shin-1さんの日記

○同級生の前で講演しました

 伊予市・伊予郡で合併するはずだったのに、砥部と広田と松前が抜け、伊予市・中山・双海が合併して伊予市となり、3年が過ぎました。広田と中山と双海は旧伊予郡の中でも過疎地域の弱小町村だったため、対等合併といいながら引きずられるような形で合併し、合併後も悲哀をなめるような気持ちになっているのが偽らざる気持ちのようです。そこへ行くと広田を巻き込んだ砥部と単独で残った松前町はそれなりに知恵を出し合い、前にもましていい町をつくろうとする機運が高まって、積極的なことが目立っています。特に松前町は中国四国最大級といわれる商業施設エミフルが誕生し、連日多くの人を集めているようです。

 そんな松前町で開かれているひまわり塾で話しをして欲しいとお誘いがあり、のこのこ出かけて行きました。今日はあいにくの雨でしたが会場となった文化センターの2階会議室には沢山の人が集まっていました。三年前までは同じ郡だったこともあって知人友人が多いのですが、この日は小中学校で同級生だった二人の馴染みの女性が参加していました。同級生の前で、ましてや女性の前で話すのですから何ともやりにくいのです。一人は洋子さんといって私の従兄弟です。学校で失敗したりして立たされたりすると、必ず親に筒抜けだったため最も嫌な相手です。ご主人の仕事の転勤先が徳島だったため、娘が徳島大学在学中、姉の娘と共にずいぶんお世話になったりしましし、年齢が一緒ということもあって、従兄弟では行き来の多い人なのです。もう一人は万寿恵さといって洋子さんと仲のよい同級生で松前町へ嫁いでいます。お互い六十の坂を越えていよいよ初老を迎えますが、男性の私に比べお世辞抜きで女ざかりを少し過ぎた程度で若く見えました。私も日頃大学生たちと出会うためか比較的若い心を持って生きているつもりなのですが、やはり女性の若さにはとてもかなわないのです。

 最初は二人を意識して話していましたが、直ぐにそのことを忘れ平常心に戻ってお話をしました。今日のテーマは「退職後の生き方」なので、私の最も話せるジャンルなので思いつくまま90分を越えてお話しました。特に人間牧場の話は何時もより多く話してしまったようです。

 松前町では生涯学習をこれまでのように教育委員会が丸抱えすることなく、自主的に発想し自主的に運営する方法に切り替えているようです。そうすることで自律や自立の心が生まれ参加者も会場いっぱい、しかもかなり意識の高い塾に育っていて、今日は第一回の学集会でしたが、講演後の意見交換も和気藹々で今後の成長が楽しみです。教育の終局の目標は自立ですから今後の成長を陰ながら応援しています。

 それにしても同級生とはいつになってもいいものです。私たちの育った小学校・中学校時代は戦後の混乱期を脱して、日本がいよいよ発展しようと船出する時代でした。子どもの数も多く学校も活気に満ち溢れていました。同級生の半分以上は高校へ進学しましたが、中学校を出ると集団就職列車に乗って都会の雑踏の中に消えた人もいたし、家の跡を次いで農業・漁業に携わった人もいます。この年齢になるとさすがに殆どの男性がリタイアし、女性もリタイアするような年齢の男性と結婚しているため、人生の岐路に立っています。ゆっくりと過ぎ越し人生をかたりたいと思いつつ、忙しそうにそれぞれの生き方をしています。洋子さん、万寿恵さんどうかお元気でお過ごし下さい。

  「会場で 何とばったり 同級生 少し心が 動揺しつつ」

  「それぞれの 人生生きる 同級生 健やか生きろ 夫と共に」

  「今頃は 食卓囲み 今日のこと 思い出しつつ 笑い転げて」

  「お互いに 六十路を越えて 生きてきた 笑顔と白髪 物語るよう」

 

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shin-1

○お金の井戸と知恵の井戸

 昨日近所の顔見知りのおばさんが立ち話をしている井戸端会議に偶然出くわしました。楽しそうに話しているので「何の話?」と輪の中に入ってみると、どうも近所に住むお金持ちの人の話のようでした。その人は巨万の富とまではいきませんが、私たち貧乏人が羨ましくその人の収入を詮索すれば、貸しマンションを三十戸くらい持ち、年金を受け取っている分だけでも計算すると毎月の収入が百万円はくだらないというのです。そのご主人は私もよく知っている人なので、「別に綺麗な格好をして歩いているわけでもなく、そんなには見えないけど」というと、「お金持はそういうものなのよ。貧乏人に限って見栄を張る人が多い」と、中々の洞察力です。

 最近このお金持と思しき人が旅行に凝っているそうで、国内はおろか外国へも年に数回行くのだそうです。「だってお金は生きているうちに使わないとあの世へまでは持ってゆけないものね」「それにしても羨ましいわね。汲んでも汲んでも減るどころか増える、お金の井戸を持っているのですから」「私たちは毎日あくせく働いても、貧乏人のお金の井戸は直ぐになくなってそこが見えてますからねえ」と話が発展していました。

 「ほう、上手い表現だな、お金の井戸か」と思う矢先、ひとりのおばさんが、「ところで進ちゃん、人ごとではなくあなたもお金の井戸をもっているから羨ましい」と、いきなり矢が私に飛んできました。「えっ私もですか」。「そうよ、あなたもあんな広い立派なお屋敷に住んで、毎日講演三昧でお金ががっぽがっぽ入って、お金の井戸があるのですから」といわれました。

 「いえいえ私の家はあなたが考えるほどお金持ではありません。だって私の家に来てチャイムを鳴らしてみてください。あなたの家のチャイムはピンポ~ンと鳴るでしょうが、私の家のチャイムは貧乏びんぼ~うと鳴りますからね」と笑いを誘いました。

 確かに人が詮索すれば私の家は一見お金があるように見えるのかも知れませんが、内情は「ありそうでないのが現金、なさそうであるのが借金」の諺どおり、借金こそないものの「お金の井戸」などまったくないのです。安月給で4人の子どもを育て、家もローンで新築しました。私は妻の家計簿に「亭主持ち逃げ」という項目があるほど、毎月やれ勉強だなどと全国を走り回り、お目出度お悔やみなどの交際費に加え飲み会やボランティア活動などにそれなりに使っているのですから、自分のハエさえ追えないのです。でも外から見ればそう見えるのでしょうか、私の家には実態のそぐわない「見た目だけのお金の井戸」がどうやらあるようです。

 私はおばさんたちに、「お金の井戸はないけれど、知恵の井戸ならありますよ」とお話しました。「えっ、知恵の井戸ってどんな井戸」、「はいそれは人生を生きていく上でとびきり上等な井戸です。お金の井戸は汲み過ぎるとなくなりますが知恵の井戸は汲み上げても汲み上げてもなくなりませんからね」、「なるほどなるほど、若松さんは上手い表現をされますね。一度私たちのもその知恵の井戸の講演を聞かせてください」「いいですよ、しかし私の講演料は高いですからお金ができないと聞けませんよ」「講演料って幾らぐらい要るの」「一億円です」「えっ、一億円?」「はい私の家にはひとり奥さんがいますので、お金の単位は一奥縁です」「まあ面白い」・・・・・・。延々と続く人を羨む井戸端会議を尻目にわが家へと帰りました。玄関へ入るなり、「おーい一奥縁」と声をかけると、一億縁にも匹敵するわが妻の笑顔が迎えてくれました。「何を馬鹿なことをいっているの」「寒~い」ですって。

  「俺の家 一奥縁が 住んでいる 金はないけど だから楽しく」

  「金の井戸 汲めばなくなる 知恵の井戸 汲めば汲むほど 増えるの不思議」

  「人の家 詮索話し 面白い 俺の家にも 金はありそう」

  「まあいいか 喰えたらそれで 人生は 金などあの世 持って行けぬぞ」


 

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