○第二のふるさと宇和島
人にはそれぞれふるさとがあります。私のふるさとは合併して自治体としての地名は亡くなりましたが、紛れもなく愛媛県双海町なのです。最近は伊予市双海町という紹介も随分慣れましたが最初は随分戸惑いました。「あなたにとって第二のふるさとは何処ですか?」と問われたら、私は何の疑いもなく「宇和島」と答えます。何故なら私は高校生活3年間をこの宇和島で暮らしたのです。
3日前、宇和島市議会事務局長の佐々木さんからお声がかかり県下の市議会職員の研修会に招かれました。前日の交流会から参加するよう指示があったものですから何の疑いもなく出掛けました。
梅雨明けは聞いていませんが宇和島への道すがら大洲市長浜辺りで肱川の上流付近で夏を告げる逞しい入道雲を見つけました。空の青さと雲の白、それを映す肱川の流れはまさに夏の色を感じさせ、思わず路側帯に車を止め写真を一枚撮りました。後続の車が「何事か」と横目で見ながら足早に通り過ぎて行きました。その夜の宇和島は旧友佐々木さんの配慮で正副議長さんや昨年まで議長をしていた旧友で同窓の土井議員さんも駆けつけ、二次会まで付き合いすっかり甘えた楽しい交流となりました。佐々木さんの行きつけのスナックではママさんが私の下宿していた松原さんの同級生ということも縁の不思議さを感じました。
一昨日の明くる日、私は朝5時に宿泊先のクレメント宇和島をそっと抜け出し、たった一人で久しぶりの散歩を楽しみました。意の向くままに足の向くままに港付近を歩いていると懐かしい光景に出会いました。『宇和島橋」です。学生の頃何度もこの橋は渡っているのですが、これまで気付かなかった橋に思わず立ち止まりました。モダンな橋なのです。
橋のたもとに碑文がありました。何でもこの橋は大阪にあった宇和島藩ゆかりの橋を大阪から貰い受け移築した年代ものの橋だと読んでびっくりしました。ここにも歴史の生き証人がいるのかと思わずカメラを向けましたが、多分宇和島市民の殆どはこのことを知る由もなく毎日あくせくとこの橋を渡っているのでしょう。
私の足はその向こうに伸びる一本道へ向いていました。思い出の彼方にあるこの道の端にはガス会社の丸いガスタンクや軒を並べた造船所、その周りにはレンコン畑が広がっていました。しかし今はその姿はすっかり様変わりして高規格道路の高架橋が時代の移り変わりを象徴しているようでした。
私の母校である宇和島水産高校に行きました。早朝なので学校の門は全て閉ざされていましたが、悪いと思いつつ卒業生のよしみで通用門から校内に入らせてもらいました。
正門玄関の趣きは今も昔も変わらず、正門横には「海を怖れず海を愛し海を拓け」という石碑が堂々と建っていました。
その横には日本中に衝撃を与えた、忘れもしない2001年2月10日の愛媛丸沈没事故記念碑がひっそりとありました。
愛媛丸事故の追悼慰霊碑
事故の状況を知らせる碑文
ハワイ沖階梯00メートルから引き上げられた愛媛丸の錨(9個の鎖は犠牲者の人数)
この事故で沈んだ実習船えひめ丸は4代目の船で、私が高校3年生の時に乗った船は初代の愛媛丸(214.5トン)でした。もう6年も前の出来事で、人々の悲しみも風化しつつありますが、愛媛丸で育った私としては決して忘れられない出来事ですし、2001年2月10日は私の自費出版本「昇る夕日でまちづくり」の出版記念パーティと重なった因縁もあるだけに衝撃的な出来事でした。
慰霊碑に深々と頭を下げて追悼した後私は下宿をしていた枡形町界隈を散策しました。この辺りもすっかり様子が変わり45年という時代の流れの早さを感じつつ、青春の思い出に浸りました。
西側の登山口から城山に登りました。入り口には宇和島出身の児島の記念碑が建っていました。
宇和島城はそんなに高くはないのですがうっそうと茂る登山道は昔見え隠れしていた市街の様子をすっかり隠してまるで緑のトンネルの中にいるようでした。
修復工事のためでしょうか至る所に立ち入り禁止のロープが張られ、城の全容は山頂付近にしか見ることが出来ませんでした。山頂の鶴島城は夏の朝日に輝き美しく見えました。
僅かな