shin-1さんの日記

○間もなく53年の歴史に幕

 昨日は二宮金次郎探検隊の調査のついでに、私の母校である下灘中学校を訪問しました。この学校はあとヶ月余りで53年の長い歴史の幕を閉じる予定です。私たちが中学生だった頃は300人もいた生徒が10分の1の32名に落ち込み、学校の授業や部活に影響が出ていて、将来的にも生徒数の増加が見込めないことが原因のようですが、学校が消える寂しさは卒業生のみならず地域にとっても大きな問題で、ただでさえ冷え切った世相にの中で、暗い影を落としているようです。

 私たちが学んだ学校の姿はその後の新築によって跡形もなく、僅かに残る思い出はすり鉢の底のような運動場から見える原風景しかありませんが、45年も前にこの学校へ通った思い出ながら、今もありありとその記憶が蘇って来るのです。

 私たちの育った時代は子どもの数が多い時代でしたから、こんな田舎でも1学年2学級もあり、学校は活気に満ち溢れていました。体育館などなくスポーツは全て屋外、便所もポテンと音がする溜置きでしたし、学校の裏には畑があって、汲み取りした人糞を平気で撒いていた長閑な時代でした。

 それでも淡い初恋を感じる青春時代の幕開けを感じる果敢な年齢でしたから、一番思い出の多い学校かも知れません。ここで学んだ3年間ですっかり逞しくなって、私は宇和島水産高校へ遊学するためふるさとを後にしたのですが、この学校が私の人生の礎になったことは間違いないのです。

 居合わせた二宮校長先生と、この学校の卒業生の中嶋教頭生成を交えて職員室でストーブにあたりながら雑談をさせてもらいました。校長先生の話しによるとこの学校の卒業生は3489人だそうです。私も3489分の1なのですが、閉校後当分は新しい体育館も運動場も地元の人に開放されて使われる方針が決まっているそうですが、校舎は耐震のこともあって閉鎖され、やがて消えゆく運命をたどることでしょう。63回目の卒業式や、閉校式はもう間近に迫り、1年生・2年生は新しくなる現上灘中学校に出来る双海中学校へ引き継がれるようです。

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 歴史の歯車は否応なしに回りむしろ逆転さえします。下灘中学校は後戻りできない逆転の歯車かも知れません。日本全国を巡っている私が全国各地で目にした廃校地域のその後を思うと、この地域も決して右肩が上がりになるとは思いませんが、何か妙案はないものかと4階建ての校舎を見て思いました。

 歴史は全てではありませんが人が作るものです。仕方がないと社会や時代、それに人のせいにしてしまうと宿命になります。でも同じ命がついた言葉でも運命があります。運命は考えや行動で変えられるのです。変哲もないこんな町が、夕日の町として少しだけ輝いた時期がありましたが、あれは宿命と思って諦めず運命の扉を開けたからではなかったかと述懐するのです。ギブアップは一でも出来ます。ノーギブアップの精神で頑張って欲しい、そんなエールを学校に送り下灘中学校を後にしました。


  「わが母校 廃校間もない 聞く度に 在りし日偲び あれやこれやと」

  「久方に 母校訪ねて 見渡たせば 空山全て 変わらぬ姿」

  「ああここも 時代の歯車 逆転す 廃校なれば 有が無になる」

  「人生は あの日ここから 始まった 記憶たどりつ 校庭歩く」 

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shin-1さんの日記

○二枚の懐かしい写真に出会いました

 年末年始の慌ただしい日々も一段落したので、昨日は久しぶりに尻に火がついた形で色々な仕事を片づけました。年輪塾のチーフプロデューサーである清水塾頭が年末から年始にかけ、腕まくりして今年のテーマである二宮尊徳に傾注している姿を見て、塾長も動かねばと止むに止まれぬ行動です。清水さんから「塾長の年頭のあいさつをメールで」との督促もあり、急いで書き上げました。また今月で廃刊となる予定の「自悠くらぶ」の連載エッセー記事を書いてメール送信したり、はたまた動き出した今年の仕事の段取りメールもしたりと、パソコンもフル稼働しているようです。

 昨日は二宮金次郎銅像探検隊などと戯言のような名前をつけ、一人で町内の小学校3校を訪問し、居合わせた校長先生たちとその来歴や二宮金次郎について意見を戦わせました。双海町の由並小学校と翠小学校には二宮金次郎の立派な銅像があることは知っていたのですが、私の母校である下灘小学校には私の記憶の彼方には二宮金次郎の思い出があるものの、銅像が二宮金次郎から野口英世に変わっていて、そのルーツも興味があったので、ぶらり立ち寄ってみました。

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(由並小学校の二宮金次郎)
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(翠小学校の二宮金次郎)

 辻井校長先生とは一昨年、青少年赤十字大会の記念講演を頼まれたりして面識があるので、気ままに案内された校長室でお茶をいただきながらお話ししたところ、学校の史料室からアルバムを探して持ってきてくれました。早速お目当ての写真を探していると、何と私たちの卒業記念写真が出てきました。私が下灘小学校を卒業したのは、昭和31年ですから双海町という町が合併誕生した明くる年なのです。

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(私が写っている昭和31年度卒業記念写真)

 古い木造校舎をバックにして、先生全員とともにお行儀よく写真に収まっている自分の顔写真を見て、歴史の重みをしみじみと感じました。お目当ての二宮金次郎の銅像の写真もほどなく見つかりました。

 記憶をたどれば、「二宮金次郎が何の本を読んでいるのだろう」とこの銅像の台座によじ登ったのは確か小学校2年生の時でした。運悪く通りかかった黒田丈衛校長先生に見つかり、校長室で天罰として1時間正座をさせられました。校長先生は私に、「お前はなんであんな危な所へ上がったのか」ととがめました。「何の本を読んでいるか調べたかった」、「バカたれ、あの本にはいろはにほへとしか書いていない」と戯言のお叱り言葉を返されました」。私はその後も二宮金次郎の読んでいる本は「いろはにほへと」とばかり信じていたのです。

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(見つかった幻の下灘小学校の二宮金次郎写真)


 早速卒業記念写真と二宮金次郎の銅像写真を、西尾先生にお願いしてスキャンしてCDに入れていただきました。自分の卒業写真もさることながら、下灘小学校の思い出の二宮金次郎に出会えるなんて、思いもしなかっただけに大きな大きな発見でした。

 ちなみにその後この金次郎は受難したエピソードがあるので付け加えておきます。下灘小学校は運動場が狭く、子どもたちや地元の人がソフトボールをするのには窮屈で、少し大きなフライを打つと講堂の屋根やシンボルのイチョウの木によく当たりました。その都度勝手に決めたルールのエンタイトル2ベースなどが適用されるのですが、このボールが二宮金次郎の手に当たり、ポッキリ折れてしまったのです。ゆえにかなり長い間この二宮金次郎は身体障害を余儀なくされたのです。こうした学校の裏話はもう私のような古い人間とともに記憶から消えて行くのでしょうが、願わくば金次郎の銅像の思い出は長く伝えて欲しいものだと思いました。


  「偶然に 見つけた二枚の 写真見て 感慨深く 少し涙が」

  「この台座 上がり校長に 見つけられ お仕置きされた 昔懐かし」

  「バカたれが いろはにほへとと 書いている 嘘を教えた 校長悔し」

  「この写真 やっと陽の目を 見ましたね 皆に言っても それがどしたん?」 

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