shin-1さんの日記

○忍び寄る冬の時代

 今朝妻が「お父さんご飯食べるときぐらい新聞を読むのを止めてください」と言うのです。私の日課はご飯を食べながら新聞を読むのが癖で、何を食べたかさえも分らぬほどに熱中するのです。結婚して以来そんなことを言われたことがなかったのでカチンときて「新聞を読むくらい文句を言うな」とやり返しました。妻の言うのには朝起きの遅い同居人次男を除いて朝食はこのところ妻と二人です。昼は同居人次男と3人で食べますが、夕食も二人です。親父は隠居で食べますので、気がつけば二人だけの時間が以外と長くなっているのです。「新聞くらいで文句を言うな」とやり返した後自室に入って考えました。ああ私たち夫婦も冬の時代に入りつつあるということを・・・・・・・・。

 人生80年生きると仮定して考えてみると単純計算で二十年刻みになります。概ね20歳までを春の時代とするなら子ども時代や思春期、それに成人式くらいまででしょうか。その頃は殆ど親の比翼に支えられて生きて来ました。やがて二十歳ころから四十歳ころまでは恋をしたり結婚したり、子どもが生まれて自分の自立で生きる夏の時代ではないかと思うのです。四十歳から六十歳ころまでは仕事に情熱を燃やし役職や相応の知遇を得て人生の中で最も充実した秋の時代だったようです。やがて六十歳から始まったであろう冬の時代をこれから二十年間生きていく訳ですが、妻の言うことが正しいのであれば、私たち夫婦はたとえ朝食の時間であろうが、向き合ってかをを見合い会話や対話をしなければならないのです。

 昔の私だったらそんな妻の一言も何処吹く風と軽く受け流したり無視していました。しかし私も少し大人になったのか一応考え一応の結論はご飯を食べるとき新聞を読まず、妻と対話するという決断でした。さてそんな約束が果たして守れるのかどうかも分りませんが、努力だけはしたいと思っています。

 「冬の時代」なんて言葉は何か物悲しく感じますが、それでも冬の時代を認識し、春を待つような気持ちで、夏のような楽しい行動をしたいものです。そして秋の実りのように夢を実現したいものです。ふと見渡せば、私の周りには冬の時代を生きてる人たちが沢山います。何処が悪い、ここが痛いと体の不調を訴える人も多いようです。

 昼飯時職場から帰った妻に聞きました。「お前はこれから一番の願いは何ぞ」と。妻曰く「家族みんなが健康で暮らせること」だそうです。そういえば太り気味だった妻も、帯状疱疹の発症以来歩くことや食べることに注意をするようになって、少し痩せたような気がします。熊は冬眠のために栄養を蓄積しますが、妻は冬眠もしませんから、やはり冬の時代への備えでしょうか。悲しいかな人は誰でも老いるし冬の時代は必ずやって来るのです。

  「気がつけば ひとり二人と 家族減り 俺とお前の 二人だけしか」

  「健康で 長生き願う わが妻の 腹の出具合 少し気になり」

  「俺たちも 何時の間にやら 冬時代 ストーブ入れねば この冬越せず」

  「春や夏 秋もあったな わが人生 当然冬は やって来るもの」


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shin-1さんの日記

○人間は勝手なもの

 今朝約50メートル離れたゴミの収集場所へゴミを持って行くと、早起きのカラスが一生懸命ゴミの袋をあさっていました。最近のカラスはおうようなもので私が側に近寄って手を叩き脅しても、ほんの2~3メートル離れるだけで私が遠のくとまた同じような行動を繰り返すのです。そんなこともあるので出来るだけ早朝のゴミ出しはしないようにするのですが、近頃は車で通勤の人が車でゴミを収集場所に置いて仕事に出かけるため、そのゴミを狙ってカラスがやって来るのです。

 今朝のゴミ散乱はひどいもので、側にいるカラスに文句を言いましたが一向にコミュニケーションが伝わらず、カラスの耳に念仏のようでした。隣のおじさんは殊勝な人で、毎回火バサミを持参して散乱したゴミを片付けています。このおじさんは宗教に熱心で、遠い高知県の宗教本部まで毎月欠かさず信者さんを連れてお参りに行っているようですが、さすが一日壱善のお方といつも感心しているのです。それに比べゴミを置かれる前の家の人はゴミを出しに行った私を見つけてはブツブツ文句を言うのです。「人の嫌がるゴミは私も嫌です。どこかへゴミ置き場を移動してくれませんか。あんた区長でしょう」とまるで喧嘩を売るような口調なのです。私はいつも無言でゴミを片付ける隣のおじさんと、文句を言って何もしないごみ収集場所の前のおじさんとを比較しながら、やはり隣のおじさんの生き方や行動を見習いたいと思うのです。

 今朝もゴミ収集場所の前のおじさんに会いました。「今日はいい天気ですね」と声を掛けると、「最近は雨ばっかりでうんざいりしていたところなので今日は気持ちがいい」と久しぶりの上機嫌です。でもその後の言葉がまた変わっています。「雨も降らんと傘屋が困るから」と2軒隣の傘屋さんの心配までするのです。追い討ちをかけて「天気はいいが夏の水不足が」と満足どころか不足不足のマイナス的話になってしまうのです。「ああこの人は寂しい人だなあ」と思えました。人生をこうして嘆き悲しんで過ごして一体どんな得があるというのでしょうか。

 「雨が降ったら傘屋が儲かり、晴れれば桶屋が儲かる」は昔からの諺です。雨を嘆くより傘屋が儲かると思えばいいし、晴れれば桶のタガが緩んで桶屋が儲かると思えばいいものを、その反対ではいつも心配の種は尽きないのです。おっと要らぬ話を書いてしまいました。ごみ収集場所の前のおじさんにはこの記事のことは内緒にしておいてください)。

 日々の暮らしは毎日飽きもせず続いています。ゴミを出すという行為も長い間妻の仕事でした。でも昨年からは出来るだけ自分で出来る仕事は自分でしようと心に決めて妻の領域も侵しています。「お父さん今朝もゴミを出してくれたの。お陰で助かります」とは妻の弁。子どもではないのですから別に褒められようと思ってした訳ではないのですが、妻の一言は私の心をすがすがしくしてくれます。カラスに言ったって仕方がありません。感謝して生きるようにしたいものだと隣のおじさん、ゴミ収集場所の前のおじさん、妻を見て感じた次第です。

  「雨嘆き 晴れを嘆いて 生きている あの人少し 疲れているかも」

  「カラスにも 生きる権利が あるようで 毎日人と 知恵を比べて」

  「ゴミ掃除 余程の精神 あればこそ あんなおじさん 身近な見本」

  「さあ今日も ゴミ出し少し 手助けを 感謝の言葉 嬉しくなりて」 

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