shin-1さんの日記

○歌を忘れたカナリヤ

 私は若いころ青年団に入団し、仲間・ふるさと・主張・感動という人生を生きてい行く上で大事な道具を手に入れました。以来その道具は時と場所と人などの砥石によって磨かれ、今も私の大切な道具として人生のつれづれに使われ、生かされているのです。青年団活動では毎日のように団結の証として歌を歌いました。♯君の行く道は果てしなく遠い、だのに何故何を探して、君は行くのか、そんな~にしてまで」なんて歌を、腕や肩を組みながら歌ったものです。研修に出かけた行く先々で新しい歌を仕入れ、その歌を団員に広めたりもしました。「四季の歌」や「坊がづる賛歌」などは美しい響きとして今も時々口ずさみながら当時を懐かしむのです。その癖はその後勤めた公民館でも生かされ、学級や講座の終わりにはレクリェーションとしてみんなで歌ったものでした。

 さて、あれからどのくらいの月日や時間が経ったのでしょうか。今ではすっかり「歌を忘れたカナリヤ」となって、車の中でCDを聴いたりハーモニカを吹く程度しか音楽への関心は消え失せているのです。


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 そんな日々の暮らしの中で最近二つの歌う経験をしました。一つは先週の土曜日に開かれた年輪塾公開セミナーです。朝フル合唱隊などと銘打って音楽好きな人たちが集まり、セミナーの最後に歌おうというのです。メンバーの中には清水さんや大西さんなど楽器の堪能な人もいて、私は堪能でもないのに胆のうを患ったこともあって(笑い)ハーモニカ伴奏で引きずり込まれました。楽譜の読めない私にとって、清水さんから送られてきた楽譜はまるでお経の経本のようなものですが、幸いCDも一緒に送っていただいたので、パソコンでこの歌を聴きながら楽譜をなぞり、たった2時間程度しか練習せずにわが家煙会所でリハーサルと相成ったのです。その後本番までしばらく時間がありましたが、残念ながら練習する暇もなく当日を迎えてしまいました。当日は合唱の声にまぎれて私のハーモニカの吹き間違いもかき消され、「若松さんお上手ね」とある人からおほめの言葉までいただく始末でした。でも知らなかった笠木透の「私の子供たちへ」という歌を覚え、「みかんの花咲く丘」をハーモニカで吹いて事なきを得ましたが、歌を聴いていると何処か庫k炉にすがすがしい風が吹くような爽やかな気持ちになりました。これからも歌ぐらいなら歌えるのでみんなと歌い続けて行きたいと思っています。

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 その明くる日、私は四国中央市で開かれた「母親大会」へ招かれました。前日まで忙しかった私が居眠りでもしたら大変と、妻が一緒に行ってくれました。時間がないので余り見学はしませんでしたが、急な思いつきで一度は行きたかった川之江城を見学しました。昭和62年にできた新しいお城は鉄筋コンクリートでしたが、それでも櫓門や本丸は立派で妻も感激の面持ちでした。妻をイオンに降ろし、私は会場の福祉会館へ行きました。沢山の人が集まっていました。「憲法9条を考える」などという文章がちらつく、私にとっては難し過ぎる集会でしたが、講演に先立ち全員が歌詞本片手に指導者のリードで歌い始めたのです。最初どぎまぎしていた参加者も巧みな指導者の誘導によって上手くなり、一人の声は次第に大きくなって行きました。「里の秋」の逸話も「この街で」の秘話もいいお話でした。その効果なのか私の話にはいつになく反応が良く、いい雰囲気で話を終えることができました。

 公開セミナーの歌といい、母親大会の歌といい、歌はやっぱり心を豊かにしてくれます。音痴な私ですが、みんなと歌うと勇気を持って声が出せるのですから不思議です。音楽は音を楽しむのかも知れませんね。


  「通知表 音楽2の 私でも 歌を歌うと 何処か楽しい」

  「歌いつつ 青年団を 思い出す 腕肩組んで 心ときめき」

  「もう一度 昔に戻り やろうかと 歌の練習 し直す決意」

  「肩組んだ あな娘どうして いるだろう どこかの街で 誰と暮らして」

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shin-1さんの日記

○盛会だった年輪塾公開セミナー

 「佐野眞一さんを呼びたい」。そんな共通の願望が湧いてきたのは今年の2月、えひめ地域づくり研究会議が西瀬戸経済圏交流の助成を受けて実施した県外研修からでした。目的地であった宮本常一のふるさとである周防大島を訪ね、宮本常一の生家の近くの民宿に宿を取り、生家や菩提寺のお墓まで訪ねた宮本常一に触れる旅は、宮本常一の魅力をさらに高めてくれました。

 間もなくえひめ地域づくり研究会議の代表という職の、長い長い在任期間を終える予定の私には、少しだけ自由になるであろう肩の荷の軽さもあって、宮本常一に心酔している清水さん、豊田さん、浜田さんの熱い思いを肌で感じつつ、「旅する巨人」を書いた宮本常一研究の第一人者であるノンフィクション作家佐野眞一さんを呼ぶことに同意をしたのです。それ以来、善は急げとばかりに佐野眞一さんに急接近が始まりました。清水さん、豊田さん、浜田さんに、小番頭の松本さんも加わり、佐野眞一さんに来ていただくための作戦が密かに始まりました。この人のようなある意味有名な知識人を呼ぶのは、それ相当な熱意あるアプローチが必要なことは、まちづくりの世界に生き、これまでにも竹村健一さんや永六輔さんを呼んだことのある私には容易に想像がつきました。でも私上に彼らは熱い思いをもって奔走し、私の手助けをほんのちょっぴり加えただけで、見事佐野眞一さんと口約束ながら11月7日の年輪塾航海セミナー企画と相成ったのです。

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(ウォーキング前のミーティング)

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(山道を歩く参加者)
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(石一個の史実検証)

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(50分の完歩を終えて)
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(佐野さんとの記念写真)
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(皆が持参した青石)
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(漁協女性部手づくりの昼食弁当鱧御膳)
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(村上節太郎さんの写真が展示されているセミナー会場)

 私はこれまで10年間で40回を目指して開塾したフロンティア塾の経験がありますが、その母体となった私が主宰する21世紀えひめニューフロンティアグループは既に老生きに達し、その力が衰えているだけに人間牧場を開設したのを機に始まった年輪塾では、何としても新しい一皮剥けた塾を開きたいと常々思っていました。塾頭に清水さん、大番頭に米湊さん、小番頭に松本さんという強力な陣容を布陣し、塾生にも名を連ねた豊田さん、浜田さんなども加わって、フロンティアグループが持たなかった年輪塾ネットという新たな情報武器を使いながらネット上で公開討論しつつ準備を進めてきたのです。

 以来10カ月、年輪塾ネットは清水さんには不満足ながら私には満足の成果を得て、70人を超える参加と年輪塾ネットに加わった人たちの自立的行動で公開セミナーは開かれました。

 今回の公開セミナーで思わぬ成果が幾つも生まれました。歴博の協力で村上節太郎さんの写真展を開いたこと、宮本常一の生まれ育った周防大島を一望できる人間牧場まで片道50分の山道を、手繰りの石を持ってウォーキングしたこと、下灘漁協女性部の協力を得て昼食弁当に鱧御膳を堪能することができたこと、朝フル合唱隊が組織され猛練習でもあの程度でしたが、笠木透の「私の子供たちへ」という歌を覚えて合唱できたこと、腕をあげた高知県馬路村の木下さんや安田町の依光さんがマジックを披露したことなどなど、楽しい話題でいっぱいでした。

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(腕まくりで熱演された佐野眞一さん)

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鼎談の進行をする私)
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(鼎談の金本さんと門田さん)

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(佐野さんにサインを求める長い列)
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(ミニコンサートのようでした)

 壇上に上がった佐野眞一さんの話はとてもいいお話でした。後日講演の要旨は愛媛新聞の9面の「講演会から」というコーナーで紹介される予定なので割愛しますが、今回の公開セミナーには根強い佐野眞一ファンと宮本常一ファンが何人か参加され、講演の合間には佐野眞一さんの書いた本にサインを求める人が列をなしていたようです。私もその列に加わろうとしましたが、両方の時間と暇がなく断念しました。

 この日もう一つのプログラムは金本房夫さんと門田眞一さん、それに私を加えた鼎談も行われました。塾長である私が話しの橋渡しをしましたが、金本先生も門田さんも博学で雄弁家なので「忘れてしまった日本人」という曖昧なテーマにもかかわらず、私の話を除けばいいお話をしていただきました。

 穏やかな秋の天気にも助けられ、久しぶりにいい集会を終えることができました。宮本常一の生きざまに迫った2年間の学びは私を始め多くの人たちの心に新しい気付きを与えてくれました。宮本常位置からの学びは表面的には最終章となりましたが、豊田さんや浜田さんがそのバトンを引きつきでこれからも研究を進めてくれることでしょう。勿論私たちもその輪に加わりながら、年輪塾は次のステップへと進見たいと思っています。


  「この歳に なっても学ぶ 意欲あり 次は何する ページめくりて」

  「集会を 終えて一息 する間なく 次の作戦 同時進行」

  「アルコール ゼロのビールで 乾杯し 酔った雰囲気 久しぶりだな」

  「それぞれに 腕と力を 蓄えて 進化の跡が 見えて嬉しい」

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