shin-1さんの日記

○旅のつれづれ草③

 三重県御浜町のエコツーリズム研修会を終えて会場を後にしたのは午後8時30分を回っていました。明くる日の予定が入っていて、どうしても昼までに愛媛県松山市へ帰郷しなければならないため、御浜町へ泊ることができず後ろ髪を引かれる思いで、環境省の職員さんに熊野市駅まで送ってもらいました。しかし一足違いで先発の列車が出た後だったため、それから1時間近くも寒い駅舎の中で震えながら最終列車を待ちました。駅は人生縮図とでもいうのでしょうか、酒に酔った人、部活を終えた高校生、東京へ帰るお客などが少数ながら次々に増えて、「どこから来たの?」「何処へ行くの?」などのふるさと言葉が飛び交い、縁もゆかりもないのに寒さしのぎの会話をしました。

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 やがて寒風吹く2番線ホームヘ移動し、やって来た最終列車に乗り込みました。芯から冷えた体を鈍行各駅停車の座席に沈めながら、紀伊長島までの1時間20分を本を読んだり暗闇の車窓に流れる風景を見ながら過ごしました。何する当てもなくデジカメで車内や自画像を撮ったり多少悪ふざけをして、寒さや寂しさを紛らわせましたが、どこか寂しい夜行列車も一興がありました。

 最終列車は約5分ばかり遅れて紀伊長島の駅に着きました。何人かいた乗客も一人減り二人減りと下りて、終着駅が近付くころには私一人の貸し切り状態のようでした。

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 深夜11時10分、紀伊長島の駅に降り立つと音もなく小雪が降っていました。主催者に取ってもらっていた「ひさごやや」という旅館は目と鼻の先にありました。ひょっとしたら小説でも書きたくなるような雰囲気だったので少し小説風に書いてみました。

 進一が三重の田舎町の駅に降り立ったのは11時過ぎだった。

 初めて降りた終着駅の看板には「きいながしま」と書いてある。「遠い所へ来たもんだ」と思いつつ改札口に向かうが、自分以外昇降客は一人もなく、いつも持ち歩いている木になる鞄の重さが手にずしりと感じられた。気動車のエンジン音と赤いランプは旅情をかき立てるが、早朝からの長旅や旅先での仕事が終わったこと、熊野市駅での待ち時間が長かったこと、気温が予想以上に冷たかったことなどが重なり、そんな余裕など感じられない程進一は疲れていた。

 無造作に声もなく切符を受け取る駅員をしり目に駅舎の外に出た。コートの内ポケットから送られていた宿の場所を示す地図を取り出し、薄暗い街灯の下で見ながら交差点の向こうに「旅館ひさごや」という看板を見つけた時は、「ああこれで疲れや寒さから解放される」と安堵の胸をなでおろした。

 「今晩は」。小さなキッチン宿の立てつけの悪い玄関を開けて中に入ると、人の気配はするのだが一向に出てこない。上がりかまちの直ぐ横の壁に目をやると、「御用の方はこのベルを押してください」と書いている。ベルを押すと八十がらみのおばさんがガラス戸を開けて背中を丸めて出てきた。「普通は十時が門限なんですけど」と、まだ来たばかりの客に、さも迷惑そうに一方的に話を始めた。「お金は三千円前金」「風呂は沸いてないので必要ならば沸かす」「部屋は階段を上がった所の二階の部屋」といい、「じゃあお風呂をお願いします」とポケットの財布から三千円を支払って二階に上がった。お客が来るというのにエアコンもつけず外と変わらず寒々としていた。部屋には寝間着とタオル、それに布団を丸めて積んであるだけの殺風景さで、旅館とは名ばかり、しかも節電のためテレビのコンセントも抜いていて、はてどうしようか正直迷った。

 とらえずエアコンのスイッチを入れたが古いためにリモコンの表示はまるで見えなかった。それでもコートのままで十分も我慢していると、少し部屋の温度が少し上がったように感じられたが、進一は「今夜はここで寝るのか」と思うとどこか侘しさが込み上げてきた。

 三十分が過ぎた。テレビを見ていると、おばさんが「風呂が沸いた」と告げに来た。「トイレはここ、洗面所はここ、風呂は廊下を下りたところ」と説明し、「朝は何時に出発」を確認してておばさんは自室へ入って行った。

      ~次号へ続く~


  「駅前の 小さな宿に 書き残す 宿帳まるで 小説のよう」

  「終着の 駅に降りるは われ一人 粉雪待って 旅情かきたて」

  「縁なくも 何処から来たか 何処へ行く 旅は道連れ 言葉を交わす」

  「最終の 列車乗り込む 人ありて この人何処へ  行くのだろうか」 

 

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○三重県御浜町を訪ねる②

 「浜街道で創る御浜の未来~エコツーリズム検討委員会~」の事業概要によると、①御浜町は、かつて熊野三山へ参拝するための巡礼の道だった本宮道と海岸沿いに南下する浜街道が残っている。平成16年に世界文化遺産に指定された「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部だが観光資源が他地域に多いため、御浜町への誘客に結びついていない。②地域特性を生かした地場産業の盛んな町を目指しているが、基幹産業である柑橘農業を取り巻く状況は、高齢化、担い手不足などの問題があり、遊休地、荒廃地などが目立ち危機的状態である。③こうした状況を打開するため値域活性化の一環としてエコツーリズムやフットパスに期待している。④これまでにも行政職員が中心になってツアーづくりなどが進められてきたが、定着していくためには地域住民や団体の参加を促し裾野を広げていくことが求められているという、概ね4つの視点が書かれていました。

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(講演する私)

 ふと私の町の20年前を思いだしました。明確には書けませんが、①過疎、②高齢化、③産業不振、④嫁不足の4つを問題点として認識し、「通過する町から立ち止まる町へ」をスローガンに掲げ町づくりを始めたのは昭和62年でした。まちづくり元年と定めたその年、町長からまちづくり特命係を命じられた私は、①まちづくり30人委員会、②まちづくりエプロン会議、③まちづくり青年会議、④役場まちづくりグループを組織して、1か月に一回の学習を行い、18時間マラソンシンポジウムとコスモス鉄道ふたみ号2001年の旅を企画し、本格的な町づくりを始めました。そして①人づくり、②拠点どくり、③住民総参加のオンリーワンづくりを目標にして20年間町づくり行政を進めてきました。

 結果的には観光ゼロから年間55万人の観光客がやってくる町へと変身し、現在に至っているのです。失礼な言い方ですが御浜町は私の町の20年前とまったく同じなのです。

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(町長さん)

 その成功の秘訣は?とよく尋ねられますが、①町長の明確なメッセージ(これがないと議会を説得できない)、②キーマンとして働く役場職員の存在、③夕日を地域資源にした情報発信手法、④住民の参加参画があげられます。つまり御浜町も①トップの意志、②役場職員のやる気、③地域資源の焦点化、④地域住民の参画さえやれば、三重県はおろか全国に名だたる町に変身することが可能なのです。

 この日の講演会は、私の講演と松本清さんのワークショップの2本立てだったため、私はその辺のさわりの部分だけしか話すことはできませんでしたが、まだ役場職員、地域資源、住民の反応確認は取れていないものの、偶然にも町長さんが出席していて私の話を好意的に受け止めていただいたようなので、まずはいい方向へ向かいつつあることは事実です。

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(参加者)

 まあ一回の講演会くらいで町が変わることはありませんが、環境省がエコツーリズムという崇高な論理を掲げて地域支援を行おうとしたきっかけはトリガーになったことは事実ですから、縁あってかかわったこともあり要請があればまtお手伝いをしたいものだと思っています。

 そのためには「みかんを売る」から「みかんを食文化に仕組みみかんをイメージで売る」くらいな思いきった発想の転換が必要だと実感しました。(はてさて、私のこのブログ記事を町長さんや役場職員、参加した町民の皆さんは読んでくれるでしょうか?)


  「二十年 前のわが町 よく似てる やればできるさ やる気があれば」

  「撒き餌する  喰いつくはずと 思っても 潮が悪けりゃ 釣果上がらず」

  「本願は 他力本願 成就せず 自分本願  本願成就」

  「ユネスコの 世界遺産じゃ 飯食えぬ 太田胃酸と 間違わぬよう」 

                                                                                                         

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