shin-1さんの日記

○関定という人の健康と長生きの秘訣

 数日前、ご厚誼をいただいている元県庁職員の藤原茂さんから小さな一冊の本が送られてきました。僅か10ページの本には「八十五年の過去を顧みて」(昭和39年3月1日記)と、「私の人生」(昭和46年1月)という2種の文章が載っていますが、いずれも含蓄のある文章なので、特に(長生きの秘訣)というサブタイトルのついた「私の人生」について抜粋して紹介します。

 一、若い時には貴いエネルギーを惜しみなく大いに駆使し、自己の力量をテストする意気で、進んで重荷を沢山背負い、骨身押しまず体の続く限り奮闘する。これで心身の鍛錬が出来て成功の道が拓ける。

 二、夫れから年を取るに従って、体力の衰えることを考え、背負っている重荷を体力に応じて斬時軽減することが必要である。そのために若い時代の基礎造りが大切であるということになる。

 三、負担を軽くするということは色々あるけれども、一通り功がなったら、社会奉仕に余生をを捧げることである。私はこの道を選んだ。私利私欲を離れ、世のため、人のために尽くすことは、余り負担にならない。(後略)

 四、能く遊び、能く学べという名言もあるが私は青少年時代に、若い時には徹頭徹尾働け主義で能く働き、能けで行った、これには批判もあろうけれど、私は終始一貫して実践した。老境に入ってから悠々自適を勧める向きもあるが私が夫れが出来ない。宴会嫌いで、二次会は一度も味わったことがない。仕事に懸ったら他の何事も忘れ朝食と昼食は不定期で一食抜きの場合が多く家族を困らせることが多いので、夕食だけは誓って宅でということにして今日に至っている。

 五、家庭中心主義で、仕事を楽しむ以外娯楽趣味は皆無でゴルフ、マージャンなども無関心である。かかる私を他人は評して、損な人よ、馬鹿な奴よと笑うであろうけれど意に介せず、悔いもなく、来る日も来る日も愉快に日の経つのも忘れて働いている。

 六、私は二十歳の時ある動機で考えたことは、自分の貧しい才能で、他人に負けないためには、いかにすれば良いかということ。夫れはあらゆる力を一事に集中することだと悟った。爾来授けられた仕事を転職と心得、全知全能を捧げ、至誠をもって貫くことを堅く心に誓った。

 七、五十才までを一期として決意し夫を今尚続けていることは禁酒、禁煙は勿論、一切の道楽を排除し、ひたすらに仕事に励むことで、脇時は余暇を私塾に学び、郊外に出る場合は遠足、登山、神社仏閣詣でなど(後略)

 八、時に二十九才母の勧めで結婚と同時に独立営業を松山市で始め、爾来昭和二十二年に至る四十年間身を慎み、家業に励み、家を整えつつ事業を安定させ、後継者の養成にも意を用い強固な基礎を築き得たと確信したので、昭和二十二年(六十九才)事業を挙げて二世に譲り、その強固な基礎の上に立たせ、若人の貴いエネルギーを思う存分働かせ、重大責任を負わせて手放し、私は一切干与しないことにした(後略)

 九、七十才でお茶の道を楽しんでいた愚妻への奉仕と思ってお茶を始め、茶道精神に陶酔し、修養の糧としているが、作法の方は未だ初心そのままである。(後略)

 十、八十才にして俳句を、九十才にして絵画を始めたが、立派な達人でさえ、自然退歩する年代に始めたのであるから事の成否は問題ではなく始めてみようという元気と若さを自賛しているのである。

 送られて来た本を読みながら、ここまで徹した生き方ができるのかと明治生まれの人の気骨さに驚嘆してしまいました。人間は長生きすればいいものではありません。また楽しければいいものでもありません。さらにお金持になるだけでもないのです。信念を持って強く生き、親から子へ、子から孫へと家を持続することも大切なことなのです。先祖に感謝し自分が生きること。自分が去りし後を受け継ぐ人を育てることなどなど、教えられることがいっぱいありました。小さな一冊の本でしたが私にとっては千金に値する本だったと思い紹介しました。

  「人間は 自分という名の 人間と 対話しながら 生きるものなり」

  「おいお前 しっかりしろよと いうように 小さな本が 道を示して」

  「もう一度 叩き直して 出直しだ 生き方変えて も少し立派に」

  「尊徳の 教えもいいが 関定の 教えに学ぶ ことも多かり」

 

 

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shin-1さんの日記

○旧中山町を訪ねる

 昨日は愛媛大学法文学部総合政策学科の学生18名と一緒に、フィールドワークの現地調査で旧中山町へ出かけました。学生たちは松山から列車に乗って中山入りしましたが、私は隣の町であるので学生とは別に峠を越えマイカーで出かけました。暑い時期なので学生たちの移動に車を使わなければならないと思い、あらかじめ伊予市役所中山支所へ車を置いて、中山駅まで歩いて出迎えに行きました。早朝の中山商店街は朝日と陰の部分がはっきりしていて爽やかでした。隣町というのにこの街の商店街は知人友人も多く、谷口商店の前まで行くと、双海町出身よし子ちゃんとばったり出会い、店の中でご主人や時折訪ねてくる人たちと懐かしい談笑を交わしました。目と鼻の先の上岡文具店のご家族が目に止り、ここでも立ち話です。上岡さんのご家族も穏やかな人たちで、いつもご厚誼をいただいているのです。目と鼻の先の宮野製麺ではこれまた懐かしい奥さんにお会いできて、旧中山町時代が懐かしく思い出されました。

 8時40分に松山駅を出発した各駅停車の列車が中山駅に着くのは9時31分です。列車は予定通りホームに入ってきました。先週が休講だったので2週間ぶりの懐かしい学生の顔ですが、どういう訳か班長の前田さんの姿が見えませんでした。後で連絡を貰ったのですが、来る途中事故に会って病院へ行っていたそうです。

 市役所中山支所の2階で研修は始まりました。上田地域振興課長以下4人の地域振興課職員が対応して微細な説明をしてくれました。特に北岡さんの中山町の合併前・合併後、そしてこれからの話は、この日のために作成した資料に基づいてとても分りやすく、学生も納得して聞き入りました。合併後の地域自治についてもいい研修が出来たように思います。


 午前中は2時間余りびっしり研修をしました。学生たちも全員質問したりそれに答えてもらったりしました。

 この日はとても暑い一日でしたが、支所のご配慮でホテルのバスを利用させてもらい、遊栗館でのバイキング昼食に舌鼓を打ちました。700円食べ放題の品揃えは抱負で、地産池消、しかも野菜中心のヘルシーな味に学生たちも我を忘れて何度もお変わりするなど食い入っていました。地域振興課の職員さんも全員昼食に参加していただき学生たちと懇談をしてもらいました。

 午後は花の森ホテルや野外ステージ、鹿牧場、フラワーハウスなど、栗の里公園の散策です。暑いさなかでしたが、学生たちは「暑い暑い」といいながらも元気に視察研修を行いました。

(鹿牧場)
(フラワーハウス)
(フラワーハウスには見たこともないような珍しい花々が咲いていました)
(お洒落な花の森ホテルのロビーにてくつろぐ学生。ホテルではアイスコーヒーまでご馳走になり、研修修了後中山駅まで送ってもらいました)

 研修を終え学生たちは15時44分発の列車に乗って中山町を後にしました。今回お世話になった上田課長さんは夢工房の仲間です。花岡さんは元社会教育で同じ鎌の飯を食べた間柄、米井さんは双海町出身、北岡さんは元社会教育、木曽さんは初めての出会いでしたが、それぞれ深いご縁を縁としてかゆい所へ手が届くような気配りの研修受け入れで、頭が下がる思いがしました。合併は必ずしもいい事ばかりではなく、むしろ他地域では不協和音も聞こえますが、上田課長さん以下地域振興課の皆さんの姿を見ていると、そんなことは微塵も感じさせず生き生きと働いていました。

  「合併後 テーマに研修 訪ねたが 人が生き生き 学生感心」

  「大盛りの ご飯を食べる 姿見て やはり若者 食べ方違う」

  「街中は ひっそり静か 灯が消えて 店に入ると 訛り懐かし」

  「旧友は あり難きかな 気配りの 数々感謝 別れを告げぬ」

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