shin-1さんの日記

○送られし2冊の本②

 財団法人山口県ひとづくり財団の大迫女史から今日送られてきた「夢チャレンジ・きらり・山口人物伝」を読んで宮本常一のもう一つの素顔が見えてきました。宮本常一の著書は「忘れられた日本人」など数多く読んでいますし、先日人間牧場で開催した年輪塾で浜田久男さんから色々と宮本常一に関する研究の成果を聞かされていましたが、この読み物には、考えながら旅をする、人をとろかすような笑顔、一枚の写真が多くを記録する、宮本写真に見る昔の大島、日本の庶民の文化を伝える、立ち止まって自分の目でよく見ることの大切さなどの小見出しで、宮本常一の魅力が鮮やかに描かれています。また常一の生涯についても、父から受けた10の精神、民俗学への道、生涯の師渋沢敬三との出会い、離島振興の父、地域と本気で向き合う、再びの旅を夢みペンを握って逝く、常一が残した旅の写真記録などの小見出しが示すような興味深い話が書かれていました。

 その中で私が特に引かれているのは離島振興の父としての彼の業績です。

 宮本常一のすごさは、ただ旅をしただけではなく、旅の中で常に何かを成してきたことにあります。単なる資料集めにとどまらず、旅で学んだ知恵を多くの人々に伝え歩いたのです。1950年、対馬での民俗調査をきっかけに、常一は島々の窮状を目のあたりにし、離島振興法の制定に力を尽くします。当時島〃どこも貧しく、「火(電気)と水(水道)を島に」というのが常一のスローガンでした。その熱意が通じてか1953年、離島振興法が制定されます。彼は全国離島振興協議会の初代幹事長になりますが、地域振興にかける常一の思いは、ますます強くなりました。

 常一には、「離島振興法があるから島がよくなるのではない。島を良くしようと思う人々がいるとき、離島振興法が生きてくる」という有名な言葉があります。

 数えきれないほど離島や山村を旅して、地域振興に力を注いだ常一ですが、いつもアイデアを出すだけでなく、時には人々を真剣に叱りつけ、励まし続けました。

 宮本常一自身の本を読む限りこうした裏話や秘話は出てきませんが、前周防大島文化交流センター学芸員の木村哲也さんが語る宮本常一ゆえに宮本常一の人間像に迫れるのです。

 私は宮本常一を少しばかり知っているような顔をしていましたが、知れば知るほど奥の深い人であり、もっと勉強をせねば彼のメッセージは響かないのです。

 大迫女史から頂いた本は積読から乱読へ、乱読から熟読へと進化させ、瀬戸内海を挟んだ対岸山口県から多くのことを学びたいと思いました。

 来年の2月には昨年に続いて周防大島で開かれている宮本常一に関する勉強会に、私が代表を務めるえひめ地域づくり研究会議の県外研修を計画していて、今から楽しみになってきました。

  「毎日の ように見えてる 大島に 偉大な巨人 常一生まれ」

  「念願の 火と水確保 して嬉し 島の人々 今は幸せ」

  「無人島 通ったゆえに 気にかかる 島の行く末 少し危なく」

  「昨日も 大学生に 常一を 話して聞かせ 業績しのぶ」

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shin-1さんの日記

○二冊の本①

 先日山口県教育委員会から社会教育委員研修会の講演を依頼され、美祢市と柳井市へそれぞれ出かけました。台風の進路が気になる二日間でしたが、懇親会で財団法人山口県人づくり財団の大迫女史とお会いしました。来年の2月に山口県で開かれる「第4回人づくり・地域づくりフォーラムin山口」への私の出演が既に決まっていて、事前打ち合わせを兼ねての交流となりましたが、その折別れ際「山口人物伝」という本を送るからと約束をしていました。

 約束通り今日その本が2冊送られてきました。山口県といえば吉田松陰、高杉晋作、金子みすず、伊藤博文など多くの著名人が名を連ねていますが、私が敬愛する民族学者宮本常一もまた山口県周防大島の人なのです。「夢チャレンジ・きらり・山口人物伝」VOL.1には狩野芳崖、柏木幸助、田島直人なども紹介されていて興味深く読ませていただきました。

 冒頭に紹介される人物はご存じ吉田松陰ですが、この本は中学生にも理解されるようにかなり分かりやすく書かれています。

 この年の11月、松陰はある行動に出ます。井伊直弼の意を受け、厳しい弾圧を続ける老中間部詮勝に憤り、その暗殺を企てるのです。松陰は藩の重臣にその意を伝え、武器弾薬を提供してほしいと訴え出ます。この過激な要求に驚いた藩は、松陰の身柄を拘束し塾の閉鎖を命じます。再び野山獄に投獄された松陰は、もはや藩に頼るのではなく、草の根に埋もれているような人々で日本を変革せねばならないと決意します。

 安政6年、松陰は江戸へ呼び出されます。その容疑は別の軽い事件のものでしたが、松陰は老中間部暗殺計画が知られたと思って、それを白状していまいます。自分の行動を「正義と信じていた彼らしい態度ですが、これで死罪は免れなくなりました。

 死を覚悟した松陰は、遺書ともいえる留魂録」を一夜で書きあげます。そこには、「私は30歳(数え年)でこの世を去るが、同志が私の志を継いでくれるなら、それが種となっていつか実るだろう」と、弟子たちに未来を託した言葉が残されています。安政6年10月27日(1859年)松陰は処刑されました。

 「身はたとひ 武蔵野野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」(門下生に向けた留魂録冒頭の辞世の句)

 「親思ふ 心にまさる親ごころ けふの音づれ 何ときくらん」(家族への遺言の中の辞世の句)

 彼が死んで150年が経ちました。萩の町では今も彼を松陰先生と呼びます。それは、彼の志が今も色あせることなく生き続け、私たちの行く道を照らしてくれるからなのです。

 そんな時代だったといえばそれまでですが、吉田松陰は僅か29歳という若さでこの世を去っています。私などはその倍の長さを生きているというのに、社会や人の何の役にも立たず今もなお生きているのです。吉田松陰の凄さは彼の実行力と志が多くの若者を羽ばたかせたことです。そして「人賢愚ありと雖も、各々一、二の才能なきはなし、湊合して大成する時は必ず全備するとこあらん」(人はそれぞれ才能の違いはあるが、誰でも一つや二つは必ずいいところをもっている。それを伸ばすのが教育だ)、といわれるように若者たちの才能を発見しそれを伸ばしたのです。

 わが家の隠居の床の間には吉田松陰の掛け軸を吊るしていますが、松陰の強い生き方に改めて感動を覚えました。

  「送られし 人物伝を 一気読み 改め思う 名残し人々」

  「松陰の 辞世の句読み 俺などは ただ生きている だけに等しく」

  「密航を 企て松陰 降ろされる 俺は乗船 アメリカ目指し」

  「今日沈む 夕陽の辺り 萩と聞く 松陰の里 再訪したし」

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○雨の人間牧場

 普通は雨の日など余程のことがない限り、雨の日に人間牧場へ行くことはないのですが、今日は愛媛大学のフィールドワークの授業とあって、奥島観光の31人乗りのバスを借り切り人間牧場へ行きました。シーサイド公園で合流した学生たちは池久保の曲がりくねった山道をバスに揺られ、バスを降りてからは5分ほど舗装はしているものの緑陰の中を傘をさし、急な坂道を滑らないよう気をつけながら下って行きました。

 あいにくの雨で自慢の眺望は見えず残念でしたが、学生たちは人間牧場のロケ風呂や水平線の家のロフトに上がったりして見学をしていました。人間牧場界隈にはもう秋の気配が漂い、知らない間にススキの穂が沢山出ていて季節の移ろいを感じさせてくれました。

 学生たちに施設の概要や人間牧場への想いを語った後、夕日徒然草というテキスト本を配布し、約1時間半にわたって落伍ライブ形式の講義を行いました。捲りの演目が第5話「ハーモニカが吹けた」だったので、十八番を語り、学生たちにリクエストさせた第30話「病気で人生が変わる」を語りました。学生たちに落伍ライブをやるのは初めてでしたが、授業の一環とあって熱心に聞いてくれました。

 私は家業である漁師をしていた若いころ青年団活動に熱中し、酒と夜更かしと疲労で体を壊しました。そのことがきっかけで役場に入りました。酒を飲み過ぎて体を壊し公務員になれたのですからいい加減な転職です。でも年功序列の役場に入ってからは35年間滅茶苦茶働き、悔いなき存分な働きをしました。しかしここでも働き過ぎの疲労蓄積とストレスで胆のうを患い胆のう摘出手術で13キロも痩せた体となり、平成の大合併を機にセミリタイアしたのです。自分の人生は病気によって大きく生き方を変えざるを得ませんでしたが、私はその都度腐ることなくポジティブに物事を考え、強く強く生きてきました。失敗体験の少ない若い学生たちにとって私のような古い生き方はモデルにはならないと思いますが、それでも何かのヒントにはなるものと思うのです。

 また私が高座と呼んで座布団を敷き落伍をする高知県馬路村魚梁瀬産150年生の杉の切り株も、1年でわずか一つの年輪しか刻まない途方もない自然の営みをしっかりと学んで欲しいと思いました。

 今年のフィールドワークのテーマは「合併後のまちづくり」です。やっと予定していた4つの旧町の調査も終わりました。いよいよ次の授業からそのまとめと本当に住みたい町、本当に訪ねたい町の条件を描いてゆく後半戦へと入ってゆく予定です。

 人間牧場での研修を終えた私たちは、午後1時前にわが家へ帰ってきました。予め電話を入れていたため、妻の準備も万端整って少し遅めの昼食交流会となりました。親元を離れ日頃から食事を軽んじている学生たちにとって、わが妻手づくりの料理は感嘆に値するようだったようで、「美味しい」を連発しながらこちらが驚くほどのペースでむさぼり食べ飲んでいました。こうして大学生をもてなすのはもう6年も続いていますが、わが家わが妻にとっては初秋の恒例行事となってしまいました。




 学生たちに人気だったメニューはいなり寿司、カンパチの刺身、南蛮漬け、鳥と魚のから揚げなどでしたが、いもたきやお好み焼きをよく売れていました。そろそろ大学の授業もお暇をせねばならない年齢になってきましたが、私が関わる授業くらいはこのような人間的でありたいものだと、学生たちの喜ぶ姿を見て妻と話しました。

 帰り際学生たちは残ったいなり寿司やから揚げなどを、妻の用意したパックに詰め込んで雨の中を手を振りながら帰って行きました。

  「雨の中 傘の行列 一列に 並び畑中 路を下りぬ」

  「牧場に 吹く風秋の 気配して 揺れるススキの 少し寂しく」

  「学生を 前に落伍の ライブやる 十八番(おはこ)熱弁 久し快感」

  「あいにくの 雨にたたられ 部屋の中 若さムンムン 外が恋しい」

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shin-1さんの日記

○雨の中、学生たちがやって来る

 今日は天気予報を先取りしたかのような雨が、朝から静かに降っています。山口県、福井県と続いた長旅も終り、やっと一息といったところなのですが、今日は愛媛大学法文学部総合政策学科、つまり私の教室の学生がフィールドワークの授業でわが町へやって来るのです。この授業は私が大学の講師になってから5年間毎年行っていて、早くも今年で6回目となりました。今年はテーマを少し変えて「合併後の地域づくり」をテーマに、既に合併している旧中島町、旧中山町、旧長浜町と訪ね歩き、今日が最終回の旧双海町なのです。中島と中山は夏休み前、長浜は夏休み、双海は夏休み後とそれぞれ季節は移り変っていますが、一番いい季節を選んだはずの今日は運の悪いことにあいにくの雨となりました。でも一年中晴れた日ばかりはないので、「雨の日には雨の日の仕事がある」と思って張り切ってやるつもりです。

 さて今日の予定ですが、学生は午前8時30分大学に集合し、用意したバスに乗ってやってきます。最初は責任もあって私が大学まで迎えに行き大学まで送っていましたが、考えてみれば子どもでもなくいい大人なので、極力学生の自主性に任せようと考え、今が現地集合などをやっているのです。毎回一人くらい遅れたりする学生がいますが、それもまた仕方のないことだと考えてやっています。

 先ほど学生の代表である前田君から「まだ一人来ないのでもう少し待って出発する」と連絡が入りました。さて私はそれでいいのですが、今日のフィールドワークの楽しみは研修後のわが家での食事会です。毎年妻は学生たちのために工夫を凝らした料理でもてなすのです。そのため一週間前から準備にかかり特に昨夜は夜遅くまで料理の下ごしらえをしていたようです。どんな料理ができるか私も学生も楽しみです。妻はこれまでも私のために色々な料理をしてくれました。特にPTAとフロンティア塾では一人で50人分もの料理を作ってきました。私は高校PTAの会長を6年間やりましたが、その時は秋のお月見会をわが家で提灯を50個も吊り下げ(人数分)、屋外で楽しくやりました。またフロンティア塾は1年に4回、10年で40回という夜の塾生の夜なべ談義の料理を一手に引き受けて作ってくれました。これらは今でも仲間内の語り草になっているほど楽しい思い出なのです。

 昨晩「お父さんお味はどう」といなり寿司の味見をさせられましたが中々の出来でした。縁もゆかりもない人たちをこうして迎え入れてくれる妻に、面等向かってはい恥ずかしくて言えませんが、ただただ感謝するばかりです。

(枝豆、おにぎり、野菜サラダ、もう一つのテーブルには芋炊き、お好み焼き。フルーツが並びました)
(カンパチ、タコの刺身とから揚げ)
(夜から下ごしらえしていたいなり寿司と南蛮漬け)

 私も旅の疲れはあるものの、そんなこともいっておられず、朝から掃除機を使って部屋を掃除をしたり、納屋から机を出したりと準備に大忙しです。これをまた片付けるのかと思うと少し気が重くなりますが、妻のことを考えればそんな愚痴など禁句なのです。

 さて今日は雨です。予定していた屋外での見学は残念ながらできないので、人間牧場での授業が中心になるようです。この話は後でお話しします。

 ここまで書いて学生との待ち合わせ場所であるシーサイド公園へ迎えに行きました。これまで3回の現地調査は公共交通機関を使いましたが、今日は人間牧場への公共交通機関がないため、大学に無理を言ってバスを用意しました。バスの手配はバス会社に顔の利く地域政策研究センターの松本さんに無理を言ってお願いしましたし、大学構内へのバスの乗り入れ手続きも急遽岡本先生にしてもらい事なきを得ました。予期せぬ雨に少し翻弄されながらシーサイド公園~人間牧場~翠小学校~自宅・煙会所・海舟館をめぐりフィールドワークの授業を無事こなしました。

  「学生が バスに乗合い やって来る 私も妻も 準備てんてこ」

  「あいにくの 雨に翻弄 されながら 学生たちと 人間牧場」

  「連絡が 届かぬ人が 一人いて 私のブログ 読んで反応」

  「本当は 月曜授業 するのだが わが家の都合 合わせ変更」


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shin-1さんの日記

○ソバの花咲く越前路

 先日車を運転しながらカーラジオを聴いていると「旅するラジオ」という番組で福井県のことが紹介されていました。福井といえばその昔、鯖江市で開かれた全国地域づくりの発表会に、優良事例として原稿審査や事前調査を経てノミネートされた全国8か所の一つとして参加した懐かしい思い出があります。私たち(私と職員の2人)の発表が最優秀賞の国土庁長官賞と参加者の投票による一位となって鯖江市長が実行委員長を務める委員長賞をダブル受賞した思い出の地でもあるし、福井市の公民館大会に招かれて講演をしたこともあり、何かと思い出の多い土地なのです。その福井へ講演に行く予定もあって興味深く聞かせてもらいました。その話の中に越前そばの話がたくさん話されていました。その時思ったのです。「そうだ今度福井へ行く時には絶対そばを食べよう」と・・・・。

 やがてその日が来ました。福井へ講演に出かけるのです。しかもラジオ放送で聞いていた今立の近くのようなのです。福井駅まで迎えに来てくれた社南公民館主事の真柄さんともう一人の女性主事さんと三人で会場となる勝山市を目指しました。嬉しいことに越前そばの本場だけあって道の両側の田んぼには今を盛りと咲く真っ白いそばの花がどこまでも続いていました。越前に地方に住む人にとってそばの花は「ああもうそばの花が咲く秋が来たのか」と思う程度のようですが、私たち海沿いに住む人間にとってはとても新鮮で、「まてよ。このそばの花畑はひょっつとたらお金儲けにつながるかも知れない」と思ったりするのです。左や右にどこまでも続くそば畑はメルヘンタッチのようにも思えました。

 福井といえば恐竜、恐竜といえば勝山を思い出すくらい、勝山市は恐竜で有名です。街のあちこちには恐竜の造形物が沢山あって、恐竜に興味のある孫を連れてきてやると喜ぶだろうと思いました。また遠くには卵型の恐竜博物館が秋の日差しを浴びて遠くに眩しく輝いて見えました。



 私は恐竜博物館もさることながら、日本一といわれる勝山の大仏さんを見たいとねだって見学させてもらいました。臨済宗の清大寺は昭和62年に落慶した比較的新しお寺ですが、その規模たるや日本一といっても決して過言でなく度肝を抜かれてしまいました。このお寺は多田清という方が大実業家として立身出世いした恩に報いるため、資材を投げうって先祖の眠る地に22ヘクタールの敷地に大仏などを造っているのです。様々な願い事がかなえられた人がお礼に訪れる出世大仏として有名だそうで、この日も新潟から4台ものバスが到着していました。有名な奈良の大仏が16.2メートルだそうで、この仏像は17メートルもあり文字通り日本一だそうです。この大仏さまを安置した大仏殿も見応えのあるものでした。出来た頃はブームを呼んでいたそうですが、今は境内の出店もシャッターが閉まっている所もあってテーマパークの難しさを垣間見ました。

 公民館大会終了後、県公連事務局長の渡辺女史んp運転する車に乗せてもらい、夜の会場となる越前市へ向かいました。市内で御清水というそば屋さんで念願のそばをいただきました。大根おろしの入った付け汁にととろろの乗ったそばをつけて食べるのですが、やはり本場のそばは堪えられない味でした。私も同行した三人の女性もすべて大盛りを注文しました。お昼の金沢に店を持つ笹ずし弁当も中々のものでしたが、働いたためと一仕事終えた安堵から腹の空きを覚えていたため、美味しく頂きました。そばが大好物の私にとってはまさに至福の時でした。

 食事前、食事中、皆さんと公民館の在り方や現状について箸袋に図を描きながら問題点を共有するため話しこみましたが、それぞれの地域にはそれぞれの悩みがあるようです。その夜の講演では立場の違った人たちが会場いっぱいに詰めかけていました。あまり深入りの話をすることもできず悶々しましたが、分かる人には私の話の本心は分かったのではないかと思うのです。

 武生の駅前ホテルに泊めてもらいましたが、富阪さんたちの苦悩を思うと中々寝付かれない一夜を過ごしました。それでもウトウトし夜明けを待ってサンダーバードの一番列車に乗り込み、長い長い北陸トンネルを抜けて帰路につきました。車窓を眺めながら今回出会った印象的な人に列車の中でハガキをしたため、大阪駅を経由して夕方無事わが家に帰ってきました。山口から続いた長い日本列島の旅もやっと一段落です。

  「そばならぬ そばの花咲く 越前路 長閑に秋は 深まりゆきて」

  「大仏の 太さに度肝 抜かされて 気がつきゃ賽銭 入れるの忘れ」

  「恐竜の 模型あちこち 道端に これを巡れば きっと活性」

  「大根の 辛さに耐えて そばを食う 美味い美味いと 褒めつ音立て」

 

 

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shin-1さんの日記

○旅先での誕生日

 「お父さんは自分の誕生日になるといつも家にいない」と少し不満の声で、旅先福井県へ妻から携帯電話が入ってきました。それもそのはず誕生日である昨日10月3日は福井県公民館連合会の招きで、公民館の県大会に対談を頼まれ移動日も含めて2日間出かけていたのです。この歳になって今更誕生日など「冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし」といったところなのですが、それでも色々な方々からお祝いのメッセージをいただき恐縮ながらもただただ嬉しい限りです。

 昨日は前日の予定もあって朝一番の大阪発サンダーバードで福井県入りしました。一便早く着いたため相手を右往左往させましたが、勝山市民会館で午後から開かれた対談の席上、いきなり司会を務めた福井県公連副会長の松井由紀子さんが私に壇上で誕生日の花束プレゼントをしてくれました。県内各地から300人もの参加者が集まっているその前で何の前触れもなくプレゼントされ、私は少し舞い上がってしまい、2時間に及び対談もどことなく歯車が狂ったようなかんじでした。でも対談は仕事だからと踏ん張りそれなりの話をさせてもらいました。

 そもそも今回の福井県公連からの招へいは私が月刊公民館という雑誌の巻頭言ともいうべき「とびら」に、「公民館と地域との関係を問い直そう」という記事を書いたことに起因しています。これは11月13日から3日間、愛媛県宇和島市を主会場に行う地域づくり団体全国研修交流会への参加を促すため、実行委員長の私が事務局より依頼されて書いたものなのですが、この記事が思わぬ反響を呼んで、全国のあちらこちらから声がかかるようになったのです。その記事は少し長くなりますがここで紹介しておきます。

 「駆け出しの若いころ、公民館に13年間勤めていた私にとって、人生を生きる上での土台となり、道しるべとなるべき知識と知恵を学ばせてもらった公民館は大恩人である。ゆえに行政に身を置きながら、どちらかというと住民の側に軸足を置いた住民運動や活動を行いそれなりの成果を得たが、今公民館は市町村合併や指定管理者制度などに翻弄され、住民自治の牙城としての責め(攻め)や守りが難しくなっているように思えてならない。

 公民館は今までも今も、多分これからも「地域づくりの拠点」として重要な役割を担っていくことは論を待たないが、公民館の終局の目標は「住民の自治能力の向上」であるなら、地域自立という視点で地域づくりにもっと積極的に取り組むべきであろう。

 私は夕日、花、ホタルなどをモチーフにアメニティの地域づくりに取り組んだ。夕焼けコンサートから始まった若者による文化イベントはオンリーワンながら日本一の夕日の町をつくり、年間55万人観光客が訪れるようになったし、女性の手で始まった花づくりは町のイメージを一変させた。また、地域の人たちの手で始まったホタル保護活動はグルーンツーリズムへと発展している。これは公民館の4つの事業といわれる、①問題を提起する事業、②学びの援助事業、③学びの組織化事業、④学びの還元事業(ボランティア活動)をサイクル化したからこそなし得た成果なのである。

 こうしてみると、①始める活動、②つづける活動、③高める活動、④止める活動など、公民館がかかわれる地域課題は無尽蔵にあるか、産業も福祉も環境も、ましてや文化や人づくりまでも公民館は門外としてそれらに背を向けているのである。公民館は地域活性化の総合商社であるべきなのだが・・・・。

 今年の11月13日から15日までの3日間、愛媛県宇和島市を主会場に『地域づくり団体全国研修交流会』という『地域づくり』をテーマにした全国大会が予定されている。愛媛県内の13市町で15分科会が開催されるが、公民館と地域との関係を問い直す絶好の機会ととらえたい」

 私の福井入りを知った越前市の富阪妙子公民館主事さんから熱いメールが入り、是非前後の時間を取って講演して欲しいとのご依頼でしたが、前の日も明くる日もあいにく予定が詰まっていて、結局県大会終了の夜ダブルヘッターと相成ったのです。


 この会場でも思わぬハプニングが起こりました。後援会の冒頭私の誕生日を知った富阪さんのご配慮でバーズデーケーキが用意され、皆さんの歌声で祝福されたのです。そして講演終了後はロビーにてケーキを切ってみんなでワイワイ、ガヤガヤのお茶会となりました。64回目の誕生日は思わぬ感激に浸りました。昨日の早朝孫朋樹君から電話でのお祝いメッセージ、妻からの電話連絡によれば緒方さんと西岡さんという二人の女性が留守のわが家に今年も大きな花束を届けてくれているとのこと、またハガキや祝電、さらには家へ帰ってメールを開くと様々な方々から暖かいメッセージが届いていました。ああ嬉しきかなわが友、そしてわが人生です。私も64歳になりました。思いを込めてこれからも健康に留意して進化の道をたどる決意です。皆さんありがとう。

  「旅先で 誕生祝う セレモニー 穴があったら 入りたい心境」

  「花などの 似合わぬ俺に 花束が 頭かきつつ 素直受け取る」

  「何気なく 書いたつもりの 原稿が 読まれ講演 世の中不思議」

  「誕生日 祝って孫が 電話くれ 旅先列車 ほのぼの進む」


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shin-1さんの日記

○私の大好きなマリおばさん

 こんな呼び方をすると相手に失礼ですが、私はこの人を「大好きなマリおばさん」と呼んでいます。3年前に合併して今は同じ伊予市の市民となりましたが、彼女は旧伊予市に住んでいます。何処で知り合ったかもう随分前のことで記憶は定かではありませんが、マリおばさんの話だと私の町で行われたある人の結婚披露宴に列席した時、その披露宴の司会進行を私がやっていたようです。私はこれまで537組もの結婚披露宴の司会をしているため、これまで貯めている予定表をめくれば何月何日と分かるのでしょうが、その折私の司会進行にかなり感心して帰られたようです。それ以来縁もゆかりもなく過ぎていましたが、マリおばさんが更生保護婦人会の役員をしていてその研修会に招かれて講演をして再開しました。またマリおばさんが民生委員をしていt折にも地域の高齢者研修会に招かれ講演をしました。こうして急速に交流が深まり、マリおばさんの家は息子さん夫婦や雇ってる人たちで稲苗を生産する大農家ですので、ビニールハウスで栽培したトマトやキューりを頻繁に届けてくれるようになったのです。枝豆やソラマメなど季節の食べ物がどっさり届き、珍しいものばかりでわが家の食卓を賑わせているのです。

 私としては差し上げるものもなく、時折いただいたおすそ分け程度の魚を届けるのですが、その度に若い息子さんご夫婦ともすっかり顔なじみになって、親類のような付き合いをさせていただいています。

 数日前私は魚を持参しました。あいにくマリおばさんは旅行に出かけていて留守でしたが、若奥さんから毎年いただくキャベツやブロッコリーの苗を沢山段ボールに詰めていただいたのです。その日はあいにく雨でしたが私は山口行きの出張の前日で家を留守にするため、雨の中で畝を起こし植えました。今朝その様子を見に菜園へ出かけましたが、降った雨でちゃんと畑の中で活着しているようです。

 昨年もマリおばさんからいただいたキャベツやブロッコリーの苗を沢山植えましたが、それは立派なキャベツがやブロッコリーが沢山できて近所や親類に配って喜ばれました。また年末になると葉ボタンの寄せ植えが届いて家の玄関を綺麗に飾りました。昨年は秋馬鈴薯の種をいただい秋ジャガイモを相当楽しんで食べたのです。

 昨晩山口県から帰って一息ついたころ、マリおばさんから電話がかかりました。旅行で留守をしていたので、今日は私の家へ新米を持って行くからというのです。わが家であ玄米のご飯を食べているのを知っているのです。何時に来るかも定かではないのですが、マリおばさんは妹さんとわが家を訪ねるようです。マリおばさんは昨年友人を連れて人間牧場へ遊びにやってきました。その折は足湯などをして楽しんだと記憶していますが、はてさて私は今日は午前午後、それに夕方からは福井へ向けて出発しなければなりません。会えるかどうか心配ですが、マリおばさんがいうように、「会えなかったら会えなかったでまた会える」と思って、気にせず出かけることにしています。

 朗らかに生きている水口まり子さんを見習って私ももっともっと前向きに朗らかに生きていこうと思っています。

  「大好きと 言われるような 人間に なりたいでものと 今日も見本に」

  「好物の 野菜の苗が 活着し 来年春を 目指して育つ」

  「新米を 持って憧れ やってくる だのに留守とは 済まぬことです」

  「台風は 何処へ行ったか 跡形も 見せぬ青空 雲がゆっくり」 


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shn-1さんの日記

○内向きと外向き

 最近はインターネットが普及して、私のような田舎に住んでいる人間でも、その気になってインターネットを使えば、世界各国の情報が瞬時にして自分のデスクに届くのですから、便利な世の中になったものです。今や最も格差を感じるのはインターネットが使えるかどうかというのだそうですが、わが町にはまあインターネットに縁遠い人だって沢山いて、インターネットの話をしてもまるでチンプンカンプンという話をよく耳にするのです。例えば私が毎日のように書いているブログだって、約祖に努めている人でさえ読めないのですから、どんな立派な文章を書いて毎日配信しても、インタネットを使えない人には猫に小判、馬の耳に念仏といったところでしょう。

 私たちは知らず知らずのうちにこんな情報社会に生きていて、外向きな情報にはかなり敏感になってきましたが、外向きの情報が多い反面内向きな情報に意外と疎くなっているように思えるのです。海の向こうのウォール街の金融情報がその日のうちに自分の手元に届くのに、隣近所の情報は中々入ってこないばかりか、知らないことだっていっぱいあるのです。私は昨日までの二日間山口県へ出張していました。故郷を離れたのは僅か二日間ですし、大きな地元のニュースは時折かけてくる妻の電話で報告を受けるのですが、妻の行動範囲の情報収集能力はたかが知れていて、そんなに広い範囲の情報はつかみ得ないのです。

 昔から地元の噂話の火種は散髪屋と風呂屋といわれるように、人の集まりところには必ず情報が集まります。もっともその情報の中には単なる噂話もあるのですが、それでもそんな場所に時々顔を出すと知らないことをいっぱい教えてくれるのです。

 この二日間の留守中に、少し深刻な話が持ちあがっていました。プライバシーにかかわる話なので公表はできませんが耳を疑うような話でした。この話は今朝の散歩で同じ散歩をしている町内では著名な方から、「あんたこんな話知ってるか?」と、唐突に立ち話で聞いたのです。「知らない」といえば、「ここだけの話なので、私から聞いたと言わないようにしてくれ」と釘を刺されて話を聞きました。「へえー、そんなことがあったの」と、僅か二日間の留守中の話に驚いたものです。正直身近な情報に疎くなったと思いました。これまでは良きにつけ悪しきにつけ役場という社会に身を置いていたため、身近な情報は沢山入っていましたが、今はそんな情報も頭の上を通り過ぎているのです。

 もうひとつ、自分自身のことになると、自分の外への関心が募る余りに大切な内面を見忘れてしまいがちになっているようです。こういう時代だからこそ自分を知り努力をしなければならないと思うのです。

 人間は自分というもう一人の自分を案外知らないようです。「自分」という文字を分解してみると「自分」の「自」は

独自なもの、「分」は一部分だと思うのです。浅学非才な私に自分を語る能力などありませんが、自分は自分であるとあると同時に他のもの、つまり全体の一部分ではないかと思うのです。そう考えれば人間と人間、人間と自然との共生という人間の生き方も見えてくるのです。

 何年か前グロ-バルとローカルを組み合わせてグローカルという言葉を作ったことがありますが、自分とはまさにグローカルなものえあること思うのです。インターネットの世界はグロ-バルな地球規模の広い情報ですが、耳や肌で感じるローカルな情報も必要であり、付け加えるなら自分のミクロカル(勝手に考えた造語)な内面に潜む紹鴎もまた必要な気がするのです。朝から難しい話を書いてしまいました。

  「外向きに なればなるほど 内向きが 疎かになる 気をつけなくちゃ」  

  「昨日まで たった二日の 留守中に 色々起こる 知らないニュース」

  「自分とは いかなるものぞ 考える そんな暇ありゃ もっと働け」

  「留守中に 届いたメール 数知れず 日々刻々と 時代は進む」

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shin-1さんの日記

○台風とともに

 旅先の宿だというのに今朝も相変わらず午前4時に目が覚めました。このホテルにはパソコンもないため何もすることがないので、朝読書を約1時間やりました。それからまだ薄暗い外に出て散歩を1時間ばかり、宿に戻って朝湯を楽しみました。これも旅の楽しみの一つです。一緒に泊まっていた担当者の安冨さんも起きてきて一緒に風呂に入りました。さすが世に知られた名湯だけあっていい湯加減でした。

(宿泊場所となったセントコア山口の朝の風景)

 朝食は和食を注文していたため案内されたレストランの方に進んで、おいしい朝食を御馳走になりました。残念ながら私は家庭にいる時キャベツとリンゴ、通称キャベリンを食べて黒酢を飲むのですが、今朝はレタスや水菜を主体とした野菜と牛乳でした。昨晩は台風の進路が気になって、遅くまでテレビをつけてウトウトしていたため少々寝不足のようでしたが、朝食後の散歩や、散歩後山本さんが迎えにくるまでの1時間のウトウトですっかり元気を回復しました。

(ホテルの窓から見えた台風一過の湯田の街)

 今日は中川さんに代わって山本さんが私を柳井までご案内してくれるのです。山本さんは昨晩の皆さんの話だと雨男らしく、朝の天気が心配されましたが、私が晴れ男なので私の運が勝ったのか、今朝は台風一過の好天に恵まれ、ホテルの窓から見える湯田の街は雲ひとつない青空でした。彼は学校の先生らしく几帳面で、一分の狂いもなく約束の10時きっかりにホテルへ迎えに来ました。同乗させてもらい色々な国道を通って柳井を目指しましたが、これも予定通り12時に市内に入り和食店で昼食を食べました。

(台風一過の穏やかな瀬戸内海の島々を車窓い眺めながら走りました)

 途中の右手に広がる海は真夏の太陽がぶり返したようでキラキラと輝き、遠くには国東半島や丸木舟で黒曜石を積んで航海した懐かしい周防灘の海が開けていました。また原発で揺れる上関や祝島もよく見えて、何年か前にお邪魔いしたことを懐かしく思い出しました。

 今日の会場となるアクティブ柳井に到着すると、準備のため先発し昨晩交流した社会教育・文化財課の面々が優しく迎えてくれました。


(柳井の伝建地区)
(柳井の町並み)
(国木田独歩の旧宅)

(急な坂を登った丘の上に国木田独歩の旧宅はありました。大分県佐伯市にも独歩の旧宅がありました)

 私はまだ講演まで時間があるので、思い切って近くの柳井伝建地区の見学に出かけました。愛媛にも内子町という名の知れた町並みがありますが、柳井の町並みも綺麗に整備されていて見る目を奪われました。国木田独歩の居宅跡まで急ぎ足で歩いて見学をさせてもらいましたが、まるで真夏のような暑日に汗だくだくでした。しかし歩く人も平日の昼下がりなためかまばらで、どこか寂しい感じもしましたが、日本人の心のまずさや文化に対する理解のなさには失望です。こんな文化をもっともっと見てもらい、文化度を高めもらいたいものです。

(講演会場となったアクティブやない)

 急いで会場まで帰り身支度を整えて講演に備えました。この日は日本のはるか洋上を去りつつあるため台風で防予汽船が欠航する心配もなくなり、無理をいって少し休憩時間を早めてもらい、午後4時10分の便に間に合うよう講演を終わりました。山本さんの車で柳井の港まで送ってもらい、周防大島の北側航路を通って二日ぶりに四国の地に帰ってきました。帰路の途中再び周防大島大橋の下をくぐり周防大島を右手に見ながら海峡の心地よい潮風を楽しみました。山口と愛媛の狭い海峡を受ける頃には綺麗な夕日が船上から見えました。

(往路見た雨の中の橋とは違い秋空にかかる周防大島大橋)
(周防大島旧東和町家室島辺りに落ちる夕日、対岸には双海町があり、私は毎日ここを見て暮らしているのです)
(日の丸と夕日は何とも美しい)

台風が気になって今回の旅は少々長く感じられましたが、何の粗相もなくわが家に9時前に到着し、妻の手料理で一日を占めくくりました。

(私たちが20年間にわたって無人島キャンプをした由利島が印象的に夕映えの海に浮かんでいました)

 メールの整理をしましたが、たった2日間だけなのにまあ凄いメールの量でびっくりしながら返信を書き、要件を処理して、明日の予定では午前と午後の会議を終えて福井県へ旅立つ予定です。忙しい日々は当分続くようです。

  「蚊に刺され 独歩訪ねて 坂登る 眼下に遥か 瀬戸の島々」

  「久し振り 訪ねし柳井 町並みも 人通りなく 猫が昼寝す」

  「宮本が 生まれし島を しみじみと 眺めつ船は 三津を目指して」

  「夕映えに 浮かぶ小島の 懐かしさ 俺はあの島 大統領だ」

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