shin-1さんの日記

○三丁目の夕日

「若松さんええ映画だから見たらいいよ」と友人から勧められていた映画を、思いもかけず息子が借りてきたDVDで鑑賞する機会を得ました。大学の講義が終わって家へ帰り妻の手料理で遅い夕食を食べようとすると、妻が一人テレビを見ているのです。「お父さんこの映画はお父さんも見たらいいよ。私たちが子どもの頃の出来事みたいだから」と勧めてくれました。食事をしながら見たのですが、ついつい午前様になっても止められず最後まで見てしまいました。

 私は昭和19年、妻も昭和20年の生まれですから、少年時代は物のない時代に育ちました。しかし戦後の復興を肌で体験した私たちにとっては今のような犯罪も殆どなく、日本が最も安定した幸せな時代だった用に思うのです。最初から見ていないのでこの映画の主役が誰なのか分りませんでしたが、たくさんの自分の思い出と重なって最後のシーンは涙が出て止まりませんでした。

 町工場というべき小さな自動車屋家族の生き方は実に面白く、頑固な親父、腕白な息子、知的な奥さん、工員募集と履歴書で自動車と自転車を間違い青森から集団就職でやって来た住み込み中卒女性の織りなす下町のドラマは実にほのぼのとしていました。私は最近よくその頃に井沢八郎が歌って大ヒットした「ああ上野駅」という歌をハーモニカで吹くのですが、金の卵と持て囃され田舎から集団就職列車に乗せられて都会へやって来た若者たちのことを思うと、あの物悲しいメロディーについつい胸が詰まるのです。私たちの同級生もみんな同じように都会の雑踏に消え、45年余りの時の流れの中を必死で生きて今定年を迎えようとしているのです。

 もう一つのシーンは大学を出て小説を書くもののいつも懸賞小説に落選しうだつの上がらない小間物屋の青年と飲み屋の女性、それにその女性からふとしたきっかけで預かった妾の子との同居生活、淡い恋物語も泣けてきました。子どもを親の社長が迎えに来るも再び帰って来るシーンは夕焼け空がいい雰囲気を出していました。私たちの子どもの頃は妾を囲い込むハイカラな親父が私たちの村にも何人かいて、同じような子どもの話題も事欠きませんでした。

 テレビを買い、そのテレビを貧乏なご近所さんが大勢集まって力道山の空手チョップを見るシーンは私の子どもの頃の思い出と全てダブりました。多分このシーンを知っている私は古く、もう賞味期限が切れ掛かっているのでしょうが、もののない時代であっても本当の幸せがあったように思うのです。ちゃぶ台のある居間はキッチンに様変わりをしました。風呂だって五右衛門風呂から蛇口をひねればバスにお湯が出ます。麦ご飯や芋のおやつも今はダイエット食品です。痩せた家族は肥満屋成人病を気にする孤独な群集になり、一つ屋根の下に住みながら家族の団欒さえもありません。何かが狂い、どこかでボタンを掛け違えた姿は、三丁目の夕日という映画を見ていると滑稽にも思えてきました。

 この映画に私の町の美しい夕日をダブらせたのは私だけかも知れません。結局この映画のシーンに美しい夕日は一回も登場しませんでしたが、でも夕日の持つ最大の魅力を最後まで隠した作者の心憎い演出にはただただ脱帽です。いい映画を見せてもらい、また新たな夕日の魅力を発見しました。

 (この写真は伊予市双海町灘町3丁目辺りに落ちる正真正銘の「三丁目の夕日」です)

  「友人に 勧められたる 映画見て 思わず涙 アルバム捲り」

  「何もない だから幸せ だけかない 何でもあるに ないは幸せ」

  「白黒の テレビカラーに 様変わり チャンネル回す 昔懐かし」

  「テレビ買う 屋根の上には アンテナが おーい買ったと 威張るようにも」


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shin-1さんの日記

○三崎から佐賀関そして日田へ

 宇和島での講演が終わったのは10時30分でした。三崎発のフェリーは12時30分、前を行くノロノロ運転の車に苛立ちを感じながらの移動時間は何ともハラハラドキドキの2時間でした。フェリーは遅れた人や車を待つことなく出航するものですから、私は宇和~八幡浜間を走る予定を変更して宇和から高速道路に乗りました。一見遠回りのような感じもしましたが、夜昼峠のトンネルを越えて八幡浜へ入ったのは丁度11時30分でした。そこから先は三崎までメロディーラインを1時間、楽勝と思ったのですがノロノロ紅葉マークのトラックの餌食となったり三崎の入り口の交互通行止めをくらいやっとの思いで10分前にフェリー乗り場に到着しました。もし予定通り海岸の道を選んでいたら多分間に合わなかったと思うと、正しかった判断力を自画自賛せずにはいられませんでした。

三崎半島は霧に霞んでいましたが、何時見てもいい景色です。最近は突端にある灯台へも行っていませんが旧友塩崎さんの住んでいる土地でもあるので近々訪ねてみたいと左の井の浦海岸、右の串漁港をデッキから眺めながら1時間10分の船旅を楽しみました。やがて船は豊後水道の速い流れを乗り切り、関さば関あじを釣る漁船が群がる中を横切って佐賀関港に着きました。東洋一といわれる佐賀関の巨大な煙突が出迎えてくれましたが、この煙突は子どもの頃は私たちの町からも年に何回か遠望することができましたが、今はそんなこともなくなりました。佐賀関にはこれまた三崎の塩崎さんを介して知り合った渡辺さんが住んでいる土地でもあります。

 「俺の町を勝手に歩くな」と渡辺さんにいつも怒られるし、佐賀関に来たら必ず連絡するように言われながら、急ぎの旅なので国道197号を突っ走り、カーナビの情報表示どおり高速道路に乗ってひたすら日田市を目指したのです。途中日出ジャンクション辺りから降り出した猛烈な雨は雷を伴い、50キロの速度制限です。ワイパーも効かないほどの雨で前方のテールランプも雨にかすんで危険なほどでした。少しの余裕を感じながらパーキングエリアで遅い昼食を済ませ、日田のインターに到着したのは公園開始1時間前でした。あれほど激しかった雨は日田では一滴もなく控え室のテレビが今日の全国の暑さを報じる一番上のランクに「大分県日田37.7度」とありました。どうりで暑いはずです。

 今日の会議は日田市と天ヶ瀬町の観光協会が合併した設立総会とのこと、その記念講演なのです。日田や天ヶ瀬の全国的な観光地に乗り込み、観光カリスマ百選に選ばれているとはいいながらよくも強心臓だと自分でも思いつつ壇上に立ちました。旧友大山町のひびきの里の支配人緒方英男さんも駆けつけてくれ、自分でいうのも何ですが饒舌な話しというよりはいつも変わらぬ漫談調の話しに会場は爆笑の渦で、眠る人は一人もいませんでした。

 日田は天領のふるさと、筑後川の上流域にあたる三隅川を使った屋形船観光はどこの街にも負けない独特の雰囲気があります。これまで別府温泉や湯布院温泉それに黒川温泉などに隠れていましたが、高速道路の開通によって北九州との距離も縮まり裏から表へと変貌を遂げつつあるようでした。

 宿は江戸時代の町割りが残る豆田町の風早という僅か7室だけの隠れ家的な宿に泊めてもらいましたが、細やかなサービスの行き届いたお洒落な雰囲気は、洗練されたもてなしの心を感じました。筑紫哲也さんが泊まるという一室をあてがわれましたが、いい雰囲気でした。

 昨日の朝早く宿を抜け出し豆田の街を散策しました。

 早朝の豆田の街は人通りがないだけ素敵で、途中花に水をやる薬屋の奥さんと話しこみました。今度はゆっくりと散策をしたいものです。

  「ゆっくりと 時が流れる 豆田町 そこここ感じる 歴史の重さ」

  「夏暑く 冬も寒いと 人はいう 風土は人の 心育てて」

  「三隅川 ぼんぼりちょうちん 屋形船 船頭棹差す 夏の夕暮れ」

  「大山に 若者連れて 昔来た 神社の祭り 今も脳裏に」 


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shin-1さんの日記

○第二のふるさと宇和島

 人にはそれぞれふるさとがあります。私のふるさとは合併して自治体としての地名は亡くなりましたが、紛れもなく愛媛県双海町なのです。最近は伊予市双海町という紹介も随分慣れましたが最初は随分戸惑いました。「あなたにとって第二のふるさとは何処ですか?」と問われたら、私は何の疑いもなく「宇和島」と答えます。何故なら私は高校生活3年間をこの宇和島で暮らしたのです。

 3日前、宇和島市議会事務局長の佐々木さんからお声がかかり県下の市議会職員の研修会に招かれました。前日の交流会から参加するよう指示があったものですから何の疑いもなく出掛けました。

 梅雨明けは聞いていませんが宇和島への道すがら大洲市長浜辺りで肱川の上流付近で夏を告げる逞しい入道雲を見つけました。空の青さと雲の白、それを映す肱川の流れはまさに夏の色を感じさせ、思わず路側帯に車を止め写真を一枚撮りました。後続の車が「何事か」と横目で見ながら足早に通り過ぎて行きました。その夜の宇和島は旧友佐々木さんの配慮で正副議長さんや昨年まで議長をしていた旧友で同窓の土井議員さんも駆けつけ、二次会まで付き合いすっかり甘えた楽しい交流となりました。佐々木さんの行きつけのスナックではママさんが私の下宿していた松原さんの同級生ということも縁の不思議さを感じました。

 一昨日の明くる日、私は朝5時に宿泊先のクレメント宇和島をそっと抜け出し、たった一人で久しぶりの散歩を楽しみました。意の向くままに足の向くままに港付近を歩いていると懐かしい光景に出会いました。『宇和島橋」です。学生の頃何度もこの橋は渡っているのですが、これまで気付かなかった橋に思わず立ち止まりました。モダンな橋なのです。

 橋のたもとに碑文がありました。何でもこの橋は大阪にあった宇和島藩ゆかりの橋を大阪から貰い受け移築した年代ものの橋だと読んでびっくりしました。ここにも歴史の生き証人がいるのかと思わずカメラを向けましたが、多分宇和島市民の殆どはこのことを知る由もなく毎日あくせくとこの橋を渡っているのでしょう。

 私の足はその向こうに伸びる一本道へ向いていました。思い出の彼方にあるこの道の端にはガス会社の丸いガスタンクや軒を並べた造船所、その周りにはレンコン畑が広がっていました。しかし今はその姿はすっかり様変わりして高規格道路の高架橋が時代の移り変わりを象徴しているようでした。

 私の母校である宇和島水産高校に行きました。早朝なので学校の門は全て閉ざされていましたが、悪いと思いつつ卒業生のよしみで通用門から校内に入らせてもらいました。

 正門玄関の趣きは今も昔も変わらず、正門横には「海を怖れず海を愛し海を拓け」という石碑が堂々と建っていました。

 その横には日本中に衝撃を与えた、忘れもしない2001年2月10日の愛媛丸沈没事故記念碑がひっそりとありました。

 愛媛丸事故の追悼慰霊碑

 事故の状況を知らせる碑文

 ハワイ沖階梯00メートルから引き上げられた愛媛丸の錨(9個の鎖は犠牲者の人数)

 この事故で沈んだ実習船えひめ丸は4代目の船で、私が高校3年生の時に乗った船は初代の愛媛丸(214.5トン)でした。もう6年も前の出来事で、人々の悲しみも風化しつつありますが、愛媛丸で育った私としては決して忘れられない出来事ですし、2001年2月10日は私の自費出版本「昇る夕日でまちづくり」の出版記念パーティと重なった因縁もあるだけに衝撃的な出来事でした。

 慰霊碑に深々と頭を下げて追悼した後私は下宿をしていた枡形町界隈を散策しました。この辺りもすっかり様子が変わり45年という時代の流れの早さを感じつつ、青春の思い出に浸りました。

 西側の登山口から城山に登りました。入り口には宇和島出身の児島の記念碑が建っていました。

 宇和島城はそんなに高くはないのですがうっそうと茂る登山道は昔見え隠れしていた市街の様子をすっかり隠してまるで緑のトンネルの中にいるようでした。

 修復工事のためでしょうか至る所に立ち入り禁止のロープが張られ、城の全容は山頂付近にしか見ることが出来ませんでした。山頂の鶴島城は夏の朝日に輝き美しく見えました。

 僅かな

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○大学生とフィールドワークに出掛けました

 松山市駅に集合し伊予鉄郡中線の電車に乗って長閑な田園風景を横目に見ながら」松前駅(電車賃片道350円)で下車、徒歩で松前町役場を訪ねました。昨年までのフィールドワークは貸し切りバスかマイカーで行っていましたが、マイカーは事故の心配、貸し切りバスは予算がないなどの理由で今年度は前回に引き続き公共交通機関を使う事になりました。

 先週の今治に続いて今週も県内の先進地へフィールドワークに出掛けました。先週の今治が広域合併と地域づくり、今回は合併しなかった町の地域づくりです。私の住んでるまちは昨年まで伊予郡というエリアに所属していました。当然松前町には知人友人も多く、その人縁を頼りに今回の調査研修ははなはだ失礼ながら愛媛県の町村会会長を務める白石町長さんに直接受け入れを依頼しました。町長さんは私の願いを快く引き受けてもらいました。何せ学生にとっては、町村の首長さんの話を聞くことなど滅多にないものですから、目を白黒させながら立派な庁舎の3階会議室でお話を聞きました。

 町長さんの話はNHKの記者として全国各地に勤務し、町を離れていたから分る町の良さや悪さ、町に対する熱い思いが随所に見られました。また合併、三位一体、地方分権という全国各地で話題になっていることが合併をしないという決断の裏に隠されて、その解決のためのプロセスを通して町を自立させようとする並々ならぬ決意が伝わってきました。学生たちも1時間という約束を越えて質問を交えた研修は1時間半にも及びました。

 昼食の後、現地研修は私たちのために公用車を4台も用意していただき、保育所、特養施設、給食センターの三ヶ所が隣接する施設を見学しました。保育所と特養施設に間には垣根がなく、世代を超えた交流が日常茶飯事に行われ、お互いが有形無形の恩恵を受けている旨の話を聞きとても参考になりました。特養では顔見知りの双海町出身の方もちらほら見えて、懐かしく声を掛けさせていただきました。またドライ方式で一日3000食の学校給食センターも見学しましたが、食中毒対策、地産地消などに学生の意見が出されていました。

 

 その後環境問題に取り組む元給食センターでのEM菌培養や中河原リサイクルセンターを見て回りました。特に中河原のリサイクルセンターはその運営方法がユニークで、顔見知りの加藤さんの話は学生の心を捉えて離しませんでした。中河原の本田区長さんもかつてPTA会長時代の顔見知りなので、様々な学びか出来ました。これまでゴミ問題はどちらかというと行政にまかせっきりな所がありましたが、中河原の活動はこれからの市民運動に大きな影響を与えそうで、身近な場所にこんな優秀な取り組みがあるなんて正直びっくりしました。今度は少し離れた立場で一人学びに来ようと思っています。

  「この町が 合併しないと 決めた時 自立に目覚め 自立の道を」

  「町長の 話を聞くなど 大それた 事を仕組んで 学生驚く」

  「この一年 知恵が町を 変えている 来年成長 これも楽しみ」

  「究極の 幸せ何と 問われたら 人のためにぞ 働く喜び」

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shin-1さんの日記

○この道はいつか来た道(4/20・下家地中家地地区)

 国道441号とはいいながらまるでその名には似ても似つかぬ国道ならぬ酷道というに相応しい細い道が四万十川に沿って伸びていますが、すっかり見慣れた山並みを縫うように今回も走って四万十市旧西土佐村へ入りました。二十年にわたってこの村を訪ねているのに不精者の私は未だにその姿をカメラに収めることもなく、ただいたずらに時を過ごしていました。今回の20回の旅はその反省もあって、デジカメラを持ち込んでの旅日記となりました。ちなみに先月からの過去3回は既にブログで西土佐村の美しい姿を配信していますが、読まれた方々から好評のメールが幾つか届いて、思わぬ反響に驚いているところです。

 町や村の顔は何といっても役場です。今は四万十市西土佐総合支所と長ったらしくもいかめしい看板が玄関に掲げれれていますが、日本全国一律なここにも対等合併の苦肉が現れているようです。

?支所入り口に「更なる飛躍を」と書かれた閉村記念の碑が建っていました。昭和30年の市町村合併から半世紀に渡って築かれた旧西土佐村への思いが強く伝わり、胸に迫ってくるような一抹の寂しさを覚えるのは、わが町にも同じような記念碑が残り、その碑文原稿を書いた記憶があるからこも知れません。

 到着予定の時間までの束の間を利用して、村のシンボルである西土佐大橋を渡ってみました。まるで虹

のように架かった大橋の下には、最後の清流と呼ぶに相応しい四万十の悠々とした流れが見えました。このころの四万十は水量も多く、ある風景は女性的で、またある風景は一転して男性的な姿を私たちに見せてくれる川の一番美しい季節かもしれません。

愛媛県から流れてきた広見川と四万十川の合流する西土佐の中心地は背後に山を頂きまるでユートピアを感じさせてくれました。

 橋を渡った所に看板がありました。たもとにはカヌー館や公園が整備されていましたが、間もなく梅雨が明けると多くのキャンパーで賑わうことでしょう。

 村としては粋なお店のすし屋さんで夕食に美味しい寿司を食べました。付き出しに出された田舎らしい木綿どうふもこれまた絶品で、豆腐好きの私としては美味しいご馳走でした。

 今日の集会の家地地区は先日立ち寄った西ヶ方と同じ橋を渡り左に曲がると何とも素敵なJRの橋が見えました。片方が木陰で隠れているのでまるでめがね橋のような雰囲気です。

 地区内に入ると何か懐かしい雰囲気が漂ったのは、二十年も前にこの地を訪ねたことがあるからでした。野塾というまちおこしグループがあってその連中の中に歯科診療所に勤めていた女性がいました。もう音信も途絶えていましたが「この道はいつか来た道」と感じました。

 集会の会場となった施設は元学校の体育館で、今は児童数の減少により奥屋内と同じく休校になってました。学校の運動場夏草が生え、子どもたちが手を洗ったであろう流し場が往時の姿をとどめていました。ふと見上げた校舎の軒先に休校になったにも関わらず時を告げる時計が印象的に寸分の狂いもなく午後7時20分を指しておりました。

 学校の入り口に開校百年の記念碑が寂しく建っていました。この学校から多くの人が巣立っていったことでしょう。体育館の中に入ると小学校の校歌が張ってありました。丁度作詞をした人も見えられ、田舎から人が減る摩訶不思議な現象に首をかしげ、感慨深げな話となりました。

 顔見知りの吉岡のおばちゃんは鮎の甘露煮をお土産にくれたり相変わらずの人なつっこさで、大きな感動を得たのです。この日の話は人生の生活設計がなければ自立する人間も自立する地域もないことを力説しました。人数こそ少なかったのですが、意味のある集会でした。

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shin-1さんの日記

○生き方講演会

 今日は今治市立朝倉中学校で開かれた生き方講演会に招かれて久しぶりに旧朝倉村を訪ねました。かつてはまちづくりのお手伝いで何度もこの地を訪ねたため知人友人も多く、ハガキを出そうと立ち寄った朝倉郵便局で局長さんにばったり出会い、今年10月からこの郵便局も民営化の影響で無集配局になるという話を立ち話で聞きました。私が来るというので公民館の藤原さんがわざわざ手土産を持って学校まで訪ねて来てくれました。藤原さんの話だと合併でやることなすこと全てのシステムや人員配置が変わり、何か不完全燃焼気味の雰囲気が読み取れました。昔普及所に勤めていた近藤さんの結婚式をこの村の公民館で行った際私が司会を務めたことを覚えていた近藤さんの奥さんが控え室となった校長室へ訪ねて来て、20年ぶりの再会を果しました。既に5人の子どもに恵まれていましたが、お世話になったご両親は既に他界したとのお話でした。局長さんや藤原さん、それに近藤さんの奥さんにあっただけでも時代の流れの早さや変化に驚きを禁じえませんでした。

 朝倉中学校は村の威信をかけた合併前最後の大仕事として位置づけた清水村長の大英断と聞き及んでいただけあって、木造校舎の立派なのが建っていました。

 校門の中庭や廊下、教室など学校全てがゆったりとして、出会う生徒さんも落ち着いた元気な子どもに見えました。左が校長先生、真ん中の女性が近藤さん、右端が藤原さんですが、どこか旅先のペンションでは?と思わせるような雰囲気でした。

 「青春へのメッセージ」と題した講演は約1時間、中学生への話しなので参加型にしようと三つの質問から入りました。「殆どの人間は三つの願望を持っています。『幸せになりたい』『お金持ちになりたい』『成功したい』という願望です。皆さんにお聞きしますが、『幸せになりたい人』手を上げて下さい。『お金持ちになりたい人』手を上げてください。最後に『成功したい人』手を上げてください」などと促しながら話を進めましたが、みんなメモを取りながら熱心に私の話を聴いてくれました。今日の話はそんなささやかな夢をどう実現させるかという知恵と、ふるさとを愛することの大切に重きを置いて私の人生での出来事をお話しました。中学生に話をするのは非常に難しいのですが、今日は聞き手の真面目な態度にも助けられて比較的落ち着いた話が出来たように思いました。熱心にメモを取る彼らの心に私の言葉が届いたかどうかは知る由もありません。でも壇上での雰囲気では生徒163名、教職員17名、保護者数名のまなざしを見たり、御礼に全員が歌ってくれた体育館いっぱいに響いた大きな声の歌声はその答えだったようにも感じました。

 少子化の波がこんな田舎にもどんどん押し寄せ、学校の教室も空き部屋が目立つようになり、クラスも人数が少なく迫力を感じませんが、いい子どもに育って欲しいものです。

  「司会した 二十年前 懐かしや 今や五人の 立派な子持ちに」

  「学校は 木に交わって 学ぶ書く 木造校舎の ただただ懐かし」

  「旧友と 校長室で 久しぶり 積もる話しに 花を咲かせて」

  「講演の お礼に歌う 中学生 声は大きく 将来楽しみ」 

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shin-1さんの日記

○合歓の花の咲く頃

 いつの間にか季節は夏、気がついて辺りを見渡すとあちこちに夏を告げる花がいっぱい咲いています。夏の代名詞は何といってもひまわりと朝顔でしょう。黄色い花を咲かせて太陽に向かって一生懸命首を振る姿は何とも愛らしく迫力を感じます。最近は生花切花用に小型のものが開発され、昨日も種公民館の壇上を飾って参加者に愛嬌を振りまいていました。ひまわりとともに朝咲いて夕方にはしぼむ朝顔もやはり夏の季題季語にピッタリでしょう。東京では朝顔市などが立っているようですが、子どもたちが理科の実験で朝顔を育てているのをよく見かけます。そのためか家庭にも随分普及して色とりどりの花が花壇や花垣をよじ登る姿は暑さを忘れる涼感です。グラジオラスやダリアなども咲き始め夏は花の一番多い時期なのかもしれません。

 この頃になると野の花の中でも余り話題にならない控え目な花だけど合歓の木に花をいっぱい咲かせて、「見て見て」と言わんばかりに主張をしています。レ点をつければ歓び合うとも読める合歓の木はその気になって見れば意外と多く、その花もピンク系、赤系と様々な色模様をしています。多分自然交配によって花の色が多彩になったのでしょうが、見る人もなく、愛でる人もなくひっそりと咲く花だけに、私は大好きな花になっています。

 合歓の木を一躍有名にしたのは宮城まり子さんだった思いますが、ねむの木学園という名前でした。合歓の木は葉を閉じて眠ることから眠る木が捩ってねむの木といわれるようになったと母親から聞いたことがあります。夕日が沈むと眠る木なんて夕日のまちづくりを進める私にとっては最高の植物です。夕日の駆け出しの頃、合歓の木を沢山植えて夕日とのコラボレーションを考えたほどでした。用材は主にくり抜き火鉢や下駄の歯ににも用いられ、その皮は漢方薬として虫下しや打撲傷に良く効くと教わりました。虫下しも火鉢も打撲傷も下駄の歯も全て遠い昔々の出来事になりつつあり、合歓の木が世に出ることはもうないものと思われますが、せめて花ぐらいは人間の風流として、田舎人のたしなみとして多いに楽しみたいものです。

 先日内子町へ行った帰り、内子と中山の境目付近の国道沿いに合歓の木の大木が2本見事な花をつけていました。夜のことでありましたが、車のヘッドライトに照らされた合歓の木の花は何とも幻想的な姿をしており、思わず減速し振り返ってしまいました。テールライトに照らされて合歓の木もまた味わい深いものがありました。

 合歓の木のように自然に咲く花は派手さや強烈なインパクトはないものの、まるで初恋の思い出のように何時までも淡い余韻を残してくれます。カメラに収めたいと思いつつ今年もその思いは実現していません。「そうだ今日は朝倉中学校へ行くのでカメラ片手に合歓の木散歩としゃれ込みましょうか。

  「合歓の木に 淡いピンクの 花が咲き 今年も夏は いよいよ盛りに」

  「人知れず 咲くから花は 美しい せめて花見る 余裕くらいは」

  「葉を閉じて 夜寝る合歓の木 いとおしい 朝は葉広げ しゃきっと元気」

  「用無しと なってしまった 合歓の木を せめて一本 牧場横に」 


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shin-1さんの日記

○面白い「種」という地名

 宇品まで迎えに来てもらった渡邊修館長さんの車に乗って雨で混雑する広島市内をやっとの思いで脱出し、広島高速・中国自動車道を経由して戸河内から国道191号を走り、中国山脈を越えて益田市へ入りました。島根県で最も西に位置する益田へはこれが一番最短コースらしく毎度の事ながら見慣れた光景をひた走りに走り、約3時間で益田に到着です。かつてきら星セブンとかいう珍しい学社融合シンポジウムで訪ねたことのある三好屋さんにチェックインし、ひとまずひと風呂浴びて軽い休憩をとりました。4階桐の間の窓から見える益田市の風景は石州瓦の茶色を基調にした、落ち着いた佇まいを見せていました。あの有名な日本画家雪舟ゆかりの土地を髣髴する歴史ある街は梅雨に煙ってまるで一服の水墨画を見ているようです。折から降り出した豪雨と呼ぶに相応しい雨は低地にあふれ出て一部冠水するほどの激しさでしたが、明くる日聞くと大雨警報が発令され100ミリを越す大雨だったとか。

 そんな雨の中私のために種地区の主だった人が集まり、田吾作というこれまた田舎を売りにする海鮮料理の店で小宴が催されました。酒の飲めない私にとっては、種の呑み助の勢いは何とも頼もしく多いに盛り上がりました。次々と店の生簀からすくい揚げたイカ・タコ・サザエ・イサキの刺身は新鮮そのもので、魚処日本海を存分に堪能させてもらいました。

 先日人間牧場にやって来た大畑コーディネーターも同席しての話は尽きることなく、2時間を3時間に延長して飲むわ食うわ喋るわの賑やかさです。質問のその都度に箸を安めて話をするのですが、結局は酒の勢いを借りて、出来るだけ早い機会に人間牧場や煙会所へ視察旅行をするとう約束まで結んでしまいました。どちらかというと山陰の気候風土は山陽に比べ気質が暗く感じるものなのですが、種の熟年・実年組は実に元気で日ごろの活動の様子を垣間見ることが出来ました。

 今回の講演会の約束は数年前に遡ります。六日市町で開かれた研修会に参加した女性から一通のお礼のハガキが舞い込んだのです。多分私もそのハガキに返事のハガキを出したのですが、「いつか私たちの種地区にも来てください」という文面だったと記憶しています。

 明くる日は昨日の雨がまったく嘘のように晴れ渡り、「カバンに見覚えがあります」という三好家美人女将さんの手厚い見送りを受け、公民館主事さんの迎えの車に乗って種地区へ入りました。雨上がりの草木や花々は夏の光を浴びて輝き山間の村々はこれまた絵になる光景でした。

 会場となる種公民館の玄関では見覚えのある広畑信恵さんという女性が笑顔で出迎えてくれました。この方がハガキの女性なのです。少々おすまし顔のツーショットを控え室で撮らせてもらいました。

 館長さんと広畑さんが自宅や仲間の畑から早朝貰ってきたというタダの花も、広畑さんの手によって壇上にきれいに活けられ、手作りの看板や垂れ幕がもてなしてくれました。

 9時きっかりに始まった講演会は大爆笑のうちに延々2時間半にも及ぶ大熱演でした。最後の締めはやはりハーモニカで夕焼け小焼けや赤トンボ、それにああ上野駅、南国土佐を後にしての4曲でしたが、感極まったのか数人の女性が目頭を抑え、特にある女性は真赤に潤ませた目頭をハンカチで押さえていました。ハーモニカの音色でこんなに感激してもらったのは勿論初めてなので、こちらも思わず涙がちょっぴりでした。この日は広域消防の防災訓練と重なったため男性の出席が少し少なかったようですが、それでも100人近くの人が集まり大盛況で、館長さんの胸は何時になく張っていました。

 会終了後控え室に昔出会った女性が訪ねてきたり、せがまれて数枚の色紙に言葉を書いたりしましたが、先を急いだため早々に送りの車の人となり、浜田道路をひた走り無事宇品港へと帰って来ました。

  「下ネタと 間違いそうな 下種を 笑い飛ばして 村に入りぬ」

  「ゴザ広げ まるで演劇 見てるよう 田舎長閑けき 初夏の一日」

  「ひまわりの 花もタダとは ただただに 驚きました 笑顔の花も」

  「通知表 音楽2だった 腕前も 今では5になる 努力の成果」

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○瀬戸内海を渡る

 私の場合、所用で島根県へ行く場合には大きく分けて3つのルートを選びます。公共交通機関を利用する場合の一つは松山から特急しおかぜに乗って瀬戸大橋を渡り岡山経由特急やぐもで松江へ入ります。公共交通機関利用のもう一つは松山観光港からフェリーか高速船で広島宇品に渡り、バスセンターから島根各方面行きの高速バスに乗って目的地へ向かうのです。マイカー利用の場合は瀬戸大橋、しまなみ海道、若しくは堀江・阿賀フェリーで瀬戸内海を渡りそれぞれの国道を縦横無尽に走るのです。

 今日は島根県益田市種公民館の招きで益田市へ行くので、行きは松山観光港からフェリーに乗りました。高速船も考えたのですが、午後2時の待ち合わせで宇品まで迎えに来てくれる約束が成立しのんびり旅と相成りました。

 小雨そぼ降る観光港を出港したフェリーは折からの小雨、しかも霧の瀬戸内海を霧笛の音をききながらのんびりゆっくり走りました。高速船が何度か追い抜いて行きましたが、別に気にすることもなく童門冬二の本を読みながらささやかな休息となりました。

 急に船が減速し始めました。瀬戸内海の難所である音戸の瀬戸を通るのです。航路を示すブイの向こうに赤くて美しいループ橋が見えてきました。

 橋の下をゆっくりとした速度で走るのですが両岸には手の届きそうな近さなのです。この音戸の瀬戸は平清盛の時代から海上交通の要所として栄えた所です。

 周りが騒がしくなったので甲板に出て外を見てみるともう呉の港が見え、船内アナウンスが呉港下船の誘導を行っていました。私も気晴らしにデッキを歩きながら霧の向こうに目をやりました。IHIと書かれた巨大なドックではまるで山のような鉄の塊が見えました。10万トンを越す大きなタンカーの建造風景です。瀬戸内の海に育ち船を見続けて育った私にさえ異様な光景に思えるのですから、始めて見る人はその大きさに度肝を抜かれたらしく、盛んに指を指して感嘆の声を上げていました。

 船の名前が英語だったことを考えるとこの船もぎ装作業が済んだら外洋に乗り出し世界の海を航海することでしょう。

 呉はかつて軍港として栄えた港町ですが、今は海上自衛隊の基地として重要な役割を果している港でもあります。大小無数の自衛隊の艦船が沖合いや港内桟橋に係留していました。中でも平和な世の中ゆえに中々お目にかかれない潜水艦がこの港では簡単に目にすることができるのです。戦時中なら軍事機密で写真などご法度なのでしょうが、私はデジカメを取り出し霧の中でしたが潜水艦の遠望を撮影しました。

 ちょっと見えにくいのですが艦船の横に見えるのは浮上した鯨のような潜水艦なのです。またその横にはイージス艦なんて知識しかないのでその艦船の名前は分りませんが大きな艦船の姿も見えました。

 やがてフェリーは呉港に着岸し、船と人を降ろし再び足早に宇品港を目指しました。

 呉の港は最近左に見える大和ミュージアムの影響で大勢の観光客が訪れているようです。今日のフェリーにもその観光客とおぼしき団体が3団体バス毎乗り込みそれは賑やかな酒盛りが行われていましたので、下船した後はまるで灯が消えたような静けさが戻っていました。私たちが何気なく通るこの航路にもその気になってみれば様々な特徴ある見ものがあることに気がつきました、。これに島伝いに走る島の遠望を楽しんだりすると船の魅力は倍加するのです。

  「テポドンの 話題想像 船を見る 知ってか知らずか 艦船長閑に」

  「あの船も 人が造った 芸術品 偉いもんだね 浮かぶのですから」

  「瀬戸内は その気で見れば 見所が いっぱいあります 眠る暇など」

  「二日前 大和の砲弾 見たばかり ミサイル打った 後の衝撃」  

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shin-1さんの日記

○色々な橋を渡って

 視察地の九州宗像市から山口県長門市にある湯本温泉へは高速道路を3時間、関門海峡に架かる海峡大橋を渡りました。休憩のために立ち寄った橋のたもとにある九州めかりサービスエリアから門司と下関を見ました。何隻もの大きな船が西に東に橋の下を行き交っていましたが、本州と九州を結ぶ橋の果たしてきた経済効果は相当なもののようです。かつては本州の方が政治的、経済的に優位に立った時代もありましたが、博多を含めた北九州の飛躍的な発展によって、今では山口県辺りは吸収の経済圏域に完全に呑み込まれているようです。

 レトロな門司の市街にも沢山のビル群が立ち並び海峡界隈は独特な文化圏を形成しつつあるようでした。そういえば昨年2月に下関21世紀協会の招きで合併記念の講演会でこの地を訪れ、また21世紀協会と西瀬戸交流でえひめ地域づくり研究会議が交流してから1年半ぶりの光景ですが、その時は対岸のホテルからこの光景を眺めながらの会議でした。

 宿泊先は白木屋ホテルという大きなホテルでした。観光シーズンでもないのでホテルは散閑として落ち着いた佇まいを見せ、下を流れる川には両岸に散策歩道や足湯場、かつての洗濯場が整備されて、ホテルの下駄を履いてカランコロンとひとり早朝散策を楽しみました。ミニ沈下橋を渡るとその橋には無数のカワニナがひっついて清流の趣きを一層引き立てカワニナ=ほたるを連想してしまいました。

 湯本温泉のシンボルのような銭湯は朝の光に映えて旅情をかき立ててくれました。

 明くる日の昨日は再び下関へ舞い戻り赤間神宮を見学しましたが、平家一門のお墓や小泉八雲の耳なし芳一の物語を見学しながら、海峡を眺めてもの思いにふけりました。

 橋は対岸から見たり山頂から見るとまた違った姿を見せてくれます。あいにく関門海峡は霧が立ち込め大橋や海峡の様子は霞んでしか見えませんでしたが、潮流が激しく流れる中を忙しげに行き交う船の姿は躍動感に溢れていました。

 山頂展望台で戦艦大和の砲弾を見つけました。折りしも北朝鮮のミサイル発射のニュースが世間を騒がしているだけに、多くの人が取り囲んで過去の戦争遺物を見学していました。何でもこの砲弾の射程距離は42キロだそうです。

 その後最後岩国錦帯橋を見学しました。平成の大架け替え工事も無事終わった日本一の木造橋は梅雨の雨を満々とたたえた川の水に映え美しい姿を水面に映していました。その姿はまるでめがねのようで係留している屋形船が旅情をさそっていました。夜は鵜飼のかがり火が幻想的な雰囲気を醸すのでしょう。

 この橋は近くで見る。橋を渡って見る、橋を下から見る、橋を反対側から見る楽しさがあり、つかの間の時間にすべてを経験し堪能しました。

 特に下から見た橋の姿は日本人の技術の高さと美的感覚をまざまざと見せてくれ日本人として誇りを感じました。鉄やコンクリートが主流の時代にあってせめてこの橋だけは後世に残して欲しい職人技であり芸術品なのです。

 帰りは柳井港からフェリーに乗り、周防大橋の下をくぐりました。長さ千メートルの橋もまた見事でした。この橋を渡ると私たちの街の沖に浮かぶ周防大島へ行くことができます。島も私たちの街から見る姿とは随分違って見えるようです。かつては山口県東和町だった島も今は名前が変わり瀬戸内の霧に煙っていました。また近いうちに宮本常一の足跡を訪ねる旅に出てこの地を訪ねたいと思っています。

  「幾つもの 橋を渡って 旅つなぐ 人の想いと 技術に感心」

  「心せよ 祇園精舎の 言葉じり わが身に置き換え 戒めとせん」

  「この流れ 今も昔も 変わらねど 全てを呑み込み 西に東に」

  「もの悲し 耳なし芳一 物語 ハーンは何を 伝えたかったか」 


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