shin-1さんの日記

○みかんがおいしい季節です

 わが家は私が子どもの頃は漁家でありながら細々と農業を営んでいました。農道などなかったため畑で作った作物は全て背中に背負って細い道を行き来したのです。当時は農家も車舟と称するもので畑で作ったみかんを力づくで下ろしていましたが、急な下り坂をすらし棒一本であやつる名人芸とでもいうべき姿を感心しながら見たものでした。

 その当時はプラスチックのキャリーコンテナなどなかったので、箱は全て木製でした。木箱に入れられたみかんは当時貴重品で、自宅で食べるのハネモノと称する傷や腐りのあるものばかりでしたが、それでも冬になるとコタツに入って手が黄色くなるほどみかんを沢山食べたものでした。

 母親が亡くなりみかんを作らなくなってもう10数年が経ちました。みかん畑だった土地は一時耕作放棄地となって一時荒れていましたが、人間牧場を造るために再び開墾され、もう一ヶ所のみかん畑も耕作放棄地を友人の稲葉さんがせっせと耕して遊んでいますが、みかんを作っていないことを知っている糠の友人からは毎年食べきれないほどのみかんをいただくのですが、食べきれなくて結局は腐らしてしまうのです。

 わが家の敷地内にある家庭菜園の隅には、甘夏蜜柑を中心にした果樹園があり、その隅に4~5本温州みかんが植えられています。母が存命中に植えたものですが、今年は興津早生という品種に沢山の実がなりました。先日親父と二人で収穫したのですがキャリーに3つも収穫しました。そのひとつは叔父方へ、そのひとつは姉方へおすそ分けしましたが、もうひとつは自家用に置いています。正月休みも終わったのでそのみかんを篭に入れコタツの上に置きました。食べてみるとこれが飛び切り美味しいのです。無農薬なので見栄えはしませんが甘みといいコクといい申し分のないのです。(先日友人の玉井さんから送っていただいた無農薬のみかんと同じ器量)


若松進一ブログ

 最近は果物の糖分が太る原因などと、まるで悪者のように言われていますが、私の友人たちがやっている朝フル、つまり朝の空腹のときにフルーツを食べるといくら食べても太らないそうで、友人たちはそのルールにしたがって朝フルして、ダイエットに成功した人たちなので実証済みなのです。彼らが言うのには食後の果物なんて食べ方は自殺行為だそうで、私も彼らの助言を得て極力朝フルしていますが、別に太ることはないのです。

 日本一のみかん産地こそ和歌山に生産量では追い越されていますが、愛媛に住む人は愛媛はやはりみかん王国だと誰もが思っています。だのにみかんの食べ方ひとつさえも日本全国に向かって発信できていないのです。私たちが子どもの頃のようにみかんをもっと食べる方法を考え実践すればいいのに、何故か高く売ることばかりを考えて、みかんの消費を増やす方法は置き去りのような気がするのです。

 私はこの冬、みかんを沢山食べれば風邪を引かないというジンクスでも作ってやろうかと、毎日10個程度のみかんを食べることを目標に頑張っています。

 愛媛のみかんは今が旬で美味しいですよ。勿論旬のみかんを食べている私も旬な人なのです。(自画自賛)


  「篭みかん コタツに入り 一つ剥ぎ 二つ目剥いで 口にほおばる」

  「見栄えなど どうでもいいや 自家みかん 安心安全 ゆえに美味しく」

  「一級品 県外送り わが家では 二級三級 紺屋の袴」

  「太陽の 恵みのような 果汁持つ みかんはやはり 愛媛の自慢」

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shin-1さんの日記

○ほたる保存会長の河野喜由さんが亡くなりました

 私の友人である河野喜由さんが亡くなりました。68歳の少し早い人生を区切った旅立ちに衝撃を受けています。河野さんが亡くなったという第一報は、年輪塾大番頭の米湊さんから出張先の八幡浜へ携帯電話でした。わが耳を疑うようなニュースに驚きましたが、「詳しいことは後ほど」という米湊さんの電話を受けながら、私の従兄の夫である豊岡強さんも亡くなっていて、通夜も葬儀も同じ時間だと困惑を隠せませんでした。こんな場合は身内の葬儀が優先するので、夕方身内の通夜に列席しました。最近は通夜も冠婚葬祭センターですることが多く、月心会館港南で通夜を済ませて、帰りに河野さん宅へ向かいました。この夜は河野さんの死を悼むように河野さん宅へ着いたころには雨がポツリポツリと、まるで涙雨のように降ってきました。

 河野さん宅には既に身内や友人が沢山詰め掛けていて通夜の真っ最中でしたが、一通りのあいさつを済ませ遺体と対面をさせてもらいました。奥さんの照子さんも時折涙で顔を濡らしながら気丈にも笑いながら思い出話をしてくれました。

 河野さんと私の出会いはかなり昔で、実家の跡を継ぐために就職先の愛知県から奥さんとともに実家にUターンした時からです。その頃私は町の中央公民館主事をしていて、河野さんの住んでいる三島自治公民館は夫婦学級などの学習活動が盛んで、私も月に一度程度その場にお邪魔していましたが、河野さんも奥さんもどこかと階の匂いのする異文化を持っていて、何かと気が合い何かと話し込んだものでした。河野さんは帰郷後生命保険会社へ就職し、詳しいことは分らないものの会社の所長などを経て定年退職後は奥さんと農業をやりながらのんびりと充実した暮らしをしていました。

 請われて地元のほたる保存会の会長に就任してから急速に私との縁が深くなり、何かにつけてまちづくりについて大いに語り合ったものでした。河野さんは一昨年双海町も分科会場として参加した地域づくり団体交流全国大会の分科会実行委員長として事務局を担当した米湊さんとともに、実行委員会にも欠かさず参加をしていただきました。私が全国の実行委員長をしていたこともあって、まるで親衛隊のように付かず離れず名サポーターぶりを発揮してくれたのです。


 穏やかながらしっかりとした理念や理論を述べる、翠小学校を中心としたグリーンツーリズムの中心人物的存在として、これからもリーダーシップを期待していましたが残念でなりません。

 河野さんとはこの2年間、伊予商業協同組合理事長徳本さんとともに、私がお世話している限界集落の勉強会

にも殆ど欠かすことなく参加して、楽しいおしゃべりをしていました。

 最近は健康診断で引っかかって入院するなど体調の変化もあったようですが、年末に風邪を引き少し体調を崩されたことが引き金で、あっという間の天国へ召されてしまいました。年末に丸山町長さんの葬儀で出会ったのが最後となってしまいました。

 退職後も都会暮らしのダンディーさは変わらず、田舎暮らしの私などは酔わせるような河野さんのカラオケの歌声に、何度感心したことでしょう。偶然にも聖浄苑で豊岡さんと同じ時間の待ち時間だったため、葬儀には出席できませんでしたが、奥さんの照子さんやご遺族ともあいさつを交わすことができました。

 年末年始は葬儀が多くこの二日間は通夜や葬儀のまるで梯子のような忙しいくも悲しい二日間でした。河野さんと豊岡さんのご冥福を心からお祈りします。


  「枕辺で そんなに急いで 何処へ行く 心で語り 涙流しぬ」

  「Uターン したころ彼の ダンディーな 姿見ながら 憧れました」

  「通夜葬儀 まるで梯子の 忙しさ 悲しみながら 二日過ごしぬ」

  「惜しまれる 人は早いと 俺に言う じゃあ俺要らぬ 人なのかしら?」

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