shin-1さんの日記

○芋とかぼちゃの苗植え

 「お父さん、人間牧場は赤土だからおいしいお芋が出来るかも知れないから芋を植えよう」と言うので、「ああその内な」と軽く聞き流していました。ところが最近になって「ふたみ少年少女おもしろ教室」の「芋植え」の話が具体的になって、暇さえあれば足しげく人間牧場に通うようになったものですから「お父さん、私の芋植えの話はどうなったの」と聞き返したので、「うん、畑はおもしろ教室に貸すことになったので、芋を植える所がなくなった」と一昨日の夜断ったら、「おとうさんどうしよう。私の注文した芋のつる苗が届いた」と100本も持って帰ったのです。今更教育委員会に断ることも出来ず、結局は今朝早く起きて五右衛門風呂下の畑を耕し、マルチを敷いて、今日は広報区長会が午後1時から予定されているので、11時までに何とか植えてしまいました。悪戦苦闘でした。何せ一人でマルチを張るのは骨が折れ時間がかかるものですから上手く出来ずイライラがつのりました。

 でもご覧の通り何とか2列を6畝で100本を植えたのです。マルチにカッターナイフで筋状に切りそこへ手を突っ込んで芋を植えるのですが、難度はCクラスでした。でも昨年からの百姓の真似事のお陰で畝切りも真っ直ぐで、自分で言うのもおこがましいのですが、それなりに板についてきました。

 20日には子どもたち約40人がやって来て芋を植えるお手本が出来たと内心妻の失敗を喜んでいます。

 今日はもう一つかぼちゃを植えました。芋つる苗を買ったお礼にと頂いたそうなのですが、日本かぼちゃの苗を二本、「どこかに植えといて」と妻に託されました。私は思うのです。私がサンデー毎日、妻がパートながら職業女性であることをいい事に、何でも簡単に頼むのです。芋つる苗しかり、かぼちゃ苗しかりです。そのためには耕したりマルチを掛けたりそれ相当の時間と労力が必要なことを理解しているのだろうかと少し腹を立てました。「腹が立ったら寝せておけ」とはよく言ったもので、あんなに腹立たしく思っていたのに、時間が経てば直るのですから不思議なものです。

 明日から東京なのでしっかり仕事をして、広報区長会でしっかり役所の言い分を聞きました。その疲れも明日は東京ですからリフレッシュして帰ります。

  「芋植える 前からイノシシ心配し 忠告する人 何にもせずに」

  「芋のつる 根もないはずが やがて根が 芋に膨らむ これも不思議だ」

  「種苗を にわか百姓 あれこれと 計算せずに 植えたがる はてお値段は?」

  「まあいいか 中途半端で 終わるのも 儲け度外視 にわか百姓」 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○「何か質問はありませんか」

 講演会場で講演が終わり、司会の方が「何か質問はありませんか」と参加者に質問を促しますが、一向に質問が出ず、「それでは質問もありませんのでこの辺で本日の講演会は終わらせていただきます」と拍手を求めて終了する会合は以外と多いようです。その原因は講師の話が質問に値しなかったのか、参加者の意識が低いのかどちらかでしょうが、もうひとつ考えられる原因はそんな月並みな集会を仕組んだ主催者側にも大きな責任があるようです。つまり研修会は主催する人、話をする人、話を聞く人の三角関係で成り立っているのです。その束ねはやはり主催する人ですから、誰の話を誰にどんな目的で話させ、どんな成果を求めるのかが明確でない場合に得てしてこんな結末を迎えるのです。

 「桜をつくる」という言葉があります。前もって講演会の終了後に講師に質問をしてもらう人を頼んでおく手法です。これを「やらせ」ともいいます。普通は話しなれた参加者を2~3人ピックアップして頼むのですが、会場の雰囲気を上げるために「私は司会者から発言を頼まれましたいわゆる桜です」なんて種証をしてから発言する人もいて思わず大爆笑なんてことも経験しましたが、質問はその人の大きな能力と言えます。

 人の話しを聞いて要点をまとめ、その話の中で起こった様々な疑問やもっと深く聞きたいことを要領よく相手と参加した人に向かって話すことは容易なことではありませんし、その訓練が出来ていなければ折角の発言も水を差すどころか冷水を浴びせることにもなりかねないのです。その意味で質問力はその人の「総合力」だと思うのです。

 「正法眼蔵隋聞記」という本に「道を学ぶ人が教えを聞くときはよくよく追求して聞きただし、その上分らないことは重ねて質問して疑いのないようにしなければならない。質問すべきことを質問しない、言うべきことを言わないで過ごすことは自分の損害である」と述べています。

 講演会場を出て、「今日の話は面白かったが、もう少しあのことが聞きたかった」「私も質問しようと思っていた」などと会話を交わしながら去って行く人をよく見かけます。これでは何のための1時間半であったのか疑いたくなります。私は人の話を聞くときメモを取りながら、「私だったらこう思うとという要点や質問事項を書くよう心がけています。ですから「若松さんあなたはどんな考えですか」と尋ねられても即答できるのです。聞く、理解する、整理をする、質問して自分の意見を述べ更に理解を深めるなどなど、まさに総合力が

自分の知識を知恵に変えて行くのです。漫然と時を過ごしてはなりませぬ。

  「質問が ない会なんて 何のため 開いた意味が 分らず終い」

  「言うべきを 言わず言うなと 言えば言う 言うことあらば 言えばいいのに」

  「質問は ないかと聞くは 美辞麗句 俺は桜と 言って爆笑」

  「質問も その人値打ち 上げるコツ よくよく聞いて よくよく質問」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○山二つのありがたみ

 私たちは『便利」という名の基に、何でもかんでも自分の近くに置こうという癖があります。松山まで僅か25キロの地域であるわが町のまちづくりも、実はそんな発想からスタートしています。道が開かれてからというものは、多くの人が住んでいる県都「松山」を意識して随分道をよくする運動をやって来ました。県道から国道への昇格運動、国道の改良陳情などにどれ程の知恵を出し努力をしてきたことでしょう。その結果25キロという距離は今も昔も変わらないものの、大幅にスピードがアップして2時間もすれば松山へ行って帰って来れるような便利さを手に入れました。過疎だ高齢化だと町の持っている負の部分を嘆いて「もっと便利に」が今も変わらず合言葉なのです。しかし近くなればなるほど、便利になればなるほど松山へ行った時の感動が薄れてゆくのは何故でしょう。非日常が日常に変化したからなのです。人間は日常の暮しだとだと感動しません。日常の暮しに飽き足らず非日常を求めるからこそメリハリがついて人生が楽しい思い出となるのです。

 江戸時代の儒学者に熊沢番山という人がいました。番山は家が落ちぶれて寒村で貧しい暮しをしていました。山二つ越した所に日本の陽明学の祖中江藤樹が塾を開いていたので、番山はいつも講義の時間になるとやって来て、垣根越しに講義を聞いていました。その姿を門弟が見つけ中江藤樹に告げたのです。中江藤樹は番山を呼んで「そんなに講義が聞きたいか」尋ねました。「雨の日も風の日もこうして先生の話を聞くのが私の何よりの務めです」と答えました。中江藤樹は「聞くところによるとお前は年老いた母と一緒に暮らしているそうだが、うちの馬小屋が空いているからどうだそこへ住まないか。4時間も山を越えて来なくてもいいではないか」。「ご親切なお気持ち感謝してもし切れません。しかし私は山二つ越えて来るからこそ辛抱のしがいがあるのです。私の心の励みとしてどうぞそのままに」と涙ながらに答えたといいます。

 今の私たちにはその気になれば幾らでも勉強に機会は与えられています。でも教えを体得するのは巻き返し繰り返しが大切なのです。

 今の便利な時代、熊沢番山のような生き方をする人もいないでしょうが、せめて不便さの中であえて学ぶ心を持ちたいものです。幸い人間牧場には距離的や空間的に非日常が存在します。家の横に30年前に造った私設公民館「煙会所」が非日常から日常に変わった今、人間牧場の非日常こそ心を鍛える場所としては最適だと思います。熊沢番山の歩く速度だと人間牧場は一つ山越す2時間程度だと思います。一度自分の足で自宅から歩いて人間牧場を往復してみたくなりました。そう是非実行してみたいものです。私たちはいつの間にか足があることを忘れていました。

  「番山の 生き方学ぶ 気構えが あれば学びに 心こもって」

  「何時の間に 足で歩くを 忘れたか 便利という名の 車に乗って」

  「直ぐそこに 中江藤樹の 大洲あり 偉大な足跡 訪ね学びし」

  「この歳に なっても未だ 山越えず 何をしてるか 早くしないと」


[ この記事をシェアする ]