shin-1さんの日記

○考える村村長のブログは面白い

 考える村の村長こと玉井恭介さんは私の大先輩です。宇和島水産高校漁業科を卒業しているため、初代の愛媛丸に乗った経験があるため、何かと気が合って何度となく出会い、色々な感化を受けてきました。私たちの学校のとりわけ漁業科卒業生は、同窓生の殆どが海人と呼ばれて船に乗るため、卒業後40数年経っていますが、殆ど交流することもなく、ましてや同窓会などしたこともないのです。時折先輩や後輩に会っても、もう昔のことなので名前と顔が一致しないのです。そんな中で玉井さんとはあるモーニングセミナーで出会いました。その後急速に交流が深まり今日に至っているのです。

 玉井さんは広告会社に勤務して定年で退社しましたが、在職中から多芸でコーラスをやったり詩を書いたり、時には玄人はだしの絵を描くのです。本人はいたって謙虚ですが、私のような無芸人から見れば何ともうらやましい限りの多芸ぶりなのです。そんなこともあって玉井さんの勧めもあって、「昇る夕日でまちづくり」と「今やれる青春」という2冊の本をアトラス出版から出した折も、編集について大変お世話になりいい本ができたのです。


 1ヶ月ほど前に私の影響でもありませがブログを始めたいと連絡がありました。文章は私など足元にも及ばない人なので期待をしていましたら、このほど「考える村・孫長のブログ」というタイトルでブログ発信をするようになりました。毎回ブログにアクセスして読ませてもらっていますが、実に面白い文章で、私は新しい文章が載る度に妻に読んで聞かせてやるのです。妻も時々やってくる玉井さんのことはよく知っていて、二人が思わず大笑いをしてしまうのです。ここで玉井さんのブログの原稿を私が紹介するよりも、直接アクセスして読んでもらった方がいいので敢えて書きません。ちなみにバックナンバーでテーマを見ると、趣味は散歩、賞味期限の切れた亭主、女性に囲まれ働く、明るい遺言ノート、孫長の不況対策、ヨイトマケの唄、ひもじい毎日、捨てられない物、企画道楽、退職後のイロハと続いています。3月29日付の退職後のイロハでは、私のブログを基に面白い記事に仕上げているのです。


 私の書斎には、玉井さんから貰った一枚の小さな額が飾られています。

 「・・・・・のぼってゆく。坂の上の青い点に一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみを見つめて坂を上っていくであろう。」     司馬遼太郎   「坂の上の雲」より

 この額は私の公務員生活の晩年を好夢員にしてくれました。お陰さまでいい仕事ができて軟着陸のリタイアができたし、今も白い雲を追い求めて生きているのです。

 私と玉井さんの出会いはそんなに長いものではなく、むしろたの友人からすると短い方です。でも人間には百回会っても一家しか会わないような人もいるし、一回の出会いでも百回の出会いのような人もいるのです。玉井さんはもちろん後者で、私の貴重な友人なのです。

 昨日は玉井さんからメールが入りました。私がこの度えひめ地域づくり研究会議の代表運営委員を降りたことを惜しむ文章でした。私を灯台に見立てて持ち上げてくれていました。有難いメールを私は今日のブログとともにプリントアウトして大事に保存したいと思っています。

  「考える 村の村長 名前つけ 考えること 確かにおもろい」

  「水産高 故に先輩 少ないが 唯一俺に 感化さす人」

  「なるほどと よそいき脱いだ 文章に 感心しつつ 見習うつもり」

  「読み聞かせ 思わず笑う 妻ありて 食卓いつも 話題なる人」   

  

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shin-1さんの日記

○果てしなく生え続ける雑草との戦いは続く

 わが家は田舎の家らしく敷地が660坪と、都会の人がうらやむほどの広さを有しています。他所から来た人たちはこの家庭菜園や果樹園付きの敷地を見て、羨ましがるのです。確かに狭いより広いに越したことはありませんが、広いと悩みも大きいのです。まず固定資産税がかかります。敷地を宅地と農地に分けているものの宅地並み課税と思われるほど税金がかかるのです。私たち夫婦が若くて安月給のころ、妻は役場に勤める私に内緒で「税金が高いのでは?」と役場税務課長に相談に行ったそうです。冬至の税務課長は「分相応な場所に住めばいいのに、分相応以上の場所に住んでいるのですから仕方がありません」と軽くあしらったそうです(笑い)。

 さらに広くて困るのは草が生えることです。草は春から夏にかけてが一番旺盛です。私たちが住んでいる四国愛媛では暖地のため3月の初めにはもう寒風をついて雑草が伸び始めます。4月の声を聞くともう伸び放題になるのです。91歳を超えた親父の日課は草との戦いなのです。祖母が亡くなってからは毎日毎日、来る日も来る日も草を引いたり削ったりする作業に汗を流しています。

 祖母が存命中、「家の周りの草を引きながら一周すると、最初に引いた場所にはまた新たな草が生えている」と嘆いていましたが、親父もまたそれに似た話を時々人にしているようです。

 本当は家の周りに除草剤でもまいたらいいのでしょうが、除草剤は体に悪いと聞いているので今のところは除草剤をまかず人力除草に頼っているのです。親父の話によると「歳をとったのでもう限界」と、時々弱音を吐きます。親父の姿を見て私もそう思いますが、いよいよ除草の仕事が私に回ってくるひも近くなったと実感しています。私には4年前から人間牧場の草刈りという年に4~5回の仕事があるので、家の除草を加える余裕は今のところないのです。私の場合多分これから10年くらいはまだ体力的に人間牧場の草刈りは大丈夫なのでしょうが、それ以降は規模縮小をしなければ追いつかないと、親父が私に話すように、私も息子に話をしているのです。

 この数日私は草削りの鍬を持って庭のあちこちの草を削っています。親父から見ればほんのままごとのような言い訳程度の草削りなので、親父の手助けどころか、削った草の処分まで親父が後始末しなければならず、結局はあまり役立っていないようです。

 先日わが家を訪ねた奥東のおばちゃんたちが、家の周囲の草の生えてないのに気づいて、「草野手入れが行き届いていて凄い」と褒めてくれました。奥東のおばちゃんたちは農家なので、わが家と同じような広い敷地を持っているようで、同じように草が生えて困ると嘆いていました。おばちゃんたちは間に合わないから除草剤を使うのだそうですが、それでも草は生えてくるとこぼしていました。

 昨日は大学での仕事を終えて午後4時過ぎに帰ってきました。妻が仕事に出ていて留守なので作業着に着替えて鍬を持って畑に出ました。そして夏みかんの園地内で草削りを少しだけしました。僅か1時間程度の作業でしたが、親父は大層喜んでくれました。

 草削りをすると日ごろ使わない腕の筋肉を使うため体力作りになったのでしょうか、小腹が空いて昨日の夕食は殊の外美味しくいただきました。今日は私の春休みです。お弁当を持って人間牧場へ作業に出かける予定です。


  「植えぬのに 肥料もやらぬ 雑草は どうしてこうも 毎年豊作」

  「雑草の ようになりたや 逞しく 踏まれけずられ それでも生える」

  「おばちゃんが 及第点を つけた庭 親父の苦労 少し報われ」

  「春が来た 喜びばかり 言うけれど 草引く者は 気持ち重たく」

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shin-1さんの日記

○明日から一週間、私も春休み

 昨年の12月から、毎週月曜日と木曜日愛媛大学農学部に通っていた仕事もいよいよ今日が最後となりました。いわゆる世間を騒がせている契約社員のような身分でこの4ヶ月間、与えられた研究室でただ一人、理論体系も分からぬまま「地域活性化論」について考えてみました。ある時はそれらの本を読み、ある時は思いつくままに用意されたパソコンを使って書いてきました。またその道の関係者とも出会いましたが、相手のいない自由を謳歌しながらも不自由な自由に多少面喰いました。それでも出勤簿に押印した33日間の大学での思考は、これからの自分自身の生き方に大きなインパクトを与えてくれたように思うのです。

 3日後には新しい年度が始まりますが、とりあえず「社会人の学び直し対応教育推進事業」の「地域活性化論」について、学生35人の前で15時間講義する準備だけは整いました。今年はこれまで6年間、愛媛大学法文学部で教えてきた「地域振興と地域づくり」についても年間60時間の講義をしなければならず、大学が多少重荷になるようです。それでも20年間務めた地域づくり研究会議代表運営委員を辞任することができて、多少余裕ができたので何とか歯車は回るだろうと鷹を食っているのです。

 これまでは交遊のある先生たちとの出会いのみで外から大学を見ていましたが、いざその中に入ってみるとまるで迷路のようで、「分からない世界」というのが正直な感想です。この年齢になって大学と付き合うとは夢にも思わなかっただけに面喰っていますが、客員教授といっても非常勤だし、まあ楽しく過ごしたいと思っています。

 明日から私は束の間の春休みを自分自身のリフレッシュのために一週間用意しました。春休みといっても別にパジャマを着て朝から寝るわけでもなく、また旅行に出かけるわけでもありません。ただボーと過ごしたいだけなのです。今週末の土日には私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループ恒例の「世界遺産をめぐる旅」として、近場の広島原爆ドーム、安芸の宮島、島根石見銀山を訪ねる予定だし、今春一年生になる孫朋樹の最後の春休みにも付き合わなければらりませんが、この一週間は仕事のことを忘れてしっかりリフレッシュしたいと思うのです。昨年の12月から33日間も日程表に加わった大学での仕事が、気力や体力を減退させているように思うので、畑仕事も加えながらのんびり過ごしたいと思っています。


 私が使っている予定表は市町商工会からいただいたオレンジ色の、持ち運びには不向きな少し大きめのものですが、これまで3ヶ月の予定表には、リタイアした人間とは思えないような数の予定が書き込まれています。これも今日で終わりで、この1週間はあえて白いままの空白となっています。

 また台所の大きい2か月毎のカレンダーには予定表から書き写した予定がびっしり書かれていますが、今朝妻が、「今週は予定表を書き忘れているのでは?」というほど真っ白なのです。ワクワクルンルンの1週間をさてどんなに楽しく過ごしましょうか。

 先日こーぷえひめの理事会の後、大川理事長さんにお願いして賀川豊彦の本を一冊お借りしています。この本は少し長めの本なのですが今週には読み終えたいと思っています。また3ヶ月間貯めていたブログ「shin-1さんの日記」のプリントアウトもしておかなければなりません。やりたいことは山のようにあって、案外自由ではないかも知れないと思ったりしていますが・・・・。


  「明日から 春の休みと 決めたけど やりたいことが 山ほどあって」

  「空青く 少し寒々 するけれど 桜も咲いて 心浮き浮き」

  「大学の 前庭写真 撮るらしく 椅子を並べて 座る人待つ」

  「トラックに 荷物を積んで 忙しく 車行き交う 異動の季節」

 

 

 

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shin-1さんの日記

○お口の門限を破った妻

 妻は「孫が来ると食事をしたような気がしない」とよくいいます。それもそのはず、昨日のように娘家族3人、息子家族3人、次男と一気に7人も人数が増えると、気の遠くなりそうな量を作らねば間に合わないのです。妻は早速昨日の午前中買い出しに行くというので運転手兼荷物持ちとして付き合わされました。昨日は食材は伊予市のフジ、お肉はAコープでした。本当は日常買い物をしている近所のお店で買いたいのですが、心を痛めながら品物がそろわないので出かけました。

 出かけ際「おばあちゃんと一緒に買い物に行く」と孫朋樹が乗り込んできました。もう1週間すれば小学校に入学する孫はこの歳になると知恵が働いて、財布を持っている少し甘めのおばあちゃんにつくのが目的達成には一番早道と知っていて、妻もそれを百も承知していながらついつい財布のひもが緩むのです。

 お留守番するはずの孫尚樹も子守りのつもりで同行、フジでは店内のカートに乗せるようせがむ尚樹を乗せて私の担当です。フジの店内は春まっ盛りで、弁当売場には市内近場の谷上山桜2分咲き、シーサイド公園桜2分咲きなどと桜前線の情報がしっかりと書き込まれ、弁当を売る商魂のたくましさに驚きました。

 孫たちはお目当てのキャラクター商品を買ってもらいご満悦でしたが、妻のカートに乗せられた品物の多さに驚きました。「何でそんなに買うのか」ととがめると、「お父さんは分からない」と相手にもせず、「はい次のAコープで肉の買い物をするので、レッツゴー」です。二人の孫を店内に連れて入るとまた何かを買わされそうなので車の中で待機しながら待ちました。ここでも肉を中心にかなりの買い物をしたようです。

 やがて買い物も終わり家へ帰りましたが凄い量でした。妻はそれをてきぱきと仕分けして昼食の準備に取り掛かりました。昼は水炊き、夜は焼き肉のメニューは若者向きで、私たち夫婦は魚中心の別メニューを食べましたが、孫3人と娘や息子、嫁を中心に食事が回転するため、私たち夫婦は結局後回しになって、それも孫の世話をしながらの食事ですから、食べたのか食べなかったのか分からないような一日でした。

 前日吊るし雛と花見をしに出かけた写真をプリントアウトしようと試みましたが、あいにく最後の一枚になってインク不足のランプ警告が点灯して全てはできませんでしたが、それらの写真を見ながら妻と私は、お泊まりで一人だけ残った孫朋樹を風呂に入れて寝かせ、お茶を飲みながら色々な話をしました。

 見ると妻はいつの間にかちゃっかり花見団子を食べているのです。就寝前3時間、願わくば5時間は食べないのが原則と心に決めているのに、妻は5時間前の門限を知らず知らずのうちに破っているのです。昨日のように若い人の食事は糖分と脂肪分が多いので、余程気持ちを引き締めないと糖分と脂肪分が胃に蓄積するのです。それでも妻は「今日だけ」と断りを自分に納得させて食べたようです。久しぶりの日曜休日を子どもや孫のために使った妻の忙しさを考えればそれもやむを得ないと、注意はしましたが納得しました。

 「寝る前3時間か5時間がお口の門限、午後8時か9時がお口の門限」は理にかなっているので、今後も守らないと写真に写ることが怖くなると妻に警告し長い一日を終りました。


  「糖分と 脂肪分には 門限を 守らなければ 写真が怖い」

  「日曜日 来る度わが家 大家族 賑やかいいが 余分はカロリー」

  「食べたのか 食べなかったか 分からない 習慣乱す 台風襲来」

  「痩せたよう 妻は願望 だが写真 ウソはつけぬな 体正直」

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shin-1さんの日記

○自転車乗りの練習の結果孫朋樹は乗れるようになりました

 昨日から家族で泊まりに来ている娘たちに、今日は息子家族も加わり賑やかな日曜日となりました。孫朋樹はあと一週間もすればいよいよ小学校へ入学です。既にランドセルも買って入学の準備も着々のようです。昨日は隣から貰った補助なしの自転車を引っ張りだして、自転車に乗る練習につき合わされました。昨日はサドルの高さを調節して足がつくようにした後、近くの保育園の駐車場まで自転車を運び練習を開始しました。

 自分の家には自転車も買って貰ってヘルメットまで用意しているのですが、娘婿が忙しいのかまだ補助なし自転車に乗る練習はしていないようです。最初は怖わそうでてんでダメでした。自分の場合もそうですが、転げる怖さが先に立って中々乗れないのです。昨日は何度となく練習したにもかかわらず結局は様になることなく諦め、また明日も練習しようと約束をしました。


 今日は練習をしようと約束をしていたのに、乗れなかった不安からでしょうか、朝からしり込みをしていました。それでも約束だからと昨日と同じ場所で練習を始めました。30分もした頃でしょうか、手を離したスキに一人で走っていました。本人は私が後ろを持っていると思っていて全く気が付きませんでした。朋樹君乗れた乗れたと言った途端ドスンと転げてしまいました。「おじいちゃんも最初は転げてスネから血がにじんで乗れるようになったのだから」と諭すと、少し泣きべそをかいていたのに歯をくいしばって練習をしていました。やがて様になって何度か一人で乗れる場合が出てきました。しめたものです。もう少しで乗れるというところでお昼のチャイムが鳴って時間切れとなりました。

若松進一ブログ(親類で貰った補助車のない自転車で練習した結果やっと乗れるようになりました。Vサインです)

 「もう一度練習しよう」と夕方誘いました。すると少し自信ができたのか今度は近くの空き地で練習再開です。教えた通りペタルを器用に靴で跳ね上げ、自分で発信して乗る練習をした結果、まあ60点の出来でノロノロ走りながら何とか乗れるようになりました。子どもは早いものです。僅か二日間の2時間程度の練習で乗れるようになるのですから嬉しいことです。余程うれしかったのかわが家へ母親やおばあちゃんおじさんまで呼びに帰って連れて来て、自分の雄姿を見せびらかしていました。孫にとってはこれからの長い人生を、自分足で歩く以外に人間の発明した道具を使って移動できるのですから、これほどうれしいことはないのです。

 私が子どもの頃はわが家に自転車はありませんでした。ゆえに親類の造船所にあった営業用と思われる重くて太い自転車を借りて練習しました。何度も何度もひっくり返し、ハンドルまで曲げて叱られたことを思い出します。それでも突然自分の体が急に軽くなって自転車に乗れた時の感動は、少年のころの忘れられない思い出なのです。わが家の自転車族は親父と妻で、妻は自動車と併用のため、正式には親父だけです。私も今は自転車には殆ど乗らず車優先になりましたが、エコの時代ですからもっと自転車を利用したいと思っています。

 何はともあれ孫にとっては今日は自転車に乗れるようになった記念すべき日なのです。


  「この二日 孫と二人で 自転車の 練習成果 ついに達成」

  「嬉しくて 爺婆に 叔父までもも 皆来い見てと 孫は胸張り」 

  「何回か 転んで起きて するうちに やっと自転車 乗れるようなる」

  「そういえば 自分も昔 嬉しくて 脛の擦り傷 痛さ忘れて」

  

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shin-1さんの日記

○少し早い花見と少し遅いひな祭り

 昨日は妻の勤める歯科医院が院長先生の都合で午後休診となったため、妻は中山町犬寄に住む友人たちが開いているひな祭りを見学に出かけました。私も誘われたため男の身でありながら参加しました。途中で友人の赤尾さんを東峰で乗せ三人での見学です。この日は寒の戻りのような少し肌寒い、そしてあいにくの曇り空でしたが風もなく、外歩きにはまずまずの天気でした。このところの寒さで全国の桜前線もストップしているようで、北の国からは雪の便りも届いているのに、そして私たちの住む海岸線ではまだ桜が1~2分咲きというのに、標高300メートルもあるような犬寄では沿道の桜がもう満開なのには驚きました。

若松進一ブログ (峠道は満開の桜が咲いていました)

 創作工房を持っておられる高市礼子さんは多芸な方で、ご夫婦でお母さんの実家の近くに移り住み、お母さんが住んでいた家を工房にして様々な創作活動を行っています。息子さん二人は東大出の優秀な方だったそうですが既に亡くなっておられるようです。

 
若松進一ブログ (抹茶の接待を受けました)
若松進一ブログ (春を告げるコウゾウミツマタの可憐な花)
若松進一ブログ (庭先で見つけた花の変わったピンクのコウゾウミツマタの花)

 高市さん宅へは夫婦で2度ばかりお邪魔しているので、すっかり顔見知りで愛想のいい笑顔で迎えていただきました。庭先には小さな茶席が幾つも用意され、既に来客が数組あって野立て抹茶を召し上がっていました。接待は近所友人たちで、殆どの人が顔見知りとあって、交わす言葉も懐かしい田舎弁丸出しで近況を話し合いました。来客の殆どもテレビやラジオで聞いたという近隣の方たちで、面識がある人が多かったようです。見学者の中にメル友の谷岡さんがいたことは驚きでした。谷岡さんたちも伊予市の中心商店街でひな祭りを開いていて、ご一緒している人たちはいっぷく亭で活動している人たちでした。

若松進一ブログ (艶やかな吊し雛)
若松進一ブログ (紙粘土細工の和尚産の姿もユーモラスでした)

 早速高市さんのご主人の案内で創作工房の展示場へお邪魔しました。まあ凄いもんです。普通であれば廃品回収のゴミとして出されそうなジョロさえ、庭の隅に置いて花を差し込むと、まるで生き物のように生き生きとして主張するなど、高市さんの腕にかかるとお宝に変身するのです。入口の部屋はみの虫やモグラの皮を使った創作品や珍品展示、あとの3部屋は吊し雛やパッチワークなどそれは艶やかに、それは見事に所狭しと展示してありました。

 年始めにお邪魔した時鶴と亀のわら細工を見せていただきましたが、その見本を探していたようなので、島根県旧吉田村の松島さんから頂いてわが家の玄関先に飾っていたものを持参して差し上げましたが、大層喜んでいただきました。

 高市さんの工房にお暇して、松浦千枝子さんが開いている近くのゴリラハウスという太鼓の練習小屋へ立ち寄りました。そこにもこじんまりとしたお雛様が飾られていました。コーヒーとケーキを買い求めしばし休憩しましたが、ここは双海町と中山町の境になるため、庭から見える遠望は双海町の山々でした。

 その後3人で初めて走る山道を赤海(あかさこ)などの桜を見ながら走りました。海もないのに赤海とは?と思いましたが、遠望に瀬戸内の海や島々が見えて納得しました。桜の下で記念撮影をしました。妻と赤尾さんをモデルにして満開近くの桜も困惑気味のようでした。

若松進一ブログ (赤海の満開の桜の下で)
若松進一ブログ (眼下に大平の市街地と瀬戸内海の見える山道)

 伊予市大平に抜け、そば吉で遅い昼食をしました。抹茶やお菓子を食べていましたが小腹が空いていて、ぜいたくご膳というメニューのそばを美味しくいただきました。国道⑤6号沿いの赤尾さんを送って別れ、高見経由で帰路に着きましたが、途中久保の武田さん宅の見事な花桃を通りすがりで見学していると、折しも帰られたご夫婦と出会い、石工をしてご主人が手作りという見事な庭や庭樹の数々を説明つきで見学しました。いやあ見事でした。帰りに花桃の苗までいただき、一足早い身近な春を満喫しました。

若松進一ブログ (桃の花が咲き乱れる武田さんのお庭にて)

  「早いのか 遅いのかさえ 戸惑いつ 桜の下で お雛様見ゆ」

  「犬寄と 言えば昔は まばら人 峠の難所 今は車で」

  「凄いねえ ただただ感心 しきりなり これも生き方 俺にゃ越えれぬ」

  「赤い桃 競って咲きし 人の庭 余り見事に 思わず見とれ」  


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shin-1さんの日記

○忘れられたギター

 「私は音楽が苦手です」とハーモニカを吹く度に前置きして吹いています。そうすることで、「音楽が苦手な人でも練習すればあれくらいは吹けるのか」と安心して聞いてもらえるからです。しかし本当のことを話すと、確かに小学校頃の私は音楽の通知表は常時2だったのですが、中学校になると私の音楽は急成長を遂げたのです。多分そのきっかけは音楽担任に西岡圭造先生という新採先生が受け持ちになってからでした。先生は音楽を「音を楽しむ」と説明し、それまでと一変した音楽教育をしてくれたのです。学校のピアノなどは大切な備品なので先生以外は弾いてはいけないとばかりに鍵がかけられていました。西岡先生は弾きたくなったらいつでも弾くべきだと主張し鍵はかけませんでした。貧乏な家に育った私を含めた生徒たちは、それまで触ったこともないピアノをやたらと遊び道具にしました。その結果だろうと思うのですが音楽の授業が面白くなり、いつの間にか通知表は2の倍の4になっていました。私たちの時代は高校受験は9科目でした。英語や数学ができなくても、職業家庭や音楽で点数が取れれば十分頭のいい子に太刀打ちできたのです。私もその一人でした。

 やがて中学を卒業するとそれぞれの高校に進学したり家業を継いだりと進路は変わりましたが、水産高校にす進んだ私は同郷の5人とともに宇和島で下宿生活をしました。そこには知人友人先輩も沢山やって来て、恋の話は勿論のことギターなども持ち込まれ、下手糞ながら楽器に触れる生活は続いたのです。私もドレミファソラシドくらいから、「酒は涙か溜息か」くらいまでいつしか弾けるようになっていました。

 青年団に入団したころ、ギターは絶頂期で、多くの仲間がバンドを組んで田舎芝居にスター気取りで出演して課っしを浴びていましたから、いつしか私もなけなしの小遣いをはたいて安物のギターを購入し田商熱中した時代もありましたが、丸ではやり病のように冷めて、ギターは書斎の隅にお飾り程度の役割で埃まみれになって置かれているのです。まさに今では「忘れられたギター」という表現がぴったりなのです。

若松進一ブログ

 今朝ふとその忘れられたギターに目が移ったので、卸して布で埃を拭き取り、家族が留守であることをいいことにそっと弾いてみました。ドレミファソラシドを弾きながら少しだけ調律し直し、何曲か挑戦しましたがもう左の指と右の指がバラバラで動かず、断念してしまいました。

 しかしこのままだと勿体ないので、少し手入れをして少しだけ挑戦をしてみたいと思っています。ハーモニカのように木になるカバンに入れて持ち運びもできないので、人様の前で披露するなどという大それたことはできませんが、それでも自分の暮らしを豊かにする手立てとして使って行きたいと思っています。

 私たちの身の回りにはこのように、何気なく置かれているものの中には使えば十分役に立ったり、感性が磨かれるものが結構あるものです。放っておいたらゴミかインテリア、使えば心が豊かになります。ギターが再び弾けるようになりたいものです。

  「忘れられ 書棚の隅で ひっそりと 埃被りし ギターつま弾く」

  「青春の 思い出詰まる ギター抱き つま弾きながら 過ぎし日思う」

  「もう何年 触らぬギター 手と指が 下手くそながら 曲を奏でる」

  「ナツメロか 知らぬ私は もう古い 幸田未来など 顔や名前も」  

 

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shin-1さんの日記

○ブログが一冊の本になる

 「毎朝一本、毎夜一本」と聞けば何を連想するでしょう。お酒の好きな人はビールやお調子、愛煙家であればたばこを思い出すかも知れません。またドリンク剤や、糖尿病の人のインスリン注射だってあるのですが、私の場合は酒も煙草もドリンク剤も、ましてやすこぶる健康ですので注射の必要もないのです。私が勝手に決めている「毎朝一本、毎夜一本」というはブログを書く数量のことなのです。2005年9月8日から始めたブログは最初のころ一日一本の日もありましたが、その後朝夜2本となってパソコンの中に蓄積しています。

 元々の発端は娘婿が「パソコンで日記を書いてみたらどうか」と勧めてくれたことでした。てっきりお金がいると思っていた私は、合併でリタイアしていたこともあって、「そんなお金のいることはしない」と言いましたが、娘婿は「アメーバブログというサイトだったら無料だ」と聞き、興味本位もあってとりあえず書いてみることにしました。しかしブログの書き方も間違った文字を編集訂正する仕方も分からないまま始めたため、最初の頃は変換ミスや誤字脱字がやたらとあって、忙しい日々の合間に書かなければならない朝夜2本の記事は、むしろ面倒くさい時期もあり少し重荷になっていました。途中で止めるのもどうかと半信半疑の朝夜2本は、いつの間にか自分の日課に組み込まれ、ブログを読んだ方からの感想が返信で送られてくる度に、止めるに止められなくなってしまいました。とりあえず1年、とりあえず3年という当面の目標はあっという間に過ぎ去り、今は4年目の半分まで進んでいるのです。

 今はこのままとりあえず5年の目標に向かって肩肘を張らず、つとめて平常心を基本に書いています。元々記事を書くことは、役場の仕事で広報ふたみを10年間にわたり書いていたこともあって、そんなに嫌いではなかったの長続きになったのだろうと思っています。

 最近はデジカメで撮った写真を取り込む方法を教えてもらったため、随分カラフルになって読みやすくなりました。またアクセスも多くなり、誰がどんな目的でアクセスするのか、昨日は私のような人間のブログに一日だけで3000件もあるのですから驚きです。ブログは加入者のアクセス数が毎日ランクされる面白さもあるようですが、私の場合は内容が地味なためそんなに高くなく、総合は15000台、日記は4000台を上下しているようです。まあ自分の日記に順位などつけようがないと思っていますから、一応の目安くらいに思っています。

若松進一ブログ

 先日地域づくり団体交流研修全国大会の事務局を務めてくれた谷本さんから、耳寄りな話を聞きました。「どうやらブログを本にするソフトが出たようだ」というのです。「えっ、何のこと」と問い直しましたが、そのソフトに入力するとブログが加工されて製本さえすれば、目次までついた一冊の自著本になるという優れ物なのです。谷本さんはその方法を私に伝授してあげるととのことでしたが、私のパソコン技術が余りにも未熟なため、結局はその作業を忙しい合間を縫ってやってくれました。そしてPDFファイルにして昨日送信してくれました。またその見本本も二冊制作して送ってくれました。

 いやあ凄い、この世界はどこまで進化するのでしょう。谷本さんから送ってもらったものを製本さえすれば、世界に一冊しかないオンリーワンの本が出来上がるのです。

 昨日はそんな新しい発見に一日ルンルンでした。毎月一冊自分のプリンターでプリントアウトして作っていた片面プリントのファイルとは、一味もふた味も違ったブログの進化を見ながら、誤字脱字の訂正を早く終わらせ、本にしたいと思いました。この世の中はこのようなことを考える凄い進化をした人がいるものですね。驚きました。


  「うそ本当 私のブログが 本になる ソフトここまで 凄い進化だ」

  「駄目ですね ソフトあっても 使えない 友の手助け 分業作業」

  「入力を すれば目次や ページまで 記憶するとは 俺にゃ分らぬ」

  「これからは 見直し作業 書く度に 誤字と脱字は 致命傷なり」


  

 

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shin-1さんの日記

○エコー検査の結果まだ賞味期限はあるようです

 「若松進一さ~ん、病室へお入りください」。偶然にも子どもの頃から顔見知りの看護婦さんに呼ばれ病室へ入りました。一年に二回のエコー検査をもう10年もやってきているのでこちらも馴れたもの、脱脱いだ衣類を脱衣籠に入れ、上半身裸の状態でベットの上に横になりました。やがて検査技師さんがやってきて、「少し気持ち悪いかも知れませんが、直ぐに終わりますので我慢してください」といって、早速検査を始めました。

 ベットに横たわった私に検査技師さんは、パソコン画面に映し出される映像を見ながら、「はい、大きく息を吸い込んで~。はい、そのまま息を止めて~。はい、息を吐いてください」と、何度も繰り返すのです。腹にはゼリーのようなものが塗られ、エコーのカメラが何度もその上をこする度にヌルヌルとした気持ち悪さに、検査技師さんが最初に断ったように少し不快な気持になりました。

 横になったりしながら何ヶ所か検査をしていましたが、やがて検査技師さんは「エコーでは悪い所も見つかりませんでした。後は主治医の診察を受けてください」といわれ、看護婦さんは熱いお絞りで丁寧に腹の部分に付着したゼリーを拭きとってくれました。看護婦さんは私と出会ったのが余程嬉しかったのか、「進ちゃん、実は私おばあちゃんになったのよ」と唐突に小声で話しかけてきました。「ほうそりゃあ、おめでとうございます。孫は男の子?」「えっどして分かるん?」「そりゃああんたの話を聞いただけで分かるがね」「「進ちゃんは凄い眼力じゃねね」などと、当てずっぽで言ったことが本当に当たってしまっただけなのに、会話は弾みました。

 やがて内科受付を済ませて待っていると、エコー10時、内診10時30分なのに、10時20分にはもう診察室へ呼び込まれたのです。先生とは長い付き合いなので、雑談の方が多く、肝心の健康診断の話など殆どしないのです。「大学の講義は上手くいってますか。私などはお話ししても中々上手くいかず、少し早く講義を終わって学生の点数を稼ぐくらいしか芸がありませんが、その点若松さんは話がお上手だから」と持ち上げれれました。

 次回は5月29日午前8時30分に予約を入れますが大丈夫ですか。次回は血液検査を予定します。血圧も62と102ですから申し分ありません」「ありがとうございました」「はいお大事に」であっけなく終わりました。別れ際「あと2ヶ月は賞味期限がありますからご安心ください」と笑って別れましたが、楽しい先生で思わず噴き出し笑ってしまいました。私にとって二ヶ月に一度の定期健診は、胆のう摘出手術以来やっている恒例行事のようなものなのです。胆のうの周辺には様々な臓器が集中しているため、検査が必要なようですが、今のところ異常は見つかっていないようです。

 ロビーで支払いのため呼び出しを待っていると、私の顔見知りの方が何人か声をかけてくれました。「若松さん、どこが悪いの?」とか訪ねるのです。私はその都度同じような話をしなければならず、顔の広い(笑い)のも善し悪しです。それでもロビーで出会う人の中には糖尿病だとか肝臓が悪いとかいう人が何人もいて、深刻そうに自分の病気のことを話してくれるのです。その人たちの話を聞くにつけ病気にならないようにしなければと肝に銘じるのです。

 「健康は自分が自分に送る最高のプレゼントである」と、鈴木健二元NHKアナウンサーが言っていた言葉を思い出しました。確かに病気は不可抗力的なものもありますが、大体は自分で注意をして暮らさないと健康は保てないものなのです。少し運動不足の感じもしているので、注意したいと思っています。

  「二ヶ月は 賞味期限が 切れないと 医者の言葉に 少し安心」

  「エコー撮る 見えない腹の 中までも 見てきたように 異状なし言う」

  「俺の腹 エコーの画面じゃ 腹黒く 写っていたぜ 妻は納得」

  「おばあちゃん なったと聞きも しないのに 笑顔で話す 破顔一笑」

 

 

 

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shin-1さんの日記

○この道はいつか来た道

 先日久しぶりに時間があったので、海岸国道沿いに車を止めて人間牧場まで歩いて登ろうと思い、歩き始めました。普通人間牧場へ行くのは奥西周りと下浜周りの道があって、いずれも車で奥西周りは15分、下浜周りは

10分程度かかります。どの道もつづら折りのため急峻な山肌を縫うような狭い道です。今回たった一人で登った山道は下浜周りの山道をさらに縫うように直線で延びる昔の間道なのです。登り口で顔見知りの近所の人に会いました。「まあお珍しい。若松の進ちゃんじゃないですか。何をしているの」と声をかけられ、「はい、久しぶりにこの坂道をあることと思いまして」と答えると、「さあ歩けるかねえ。道も荒れていますから」と不安な言葉が返ってきました。

 JR予讃線海岸周りの下の隧道トンネルを抜けるともういきなりの急な坂です。斜面にはカタバミのような正式名前も知らない黄色い花がいっぱい咲いて春を演出していました。少し上がると高台を走る予讃線の線路に出ました。運よくそこにマッチ箱のような列車が通りかかりました。普段は遠目で見る可愛らしい一両だけの列車でも傍を通るとまるで黒い鉄の塊のような迫力でした。この辺りから下灘小学校辺りまでの線路は急峻な地形のこの町では珍しく一キロ以上にわたって一直線の線路が続いているのです。子どもの頃はここを蒸気機関車が走りましたが、急峻な地形なので列車もタジタジで、私たちは悪ふざけて、列車が速度を落とすと後ろに回ってすがりながら一緒に走ったり、時にはレールの上に耳をつけて列車の走る音を聞いたりしたのです。また線路沿いの斜面には野イチゴやイタドリがやたらとあって、食い物の少なかった少年時代は線路近くが恰好の遊び場でした。

 少し登るとお地蔵さんがありました。地元の人がお祀りしていて、下から登っても上から下っても、ここは丁度いい具合な大きい石がまるでベンチのようにあるので休憩地点なのです。かつて労働のために同行して何度となく一緒に登った祖母や母は、ここで荷物を降ろしてひと休みする間、お地蔵さんに手を合わせてお参りしましたが、私は傍の大きなクヌギの木の穴を見つけてクワガタやカブトムシを探していました。

 肩や腰の疲れが取れると再び歩くのですが、体のなまっている私には、背中に何の荷物も背負っていないのに額にはもう汗が滲み息遣いが荒くなってきました。この辺りの斜面の上には私の家の畑が沢山ありましたが、母亡き後は荒れるにまかせて、すっかり雑木に覆われていて少しばかり心が痛みました。


 やがて車道と交わる最初の地点が見えてきました。ここにもわが家の農地があり、4年前耕作目的で全て下刈りしたものの断念せざるを得なくなった畑が、同じように雑草に覆われていました。10年前にこの地に弟や従弟などが許可を得て墓地を造りましたので、見違えるような変身ぶりです。この辺りから見返ると眼下に海が開けて登りながら汗を拭く度に嘘炉の景色を楽しめるのです。

 2度目の車道と交わる所まで登ると人間牧場はもうすぐで、水平線の家の建物が見えてきました。歩くこと30分でやっと到着です。昔は大間道で荷車も通ったし通学路だったのですが、最近はこの道を歩く人も殆どなく荒れるにまかせているようでした。

 でもこの道は母と歩いた、いわば「この道はいつか来た道」なのです。「♭この道はいつか来た道 ああそうだよう お母様といつか来た道♯」という歌の文句ぴったりの道なのです。わずか30分でしたが、歩きながら久しぶりに母の思い出に浸ることができました。人間牧場で少しの間過ごし再び元来た道を下山開始です。あれほど難儀をして急な坂道を登ったのに、同じ道だというのに、まるでウサギや子犬が走るがごとくぴょんぴょん跳ねるように僅か10分足らずで下山しました。

 少しくたびれましたがいい経験をしました。またいい母の供養にもなったと満足です。せめて年に一回くらいは歩きたいものですが、この日の自分より若い自分はないのですから、危ないかも知れません。春のいい一日でした。

  「春の日を 楽しみながら 登り来る 母の思い出 随所にありて」

  「この坂は 背中に背負子 荷をかるい 汗かき幾度 往復したか」

  「道脇の 地蔵菩薩は 今もなお 昔変わらず 微笑みたたえ」

  「この坂の ような人生 過ごしたが 今は下りの スピード早く」

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