shin-1さんの日記

○のんびりゆっくり徳島の旅

 昨夕仕事から帰った妻と食事をしていて、「明日は何も予定もない休日だし、のんびりとお寺参りでもするか」と誘ったところ相談がまとまり、早立ちで徳島まで行く事になりました。私は早朝4時に起床して机上のパソコンでブログを一本書いて軽い朝食や身支度を済ませ、5時過ぎに出発しました。伊予インターから松山道を経て川之江ジャンクション、徳島道と100キロ近いスピードでひた走り、板野の4番札所大日寺には納経所の開く8時30分に到着です。私たち夫婦の八十八ヵ所参りは仕事の関係もあってまるでランダム、一番からなんて出来ませんでしたから適当に回っています。ですから空白部分や歯抜けといった感じでお参りしていないお寺があるのです。今日のお参りは4番から13番までが残っていたので順番どおりカーナビ頼りのお参りとなりました。

 どの寺も私たちのようないい加減なお参りではなく、白装束に身を固め鈴の音も読経の声も軽やかな参拝客に見えました。妻はその人たちに触発されてかお参りの資料に印刷されている般若心経を持参して、もれ聞こえてくる参拝者の読経に合わせて口ずさんでいました。私は無信心なものでお賽銭を入れて鐘を突き手お合わせるとそそくさと引き上げて納経所へ行き、納経帳と掛け軸を出してその達筆ぶりに感心しながら書いてもらうのです。

 最近は歩き遍路の人にも随分出会うし、車でお参りする人は殆どスピードが同じですから、早かったり遅かったりしながらあの顔この顔に出会って、言葉を交わすのも遍路のいいとこかも知れません。昨日は連休ということもあって可愛いい白装束の子どもさんにも沢山出会いました。一用前な姿とおじいちゃんやおばあちゃんの嬉しそうな姿には思わず目を細めて見ました。

 季節はもう初夏、周りの景色は燃えるような新緑で、思わず深呼吸をしてみたくなるような爽やかさです。山には小鳥が鳴き、オレンジ色の山つつじも美しく咲いて自己主張しているようでしたが、今回のお参りは行く寺毎に咲き誇る花にめぐり会ったことでした。その度に妻をモデルに撮影会のように一枚ずつデジカメの写真が増えてゆきました。帯状疱疹の妻は幾分かやつれた感じもしましたが、それでもカメラいっぱいの豊満ぶりで女らしく収まっていました。あるお寺では私がカメラを向けていると、「押しましょうか」と気軽の声を掛けてくれる参拝者に甘えて撮ってもらいました。何せ新婚旅行でも二人で撮った写真が一枚もないという私ですから、何とも面映い感じがしましたが旅の記念になりました。藤井寺の藤も見事でしたし、最後に参った雲辺寺では千メートルの標高なので山桜、長い九十九折の山道を走った山奥の石楠花が満開で、思わぬ花見となりましたが、5月の連休に桜の花見が出来るとは思っても見ませんでした。

 先日のお寺さん参りの時は、突風が吹いて香川県からロープウェイでのお参りは時間切れで出来ませんでしたが、裏山から車で挑戦し今度もまた時間切れ間際となったもののやっと念願かなってお参りをすることが出来ました。

 再び池田町まで下山して旧国道を峠越えして川之江まで出て、高速道路をひた走り、7時には松山で一風呂浴びて遅い夕食を楽しみ無事9時過ぎにわが家へたどり着きました。今日一日でしめて10ケ寺をお参りしました。車のメーターは一日で500キロを越えましたが、充実した一日だったと妻も大喜びです。それにしても便利な世の中になったものです。徳島へ行くだけでも大変だのにお寺さんを10カ寺ですから感心します。この分だと高野山参りもそんなに遠くはないようです。

  「どの寺も 季節の花の 盛りにて 思わずシャッター モデルがいいから」

  「撮りましょう 思わず声を 掛けられて うれし恥ずかし 寄り添う夫婦」

  「朝もそば 昼もそばにて 夕食は せめて寿司でも 回転我慢」

  「本を持ち 般若心経 唱えるが まるで音痴で 思わず笑う」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○88歳の親父を語る①

 私には二人の親父と二人の母がいるはずなのですが、そでに妻の父母と私の母は既に亡くなっているので、私のルーツは父の誕生日である大正7年9月1日から前へ遡ることはできないのです。父は父の父母である私の祖父母から生まれる前のことを色々効いて育っていますが、それは聞いた話なのです。ですから父が生まれてから今日まで生きて見聞きした話から4~5歳年齢を引いた80年余りの出来事しか正確には伝わらないのです。私はその父親から一体何を聞き、何を覚え、何を誰に伝えればよいのでしょうか。私の父はこの時代の人の殆どがそうであるように文字を持たない世代なのです。生まれて間もなく行くであろう学校にも貧乏が故ろくに行けず、少年の頃から大家族の長男としての重圧の中に生きて家族を支え続けた人生は「おしん」のドラマと同じような苦しい人生であっただろうと思います。その文字を持たない親父にとって気がかりなことはは、後何年生きて、後どのくらい自分の持っているものを伝えられるかではないかと思うのです。船に乗って漁師を70年間もした親父は瀬戸内海を漁場としながらあえて外海に挑んだり、晩年は海の資料館「海舟館」を造るなど得意な生き方をしたため、文字こそ少ないもののそこここに目で見える形で生きた証が残っています。でもこれとて私という口伝者(筆伝者)がいないと次代へは伝わらないのです。幸い私は7年間の短い期間にせよ父と同じ漁師を若い頃経験していますので、父の経験の口伝者と同時に筆伝者として最適な一人であることは間違いありません。ですから本当は父の思い口を開かせ、生きているうちに生まれ育った下灘という漁村の民俗学を少しでも文字にしておきたいのです。

 父の生きた時代や下灘漁村の暮らしは速いスピードで記憶の彼方へ消え去ろうとしています。多分私が手を加えなかったら気付かずに消えていく運命にあるのです。漁村のあれこれは私と同じような思いを持った人たちがその都度私を介して取材にやって来て口述文字にしていますが、残念ながら文章表現は先生らしく上手いものの暮らしや生産活動の共有がないため入り口までで止まっていますし、それらを読んでもこれまた読む人に暮らしや生産活動の共有がないので殆ど伝わらず、老漁師の戯言として消えて行くのです。

 

  昨日私は、わが家の庭の余りにも美しいつつじの花をデジカメで撮ってブログで紹介しようと思いつきました。若いごろガンで顔面を手術した後遺が残っているため、余り写真の好きでない父が菜園で野良仕事をしていたので、「じいちゃん、写真を撮ってあげる」とカメラを向けると「こんな汚い格好で」と嫌がりましたがカメラに収まりました。これがわが人生のルーツである父・若松進・88歳なのです。

 子どもが生まれると今の親はカメラやビデオで成長の記録をします。日々老化する親父の記録も意味があるのかも知れません。そうだ「老化する人間の記録」を、父には悪いのですがやってみよう。

  「偶然に 花と一緒に 撮りました 八十八年 生きてた証」

  「この花も この父さえも 惜しまれて いつかは散りし 定めありなん」

  「ポーズとる つもりが軍手 脱ぎ忘れ それでも片手 花に沿えつつ」

  「五年前 あそこの屋根は 無かったな 親父しみじみ 流れをポツリ」

[ この記事をシェアする ]