○「知りませんでした」の次は「誠に申し訳ありません」で幕切れ
世の中は連鎖反応社会と呼ぶべきでしょうか、耐震構造偽装事件が起きると新聞やテレビが連日そのことを、これでもかといわんばかりに取り上げるて報道するため、新たな偽装に発展し、聞く側にしてみればヘキヘキうんざりするような感じがしました。しかし次の新たな問題や事件が起きると、あの事件は一体何だったのかと思われるほどに忘れ去られ、日本人がマスコミの報道という手法によって、否応なしに世論を形成されるような錯覚すらするのです。
最近はミーとホープから始まって赤福や中国産餃子へと移行し、高級料理店吉兆が廃業に追いやられるなど、食の安全性が大きな社会問題となっているようです。ミートホープも赤福や吉兆も全て長年の気の緩みが産んだ産物でしょうが、中国産餃子は未だ原因が突き止められておらず、日中関係に暗い影を落としているようです。オリンピックという迫り来る国家的イベントを目前に控えている中国としてはこれ以上、問題をこじらせるわけにいかない国家的事情もあって、うやむやになっていますが、食の安全性がテーマの生協が絡んでいるだけに消費者の関心も高く、生協も独自の安全検査をしっかりと行って安全性を主張しているのですから、一日も早い解決が望まれるところです。
ギョーザ問題は別として、これらの根底には企業が儲けばかりを追求してきたことがあると思います。勿論企業は利益を上げないと存続できない訳ですから、そのためには違法でさえなければどんな手段も許されるというのは、もう通用しない考え方ではないかと思うのです。
また一方最近は、お客はお金を払うのだから何を要求してもいいのだという消費者万能主義が強過ぎます。日本人の人を思いやる優しい気持ちはすっかり陰を潜め、品位を下げているのも気になるところです。確かに生産者や販売者は消費者の方を向いて仕事をしなければなりませんが、同時に消費者にも、消費者や生産者にもサービスをしてくれたことへの敬意や感謝の気持ちは必要と思います。
こうした消費者と生産者やサービス提供者が対立という構図になった原因は大量生産、大量消費という生活スタイルが上げられます。作る側も一つ一つ丁寧に心を込めて作らず、より早く、より沢山と薄利多売するから少々不良品が混じっていてもお構いなしで出荷販売するのです。消費者もこんなに安いのだから仕方がないと思い、一つ一つ物を愛しみながら使うことがなくなり、痛めば平気でゴミとして出し新しい物を買い換えるのです。これでは作り手への感謝も忘れがちになるのは当然のことなのです。
事件が発覚すれば、マスコミの追及を逃れるように「知らない」「私は無関係」「社員のやったこと」と責任逃れを繰り返し、警察の追求が始まり逃れられないと思うや一転して、記者会見の席で深々と薄くなった頭を深々と下げ、時には涙まで浮かべて共感を誘い「全て私の責任です」と謝る姿は、全て共通するストーリーなのです。
やがてこれらのシナリオも、忘れ易い日本人の記憶から消え、僅かに今回のウナギや飛騨牛のような次の事件が発覚すると、気がついたように少し触れられ忘れ去られてゆくのです。
経営者にとって責任とは一体何なのか、それは社会的責任と同時に社員や社員の家族を養うという人間的責任も負っているのです。これらの殆どの事件がこれまではなかった内部告発ということで事件が発覚しているところに、経営者と社員の人間関係の微妙なねじれを垣間見るのです。
武士の本分は腹を切って「責任を取る」だと教えられましたが、最近の社長には武士のような責任を取れるような人が少なくなっているようにも思えるのです。まさに「品格」がなくなったようです。
「知らないと いってた人が すみません 二重人格 見え見えですね」
「詫びながら 陰で舌出す したたかさ 演技一流 人間二流」
「品格が 問われる日本 本屋には 品格つけて 売れる下品さ」
「責任は 全て俺だと 何故いえぬ いえばさすがと 座布団二枚」