shin-1さんの日記

○二宮尊徳の教え

 私の町の由並小学校と翠小学校の校庭に二宮金次郎の銅像が立っています。教育にいささかなりとも関わったことのある私は、何かにつけてこの金次郎の銅像を思い出し、二宮尊徳の教えを書いた本を今日まで無造作に読んできました。日本の歴史の中で、亡くなった後150年余りも経っているのにこれほど長く敬愛されている人物は他にはいないと思いつつ、様々な角度からその教えを見つめてきました。

 二宮尊徳の教えを紹介する本は「報徳記」「報徳論」「二宮翁夜話」「二宮翁道歌解」「報徳分度論」などがありますが、それを一冊にまとめたのが「報徳要典」といわれています。私が初めて二宮尊徳の本に接したのは「二宮翁夜話」でした。青年団や青年学級に学んだ若き頃、青年学級の指導をしていた先生からこの本をいただき、熱中して随分夢中になって読んだものですが、その中身は残念ながら断片的にしか覚えてはいません。

 先日待ち時間があって大阪の紀伊国屋に立ち寄り、「報徳訓」なる内容を立ち読みしました。欲しい本だと思いつつ、手持ちの荷物が多いため、気になった所を走り書きしましたが、その後のドサクサでメモしたことなどすっかり忘れていました。昨日久しぶりにカバンを整理していたら、外側のポケットからくしゃくしゃになったメモが見つかり、しわを伸ばして読んで見ました。走り書きなので正確ではありませんが次のような言葉が書かれていました。

  父母ノ根元ハ天地ノ令命ニ在リ

  身体ノ根元ハ父母ノ生育ニ在リ

  子孫ノ相続ハ夫婦ノ丹精ニ在リ

  父母ノ富貴ハ祖先ノ勤功ニ在リ

  吾身ノ富貴ハ父母ノ積善ニ在リ

  子孫ニ富貴ハ自己ノ勤労ニ在リ

  身命ノ長養ハ衣食住ノ三ニ在リ

  衣食住ノ三ハ田畑ト山林ニ在リ

  田畑ト山林ハ人民ノ勤耕ニ在リ

  今年ノ衣食ハ昨年ノ産業ニ在リ

  来年ノ衣食ハ今年ノ困難ニ在リ

  年年歳歳ニ報徳ヲ忘ル可カラズ

 偶然にも数日前に買っただけで読んでいなかった寺田一清偏「二宮尊徳一日一言」という本に、その略解文が載っていました。

 「いかに天地大自然をはじめとし、父母・祖先・夫婦・子孫の恩恵にあずかっているか、計り知れないものがあります。そればかりか、生存の三大根本である衣食住にかかわる田畑と山林それに従事せられる人民の勤労、それを総括して産業の社会充実発展の寄与によるもので、思えば無限の恩恵にあずかっているこの身この生が生かされ守られているのです。この恩徳に報いる「報徳」精神を人間は決して忘れてはならぬという偉大な訓えです。」

 なるほど報徳とは幾つもの因徳関係によって成り立っているものだと、読みながら思いました。一人で大きくなったような傲慢さや、自分の不幸を社会や人のせいにするような愚かさは恥ずべきことだし、報徳訓をもう一度日本の国づくりや人づくりの根本に据えて教育を考えなければならないような気がしました。

 立ち読みで見つけた恥じらいがまだ心のどこかに引っかかっているようで、今度あの本屋に行った折は恩返しに本を購入したいと思っています。

  「立ち読みで 気が付きメモする 悪い癖 今度は一冊 買わせください」

  「尊徳の 銅像あるが 教えなど 訓えず終わる 学校教育」

  「気が付いて 親父に優しく する吾に 今日は変だと 親父気付いて」

  「恩徳に 報いる心 持ちたいと 思うけれども 実行伴わず」



 


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shin-1さんの日記

○今年最後の草刈り

 人間牧場とわが家の周辺は自然が豊かなのか一年中草が生え、ちょっと油断するとまるで草むらのようになってしまいます。草の管理だけでも一苦労で、農家のように草枯らしという除草剤でも撒こうかと思ったりもしますが、環境をテーマにしているだけにそんなことも出来ず、体が続く限りは草を刈り、草を削って対応したいと思っています。さてそんな考えもいつまで続くか心配です。やがて歳をとったら息子に経営を移譲しなければならないのでしょうが、息子は草刈機を使ったことも殆どない状態なので将来が不安です。でも人間牧場もわが家も息子が深く関わっていますので、多分私がそうであったように加齢とともに自覚が出来て、それなりに手入れをすることでしょう。

 昨日は今年最後の草刈りをしようと意気込んでいましたが、孫がやって来て人間牧場へ行くというので、仕方なく連れて行き、一人で遊ぶという約束をしましたが、残念ながら私の姿が草間に隠れるやいなや、大きな声で私を呼ぶのです。私には草刈機の音が大きくて届かないため、更に大きな声で叫ぶのです。仕方がないので山蕗の畑や梅の畑を刈っただけで終わってしまいました。

 孫の守りと草刈りは両立するはずもなく断念して、草刈り機を積んで家へ帰り、今度は家の周りの草を刈りました。親父が草集めなどを手伝ってくれましたが、前回の草刈りから間が開いていないため、そんなに大草ではないため、2時間ほどで終了しました。

 孫の世話で草刈りが残った人間牧場はさておいて、家の周りはすっかり綺麗になって、次は4月の1番草刈りまで永い眠りに付くのです。

 草刈りをしながら思うのは、草の旺盛な生きる力にはただただ驚くばかりです。そこへ行くと人間が食べる作物は大事小事に育てても、ましてや水や肥料をやっても満足のいくような大きさには殆ど育ちません。虫に食われ、病気に遭い、時には寝腐れしたりするのです。また連作障害を起したり原因不明の枯れ方もします。植物は本来そのままだと自然に育つように出来ているのですが、人間のエゴに合わせて品種改良したり、適地でもない場所に植えたりするものですから、当然植物は拒否反応を起すのです。

 私は若い頃一時期盆栽に凝っていました。青年の船でアメリカへ行った折も、「子ども泣かすな盆栽水遣り怠るな」などと妻に手紙を書いたほどでした。その折学んだことはですが、植物は根を切り枝を切ると若返るのです。多分雑草は草刈機で痛めつけているように見えますが、実は草刈りによって雑草の若返りを図っているのです。若草はそうしてどんどん伸びてゆくのです。

 お百姓さんは「草がなかったらどんなに農業は楽な商売か」とよくいっていますが、草だって自然の循環にとって極めて大事な役割を果たしているのです。草が朽ちて土に帰る自然循環がなければ農業は成立しないのです。これまで草だと思っていたものの中にも薬草のように利用できるものもあれば、私が風流として残したススキやツワブキは秋を演出してくれる道具に早代わりしています。今年の冬は雑草や枯葉を集めて人間牧場で腐葉土を作る計画を立てています。その腐葉土が完成したら芋の苗を立てて芋ツルを作って来年こそはいい芋を育てたいと意気込んでいます。12月になるとその準備にとりかかりたいのですがさて上手く行くかどうか気がかりです。

  「草のよう 出来たらいいと 思うけど 家庭菜園 今年も不作」

  「雑草の ように生きたや 人生も だけどちょっぴり 欲が持ち上げ」

  「指折りつ 数えて草を 刈った日々 来る年もまた 同じ数だけ」

  「もう寿命 思ったけれど まだ動く 感謝しつつも 草刈り機駆け」  


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