○日々自分を磨く
自分ぐらい嫌な人間はいないとつくづく思うことがあります。自分の意の向くままだと嫌いな人でも「嫌い」と面と向かっては言えないどころか逆にへつらっったりもして、それが世渡りだと分っているから適当にあしらって過ごすのです。特に自分を基準にして上だと思う人にはペコペコ、下には邪険にしてないつもりでも、一緒にいて片方に手厚くする人の一方で目下のような対応をされた他人から見れば、「何だこの人は」てなことになるのです。ある日何人かの女性が夕日を見学に来ました。私は得意げになって夕日の話をしましたが、熱心にメモを取ったり真剣にうなずいて話をする人よりも、参加者の中で一番見た目に美しい、しかも胸のときめきを覚えるような美女にいつの間にか目線がいっていました。やがて何事もなくその集団は帰っていったのですが、後日私の元へ一通のハガキが舞い込みました。「あなたの視線の先は別の人にありました。気付かなかったかもしれませんが私はその方の3人右側にいました」「お話をする時は万遍に」とやんわり手厳しい便りでお灸をすえられたあれ以来、話す時は万遍公平にするよう心がけるようになりました。
毎日自分を高めたい一心から日々の暮しの中で自分を高めてきたつもりなのですが、やはり私は凡人なのでしょう、一向に高まらないのです。
よく言われる言葉ですが 、「難局にぶつかったとき尋常な対応や実行が出来る人」は大物だそうです。安岡正篤はその書の中で、「原理はきわめて簡単、第一は人物に学ぶこと、第二は人物学に伴う実践、すなわち人物修練の根本的条件は、怖れず臆せず勇敢に、そして己を空しうしてあらゆる人生の経験をなめ尽くすことだ」と述べています。つまり師淑する師を持ち、愛読書を得て自分を磨きそれを実践することだと言うのです。
同時に次の三つに心がけよといっています。
①どんなに苦しいことが遭っても、常に心のどこか奥に喜びを持つ。
②何かにつけて感謝の気持ちを持つ
③常に陰徳(人に知られない善行)を志す。
さてあなたは如何でしょうか。そして私の場合はどうでしょう。多分苦しい事に遭ったらその苦しみから逃れようとするでしょうし、その苦しみの原因を社会や人のせいにするでしょう。そんな場合に心に喜びなんて持てる訳がありません。感謝もしないから感謝もされません。人が見ている場所ではいい格好をしますが隠匿なんてとまったく逆の行動しか出来ないのです。
私が体験した視察者への対応ぶりを一枚のハガキが指摘したように、私の「目の付け所」「心の持ちよう」の間違いに気付くことなのです。苦しさの中に喜びを、不平の前に感謝を、陽徳よりも陰徳を重んじるようになれば、自ずから道は開けてくるものです。
「何処見てる はがきがくれた 警鐘に まだまだ未熟と 精進積んで」
「膨らんだ 胸が見たけりゃ 乳牛を 人の値打ちは 見かけだけでは」
「世の中は 上には上が いるものよ 近所のおじさん 名前も上田」
「陰徳は 中々積めぬ 凡人も 気構え一つ 一日一膳」