shin-1さんの日記

○二宮金次郎

 私たちは子どもの頃から二宮金次郎を知っていました。学校の校庭の隅に雨の日も風の日も立っていました。しかし二宮金次郎が何のためにそこに建てられたのかは、学校の先生に教えてもらったこともなくただただ記憶の隅にあるだけでした。

 しかし昔修身の本で二宮金次郎のことを習ったという母親から、金次郎の少年時代の苦労、勤労、倹約、親孝行の大切さを教えられ、大人になったら金次郎のように艱難辛苦を乗り越えて、世のため人のためになるよう人間になるよう諭されました。そして二宮金次郎の歌を歌ってくれました。したがって私は今でもうろ覚えながら二宮金次郎の歌を歌えるのです。

   唱歌 二宮金次郎

1、柴刈り縄ない 草鞋をつくり

  親の手助け 弟を世話し

  兄弟仲良く 孝行をつくす

  手本は二宮金次郎

 母親が私に歌って聞かせたのは一番の歌詞だけだったので、二番、三番は知りませんでした。

2、骨身を惜しまず 仕事を励み

  夜なべ済まして 手習い読書

  せわしい中にも たゆまず学ぶ

  手本は二宮金次郎

3、家業大事に 費えをはぶき

  少しのものを 粗末にせずに

  ついには身を立て 人をもすくう

  手本は二宮金次郎


 パソコンでインターネットを使い検索すると「手本は二宮金次郎」という館野義久さんが書いた文章が出てきましたので引用して掲載します。


  国定教科書の修身に載った人物が、私の住む青木村(旧大和村青木)に、人々の願いをかなえ堰をつくり、農村救済の術ともいうべき「青木村仕法を実施したことを知った時は大きな驚きでした。

 この堰から灌漑によって青木田んぼ(約88ヘクタール)は、秋になると小金の稲穂が波を打つ美田と化すのです。またこの堰はかつて青木や岩瀬の子どもたちの天然のプールとして、夏場の楽園だったのです。

 ところで、子ども心に描いた金次郎像が戦後音を立てて崩れたのです。帝国日本の臣民として、最も期待される人間像として、時の政府(軍部中心)に利用され、徒に金次郎の少年時代のみが意図的に変形されたため、保守反動のレッテルを貼られ、ことごとく否定された時期がありました。

 しかし、高度成長の波が止まり、国土や農林業はまさに荒れなんとしています。そのうえ日本人の心の豊かさが枯れ、人間関係の断絶、退廃が進み、二宮尊徳が最も恐れた人心の荒廃恐るべしの状況となっています。

 21世紀の今、このような社会状況の中で、再び二宮尊徳がよみがえり、農村復興、日本革命の旗手、実践的指導者、救世主として再評価されつつあります。幸い青木には二宮金次郎に係わる史料や遺跡が残されています。尊徳(金次郎)の生きた時代と現代を重ね合わせ、その実像に迫りたいと思います。

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(薪拾い帰りでの金次郎図ー幸田露伴著二宮尊徳翁挿絵よりー明治24年)

 幸い私はこの度、偶然にも桜川市へ行く機会を得て、合併前の大和村を訪れこの話を聞きました。これは偶然なのですが私にとっては必然と呼べる出会いでした。もう少し青木堰の話を聞きたいと思いながら、館野義久さんの文章を読み引用させてもらいました。年輪塾第2ステージの始まりにふさわしい出会いに感謝しながら、色々と学んでゆきたいと思っています。


  「偶然に 二宮翁の 話聞く もしや必然 感銘受けて」

  「尊徳の 遺徳を学ぶ 計画を 立てて間もなく 青木行くとは」

  「母親が 口ずさんでた あの歌を 今でも歌う 不思議な気持ち」

  「わが町に 二つあるのに 誰ひとり 説明できない 恥ずべきことか」  

 

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○思わぬ収穫二宮尊徳との出会い

 先日人間牧場と下灘コミュニティセンターを会場に開いた年輪塾公開セミナーも、一昨日講師で招いたノンフィクション作家佐野眞一さんの講演録が愛媛新聞に紹介され、一通りの作業を終えました。そして先日11月19日にふじという市駅裏の居酒屋で運営に携わった役員が集まり、宮本常一県経うの総括と今後の進め方について話し合いました。この2年間宮本常一の研究は現地に足を運んだり、時には忘れられた日本人の舞台となった高知県梼原を訪ねたりして、それなりの思いを心に刻むことができたのです。

 さて、年輪塾の方針が先人の生き方に学ぶことを掲げているので、次なる先人を誰にするのか色々と話しあいました。清水塾頭の提案で二宮尊徳を研究することが内々話し合われていましたが、二宮尊徳の思想は混沌とした現代にマッチしていることもあって、異論もなくこれから2年間二宮尊徳の研究をすることになりました。宮本常一を担当した浜田さんと豊田さんには今後も今までの研究を続けていただいて、「宮本常一100のことば」をお願いすることになりました。

 そんな折も折、私は昨日まで茨城県桜川市へ招かれ講演に出かけました。講演が終わってまちづくり教室という対話集会で、紅葉の美しい薬王寺という住職さんに巡り合いました。研修会が終わって旅籠へ行く途中、鈴木さんが私を薬王寺まで連れて行ってくれました。陽もとっぷり暮れて辺りは闇の世界でしたが、お寺の山門入口には何やら銅像のようなものが建っていました。よく目を凝らして見ると二宮金次郎なのです。いやはや驚きました。

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 何でこんな所に二宮金次郎が建っているのだろうと思いつつ山門を入ると、中には樹齢400年の山もみじがライトアップされて見事な幻想を醸しているのです。私も色々な紅葉をみてきましたが、樹齢400年の山もみじを、しかも夜見るのは初めてとあって感動しきりでした。
 聞けばこれまでこの紅葉は人に知られることもなくひっそりと寺ゆかりの人だけにしか知られなかったそうですが、合併して大和村から桜川市になったのを機に一躍有名になり、今ではこのようにライトアップされて多くの方々に知られるようになったそうです

 さて二宮金次郎の銅像がどうしてこの山門にあるかということですが、実はこのお寺と二宮尊徳は切っても切れない深いご縁があると言うのです。詳しい話は別立てで書きたいと思いますが、この近くにある青木堰を造ったのは二宮尊徳であり、堰を造った残りの木材でこの山門を作ったらしいのです。いやいや驚きです。

 しばし幽玄の世界を写真で紹介しておきます。

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  「何故にある お寺の山門 金次郎 首をかしげて 入り納得」

  「山モミジ ライトアップに 輝いて 裏と表を 見せて散る」

  「これほどの モミジ見たこと ない故に 声も出ぬほど いたく感嘆」

  「叩かねば 開かないとは このことか 尊徳翁の 偉業偲びつ」

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○早朝掃除を10年も間続けている商工会長は偉いです

 今朝4時、旅先である茨城県桜川市真壁の旅籠ふるかわで目を覚ましました。交流会が終わり皆が帰ってから寝たのは12時近くでしたから、4時間の睡眠です。でもこれが私の日ごろのリズムなので、寝不足とも思わず灯りをつけて旅先で読もうと思ってカバンの中にしのばせていた本を読み始めました。

 昨晩寝る前、宿の女将さんから「明日の朝は少し冷えるかもしれないのでエアコンをつけて寝てください」といわれその通りにして床に着きました。しかしエアコンの風の吹き出し口が丁度体に当たるため、方向も何も考えず、布団を18度転換して眠りました。

 目が覚めて1時間くらいしたころでしょうか、階下のトイレに行くべく急な箱階段をギシギシ音を立てながら降りて行きました。トイレを済ませて格子戸越しに外を見ると何やら人の気配です。どうやら聞き及んでいたまちづくり真壁の会長で、商工会長の川嶋さんのようでした。朝早いこともあってお互い声もかけず手を挙げて会釈しましたが、聞けば川嶋さんはもう10年間も通りの掃除を毎朝しているというのです。まだ真っ暗な街頭に出てゴミを拾って歩くのです。商店街の真ん中にある川島書店の対象でもある川嶋さんが掃除を思いつき始めたころは、殆どの人が奇異な目で見たそうです。「長続きするものか」とか「人気取りだとか」「ええ格好をするな」なんて思われ方は枚挙にいとまがなかったと言います。でも毎日ひたむきに掃除をする川嶋線の姿はいつしかこの商店街の名物となって、信用を得るまでになったのだそうです。

 かつて私も同じような経験をしました。「赤字になったらどうするのか」、「人が来なかったらどうするのか」と危惧する反対意見を押してシーサイド公園を整備したため、私への周りの冷たい目は相当なものでした。「掃除もできないような人間はまちづくりを語る資格がない」と松下幸之助さんにいわれたことを実践するべく講演を整備して間もなく450メートルの人工砂浜の掃除を始めました。朝5時から8時まで毎日3時間の掃除を始めたのです。冬の海岸は沖合から打ち上がるゴミや海藻などは半端な量ではなく、時には牛一頭もあるような海藻の塊が打ち上がり、その都度汗だくで除去作業をやりました。川嶋さんと同じように「ええ格好をするな」とか、「掃除くらいでまちづくりが出来るか」とか様々鍋性にも似た陰口をたたかれましたが、どこ吹く風と聞き流し、毎日3時間の掃除を教育長を退任して役場を去るその日まで毎日続けたのです。

 その結果私に対する信用は増して、シーサイド公園は黒字経営や配当をするなど、また年間55万人の観光客を呼び込むなど大きな成果を得たのです。私はその後次の人への配慮もあって掃除を止めましたが、川嶋さんは今でも早朝の掃除を欠かさずやっているようです。

 私と同じく昨日は夜遅くまで交流会をしていたし、お酒も飲んでいたので朝起きるのがきつかったのではと思ったりしましたが、暗闇の中を笑顔でゴミを拾っている川嶋さんの姿を見て、思わず手を合したくなるような心境になりました。真壁の町も間もなく伝建地区に指定されるかも知れないような立派な街並みを持っています。真壁といえばひな祭りといわれるほど全国に知れた町です。そのまちづくりの中心人物が掃除という誰にでも出来そうでできない奥の深い活動をしているのですから、文句のつけようがないのです。

 私たちは地域づくりといえば特産品を作ったりイベントをやったりすることのように思いがちですが、来た人に対するお接待の基本は何といっても心のこもった挨拶や清潔なまちなのです。四国は遍路の国といわれますが、その遍路が育んだお接待の心は人を思いやる優しい心が基本だと教わりました。

 私と同年代だと聞かされた川嶋さん、これからも体に気をつけられて余り無理をなさらず、身の丈サイズのボランティア活動を心がけて欲しいと祈っています。

 その川嶋さんが今朝は掃除が終わってからわざわざ、つくばエクスプレスの駅まで送ってくれました。恐縮してしました。


  「また一人 心揺さぶる 人がいる 格子戸向こう 笑顔で会釈」

  「言わば言え 強き信念 あるならば ものともせずに 笑い飛ばして」

  「大口を 叩くな掃除 出来ぬ奴 言われ毎日 十年超えて」

  「今にして 思えばよくぞ やったなあ 思い返して 自分を褒める」

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○久しぶりの茨城県

 昨年の1月31日から2月2日にかけて、地域づくり団体交流全国大会で茨城県を訪問しました。水戸が中心だったため茨城の各地にお邪魔することはできなかったのですが、今回縁があって桜川市から講演の依頼があり出かけました。そもそものきっかけは常磐大学の塚原先生が中心になって結成された地域資源学会総会の研修会で、私が20分ほどの発表をしたことでした。私の話を聞いていた桜川市職員の鈴木さんが私を招く準備を進め、そのプロローグとして7月16日山川さんと二人で人間牧場を訪ねてくれたのです。

 昨日は朝一番の飛行機で松山から羽田へ飛びました。モノレール、山手線を乗り継ぎ秋葉原からつくばエクスプレスに乗って45分、終点のつくば駅に着きました。この路線は初めて乗りましたがこんな短時間で茨城へ着いてしまうのですから世の中も便利になったものです。つくば駅まで鈴木さんと山川さんにわざわざ出迎えていただき、途中農協祭りの会場で、蕎麦打ち実演の出店で新蕎麦をご馳走になりました。

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(日本百名山に数えられている紅葉の筑波山)

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(JAまつりでの蕎麦打ちコーナー)

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(蕎麦をこねる蕎麦打ちグループのメンバー)

 さて桜川市という地名を聞いてもどんな街なのか正直いってピンときませんでした。それもそのはず、真壁町、岩瀬町、大和村の2町1村が合併してできた街なのです。街の中央を流れる桜川という川にちなんで命名されたそうですが、何故か一番小さな大和村に本庁が置かれ分庁方式による行政が行われているようですが、筑波山、加波山、足尾山の常陸三山が背後に連なり、裾野に田園が広がるといった、自然豊かな街なのです。

 つくば駅から約1時間で会場となるシトラスという旧大和村の文化ホールへ到着し、市長さん、夫k市長さんなど多くの方々と面談し1時30分からの講演会に臨みました。

 この日は市長さんンと副市長さんンも出席するという力の入れようでした。講演会と講演会終了後のまちづくり教室がセットになっていました。講演は全体的に話すのですがまちづくり教室は講演で話したことや日ごろのまちづくりの疑問質問を参加した人全員一言ずつ述べあい、それに私が答えるという楽しい企画でした。楽しい話や質問も沢山出ていい雰囲気の会だったし、最後は常磐大学の学生さんの発表や、常磐大学の塚原先生も助言してもらうなど盛り沢山でした。隣の古河市役所からも参加があって名刺交換も沢山させていただきました。

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(盛会だった講演会終了後のまちづくり教室)

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(旅籠ふるかわでの夜長談義)
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(夜長談義終了後の記念撮影)
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(夜長談義終了後の囲炉裏を囲んだ会話)
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(旅籠ふるかわの女将さんは市会議員さんでした)

 その夜は真壁の旅籠ふるかわというひなびた雰囲気の宿に泊めていただきました。一晩一組しか泊めないという宿は古風で、格子戸を開けて入ると囲炉裏があり、風呂も昔ながらの五右衛門風呂でした。まるで水戸黄門の世界です。でも旅情かきたてる雰囲気に旅の疲れも癒される思いがしました。

 夕方7時にはまちづくりの仲間たちが10人を超えて集まって来て、楽しい交流会が持たれました。私は酒が飲めないのですが皆さん酒豪ぞろいで、飲むほどに酔うほどに盛り上がり、夜遅くまで夢を語り合いました。皆さんにとって私の話は余程面白かったのか双海町へ夕日を見に必ず行くという相談がまとまったようで楽しみにしておきたい思っています。

 復路は松山へひりまでに帰る便を確保していたので、6時起床食事、6時20分出発という強行軍です。まちづくり真壁会長の川嶋さんと鈴木さん、それに石川さんが早朝にもかかわらず送っていただき筑波学園駅から秋葉原、浜松町、羽田、松山と元来たコースを引き返しました。今回もいい思い出の残る桜川市への旅でした。


  「昨年の 春に出会った 黄門さん、今度は尊徳 出会い賜る」

  「五右衛門と 言う名の風呂に ひとり入り 下簾板乗って ふわりプカプカ」

  「酒の席 お茶で付き合い 酔ったふり 俺も芸人 雰囲気合わす」

  「お酒とは 怖いもんだな 出来もせぬ 夢を語りて 大風呂敷を」   



 

 

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○冬の訪れ

 日中でも気温が10度程度までしか上がらず、このところの冷え込みは12月中旬並みの寒さだそうですが、92歳の親父もいよいよ冬ごもりの準備に余念がないようです。昨日は隠居の風呂の灯油タンクに地元の石油屋さんがやって来て満タンにして帰りました。また隠居の居間にはもう一ケ月前から電気の掘りコタツが入れられ、昨日は灯油ストーブまで入って部屋はポカポカです。加えて夜は電気毛布や豆炭コタツを入れて寝るのですから、ひょっとしたらモヤシのように芽が出るのではないかと思うほどの温度防備なのです。

 寒かったら厚着や暖房をすればいいのですが、このように温度を上げ始めると知らず知らずのうちに耐寒能力が下がって風邪に弱い体になるので気をつけなければなりません。年寄りにとって風邪と骨折は命取りの原因になるのでと注意をしているのですが、寄る年波に冬の寒さは堪えるようなのです。

 インフルエンザや新型風邪が流行っているようで、予防薬タミフルを打って予防するはずだった人がタミフルで命を落とす話題もあちこちで報告されているようです。また新聞にはインフルエンザによる学級閉鎖や学校閉鎖の記事が毎日のように載っていますが、風邪の予防はうがいと手洗いだけで、風邪にかからない食生活や運動に関することは余り紹介されていないようです。風邪に負けないないようにすることが第一なので私は極力薄着で通しています。

 そうはいいつつ今日から茨城県へ長旅に出かけるので、妻はズボン下を履いて行くよう勧めてくれました。私はズボン下など年寄りの履物だと強がって見せましたが、実は私もうこのほど65歳になって年齢的にはお年寄りの仲間入りをしているのです。歳をとったら人の忠告も聞かなければと、早速今日からズボン下を履くことになりました。ポカポカですが慣れると手放せないのではないかと思ったりしています。

 

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shin-1さんの日記

○今日は東京羽田経由で茨城県桜川市へ出張します。帰りは明日になります。

 お正月まで40日となって、いよいよ今年もカウントダウン、町の中は気が早くイルミネーションならまだしも、歳末商戦のために門松まで飾られて、錯覚の世界へと案内してくれています。

 政府は昨日わが国がデフレ傾向にあると発表しました。インフレも困りますがデフレも困ったもので、長引く不況であちらこちらにそのしわ寄せが出ているよで、「景気はどうや」といえば、「あきまへんな」と関西弁の賢治が帰ってくるのです。それでもユニクロなどのような安売りの店はかつてない業績を伸ばしているのですから不思議な世の中です。

 今日は東京羽田経由で茨城県桜川市へ向かいますが、東京から遠く離れた土地に住んでいると、日本の中心東京の雰囲気などテレビや新聞雑誌でしか見ることができません。ゆえに東京経由ですのでチラリズムで東京の風に当たってきます。

 今晩は桜川市で泊る予定ですので、帰りは明日になります。

 

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○夢の小箱

 私はこれまで沢山の夢を持ち夢の実現に努力してきました。その夢は人から見れば他愛のない小さな夢ばかりですが、それでも夢に描いた夢の殆どは実現し、やればできるという自信になって、それなりに強い自分を造り上げてきたのです。周りの人が「人生は思うようにはならない」と言っている話を聞く度に、全てではありませんが「人生は思うようになる」と反論したりするのです。

 23歳の時に描いた、26歳で結婚し4人の子どもを持ちたいという夢も、30歳になったらアメリカへ行きたいという夢も実現できたし、60歳になったら自由人になって人間牧場を作りたいという夢もやっとの思いで実現できました。これらの夢の実現には人に言えない人知れずの自分なりのたゆまぬ努力とひさくがあったのですが、私は出来るだけ自分の夢を公言するようにしてきました。人に言うことは、「あいつは口だけでやらない」と言われるのか、「あいつは言うだけのことはある」と信用されるのか、どちらにしてもかなり窮屈なプレッシャーが自分自身を襲うのです。それでも他人の目もさることながら、自分というもう一人の自分との勝負に勝つための努力は夢が大きければ大きいほど、成果が出た時の悦びは大きいのです。

 人間牧場を作る夢は50代10年間で温めていた夢でした。夢の実現には約1千万円という事業資金が必要でした。1千万円というお金は正直言って、田舎の役場に勤める貧乏な地方公務員の私が貯めれる金額ではありません。でも20年にわたってやっていた、金融広報アドバイザーという仕事で培った生活設計の資金計画という知識をもとに計画を立て小さな夢をどんどん大きな夢に膨らませてゆきました。そして悪戦苦闘はしたものの驚くなかれその夢は実現できたのです。

 思うに私の夢はとてつもない大きな夢ではなかったから良かったのかも知れません。いわば手の届き得る夢だったようです。また無理をせず5年計画を立て、水平線の家、ロケーション風呂、ツリーハウス、作業小屋、かまど小屋と1年1事業をモットーに次々完成させて行きました。私が主宰する21世紀えひめニューフロンティアグループや、このグループのパトロンと呼ぶべき関奉仕財団の支援も大きな力となりました。気がつけば人間牧場の周りには沢山の人々がいたのです。

 私は自称平凡人です。別に特技がある訳でもありませんが、強いて挙げれば目標を立てたら目標を実現するまで、とにかく石にかじりついてでもその目標を勝ち取ろうと努力すことぐらいは出来るのです。でもそれらを導いてくれたのはやはり家族も含めた周りの人なのです。リタイアして野の人となった今でも、またえひめ地域づくり研究会議の代表を辞した現在も私や人間牧場には多くの仲間が集まり、年輪塾なる今流のネットワークを作り、様々な楽しいことを仕組んでいますし、新しい夢もどんどん広がっているのです。

 さて私の夢の小箱にはこれからどんな夢があるのでしょう。知人友人から「次なる夢は?」と尋ねられますが、私の夢は終わりそうもないのですが、もう少ししたら大風呂敷を広げて夢を語りたいと思っています。

 数日前息子がヨーロッパへ旅行に出かけました。息子は今頃ヨーロッパのどこかで異文化ギャップを感じながら私がかつてアメリカを旅した時見たような夢を見ていることでしょう。


  「ことごとく 見た夢手にし 充実の 今を迎えて 人生愉快」

  「公言を すると心に プレッシャー 成し得た時の 喜び多し」

  「気がつけば 周りに人が 多くいて 我を導きく 感謝しなきゃあ」

  「次の夢 何か聞かれて 戸惑った 言うべきなのか 言わざるべきか」  

 

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shin-1さんの日記

○「虻蜂取らず」か「泣きっ面に蜂」なのか?

 昨日は忙しく、午前中松山のコープえひめ支所で組合員さん対象の勉強会があって講演を頼まれ、昼飯も取らず引き返し、昼からは大泉町の議員さんが双海町の視察にやって来て対応、夕方から年輪塾の役員会で再び松山へ向かい、夜10時近くに帰るという慌ただしさでした。いずれも気の抜けない集会なので、熱心に取り組んだ結果でしょうか、少々疲れました。

 「虻蜂取らず」という言葉があります。虻と蜂の二つを追う余りに結局は虻も鉢も取れない、いわば欲を出し過ぎると両方とも逃げてしまうという意味なのですが、昨日は虻はさておいて本当の蜂に右手の小指を刺されえらい目に遭いました。

 コープえひめでの講演が終わり急いで自宅へ引き返し、家の玄関の戸を開けようと自宅玄関の戸に手をかけた瞬間、何やら右手の小指に激痛が走りました。とっさのことゆえ、まして両手に荷物を沢山持っていたこともあって、何が起きたのかまったく分りませんでしたが、火が出るような痛さに思わず顔をゆがめ、足元を見ると何やら一匹のミツバチがポトリと落ちました。「しまった。蜂に刺された」と思いましたが時すでに遅しでした。急いで家に入り妻が藪蚊対策と称して作っているジュウヤク焼酎漬けの妙薬を出してもらい小指ごと突っ込みました。しかし見る間に腫れ上がり、あれから18時間も経っているというのに、手の指や甲はパンパンに腫れ上がって、傷みこそ少し収まりましたが少しいらいらしながらパソコンを打っているのです。


 昨日の忙しさは二つを追い求めた結果ではなく、「虻蜂取らず」ではな買ったのですが、むしろ「泣きっ面に蜂」という言葉の方が正しい表現なのかも知れません。私はそそっかしい性格なのでしょうか、それともアウトドアーの活動を年中やっているからでしょうか、蜂との相性がいいのか毎年蜂に刺されます。聞くところによると蜂に刺されると体内に免疫がなくなり、蜂に刺されて死ぬこともありうるというので注意はしているのですが、今年は人間牧場でミツバチを飼っていることもあって、採蜜をする際3ヶ所も刺されて、昨日で4回目の大げさにいえば事故遭遇なのです。この時期は戸外の温度が下がって寒くなり、ミツバチはもう戸外活動をしないはずなのに、やはり温暖化の影響だろうかと思ったりしました。

 ミツバチに関する私の師匠である山奥組の井上登さんの話だとミツバチは温度に敏感で、暖かい日は盛んに活動するのだと先日聞いたばかりなので納得はしていますが、ハチミツを4升もミツバチの世界から分捕ったことへのミツバチの反逆だと思えば納得もいくのです。

 まあ世の中は考えようで、刺された個所が手だっただけでも良しとしなければなりません。明日から桜川市へ遠出の出張が予定されていて、顔だったら男前を下げたであろうと内心ホッとしている所です。それにしてもこのところの忙しさは少々オーバーワーク気味だったことで起こったと少し反省し、もう少しゆっくリズムに体内時計を変えようと思った次第です。

 「てがわぬ蜂は刺さない」ということばもあります。蜂はてがわない限り攻撃しないという例えですが、今回はてがった気持ちはないものの、蜂にしてみれば戸に止まって昼寝をしていたのに起された腹いせかも知れないとこれまた反省した一日でした。


  「また蜂に 刺されわが家は 大騒動 秘薬妙薬 効かず大腫れ」

  「泣き面に 蜂とは上手い 表現だ ハチミツ四升 報復された」

  「昼寝中 むさぼる蜂を 起したと 言わんばかりに 攻撃されて」

  「免疫が なくなる不安 呼び覚ます 蜂に刺されて 死ぬかも知れない」 

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shin-1さんの日記

○息子への手紙

 私は毎日3枚のハガキを書くなど、田舎のおじさんにしては小まめな方ですが、私の出すハガキの相手は全てといっていいくらい他人なのです。4人の子どもへの用件は殆ど電話で済ませるので、これからも出すことは余りないようです。

 一昨日警察官をしている息子から、年末調整の手続きに必要なので保険の支払証明書を送って欲しいと妻に連絡があったようです。こんな場合妻は私が文章を書きそめていることをいいことに、「お父さん一筆書いて」と便箋と封筒を持ってくるのです。「お前が書いたら」と反論するのですが、最後は押し切られて私が書くのです。

 人に出すハガキや手紙は何ともなく書けるのに、いざ息子に書くとなると言葉が中々出ないようで、四苦八苦しました。まず時候の挨拶を書いて元気にしているかどうか消息を尋ねます。警察官をしていることもあってこの一年殆ど家へ帰らず、激務に追われているようです。妻が一週間に一回程度電話で消息を聞く折、私も電話口に出て雑談をするのですが、警察という秘密な部分の多い職場だけに、近況を聞いても仕事の話はまったくしないのです。

 未婚なので寮生活をしています。ゆえに妻は食事のことが心配なようです。外食や外食弁当が多いので栄養のバランスが取れず多少アレルギーな体質でもあるので、体調を崩してはいないかいつも、「野菜を食べろ、肉より魚、運動不足にならないように」と30歳になったというのに、まるで子どものようなセリフで電話している妻を見て可笑しくなるのです。

 息子の勤めている警察では先日大変な事件が起こったようで、署員一同心配の連続だったに違いありませんが、その事件も無事解決し、一昨日の電話では久しぶりに息子からかかってきたようで、ホッとしました。

 さてさて息子への手紙の本題は保険の支払調書の送付なのに、そのことは追伸でほんの2行の言い訳程度で終わり、くどくどと人生の生き方などを書いてしまい、少し自責の念に駆られながら妻に渡しました。妻は「さすがお父さん、私はとてもこんな文集は書けません」と持ち上げてくれましたが、受け取る息子はこの手紙をどんな気持ちで読むのでしょう。

 昔私が若いころ、一度だけ親父から下宿に手紙が届いたことがあります。わが両親はむしろ母親が文章を書くのが好きなタイプでしたから、親父の手紙は内心驚きました。でも短文ながら私への思いや、人生の生き方などをしたためていて、私はこの手紙を大切に持っていましたが、いつの間にか何処へしまい込んだのか思い出せないようです。

 男の親が男の子どもに手紙を出すことなど殆どないものでしょうが、私はこれからも出来れば出してやりたいと思っています。折しも長男は職場の旅行で今ヨーロッパへ行っていますが、ヨーロッパからエアメールでも届けば最高なのでしょうが、不器用な息子にそんなことを期待して落胆する方が野暮なので止めたいと思います。

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○タマネギの植え付け

 私が子供の頃は、福岡で九州場所があるころはとても寒かったような気がするのです。それもそのはず、今のような暖かい暖房器具が普及してなく、暖ははもっぱら火鉢に入れた炭くらいなものでしたし、着るものも薄っぺらいものを着て鼻水をぞろぞろ出していたのです。11月になると亥の子という行事があって子どもたちはとても楽しみにしていました。親父になってもらった丈夫な縄を一本持って、亥の子の神様の所に集まり、ワッカのついた大きな石に縄を子どもの数だけ結んで背中に担ぎ、集落のはずれから順番について行くのです。

 「亥の子に餅をついて、祝うものはじゃぐめじゃぐめ、○○さんという人は、一に笑顔を振り撒いて、二でにっこり笑うて~」と家の人に威勢のいい掛け声を聴かせれば、祝儀がはずむかも知れないと思い、一生けん命つきました。家の前は殆どの家が土だったので、亥の子をついた後は大きな穴が開いていました。亥の子は普通の年は年に2回ですが、暦のいたずらで3回あることもありました。

 やがて秋の陽長な一日、子どもの中の年長者が大将を努めている家を宿にしてイカ飯が炊かれ、子どもたちはその家に集まり神妙な面持ちでゆずと大根を供えた神様棚に祈りをささげて祝儀を開くのです。中にはみかんやお菓子しかくれない家もあって、子どものブーイングの対象になっていました。

 それでも大将が分けてくれる何がしかの分け前と平等に分けたお菓子とみかんを貰い楽しく遊んだものでした。今は亥の子とてすたれている地域が殆どのようですが、懐かしい子どもの頃の思い出は今も忘れることはできないのです。

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(植え付けの終わったタマネギ畑)

 わが家では毎年九州場所が始まると家庭菜園にタマネギを植えるようにしています。先日松山へ行った帰りに馴染みの園芸店でタマネギの苗を買ってきました。親類に差し上げる分も植えるので500本も買いました。園芸店の店主は500本と聞いて、余りの多さに驚いていたようでしたが、「若松さん、タマネギの苗は3分の2を残して葉先を切って植えてください。葉先は味噌汁の具に使うと美味しいですよ」と教えてくれました。葉先を着ることによって病気に強くなり、またトウが立つのを防ぐのだそうです。

 この日のために私は数日前耕耘機で中耕をして準備していましたし、親父も畝を作って待っていました。親父が掘った溝に私が腰をかがめて植えて行き土を被せるのです。わが家ではやがて吹くであろう強い北西の季節風で飛ばされないように、苗は風が通り過ぎるように根を北、葉先を南に向けて植えるのです。これも生活の知恵でしょうか。

 作業は1時間弱で終わりました。このタマネギの苗は来年の春先まで成長もせず泣かず飛ばずの状態で越冬するのですが5月まで、実に7ヵ月間も畑で収穫の日を待つのです。何とも長い期間を要する野菜なのです。わが家には軒先にまだ沢山のタマネギが吊り下げられています。冬の間の大切な食糧なのですが、今年は小雨状態が長く続いた影響で近年になく不作で、まるでラッキョウを思わせるような小ぶりなものが多く、料理に使うにもひと束があっという間になくなってしまうほどなのです。

 タマネギは便利な食べ物で、オニオンとして無地に晒して生で食べたり、加熱して食べますが、生だと辛いタマネギが熱を加えると何故甘みを出すのか不思議な野菜です。タマネギを食べると匂いがきつくてオナラも出て少々嫌がられますが、それでも体にいい野菜として私は大好きな野菜の一つなのです。わが家の家庭菜園は今年冬野菜が豊作で、食卓への出番を待っています。

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(白菜やキャベツ、ブロッコリーもそろそろ食べごろです)

  「タマネギの 葉先を切って 植え付ける 二人三脚 いつものように」

  「九州の 博多で相撲 始まると そんな頃かと 亥の子を思う」

  「今年また 親子元気で タマネギを 植える喜び 噛みしめながら」

  「七か月 畑に植わり 冬を越す 気長タマネギ あんたに脱帽」

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