shin-1さんの日記

○つもり違いの十訓

 仕事がら公民館のような公共施設によく行きますが、その施設の研修室やロビー、トイレなどには様々な張り紙がしてあって、気をつけてその気になって見れば役に立つものが多いようです。今日は松山市堀江公民館へ学生たちを連れてフィールドワークの研修に出かけました。いい活動をしている公民館だけあってそこここに気配りが感じられ、気持ちよく研修をすることができました。

 何気なく見た張り紙に「つもりちがい十訓というのがありメモをして帰りました。

 高いつもりで低いのが教養

 低いつもりで高いのが気位

 

 深いつもりで浅いのが知識

 浅いつもりで深いのが欲望

 厚いつもりで薄いのが人情

 薄いつもりで厚いのが面皮 

 

 強いつもりで弱いのが根性

 弱いつもりで強いのが自我

 多いつもりで少ないのが分別

 少ないつもりで多いのが無駄

 なるほどなるほどといちいち納得して読ませてもらいましたが、書いてある通り人間は随分つもり違いをしているなあと、しみじみ思いました。

 教養もないのに気位だけは高く鼻もちならない人が沢山います。能ある鷹は爪を隠すといいますが、本当に教養のある人は自分の教養など見せぬものです。知識=学歴だと思っている人もいて、中学校や高校しか出ていない人をさげすんだりしますが、その人たちに限って食欲、金銭欲、名誉欲、独占欲、性欲などの欲望が強くて、知識人と思われていた人がとんでもない過ちを起こし、新聞やテレビで話題になったりします。

 人情紙風船といわれるような淡白な社会になってきました。私たちが若い頃は人の悲しみを見て化のしみと思い、人の喜びを喜びとした人情厚い人がいっぱいいました。しかし人にへつらわなくても生きれる世の中になったのか人情はまるで紙風船のように軽くなって、全ての価値判断が金銭となり、面の皮ばかりが突っ張っているようです。


 根性や分別といったこの世の中を生きて行く上で大切な物がないがしろにされ、自我や無駄がはびこっています。結局は教養、知識、人情、今城、分別といった人間が他人とともに生きる大切なものを子ども時代に教えるすべを失った結果ではないかと、家庭教育の欠落部分を思うのです。

  このままだと日本は駄目になると危機感を募らせている人は多いのでしょうが、それを見て見ぬふりをしてやり過ごす傍観者もまだ多いのです。日本を愛し、日本を正しい方向に導き、日本のためにやるような人間にならなければならないのに、日本の導かなければならない人たちは人のスキャンダルを粗つつきして、マスコミもそれを面白おかしく吹聴しているのです。日本はどうなって行くのでしょうか。高いつもりが低く、低いつもりが高い、深いつもりが浅く、浅いつもりが深い、厚いつもりが薄く、薄いつもりが厚い、強いつもりが弱く、弱いつもりが強い、そして多いつもりが少なく、少ないつもりが多い、つもり違いに気づいてそれを正さねば、21世紀は益々混迷の度を深めることになるでしょう。


  「公民館 張り紙見ても 教えられ 何とかせねばと 思うが出来ぬ」

  「わがことを 振り返り見る 色々と 深いつもりが 浅いことあり」

  「毎日の ように粗ボロ スキャンダル これでこの国 良くはならない」

  「政治家が 諸悪根源 だと思う つもり違いの 十訓知っているのか」

 

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shin-1さんの日記

○私の活動の場は松山市が圧倒的に多いです

 最近になって気がついたのですが、私の活動の場所は自分の住んでいる双海町より、25キロも離れた松山市が圧倒的に多いのです。毎週講師として通う愛媛大学も、毎月一回出席するコープえひめの理事会も全て松山市だし、また講演依頼で招かれる各種の会合だって県庁所在地の松山市で開かれることが多く、私はその都度自家用車を走らせ松山~双海間を往復しますが、その積み重ねが車の走行距離21万キロとなっているのです。

 松山へ行く場合の私のルートは主に国道378号と国道56号を走ります。途中の松前町にエミフルという大ショッピングセンターが誕生してから1年余りが経ちましたが、以前よりは松前町と松山市の境目付近にかかる重信大橋付近の交通量が多くなり渋滞気味になってきました。それでも早ければ40分、遅くても1時間弱で県庁まで行けるのですから、過疎地に住んでいると言いながらすこぶる便利な暮らしをしているのです。

 しかし、この便利さも自家用車を運転できるからで、もし私が明日から自家用車に乗れなくなるともうお手上げで、唯一の公共交通機関であるJRを利用して松山へ行くなら病院へ行くのも所用をするのにも、朝早く出て夕方帰るといった一日がかりになって行動範囲や要件が狭められてしまうのです。

 双海町に住んでいる私にとって今は何不足はないのですが、公共の足が殆どないことは大きな不安で、もし車に乗れなかったら、また歳をとって車に乗れなくなったらと思うとかなりネガティブな考えに陥ってしまうのです。

 昨日から今日にかけてわが家のオープンカー軽四トラックが、車検のため使えなくなっています。私の車とトラックを使い分けて乗っている妻は、この二日間私が乗用車を使っているので、買い物にも行けず、僅か二日間だけなのに多少不満を漏らしているのです。

 私の親類に、私と年齢が同じくらいの叔父と叔母がいますが、仕事がら漁船の船舶免状は持っているものの車の免許証を持っていません。二人は何処へ幸にも公共交通機関しか利用できないため、行動範囲は私たち夫婦に比べ非常に狭いようです。勿論車を持たないため車の購入費用も車検費用も必要でなく、車で出歩かないので暮らしに費用がかからないのです。でも車万能な社会にあってどこか私たちと意見が合わないと思うことが時々あるのです。車を運転しない叔父や叔母にとって日々の暮らしの距離基準は、昭和30年代と同じ自転車で行ける距離なのです。そんな行動範囲を叔父と叔母と比較しながら、やがて私も車になれなくなる日がそんなに遠くはないと感じながら、今日も車の恩恵にあずかり、朝松山へ出かけて会合を済ませて夕方にはわが家に帰りました。松山が遠い叔父と叔母、松山が近い私と妻、人生はどちらが正しいか、それは人それぞれの価値観のようです。

  「今朝車検 二日車が ないだけで 不便と感じ どこかぎくしゃく」

  「活動の 場所は殆ど 松山か 何時の間にやら 古里離れ」

  「後少し 歳をとったら 自転車か 乗れなくなって 行動狭まる」

  「免許証 返した隣の 叔父さんが 何処か寂しく 歩く姿を」

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