいいような気もしましたが、運を天に任せ思い切って中部空港を選びました。

 松山空港の近くのコナンパーキングに車を三日間留めるため、空港までは軽四トラックで出かけました。松山から中部空港までは双発のプロペラ機です。松山空港では歩いて飛行機に乗り込みましたが、曇り、到着した中部空港は雨でした。乗り継いだ女満別までの空の旅は窓際の席だったのですが残念ながら曇り空、それでも太平洋から北海道上空に差し掛かると雲の切れ間から、どこを見ても真っ白い雪に覆われた北海道の大地が顔をのぞかせ、特に何度か訪れたことのある洞爺湖や美幌峠が綺麗に見えました。

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○人間牧場

○今日から北海道です

 今年はどういう風の吹き回しか県外出張の機会が多く、これまでに岐阜県白川村2回、福岡県直方市、高知県四万十町2回、広島県福山市と請われるままに遠出をしています。そして極めつけは今日から北海道佐呂間町と津別町へ出かける予定なのです。行く先々に新たな出会いがあって中々楽しいものです、しかし留守を預かる妻は、息子家族と同居しているとはいいながら少々寂しいと、口では言っていますが「亭主元気で留守がよい」とばかりに、私の留守中は大いに羽を伸ばすことでしょう。

 今回のご縁のきっかけは、何年か前高知県馬路村で開かれた、地域づくりの全国大会に参加していた北海道オホーツク寒気団という聞きなれない地域づくり団体に所属している、船木耕二さんとの出会いから始まっているのですから、世の中は分からないものです。船木さんとは北海道で何度か出会っていますがその道のベテランで、これまた偶然にも観光カリスマでやはり私の古い友人である、山梨県北杜市清里の舩木上次さんと名前が似通っていた間違いから出発しているのです。その話はまた帰ってから追々書くとして、とりあえず今日は中部国際空港経由で北海道へ向けて出発します。旅の安全を願いつつ・・・・。

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○松山工業高校の卒業式

 私には40歳になった娘を頭に4人の子どもがいます。その子どもたちも成長して独立しそれぞれの道をそれぞれに歩んでいますが、3人の息子が3人とも松山工業高校に進んだため、常任理事1年、副会長1年、会長6年と都合8年間も松山工業高校のPTA活動に参加しました。松山工業高校には私の8年の長さなどまだ序の口で、子どもがいないのに会長を長らく務め全国高等学校PTA連合会の会長まで務めた中川幸男元参議院議員がいるのですから驚きです。そんな校風もあって私もPTA会長退任後もPTA役員OBで組織するまさご会の会長をやったり、学校評議員をやるなど、未だに松山工業高校とのご縁が続いているのです。妻からは「いつまでやるの?」とか、「もうそろそろ辞めたら」などと悪態をつかれますが、そのうちそのうちと請われるままに長引いてしまっているのです。

 学校の評議員会は学期ごとに年3回行なわれますが、その他にも入学式、運動会、文化祭、卒業式の案内があるので、その都度顔を出さなければなりません。それでも現職の先生やPTA役員さんと顔を合わせると、何となく元気をいただき軽いカルチャーショックを受けるのです。
 3年前松山工業高校は100周年を迎えた伝統校で、少子化の影響で定員削減や閉校する学校が増え始めた風潮の中でも1年9学級3年27学級1000人規模を維持しているのです。この3年間で一番いい出会いは喜多岡校長先生との出会いでした。先生はひた向きな実行最優先の方で、年末には高知県佐川町から松山の自宅まで100キロの道をたった一人でランとウォークで踏破しているのです。「一歩上」を目指す学校経営姿勢はとても立派で、私など足元にも及ばない努力家です。sの姿勢は生徒にも先生にも波及し、昨日の卒業式では何と3年間皆勤者が全体の40パーセントを超えているというのですから驚きです。

 学校の評価は様々ですが、実業高校なので皆勤者が40パーセントを超えるという数字は何よりも高い評価で、そのためスポーツも資格取得も群を抜いているのです。数値目標を立て、その目標を一丸となって達成しようとするそのプロセスこそ教育だと、今年の3月で35年間の教員生活にピリオドを打つ喜多岡校長先生に大きな拍手を送りたいと思うのです。
 昨日の卒業式には知事代理として県の保健体育課長さん、議長代理として菊池県議会議員さんが見えられていました。私のような無位無官な男でもその横に席を構えていただき恐縮しながら卒業証書授与式を見学しましたが、キビキビした式典には大満足でした。
 お昼にかかったため、魚亀の美味しい弁当までご馳走になりました。OB会の役員さんや列席した歴代校長さんとも久しぶりにお会いして、懐かしく昔のことを思い出しました。

  「子もいない 何故に卒業 式に行く? 妻冷やかしの 言葉をかける」

  「えっ?俺の 席がこんなに 高いとは 少々あせり お尻かゆくて」

  「三ヵ年 皆勤多さに 驚きて 日本一では ないかと思う」

  「校長の やる気学内 伝播して 色々あるが 大きな成果」

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