shin-1さんの日記

○蜂は夜どうしているのだろう

 家の裏山に巣箱を構え、その巣箱に蜂が分蜂してからは蜂のことが気がかりで、暇さえあれば裏山に上って蜂の観察を続けています。今までは人間牧場にしか巣箱を設置していなかったため、人間牧場へ行かないと蜂と面会できませんでしたが、今はその気になれば直ぐにでも見ることができるし、わが書斎の窓を開けば見えるのです。

 裏山の巣箱に蜂がキンリョウヘンという日本ランのお陰で自然分蜂し入居たのは、5月19日に巣箱を設置した明くる日でしたから5月20日だったと記憶しています。以来ミツバチは3ヶ月間、働き蜂と異名をとるほど人知れず働いて、せっせと巣を作り蜜を集めているのです。

 今月に入ってミツバチの様子が少しおかしいのです。それまでは巣箱の小さな出入り口出たり入ったりしていましたが、勿論その行動をする蜂も沢山いるものの、かなりの量のミツバチが入り口付近で中に入ることもなくたむろしているのです。巣が太り中が満杯になったので溢れたのならこれに越したことはありませんが、余りの暑さで中の気温が上がって外で涼んでいるとも考えられるのです。

 早速ミツバチの師匠である井上登さんにメールでご指導を仰ぎましたが、原因はよく分からないということでした。これ程入り口にたむろすると底板を抜いて掃除をする勇気もありませんが、今日あたり人間牧場から網頭巾を持ち帰って掃除と中の観察をしたいと思っています。

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(巣箱に入り口にたむろするミツバチの大群)


 今朝散歩がてらミツバチの巣箱を観察に行きました。ミツバチたちは夜何処で寝るのだろうと思いましたが、どうやら巣箱の外や中にとまって休むようで、今朝5時半の時点では写真のように殆どの蜂が羽を休めていたようです。そして朝日が差し込む頃になると蜂たちは一斉に活動を開始して蜜集めに飛び立つのです。

 ミツバチの飛ぶ速さは予想異常に早いようで、まるで投げたボールような速さで巣箱めがけて帰ったり飛び立つようです。夏のこの時期は蜜源となる花などそんなに多くないと思われるのに、一体何処を目指して飛んで行き、蜜を集めて帰ってくるのか、行動範囲は片道2kmだといわれていますが、これも定かではないのです。

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(隙間がないほど群がるミツバチ)

 昨日の朝NHKのテレビを見ていると、蜂蜜の効果が見直されているようです。それは今までの甘味としての利用にとどまらず、美容効果も抜群だというのです。蜂蜜と塩、蜂蜜と卵白などと組み合わせる化粧品や石鹸が飛ぶように売れているというのです。

 私は蜂蜜をパンにつける程度でしか食べていませんが、蜂蜜とレモンの相性や、料理に使うといいという話を聞いて益々蜂蜜の虜になってきました。私が人間牧場でミツバチを飼い始めたのは、人間牧場へやって来る子どもたちに大自然の素晴らしさを少しでも味わってもらおうという単純な発想から生まれたことなので、NHKで紹介されているようなことは考えていませんが、蜂蜜の効能は思ったより大きく、面白い展開になりそうです。


  「ミツバチが 巣箱の前に たむろする どんな相談 してるのだろう」

  「巣箱下 掃除したいが この中に 両手突っ込む 勇気などなし」

  「蜂蜜は 栄養美容 特効と 聞いてよっしゃと 腕をまくりぬ」

  「蜂蜜を 採るか採らずか 迷ってる このまま来年 待つの一案」



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○家庭菜園でのトマトの実験

 毎日35度を越える猛暑日が続いて、家庭菜園の野菜類が根を上げつつあります。笑い話のようですが野菜の根が上がるころになると野菜は品薄になり値が上がるのです。瑞々しい緑色のキューリも今ではしおれてしまって、取り残した黄色いキューリが2~3本無残な姿をさらけ出しているようです。

 そんな中で、親父が毎日水をやって育てているトマトとナスは今のところ順調に生育して、収穫したものは毎日食卓を賑わせているのです。

 畑の隅に何本か野生のトマトが芽を出していました。昨年収穫した後畑の隅に置き忘れたトマトから種が落ちてそれが芽吹いたものと思われます。草刈や耕運機での中興の際に勿体ないとばかりにそのまま放置していました。ゆえに水をやることも垣根を作ることもなく、地べたを張っているだけの、まさに野生のトマトなのです。

 一方トマトの摘芯をした折、摘芯をしたものを、これも無造作に畑の隅に挿し木をする実験をしてみました。これも5本ほど挿し木しましたが3本が生き残り野生のトマトと同様まったく世話もせずに放置していましたが、これも順調に成長し土の上を這いつくばって生きているのです。

 毎年のことながら水をやり続けて育てたトマトやナスは一度水をやるのを止めると、3日で枯れてしまいます。多分苦労して自分が動かなくても他所から水をくれるというDNAがいつの間にか育っているのです。一方野生や挿し木して育ったトマトはご主人様に見放され、自分で水分を取らねば誰も助けてくれないとこれまたDNAが働き、地中不覚へ根を伸ばして生きているに違いないのです。

 野菜は育ちの環境によってこのように随分違った一生を辿るのです。育つ環境には自分で育つ環境と育てる環境の二つがあることを、今年も畑のトマトから学びました。

 トマトを育てながら子育ての極意を考えてみました。私は4人の子宝に恵まれましたが、忙しさの余りに子育てなど殆ど妻に任せきりで、子どもと遊んだ経験も殆どないと子どもたちは述懐するのです。つまり私は子どもたちに水を与えなかったのです。しかし妻という土や太陽の恵み、それに適当な水分によってかろうじて普通の子どもに育ちました。戦後の貧しい時代だった故放置されて育った私ほどではありませんが、それでも心の優しい子どもは育ったのです。現代の子育てはむしろ水をやり過ぎ、肥料をやり過ぎ、垣根を作り過ぎ、期待を持ち過ぎて、根っこが張らずむしろ根腐れをおこしているようです。トマトの実験は子育てにも参考になりますね。

  「水やらず 育てたトマト 生き残る 感心しつつ 子育て同じ」

  「野菜たち 一雨欲しい 言っている 天気予報じゃ 雨はまだ先」

  「根が上がる ゆえに野菜の 値が上がる そろそろ秋の 準備をせねば」

  「水やらぬ 親父九十 生きている 見習いたいが 少しバテ気味」


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shin-1さんの日記

○葬儀事情と仲間との交流

 私には私と同年代に各地の役場で働いた同年代の仲間が沢山います。いずれも退職期を向かえたり、既に退職してそれぞれの道を歩んでいますが、同年代ということは私と同じように親がそれなりの年齢に達しているので、訃報がある度にその葬儀に出かけるのです。

 一昨日松野町の基教育長をしていた芝さんから旧明浜町に住む原田さんのお母さんの訃報と葬儀の知らせがありました。それぞれに連絡を取り合って今日の午後2時から西予市宇和町のセレモニーホールで行われる葬儀に参列しました。原田さんのお母さんは享年89歳だそうで、まあ平均寿命まで生きたのですから、それはそれとして天命を全うしたことになりますが、ご遺族の心境を思うとまだまだ長生きをして欲しかったようで、心中を察するのです。

 明浜町では葬儀に先立ち午前中にご遺体を荼毘に伏し、遺骨で葬式をする風習があるようで、私たちの地域とは随分違った葬式でした。葬式後は49日の法要が営まれ、たっての希望で私たちも参加することにしました。故人の遺影や位牌を飾った中ホールでお食事をご馳走になり、故人の積もる話を聞いたり、近況を報告したりしながら束の間の時間を過ごしました。

 お目出度やお悔やみでもないと顔を合わせることが少ないのは何も親族だけではなく、私たち友人にとっても同じことがいえるのです。

 若松「毎日暑いが、その後元気か」

 塩崎「元気なだけど、先日畑で摘果中に畑で転げて、頭を怪我して5針も病院で縫ってもらった」

 若松「お前はこの間もモノレールに挟まれて怪我したじゃあないか。お前も相当きょろまつじゃのう」

 塩崎「そうよそうよ、そのことよ。若いと思っていたが、やっぱり歳には勝てん」

 若松「仕事は順調か」

 塩崎「みかん畑を1町余り作っているが、今は摘果の最中で、先日もトラックに水槽を積んで横倒しないなって                

    ドアが傷んだわい」

 若松「よく照るが潅水はせんでもいいのか」

 塩崎「阿弥陀池があって、潅水の水には困らんけれど、水をやり始めるとずっと水をかけなければならんので

    まだはじめとらん」

 若松「お前も本物の百姓になったなあ」

 塩崎「百姓にはまだなっとらん。70姓くらいじゃあ」

 若松「まあ怪我せんように頑張れや」

 塩崎「ありがとう。また会おうな」

 こんな他愛のない会話で別れ、宇和から大洲まで無料区間の高速道路を通って海岸周りで帰ってきました。帰るとき受付で祭壇に飾っていたお花を一束ずついただきました。前もって荼毘に伏したためお花を使えなかったのです。葬式の花なので忌み嫌う人もいますが、私は原田さんのお母さんの冥福を祈るつもりでいただき、妻が玄関先に綺麗に活けてくれました。そしてこちらとは違う葬式事情を話してやりました。普通は受付で会葬お礼の挨拶状とお茶かハンカチなどの小物をお返しにいただきますが、ここでは成果いつ改善運動が行き届いていて、受付で挨拶状のみでした。受付と挨拶状の中にその地域の運動への取り組みについてメモが入っていました。公民館に勤めていた頃同じように生活改善運動に取り組んだこともあるので、嬉しい地域ぐるみの運動に大きな心からなう拍手を送りました。


  「葬祭の 簡素化運動 懐かしい かつて私も 先頭立って」

  「元気かい 何とか元気 そりゃあいい 葬式会場 会話弾みぬ」

  「ご遺体の ない葬式に 参列し どこか勝手の 違うを感ず」

  「他人事と 思えぬ葬儀 連チャンで 親父気がかり 今年の夏は」


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○夏はスイカで生きている

 「あなたは夏になるとスイカで生きている」と妻が言うほどスイカが大好きで、夏になると毎日スイカを食べまくっています。まるでキリギリスのようですが、冷蔵庫で冷やされたスイカを食べると何故か生き返ったような感じがするのです。私がスイカが好きなことを知っている妻は、珍しくて少し高い6月の終わりごろからスイカを買ってきて食べさせてくれます。お酒を飲まなくなった私へのせめてもの嗜好品と思って、「酒代だと思えば安いもの」とばかりに供給してくれるのです。

 母存命の何年か前までは自分の家庭菜園でスイカを作っていましたが、どうしても美味しいスイカが出来なかったり、ハクビシンに捕られたりするため作るのを断念しました。世の中不思議なもので自分の家でスイカを作っていないことを知った私や妻の友人たちが、夏になるとせっせとスイカを運んできてくれるのです。これも田舎に住んでいることの特権でしょうが、お陰様で毎日大きなスイカを存分に味わっています。

 一昨日外出先から帰ってみると、玄関に大きなスイカが二つ置いてありました。公民館の宮栄館長さんが届けてくれたようです。その前日支所の武田さんが届けてくれた大きな二個のスイカのうち一個は、帰省した息子に帰る時持ち逃げされたので、大助かりでした。

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 今年はスイカの産地である双海町東峰に異変が起りました。民主党のマニュフェストで公約に掲げた高速道路無料化の実験区間として松山~宇和までの高速道路が無料化されたこの2ヶ月で、並行路線の国道56号線は交通量が半減したのです。高速道路の交通量が全国一の2倍になったと喜ぶ南予地方ですが、その影でスイカの露天商季節限定で営む東峰の野課の皆さんにとっては、厳しい夏の暑さになったようです。

 お盆の8月15日には8キロに及ぶ激しい交通渋滞が続いた無料区間の伊予インターチェンジ付近と、ガラガラ空きの56号線犬寄せ峠付近が、一昨日のテレビで印象的な珍現象としてテレビニュースで紹介されていました。

 「お盆が過ぎればスイカが売れなくなる」と東峰の人たちが言うように、スイカのピークは過ぎました。最近はスイカにも異変が起きているようで、核家族化が進んで冷蔵庫に入りきらないような大きなスイカは売れないのだそうです。スーパーに行くと半分や4分の1、8分の1などに切り分けたスイカが店頭に並んで、お客はそれを買い求めているようです。時にはゴミの処分に困るのか、皮を取った赤い実だけのスイカさえ売られているのですから、世の中は変わったものです。カボチャもキャベツも半分や4分の1にしてラップにくるまれ売られているのです。人間の数が2分の1になった時代ですから、少量多品目は最早常識のテーマです。

 それでもわが家は大きなスイカを4分1に切り分けて冷蔵庫で冷やし、残暑を惜しむかのようにスイカで熱中症対策をしているのです。


  「知人から  届いたスイカ 朝昼晩 飯の替わりに 夏を楽しむ」

  「熱中症 これも流行の 病かも 二百人余の 命奪って」

  「渋滞の 高速道路 横に見て ガラガラ空きの 国道走る」

  「タダならば 走ろう安直 人多い 日本一の 愚かな路線」 

 

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○買ってもらった新型の水筒

 今年の夏は暑いと誰もが言います。それを裏付けるように各地で猛暑日が続いて、熱中症の人がかなり出ているようで、これまで水分補給など余り気にしていなかったのに、出かけたり草刈作業をする時は小まめに水分を補給するようになりました。今は何処ででもペットボトルに入ったお茶や水を買うことが出来るため、家で沸かして作った麦茶をわざわざ持っていかなくても済むのですが、昔人間である妻や私は勿体ないとばかりに、小さな魔法瓶に入れて持ち歩くのです。

 しかし、何年か前に買った魔法瓶は旧式のもので、蓋に注がなければ飲めない仕組みになっているため、今頃の子どもたちが吸い口から直接飲んでいる魔法瓶水筒が欲しいなあと思っていました。

 先日妻が欲しいと思っていた吸い口のある魔法瓶水筒を買ってきました。どうせ大安売りの魔法瓶水筒が目に留まってのことでしょうから、高いものではないと鷹を食っていました。先日双海町高野川から海岸沿いを伊予市森まで歩くイベントに参加した時この魔法瓶水筒を持参しましたが、氷を入れた冷たい麦茶に喉を潤わせて、熱中症になることもなく終わりました。

 昔は魔法瓶といえば高価なもので、中々手に入りませんでした。また折角買った魔法瓶も落下の衝撃で内部が割れて大目玉を食らったこともありましたが、今は簡単にしかも安価に手に入るようになりました。

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 ところで、ペットボトルのお茶は本当に記載どおりのものが入っているのでしょうか。いくら抽出方法が進んでいるからといっても、主原料となるお茶をあれほど色濃く出すには、相当の茶葉を使用しなければならないはずですが、どうも合点がいかないのです。また水も外国産のものや海の深層水まで様々なものが売られていますが、殺菌するのでしょうがお茶や水も、一ヶ月経っても腐らないのが不思議です。自宅で麦茶を沸かせば冷蔵庫に入れてもたかだか二日しか持たず腐ってしまいます。

 まあそんなに目くじらを立てることはないと思いますが、毎日口にするお茶や水だけに何か疑問を感じたら、安全と思うものに変えなければなりません。その点妻の作る麦茶は色といい香りといい、味といい夏の飲み物としては採光だと思い、今日もたっぷり飲みました。


  「孫の持つ あんな水筒 欲しいなあ 思う矢先に 手元へ届く」

  「何日も 腐らないお茶 不思議だな 疑り深く 何故なのだろう?」

  「妻作る 麦茶最高 味香り ビール飲まない 故に楽しむ」

  「いつまでも 冷えたまま飲む 魔法瓶 まるで魔法に かかったようだ」


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○今日の論語「勇者は懼れず」

 論語日めぐりカレンダーの今日の言葉は、「勇者不懼」で「勇者は懼れず」と読みます。読んで字の如く「勇気があれば懼れることはない」のです。しかし人間は何かに向かう時、中々勇気が出ずしり込みをしてためらうものなのです。私のような何処にでもいる平凡な人間でも、自分の65年間の人生を振り返ってみると、「もしあの時勇気を出して一歩前に踏み出していなかったらどうなっていただろう」と、勇気の存在に気付くのです。

 私にとって最大の勇気は何といっても「夕日」です。100人の中の自分以外99人までが反対した夕日をテーマにしたまちづくりは、勇気の塊のようなものでした。間もなく夕焼けプラットホームコンサートが9月4日に開かれますが、奇しくも25周年目を迎えるこのコンサートなどはその典型で、何の変哲もない無人駅のプラットホームを舞台にするコンサートの企画など、誰も相手にはしてくれませんでした。

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 いい企画だと自負して始めたものの、「夕日と同じ沈むようなマイナスイメージの町をつくってどうするのか」と反対する町長、「列車が出入りする危険なプラットホームを使ってもし事故でもあったらどうするのか」と使用することを渋るJR、「音楽がうるさくて寝れない」と拒否反応を示す近隣住民、「北島三郎や鳥羽一郎なら分かるがベートーベンなどして人は来るものか」という漁師さんなどなど、自分の前に立ちはだかる反対の壁は予想以上に厚かったのです。

 私の本当の目的は夕日よりもJR予讃線海岸周りの存続でした。内子・中山を通る山周りにその座を奪われ、やがて並行路線として消える運命にあった地元の弱者の足をどうしても守りたかったのです。結果的には夕日もそれなりに有名になり、海岸周りも残っていますが、四半世紀を越えた夕日によるまちづくりは、海岸国道の改良やシーサイド公園の整備によって町が生まれ変わりましたが、その後の市町村合併によって先行きが危ぶまれているようです。

 勇気がある行動をする人を勇者と呼びます。私は多少勇気ある行動をしたものの、本当の勇者だったかどうかは分かりませんが、斬新な発想と勇気ある行動があれば多かれ少なかれ誰でも勇者になれるのです。しかし斬新な発想も勇気ある行動も、口では簡単に言えますが容易には一歩を踏み出せないのが世の常です。失敗したら「それ見たことか」とののしられる周囲の人を意識してしまうのです。

 結局のところ自分というもう一人の内在する敵とどう戦うかです。100人の人と走って一番になるためには一緒に走る99人より速く走らなければなりません。しかし99人を意識すると、走る前からそのプレッシャーに押しつぶされてしまうのです。要は99人より千分の一秒でも早く走れば一番でゴールできるのですから、その勝算のシナリオを描いて訓練すればいいのです。

 「自分に勝つ」、これは99人に勝つことよりも難しいと思います。でも「勇者は自分を懼れず」とも解釈して、勇気ある一歩を踏み出したいものです。


  「勇者には なれないけれど 勇気なら 少しはあるぞ 一歩踏み出せ」

  「今だから 言えることだが あのころは 若さ見方の 勇気があった」

  「結局は 体に潜む 自分との 戦いなんだ 自分に勝てと」

  「夕日など 金になるかと 馬鹿にされ 寝ても冷めても 夕日狂いに」

 

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○北斗七星と北極星

 今年の夏は暑くて寝苦しい夜が続いています。寝ていてもパジャマが濡れるほど汗をかくので、ついつい寝そびれて寝不足気味になる人も多いのではにでしょうか。そんな夜は思い切って外に出て、天空一杯に広がる空を見つめ、星の観察をするのも楽しいものです。私が住んでいる双海町は田舎ゆえ街路灯も少なく、夜になると懐中電灯がなければ歩けないほど暗いため、逆に暗闇の彼方に浮かぶ星は、まるで天体ショーを見るように綺麗に見えるのです。

 特に夏の星座は星座版などを使って星を探せば、星座にまつわる伝説なども思い起こされ、孫たちに話してやるといつまで経っても中へ入ろうとしないのです。夏の星座の中で一際目立つのは来たの空に浮かぶ大熊座の北斗七星です。熊の背から尾をつくる七個の2等星がひしゃくの形に見える姿は、子どもの頃から見上げて育ちました。

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 しかし肉眼ではっきり見えるこの星たちを自分のカメラで撮影することはまず不可能なのです。何度か挑戦してみましたが、出来上がった写真は全て真っ黒なのです。最近は高感度のカメラも出回っているようですが、写真に撮れないだけにまたミステリーも多いのです。

 私は漁村に生まれ育ちました。ゆえに北斗七星を基軸にした北極星の探し方を随分教わりました。ひしゃくの先の2つの星を結びそれを約5倍延長した所にあるのが北極星です。というのも小熊座のアルファ星は天の北極、つまり真北(地球の自転軸を北側に延長した方向)を指し示す星だから、この星さえ覚えておけば、船乗りは方位が分かると教えられて育ったのです。漢名は北辰、英語はポラリスといって、いつも真北に位置する星として随分あがめてきました。

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一方カシオペアのWやMから見つける方法も教えられました。両端の2個ずつの星を結びそれぞれ延長してその交点と真ん中の星を結んでそれを約5倍延長すると北極星があるのです。

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 私はかつて宇和島水産高校の実習船愛媛丸で遠洋航海をしました。赤道を超えた南の海にマグロを追い、満船帰国の時は北極星を頼りに来る日も来る日も北を目指して航海しました。ロランや衛星ナビのなかった時代でしたから、六分儀で太陽や北極星の高度を測り、船の正確な位置を計算する航海術によって無事日本の港に帰ることが出来ました。今思うと星や太陽の高度で船の位置が分かるのですから、先人たちの知恵は凄いものだと感心していますが、その後陸に上がったカッパとなったため、その星を利用することはなくなりましたが、北極星は今も自分の心のロマンとして目指し続けている星なのです。

 「星影のワルツ」や「星は何でも知っている」という歌も、星とスターがこんがらがった現代も、もう遠い記憶となりました。でも今夜も寝苦しいようだったら思い切って外に出て、満天に輝く天の川や星を見ながら、遠い昔に思いを馳せたいと思っています。


  「久方に 天を仰いで 星を見る 北斗七星 ロマン漂う」

  「あの星を 結んで五倍 先にある 北極星は 憧れの星」

  「田舎ゆえ 星が綺麗に 見えるぞと 強がり言って 自慢のネタに」

  「あの星を 目指した昔 懐かしく 思い出される 青春の日々」

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○迎え火と送り火

 お盆をふるさとに帰省して過ごす殊勝な人もいれば、お盆の休みを利用して国外国内へ脱出してレジャーを楽しむ人もいてまちまちな過ごし方をしているようですが、先祖祀りの義務を背負った人たちはどちらにも縁がないと諦め、迎え火を焚きお料具を炊いて茶果・線香を供え、年に一度あの世からやって来るご先祖様と対話しながら過ごすのです。その作法は宗教宗派によってまちまちですが、結婚して40年の間に妻が祖母や母から教わったわが家流儀にのっとって、昨日までの2日間ご先祖様と一緒に過ごしました。妻はもう手馴れたもので、お料具作りも迎え火も手馴れたもので、私にも否応なしにテキパキと命令し、今ではすっかりわが家の年中行事に定着しているのです。

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 内心はもうそろそろ長男の嫁に仏事に作法を伝授しなければならないのでしょうが、子どもがまだ小さいので線香とお茶を供えるくらいなことしか出来ませんが、間もなく始まる同居生活ではしっかりと学んで次の世代への橋渡しをして欲しいと願っています。

 昨日は夕方孫たちも加わって、親父と共に家族で送り火を焚きました。家の西に当たる畑の隅にお供え物を備え麻殻に火をつけました。僅か二日間の逗留でしたが、ご先祖様も孫たちの賑やかな声に多少驚かれたことと思いますが、無事見送ることが出来ました。「来年もまた来て下さい」と祈る家族に夏の暑い夕暮れ時の日差しが照りつけていました。

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 無病息災を祈りながらもこの一年、91歳の親父が鼠径ヘルニアで入院手術をしたくらいで、家族はまずまずの健康を保っています。心配したその親父も手術の結果完全治癒して元気に過ごしています。来年まで家族全員が過ごせることを願っています。その親父もあと二週間ほどで92歳の誕生日を迎えますが、何とか元気で過ごして欲しいと願っています。

 気がつけば私たち夫婦もいい歳になりましたが、お盆が来る度に長男の嫁ゆえのさがを背負って何処へも行けず、ただ黙々と仏事をこなす妻に感謝をするのです。

 今日はお盆の最終日、子どもたち家族も土産と思い出を貰ってそれぞれの所へ帰り、また日ごろの生活に戻ることでしょうが、今日は妻の休日にしてやりたいと、殊勝にも感謝しながら朝を迎えました。

 (今日は次男の誕生日です)


  「迎え火と 送り火焚いて 盆行事 あくせく過ごす 長男の嫁」

  「いつの間に すっかり板に ついたのか 仏事仕切りて 頼もしい妻」

  「この次は 俺の番だと いう親父 ヘルニア治り 元気回復」

  「お供えの ブドウ一粒 ちゃっかりと 口にほうばる 孫に思わず」


 

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○凄いねえ、渡江歌舞伎くずし盆踊り

 お盆だというのに忙しいことです。昨日は妻を誘って西予市明浜町渡江の盆踊りを見に行きました。昨年度西予市が行った地域づくりグランプリの審査委員を頼まれ、準グランプリに輝いた歌舞伎くずし盆踊りという珍しい郷土芸能を、一度は見ておきたかったのです。明浜町に住む親友原田さんと連絡を取り合い、5時過ぎに明浜町へ着く予定でしたが、お盆は迎え火やお料具など主婦にとっては欠かせなしわが家の仕事があるので、結局は午後5時の出発となってしまいました。海岸国道を通って大洲から西予市宇和町まで無料高速道路を走り、明浜へ着いたのは以外に早い午後7時でした。宇和町から野福峠の九十九折の道を下ると、眼下に法華津峠の素晴らしい眺望が左に右に広がり、妻は感激の面持ちで目を見張っていました。

 親友の原田さんは出発時に電話が張り、お母さんの容態が思わしくなく出会えないと連絡が入り、変わって地元の人が数人案内してくれました。盆踊りが始まる前の20分ほど、近くの民家を訪ねて焼肉パーティの輪に入らせてもらいましたが、酒を飲まない肉も食わない私なのですが、悪いと思い差し出された肉を一切れ、それにソーメンをいただきました。

 やがて太陽が西の端に隠れ海沿いの公民館前広場では盆踊りが賑やかに始まりました。盆踊りは元々精霊を供養するために踊られたもので、渡江歌舞伎くずし盆踊りは昭和62年に西予市無形文化財に指定されていますが、中々見応えのある一風変わった盆踊りなのです。演目は水戸黄門、藤娘、清水次郎長一家、娘道成寺、熊谷陣屋、曽我兄弟、梅王・松王・桜丸車引き、義経千本桜、二枚笠、巡礼お鶴、力くらべ、神田祭、忠臣蔵五段目山崎街道の場、志賀段七、白波五人男、欧州安達ヶ原宗任・貞任、勧進帳、忠臣蔵の一場面・徳利の別れと続くのです。

 口説きは2時間にわたって朗々と続きますが、演技する人たちがプラカードに先導されて次々と入場し、4組くらいの踊りが場内を一巡したところで一組ずつ退場入場を繰り返すのです。盆踊りもさることながら化粧や衣装はまるで本物の歌舞伎に出てくる人を見ているようでとても艶やかで、まるで本物の歌舞伎を見ているようでした。

子どもから大人まで、地区ぐるみで行われる盆踊りは、盆踊りの私の常識を覆すようなものでした。私の町の沖合いに浮かぶ青島に伝わる赤穂浪士の盆踊りも子どもの頃に見ました。まt青島から伝わったというわが町の池久保と石久保の盆踊りも、それはそれとして立派なものですが、一ヶ月に及ぶ衣装、踊り、くどき、太鼓、囃子などの準備や練習のことを思うと、深い感動を覚えるのです。

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(開会を待つ夕暮れ時の盆踊り会場の静寂)

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(盆踊りに先立って練り歩く竹あみ)
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(観客も演技者も一体となった盆踊りに大勢のカメラマンも汗だくでした)

 追伸

 観客の中に、かつて社会教育主事講習を香川大学で受けた宮本さんに出会いました。今は老人会長をしているようです。また普及所でお世話になった課長さんや、水産高校を「卒業して半世紀、多分これが2度目の出会いとなった同級生の稲葉さんにもひょっこり声を掛けてもらいました。嬉しいことでした。

  「妻誘い 歌舞伎くずしの 盆踊り 噂どおりの 凄い迫力」

  「幼小中 高校生まで 加わって 地域ぐるみで 伝統守る」

  「そこここで 懐かしい顔 見つけたる 踊りの外輪 こんなとこまで」

  「来年は 友達誘い また来たい そんな気がした お盆の行事」 


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(16日掲載の愛媛新聞記事) 

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○孫の宿題

 12日の夜から14日まで、娘の仕事の都合で孫2人をわが家で預かり、昨日は帰省した息子の子ども2人も合流して、今年もわが家は賑やかなお盆となりました。小学校2年になった孫朋樹を覗けば1歳、2歳、3歳と聞き分けのないやんちゃ盛りの子どもばかりなので、家中おもちゃは散らかしたり、鳴いたり笑ったりと、まあ賑やかです。そんな中でも朋樹は夏休みの宿題を持参して、朝の涼しいうちは私の部屋の書斎椅子を占領して、勉強に励んでいるようです。

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 夏休みの宿題に、読書感想文と俳句を作るのがあるようで、読書は「おしいれのはなし」という本を既に読み終わっていて、どんなことを書くか迷っていました。プリンターの給紙用の紙を3枚渡し、読む前、読んで分かったこと、読んだ後の感想を書いたらと話してやりました。

 孫朋樹は言うことを聞かないので一度だけわが家の押入れに入れたことがあります。泣き叫ぶ孫を押入れに入れて戸を閉めましたが、その時はとても怖かったようです。また先日は孫3人が悪ふざけをして押入れの布団を全部外に出して、毛布などで陣地を作り遊んでいました。その様子と本を読んだ話と比較しながら原稿用紙2枚に書いたようですが、何とか書き上げたようです。

 一昨日は二つ目の国語の宿題である俳句づくりに挑戦です。運よく肱川町山鳥坂の夜神楽を見学に出かけましたが、その道すがら車の中で色々なことを考え、頭に浮かんだ五七五をメモすることにしました。あいにく車内には筆ペン一本と汚れた封筒が一枚あるだけでしたが、朋樹は1時間30分の道すがら7首もの俳句を作ったようです。宿題なので秀作は未発表にしたいと思いましたが、一句だけ紹介すると「ひまわりは お日さまむかい さいている」程度の俳句のようです。動く車の中で、しかも膝の上に置いた封筒に筆ペンで書いた文字は、まるで芸術品のような出来栄えでした。指折り数えて五七五、何とも面白い句会でしたが、車の中で考えた俳句は早速清書して宿題は一件落着したようでした。


 私も孫と同じように今月中に3本の原稿を宿題として頼まれています。既に2本は書き上げていますが、後1本はまだ構想段階です。孫と同じように要らなくなった使い古しの封筒の裏に、思いつくまま書きたいイメージをランダムにメモしましたが、どうやら原稿用紙10枚ほどの原稿の構想は孫のお陰で固まったようです。

 この歳になっても私のようなものに雑誌や機関紙の原稿依頼がかなりの頻度で舞い込みます。その都度エッセイストになったような気持ちで、浅学な浅知恵を働かせて書いていますが、拙文は免れません。孫のお陰で宿題を片付けつつある私です。


  「宿題を 持って孫たち やって来た 読書に俳句 少し助言を」

  「『ひまわりは お日さまむいて さいている』 中々いい句 褒めてその気に」

  「孫つられ 俺も宿題 原稿を お陰で一本 書き上げました」

  「当分は 孫と付き合う 夏過ごす 童心帰り 俺も楽しむ」


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