shin-1さんの日記

○風呂

 私の家はつい最近まで薪で風呂を沸かしていました。昔のような五右衛門風呂ではありませんが、ボイラーに薪を入れる旧式のものでした。この風呂を新築して間もなく電気温水器にしていたのを、あえて薪の風呂にしたのは二つの訳がありました。ひとつには田舎ゆえふんだんにある薪を使えば少しでもエネルギー代が節約できると思ったからでした。結果的には経済的に随分安くつきましたが、肝心の風呂を沸かす労力や時間的な余裕、それに薪を確保する苦労が付きまとい、四苦八苦でした。しかしそのことがもうひとつの目的であった子どもたちの教育に大いに役立ったことは大きな成果でした。

 というのも、製材から切り端といわれる残材を頼んで持ってきて貰うのですが、その始末のため家の近くに薪置き場の倉庫を作りそこに運び込むのですが、これがまた重労働で、子どもたちは多少の文句を言いながら、体力に応じた貢献をしてくれました。特に薪割りは子どもたちの大得意で、一石二鳥で怪我もなく体力づくりに大いに役立ちました。4ヶ月に一度の薪片付けは家族にとって総出の一大事業であったため、家族のまとまりのようなものがあったと、息子たちは当時を懐かしく振り返ってくれます。子どもの成長過程における家庭の役割も現代ではそんなに多くありませんが、小学校・中学校・高校と子どもが成長にあわせ薪を運んだり割ったりする作業はうってつけだったように思います。

 しかし、昨年台風でボイラーのある倉庫が裏山から崩れ落ちた土砂に埋まり、ボイラーは壊れてしまいました。家族で協議の上この際ボイラーを灯油にしようという結論が出て新しいものに変えました。お蔭様で薪を運んだり割ったり、薪をくべたりする作業はなく、ボタンひとつで蛇口をひねるとお湯が出てくるようになりました。朝風呂も朝シャンも自由な暮しが我が家ではできるようになりました。

 でも薪を収納していた薪倉庫はがらんと空いて少し寂しいし、家族が総出で汗する機会を失いました。

 昨日は風呂にお湯を張るように妻に頼まれてスイッチを入れ蛇口をひねったまではよかったのですが、ブログの書き込みに夢中になってすっかり忘れてしまい、お湯を垂れ流してしてしまいました。何とも勿体無い話です。

 最近は原油高騰のあおりで、灯油もガソリンも高くなって、家計へのしわ寄せがあると妻は嘆き、その裏話として前述のお湯垂れ流しに対し妻の私に対するペナルティは言葉だけでしたが、かなり反省せざるを得ませんでした。それでも満杯のお風呂をぬるめて二人でたっぷりのお湯を使って至福の時を過ごしました。

 ちなみに私たち夫婦は風呂に入るのも一緒、寝るのも同じ布団で一緒です。先日子育て講演会に招かれてお話した折、皆さんに手を上げてアンケートに答えてもらったのですが、何と最近のご夫婦は一緒に風呂に入らないばかりか一緒に寝ないのだそうです。ひどい夫婦は(決してひどくありませんが)寝るのは二階と一階に別々だと聞いて驚きました。夫婦の関係も冷めた時代です。子どもにとって一番の家庭での安心は夫婦仲がよいことだそうですがこれでは仲がよいとはいえないようです。

 風呂は裸の付き合いです。ふろに入るとお母ちゃんの東京23区の分厚い電話帳のような下腹が気にかかる今日この頃です。あっ、このことは妻には内緒のなかったことにしてください。妻の名誉のためも・・・・・。

 

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shin-1さんの日記

○開かれなくなった辞典の数々

 私のような無知な人間は、問題にぶつかると必ず辞書を引きました。そう「引きました」は過去形なのです。私の書棚は壁側に大小4つのありますが、本屋に立ち寄る度に、あるいは旅の度に一冊また一冊と本が増えて行き、その本が床下や机に山積みされていますが、その本の谷間に窮屈そうに居場所を構えているのが辞書類です。かつて書棚を作った頃辞書は重要な位置に君臨していました。辞海という漢和辞典などは金田一京助編纂の幅10センチもある大物で、大阪梅田の古本屋で当時の小遣い銭をはたいて買い求め、重いのにわざわざ手に提げて帰るほどの、私にとってはお宝物でした。しかしこの辞書を夢中で開け読んだのは30代、もう25年も開かずの本になっています。

 その他、英和、和英、国語辞典、漢和辞典、故事ことわざ辞典、例解辞典、イミダス、広辞苑などなど実に多彩な辞典類があります。が、お気に入りでめくる辞書は段々減って、今では国語辞典と英和辞典、それに広辞苑くらいなもので、「アー、私も物知りになった」というより「アー、私も退化しつつある」と落胆の色ありありです。

 辞書の一番の欠点は字が小さいことです。顔は悪いが目はよいと自認していた目も、少しずつ見えにくくなり、辞書の字は中々読みづらく、特に数字の9・8・6・0などは虫眼鏡を当てないと読み間違いするようになりました。それでもまだ一度もメガネのご厄介になることなく本や新聞が読めるのですから、よい目だと思うのですが、それでもそれでもです。

 最近はインターネットなる文明の利器が我が部屋の机を独占し、我が物顔で調べもののお手伝いをしてくれます。つまり辞書からパソコンに時代の流れが変わったのです。字を書くことを知らなくても読めて判断力さえあれば、文字さえもかいてくれるのですからこれほど重宝な辞書はありません。しかし結果的には文字を忘れつつあり、パソコンのない所で手紙など書くと漢字が中々出てこないことがしばしばあり困ります。

私の辞書検索脳は完全にさび付いてしまっているようです。

 辞書はこの際2・3冊を残して処分したいと思うのですが、長年お世話になったことを思うと中々捨てきれな

いのも正直な胸のうちです。役場の図書館にも在職中多くの本を寄付しましたが、司書ののいない図書館は辞書なんて無用の長物、精するのに大変とブーイングが起こりそうです。結局は紙ごみの悲しい運命をたどるのでしょう。

 「古い辞書紙ごみ置き場にそっと出す心痛んで振り返りつつ」

 「再生の名前刷り込む封筒が届いて思わず過去透かし見る」

 

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