shin-1さんの日記

○お葬式とまちづくり

 世の中には変わった学生がいるもので、何と卒論作成に「お葬式とまちづくり」なるテーマを掲げている学生に出会いました。今日はその学生2人がはるばる高知県から勉強のためにやって来たのです。私も前々から民俗学で葬式のことを書こうかと思っていた矢先のことなので快く対話に応じました。

 私が子どもの頃のお葬式はもっぱら土葬で、おじいさんが死んだ時は、海の見える墓地まで急な坂道を棺おけ担いで登りました。組内の人の掘った穴におじいさんの棺おけを入れて土をかけた時、「ああ人間は土になるのか」と幼心を痛ませてそう思いました。初七日までの毎夜ローソクの光をつけに墓地まで行くのですが、この土の下におじいさんがいると思うと、ボチボチどころか怖くなって、心臓が張り裂けるくらいの速さで墓地に通じる山道を駆け下りました。おじいさんは人徳のあった方らしく、葬送の列が墓地まで長く続いていたことも忘れません。セピア色にあせてはいますが、私の思い出の彼方におじいさんのお葬式の姿は今も鮮やかに残っています。

 お葬式に関しては学生がテーマにするように最近では様変わりしました。土葬から火葬へ、自宅からセレモニーホールへとやり方も場所も随分変わったように思います。正しいデーターはとっていませんが、学生が言うように、お葬式の変化はまちづくりやコミュニティのあり方と、相関関係があるのではないかと思えるのです。私たちの町では限界集落が多くなりつつあり、お葬式さえも組内で支えきれない所もあると聞きます。またお年寄りが病院へ入院するのをためらうのは、病院で死ぬとセレモニーホールへ直行し、住み慣れた家へ帰れないからだとも聞きました。せめて通夜だけでも自分の家でと願うお年寄りの気持ちは痛いほど分かるのです。

 「世の中全て金次第」、いやひょっとしたら「地獄の沙汰も金次第」なのかも知れないと思うと何かしら侘しくなります。

 昨日こんな話を聞きました。ある一人暮らしのおじいさんが亡くなりました。今は忙しい人ばかりだからでしょうか、葬式が終わるのその日のうちに49日の法要を済ませるようです。財産は民法で決められたとおり、均分相続することになって誰も文句を言わず分け前を受け取ったようですが、さて位牌を誰が引き受けるかもめた末、結局は引き取り手がなくお寺に預けることで一件落着したそうです。「財産は欲しいが位牌はいらない」という何とも身勝手な社会は、私のような古い人間にはどうしても理解ができません。あなたはどうお考えでしょう。

 学生はまだお葬式とまちづくりの関係についてよく飲み込めていないようでしたが、私の葬式論に舌を巻いて帰りました。「君なら必ずいい論文が書ける」と激励して分かれました。いい論文が書けるよう祈っています。

 「葬式は今も昔も一里塚土葬と火葬違っていても」

 「死んだはずどっこい母は生きている心のどこかで私見守る」

 「葬式を卒論テーマにする学生何を学ぶか今から楽しみ」

 

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shin-1さんの日記

○芋端(畑)会議の夢を見る

 ストーブの恋しい季節になってきました。毎年この頃になると私の狭い書斎には、妻の配慮でコタツがお目見えするのですが、今年はまだコタツの用意が出来ていないため、椅子机で少し震えながらブログを書いています。

 昔は火鉢ひとつ、それも今の家のようにサッシの家でなく、あちらこちらから隙間風がピューピュー入ってくるような家だったのですから、寒かったのは当然でしょう。私たち子どもはは青鼻を垂らしていました。あの懐かしい火鉢も倉庫にしまわれ、各部屋にはストーブ、電気カーペットなどの暖をとる暖房器具が色々と置かれています。贅沢になったものです。暖冬傾向だといっていますが雪の降らない南国双海でも冬は結構寒いので、我慢もそろそろ限界かなと思いつつ、不足の不足を感じることに挑戦しております。

 それにしても最近は、私たちの暮らしの中で煙なるものがなくなりました。落ち葉を集めて焚き火をすることはごく自然の風景でしたが、今ではやれダイオキシンだのやれ環境問題だのとうるさくて、焚き火は姿を消しました。確かに環境については考えなければなりませんが、焚き火でどの程度ダイオキシンが出るというのでしょう。ダイオキシンという物質は目に見えないから私たち凡人には知る由もありませんが、化学工場から出る膨大な化学物質はそのままで、こんな小さな焚き火を止めるのは枝葉末節だと思うのです。でも焚き火も日本全国の国民がやったらこれも困ったものです。先日埼玉で面白い知恵をいただきました。焚き火で芋を焼いて食べる芋端(畑)会議なるものです。井戸端と掛け合わせたものですが、これは人間牧場でも使えるアイディアだと思いました。

 早速来年は人間牧場の畑に芋を植え、秋の収穫の頃焚き火をして芋端(畑)会議をやりたいと、人間牧場のコンテンツに一項入れました。秋の長閑な時期に焚き火を囲み芋をフーフーやりながら、家族や友達と色々な話をしたいと思っています。ひょっとしたら親子向けのプログラムとしては最適かも知れませんね。

 今の時代は、「早い」というスピードが求められています。季節や旬や人間性がまったく無視され、効果効率だけが一人歩きしています。スロ-ライフといいながら、便利さや安さを求めて人々は動いています。「あの商品は何円安い」が話題になり、地元の商店は競争に負けてしまいます。頑固親父の店など見る影もありません。結局はそうして時代は知らず知らずのうちに流れてゆくのですが、せめて何かにこだわって、少し自分の体内時計にあった暮らしがしたいものです。

 「芋食うて臭い屁こいたの誰だっけそんな話題は夢のまた夢」

 「どの家も風呂を焚いてる煙あり長閑な秋のふるさとの昔」

 「鉢巻や頬に被ったタオルだが今の若者お洒落に頭」

 「芋という字を分け見ると草を干すじゃあ草干して芋でも焼くか」

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