shin-1さんの日記

○食事の門限破り

 若い頃には随分無茶苦茶なことをしたものだと昔を振り返りながら思います。酒を飲んでいたころは「10円タクシー」などと得意げになって酒を飲んだ挙句、酒代は工面できてもタクシー代が勿体ないと妻を平気で迎えに呼び出して、深夜の道を自宅まで酩酊して帰りました。その都度何処かのラーメン屋に立ち寄り、仕上げのラーメンや餃子を食べていたのです。若い頃はそのことが健康に悪いなんてことはまったく気付かず、若さが故の新陳代謝で切り抜けていたのです。ところが私に付き合ってラーメンを食べていた妻の体重が少しずつ増えて、ジーパンが合わなくなっていました。

 食う物とてなかった戦後ならいざ知らず、飽食の時代の現代は体重を増やすことは簡単です。甘いもの油濃いものを食べて運動をせねばあっという間に体重はうなぎのぼりに増えてゆくのです。


 ところがどうでしょう。一度増えた体重を減らすことは容易なことではありません。あれから妻は改心して一生懸命痩せるため涙ぐましい努力をしましたが、体重は乱高下して、今もその後遺症に苦労をしていますが、どうにか目標であった体重まで辿り着くことができたようです。

 私たち夫婦の食事の門限はよほどのことがない限り9時と決めています。ところが昨日の夜、次男が出演する演劇を見に行っての帰り食事の門限を破ってしまいました。昨日は愛媛大学での実行委員会を終えてから友人との打ち合わせ時間が長引いて、夕食をつることが出来なかったのです。演劇が終わっての帰り道、一緒に出かけた友人をお茶でもと誘い、伊予市の高坂というレストランに立ち寄りました。私は空腹の余りにここで食事の門限を気にしながら、和風ツナスパゲティを頼んで食べてしまいました。

 門限を破るとき「今日ぐらい」と軽い気持ちになるし、一回門限を破ったところで今朝の体重はそんなに増えるものでもありませんが、「今日ぐらい」が連続するともう危険信号なのです。昨日は夏休みも終わりに近づいていましたが、お店は9時半を過ぎているというのに家族連れで賑わっていました。家族の輪の中には子どもたちも何人かいて、外食をしっかり食べていました。親の何気ない行動が子どもたちの肥満や病気を誘発するのではないかと、要らぬ心配をしながら家族の食事する様子を遠目で見ていました。

 外食をしたら必ずといっていいくらい食事の後に喉の渇きを覚えます。多分砂糖と塩の味付けが濃いいのではないかと思われます。事実妻の薄味になれた私の舌はパスタに絡めたツナの塩味が辛いと思いました。出されたものは全部食べることを教わった古い時代の人間ゆえに、残さず全部食べましたが、朝になって後悔しきりです。食べるよりはお腹を空かせて寝た方が体にいいと、思った朝でした。


  「門限を 破って食事 今朝後悔 気をつけなくっちゃ 自分の体」

  「砂糖と塩 味付け濃い 喉乾く 妻のお陰で 舌も敏感」

  「九時過ぎて 外食食べる 親子連れ 危険信号 どこかで仕打ち」

  「明日から いや今日からと 反省す 体いとおう 九時の門限」

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shin-1さんの日記

○劇団イリュージョンの公演

 幻影、幻想、錯覚、特に芸術作品における意識的な錯覚のことをイリュージョンといいますが、愛媛県の県庁所在地松山市に、このイリュージョンという名前のついた劇団があります。毎年夏休みのこの頃になると、劇団員である次男息子とそれを支援する妻の手によって何枚かのチラシと前売り券切符が届き、私も寸暇を惜しんで殆ど毎年この夏公演演劇を見に行くのです。会場はコミセンホールや市民会館中ホールなのですが、25周年を迎えた今年は市民会館中ホールでした。

 猛暑日となった残暑厳しい昨日は、11月に予定されている地域社会教育実践交流集会の実行委員会が愛媛大学構内であって、私はそこから会場まで直行して6時に、開場を待つ長い長蛇列の中に加わりました。


次男息子が劇団イリュージョンの団員になったのは、高校1年生の時でした。松山工業高校機械科に進学してサッカーやラグビーなどの部活に入ったものの、長男のような体力がなくて、また長男に比べ口数も積極性もない次男を見て長男が、勝手に劇団のオーディション受講の葉書を出してしまったのです。「僕は絶対に行かない」と固辞していた次男が長男の説得に負けてオーデションに参加したのです。ところが不思議なことに、そのオーディションに合格してしまい、やがて次男は劇団員とし初舞台を踏むことになったのです。昭和51年生まれの次男は現在34歳ですから実に18年間も、しかも社会人になった今も劇団員として舞台に立ち続けているのですからわが息子ながら立派というほかないのです。今は看護師として日赤松山病院に三交代勤務しているためかつてのような自由は利きませんが、劇団代表の井上佳子さんの信頼も厚く、舞台監督や振り付けにその名を連ねているようです。

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 さて、今年は「八月のアリス」という題名です。ストーリーは「高熱を出し、病院で目を覚ました少年が、うさぎ男に促されるまま着いたところは、四人の少女たちが楽しそうに集まりお話作りしている朝の庭だった」というところから物語が始まり展開していくのですが、途中休憩もなく2時間余り続く楽しい場面に、妻や妻の友人もすっかり引き込まれてしまいました。

 公演やカーテンコールも終わり、例年通り玄関先で舞台衣装や化粧をしたまま交流する息子の姿を見て、少し胸が熱くなりました。妻は今日も友人を誘って息子の追っかけのように再度見に行くそうですが、私は双海少年少女面白教室子ども体験塾のプログラムで石鎚登山に出かけるため加わることが出来ないのです。

 まあ何はともあれ病院の三交代という激務と演劇を両立させている次男のひたむきな生き方に、わが息子ながら敬意を表したいと思います。次男は誰に似たのでしょうか?。


  「学業や 仕事しながら 演劇を 続ける次男 誰に似たのか」

  「演劇の 常識破る イリュージョン 私の感性 少し高まる」

  「わが息子 舞台監督 名を連ね 今更ながら 継続力」

  「八月は 私と妻の リフレッシュ 友を巻き込み 観劇席に」



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○出てきた辞令書と報告書

 私は整理整頓が余り得意な方ではありません。机の上や書斎はいつも妻から注意を受けているのです。それでも月に1度や2度は片づけをするのですが、片付けが追いつかないほど紙類が増えるのです。整理整頓のコツは捨てることが基本だと分かっていても、捨て切れないのが私のまずいところだと自認をしつつ、昨日は久しぶりに大掃除をしました。前回の大掃除で必要書類と思っていた資料なのにこの1年、まったく目を通していない資料は思い切って後ろ髪引かれる思いで捨てることにして、用意したみかんのコンテナに5杯分も処分したのです。処分したものの中にはシュレッダーにかけなければいけないものもあるので、夏野菜の終わった畑の隅に小さな穴を掘って時間をかけて焼却処分にしました。リサイクルも考えるのですが、綺麗さっぱり灰になると諦めもつくので、いつもこの方法をとっているのです。

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 整理整頓が出来ていないと必要な書類を捜すのに一苦労で、ものを探す度に日々の暮らし方を悔いるのです。昨日の大掃除で思わぬものを見つけました。私の最後の辞令です。私は役所に35年間勤めましたが、教育委員会、産業課、企画調整室、地域振興課、教育長など、数えるほどしか異動していないのです。ゆえに異動辞令もそんなに多くはないのですが、今回見つかった辞令は封筒に入っていて、教育長になるため退職した時の辞令と、合併前夜に出された夕日のミュージアム名誉館長の辞令書などでした。探したものののけ忘れて

見つからなかったものだけに、捨てるのも惜しいと思い取っておくことにしました。人から見ればどおってことない紙切れでも、合併して任命権者である双海町長そのものがこの世に存在しないものなので、私のお宝にしたいと思っています。

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(右ページには東京晴海ふ頭からタラップを手を振ってにっぽん丸に乗船する私の写真もありました)

 もう一つ、これも探したけど見つからなかった総理府派遣第10回青年の船の報告書が出てみました。偶然にも前日新聞のコラムでゴールデンゲートの記事を目にしたこともあって、私のブログのその模様を書いていただけに、懐かしくなって掃除をそちのけで読みふけりました。

 私の人生において197年6月23日が日付変更線を越えたため2日あったり、にっぽん丸の船上で過ごした懐かしい日々が蘇ってきました。そういえば書斎書架の引き出しには、沢山のスライドネガが使われることもなく眠っています。これも何とかデジタル化して保存したいと考えていますが、いかんせん私のパソコン能力では叶わず、もう少し先のことになりそうです。

 整理整頓は過去の清算です。過去を今という手段で清算しないと未来認識は出来ません。これからも機会を捉えて過去を清算し未来に向かって一歩を踏み出したいと思う今日このごろです。


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○未利用海草資源活用実験プロジェクトは成功するか

 未利用海草資源である浜に打ち上がった天草を拾い集めて帰ってから5日間が経ちました。最初は他の海草やゴミ交じりだった天草も、丹念な選り分け作業と水に浸したり観想したりを繰り返す晒し作業で徐々に純度が上がって、今はもうすっかり白髪のような姿に変身して、思ったよりも晒し作業が早まり、来週早々にもトコロテンにする実験が始まりそうです。トコロテンにする作業は、時々トコロテンやデザートにフルーツ入りのゼリーを作って、慣れている妻でないと出来ないため妻に頼み込んでいますが、妻はこの材料に「上手くいくかどうかは分からない」と少なからず否定的なようです。

 実は「未利用海草資源活用実験プロジェクト」と、自分で勝手に命名しているこの自分ひとりだけの取り組みは、今年の春先から始めているのです。自分が深くかかわって整備したシーサイド公園の西側に、冬の北西の季節風から人工砂浜を守るために造った長い突堤があって、その突堤を守るためにテトラポットが沢山置かれていますが、いつの間にかこの突堤にヒジキの種が付着し、春になるとヒジキが育つのです。多少危険なため採る人もなく、毎年流れ藻になってなくなってしまうのです。またこの突堤の影響で館長にしか顔を見せない石ころ砂浜が出来、そこに春の西風が吹いた明くる日には大量のワカメが打ち上がるのです。これも採る人もなく自然上かのような形でやがてなくなってしまうのです。

 ヒジキもワカメもキャリーで運び、特にヒジキはわが家の庭で大きな釜で茹でたり干したりという、田舎でしか出来ないかなりきつい作業をしなければ食用にはなりませんし、ワカメもビニール紐を庭中に張り巡らしてまるで簾のように干さなければ保存食にはならないのです。

 でもヒジキもワカメもこうした地道な作業によって見事食用に変身して、わが家の食料となりわが家の健康作りに一役かっているのですから、これは嬉しいことなのです。加工食品は生のものより味が落ちるといいますが、ヒジキもワカメも海のメカニズムで春先にしか採れないため、乾物にして利用する方法が一番なので、味は多少落ちてもこの方法しかないのです。

 ヒジキとワカメでスタートした「未利用海草資源活用実験プロジェクト」に、今回天草という新しい素材が加わりました。私の考えではアオサ、トサカノリ、カジメ(クロメ)も利用できるものと考えていて、考えるだけでもワクワクするように由真は次第に広がってゆくのです。このプロジェクトの最大の難問は全ての素材を収集するのは人間の手間と暇と潮選びですが、自分だけで楽しんだりおすそ分けする程度なら、サンデー毎日の私ですから造作もなく取り組めるのです。

 海草は陸にない様々な養分を含んだ優良栄養食品で、その効能は誰もが認めています。しかしいざ食用にするとなると手間隙がかかり、そのために市販のものは高価でいつも口にすることはできないのです。とりあえず私は今回目をつけた天草を人間牧場のコンニャクと同じようなメニューに加えて、みんなで楽しみたいと思っています。プロジェクトの企画書と作業工程や作業日誌も今年の冬にはまとめたいと思っています。


  「朝夕に 天草晒す 作業する 傍でニヤニヤ 今に見ていろ」

  「天然で 晒した天草 予想より 早い仕上がり 成果を期待」

  「海草は 健康食品 あれこれと 未利用資源 生かす手立てを」

  「もしこれが 食用適と なったなら 夢は広がる 次から次へ」


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shin-1さんの日記

○ネットの時代の買い物事情

 インターネットで注文すると居ながらにして宅配便で注文品が送られてくる、便利な世の中になったものです。直接自分で買う買い物売り上げより、ネット販売の売り上げの方が金額的に上回るという、国民の消費動向変化には信じ難いものがあるようです。

 自分のつい最近の消費動向を見れば、人間牧場のロケ風呂の風呂釜も、寒さしのぎの薪ストーブも全てネットで買い求め、先日故障して新しく買い換えたエプソンのプリンターもネットで代引き購入しているのですから、驚くことは無いのです。しかも不思議なことに店頭販売だと高い商品が、「えっ、こんなに安いの?」と目を疑うほどなのです。私がこの度購入したエプソンプリンターはEP-702Aというタイプです。コピーとプリント、それにスキャナー機能があって、インクカートリッジの買い置きが使えるような同じ機種機能を条件にネットで買ったのですが、付属品としてついていたインクカートリッジはお店で買うと6色セットで五千円余りします。だのに代引き生産金額は1万2千円、つまり本体価格は7千円という計算になるのです。首を傾げたくなるような不思議さです。

 ところでペットショップもインターネットの世界では珍しいことではなくなりました。生きているものを死なせずに送る宅配は、「珍しいものを買いたい」というお客のニーズにぴったりで、自分がお店に行って品定めをし仮に買い求めても輸送中のリスクはつき物なのです。そこへ行くとネットだと輸送リスクをカバーできるような技術があるので、玄関先まで荷主が責任を持ってくれるのでかえって安心なのです。

 夏になるとカブトムシ、秋になるとスズムシはもう宅配の定番になってきました。そのカブトムシも今や子どもたちがあこがれる外国産のものまでネットで購入できるのですから、親も子どももお金を出せばある意味夢を叶えることが簡単に出来るのです。でも折角買って貰ったカブトムシやクワガタも、子どもたちの飼育能力ではおのずから限界があって、短い寿命で終えるケースが多いようです。


 それはカブトムシやクワガタを苦労せずに手に入れるから愛情が湧かないのかも知れません。私たちが子どもの頃は夏休みになると、朝早く起きて近くのクヌギ林に行き、樹液の出たクヌギの木に群がるカブトムシやクワガタを探したものでした。勉強は今いちでもカブトムシやクワガタを捕まえる能力に長けた友達も沢山いて、一緒に秘密の場所へ連れて行ってもらったものです。

 当時はカブトムシやクワガタを育てるための腐葉土やゼリー状の餌など手に入らなかったので、林に出かけて腐葉土を集め、餌も砂糖水や蜂蜜を親の目を盗んで虫たちに与えていました。スイカの皮も与えたような気もするのです。だからこそ「死ぬまで大切に育てよう」と思ったに違いないのです。自然の中にいる小動物を虫かごの中や段ボールに閉じ込め結果的には死なせてしまう胸のうずきはまた、小動物ながら生と死を垣間見る勉強の機会にもなっていたようです。お金で買える社会は一見便利ですが、子どもの時代に育まれる生きるものへの愛情や死の悲しみ、自然の営みなど様々な子ども時代の学びは人間の人格形成にとって大切なものなのです。今年も孫に変わって妻が玄関先でせっせとカブトムシやクワガタの世話をしています。はてさて・・・?。


  「朝早く 起きてクワガタ 追いかけし 昔懐かし 夏が来る度」

  「目を盗み 砂糖はちみつ クワガタに 自分食べたい 堪えてやった」

  「何故子ども カブト・クワガタ 欲しがるか いつの時代も 子どもは子供」

  「宅配で 届くクワガタ 何処となく 元気がないな 子どもと同じ」


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○ゴールデンゲートの思い出

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 地元紙愛媛新聞に、何の意味があるのか分かりませんが、点描米国西海岸というコラムがシリーズで紹介されるようになりました。既に⑥の番号が打ってありますが、アメリカ西海岸サンフランシスコの象徴として、長年親しまれてきたゴールデンゲートブリッジは、私にとっても思い出の橋なのです。

 私の乗った三井商船のにっぽん丸(1万5百トン)は、東京晴海ふ頭を出て咸臨丸が航海したであろう航跡を辿り、太平洋の荒波を越えて11日ぶりの朝サンフランシスコに到着したのです。私にとって少年の頃から憧れ、夢にまで見たアメリカ大陸なので黎明の中に見える赤いゴールデンゲートは、とてつもなく大きな夢の橋に見えたのです。入港手続きがが終わり白い船体のにっぽん丸はゆっくりとゴールデンゲートの下をくぐり、サンフランシスコの不当に停泊したのです。


 入港前日11日間の船内活動ですっかり親しくなった船長に、私はこんな笑い話のような話をしたのです。「私はふるさとの公民館主事をしています。日本を出る時沢山の方々から私たちも一緒にアメリカへ連れて行ってと頼まれました。叶わぬことなのでみんなの写真を持ってきました。ほらこの通りその数100人余りです。実は今日乗船している人の中で一番先にアメリカへみんなを連れて行ってやりたいのです」と説明すると、「あなたは面白いことを言う人ですね。船はみんなを同時にアメリカへ連れて行きます。それでは不満足ですか」。「はい不満足です。にっぽん丸がゴールデンゲートの下をくぐる時、船首部分に立たせてください。そうすれば私が一番にアメリカに着くのです」。怪訝そうな顔をしていた船長さんは、「分かりました。あそこは立ち入り禁止区域なのですが、一等航海士に説明して入れてもらいましょう」と了解を得ました。

 私は急いで身支度を整え、日本を出る時貯金箱を割って餞別をくれた子ども会の子どもたち、海の向こうは水が悪いからと梅干を選別にくれたおばあちゃん、日本を紹介して来いとカエルの鳴き声をテープに吹き込んで託してくれたおじいちゃん、勿論家族も含めて100人余りの人物写真を持ってにっぽん丸の船首に立ちました。まるでタイタニックの感動シーンを見ているような船首で、写真を両手で広げて「おーいみんな、これがゴーうでんゲートだ。これがアメリカ大陸だ。やっと来たぞ~」と大声で叫びました。この様子を見ていた私が班長を務める19班のメンバーは、「若松班長は長い船旅で頭が狂ったのでは?」と大笑いをしたようでした。

 その様子は帰国してからも班員の語り草となっていましたが、建国200年に沸くアメリカを訪れた35年も前の出来事はいつしか私の脳裏からも消えうせていました。

 首相官邸で三木首相から日の丸を貰い、その三木首相に東京晴海ふ頭で見送られ、アメリカで開かれたサミットに出席するためアメリカを訪れていた三木首相に、サンフランシスコで出迎えを受けるという奇遇や不思議にも出会ったアメリカでの思い出は私の脳裏から消えることはないのです。

 瀬戸大橋や鳴門海峡大橋、明石海峡大橋、しまなみ街道来島海峡大橋などがその後出来、世界に誇る大橋など珍しくもなくなりましたが、私がアメリカを訪れたのは1976年ですから、それより39年も前の1937年に全長2737m、主塔間1280mを誇る橋は出来ているのです。

 真っ赤な橋は残念ながらバスで見学となり、橋の上に降り立って見学はしたものの、歩いて渡ることは出来ませんでした。それにしてもアメリカの技術力や頭脳は凄いと感心したことを、今も忘れることが出来ないのです。


  「新聞の コラム切抜き 橋思う 三十四年も 前の出来事」

  「今でこそ 珍しくない 橋だけど 度肝抜かれた あの日あの時」

  「橋の下 船首に立ちて 大声で アメリカ来たと 写真広げて」

  「船長も 首相も既に 今は亡く この身も加齢 時は矢のよう」

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shin-1さんの日記

○何処からともなくハーモニカの音色が

 昨日は夕食後妻と二人で散歩を楽しみました。激しかった夕立も上がり、まるで水を打ったような涼しさの中を、お定まりのコースである上灘中学校、特老夕なぎ荘、高村電気の道を往復しましたが、山の端から綺麗な真ん丸い満月が出てそれはロマンチックでした。夜の散歩には懐中電灯を持って出かけるのですが、昨晩は懐中電灯の明かりをつけずに、月明かりの道を歩きました。二日続きの夕立ですっかり秋らしくなって、あちこちから虫の鳴き声が賑やかに聞こえていました。

 自宅の近くまで帰ると、何処からともなく涼やかなハーモニカの音色が聞こえてきました。よく見ると隣に住んでいる叔父が庭の駐車場に涼み台を出し、傍に座っている叔母に聞かせるようにハーモニカを吹いていました。叔父は今年72歳になりますが、何年か前に軽い脳卒中を患いましたが、いまは回復して洋傘の製造販売をやっています。最近古布を使って洋傘にすることが新聞やテレビで取り上げられたため、連日頼む人が訪れ大賑わいのようで、叔母も病気を忘れさせる出来事として歓迎しているようです。


 聞けば肺活量を増やすためにハーモニカを始めたそうで和音、つまり流行歌を吹くAmハーモニカを手に入れていました。ハーモニカについては一歩前行くと自認する私は、立ち話のような形でハーモニカの話に花を咲かせました。叔父はまだ初歩的と見受けましたが、朗々と吹くハーモニカは折りしも出た満月の月にとてもマッチしていました。叔父は名前が福計、叔母は笑子です。夫婦合わせれば福笑いとなる珍名の持ち主なのです。もう家はなくなりましたがその隣に入福寅男・鶴子夫妻がいて、わが家が目出度目出度の若松様ですから、まさに珍名組内でした。

 ハーモニカの音色は時に物悲しく時に郷愁を覚えます。肺活量が増えるかどうは疑問ですが、音楽に親しむことによって感性を磨くことは出来るような気がします。私も時々しか吹きませんがハーモニカの音色は心に染みるのです。でも音楽が大の苦手だった私は今でも妻と親父しかいない家だのに、通知表2の後ろめたさもあってどこか気恥ずかしいのです。そんなことを言いつつ講演先では求めに応じて下手なハーモニカを吹きまくっているのです。いつか隣の叔父とハーモニカの競演をして見たいと思っています。その時叔父はもっともっと上手くなっているかも知れません。そうだ私も叔父に負けないように練習をしないと・・・・。

  「月が出る 何処からともなく ハーモニカ 音色誘われ 散歩の途中」

  「ハーモニカ 忘れし過去を 思い出す 廃れた歌の  記憶辿りて」

  「童謡も 今の子らには チンプンカン それ何言われ 戸惑い隠す」

  「ハーモニカ 聞きつつ歌を 口ずさむ 小柳ルミ子 瀬戸の花嫁」 

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○スコールの思い出

 連日猛暑日が続き、一雨欲しいなあと思っていた矢先の一昨日と昨日、思いもかけず激しい夕立が降りました。時ならぬ雨で一昨日は折角予定されていたわが灘町地区の盆踊りが、出鼻をくじかれたように午後7時から振り出したため中止になり、慰労会の準備はしていたので慰労会だけは賑やかにやったようです。

 そして昨日は妻から頼まれてメガネのピンが抜けているのを近所の時計屋に修理に行っていて、一転にわかにかき曇って急に雨が降り出し、あいにく単車でお使いに出かけていたので、面白半分に土砂降りの中を単車を走らせて帰り、ずぶ濡れになってしまいました。

 でも全身ずぶ濡れになるなんて久しぶりのことなので、涼しさが欲しい夕凪の頃でもあったし、少年の頃の童心に返ったような心地よさで、外扉から浴室へ入りシャワーを浴びてさっぱりしました。

 ふと母校である宇和島水産高校の練習船愛媛丸で南太平洋へマグロを獲りに出かけて頃のことを思い出しました。赤道を越えると常夏の地域で、進めど毎日島など見えず、鏡のように凪いだまるでお盆の中を船はただひたすら、延縄操業準備の作業屋研修などをしながら南を向けて走るのです。実習生の私たちも二人一組になってワッチと称する見張りや操船をブリッジでしなければならないのです。


 当時の練習船にはエンジンの冷却水を引き込んだ海水風呂しかなかったので、雨水にしろ真水はとても貴重な天の恵みなのです。スコール域が船の行く手に見え始めると意識的に進路を遊び心で少し変え、スコールの中へ船を入れるのです。実習生も船員も思わぬプレゼントに大はしゃぎしてスコールシャワーを楽しみました。

 しかしわがままのスコールは足早に去ったり、時には石鹸をつけてスコールを待てども進路を変えられて、全身に塗りつけた石鹸を落とすのに一苦労した懐かしい思い出もあるのです。もう半世紀も前の出来事なのに、夕立に遭うと懐かしい青春の日々が思い出されるのです。

 余談ですが延縄の操業が始まると不眠不休でマグロやサメと戦い、合羽ズボンの中は丸で蒸し風呂のように汗だくとなり、そのため生徒たちはみんなインキンタムシに悩まされるのです。かゆくて仕方がないので指導教官から貰ったヨーチンをオチンチンに塗りつけ、その痛さに悲鳴を上げながらウチワでお互い扇ぎ合いをしたものです。また教官がオチンチンに包帯を巻いてくれるのですが、いつの間にかすっかりしぼんで包帯が何度も抜け落ち、男しか乗っていない練習船ゆえの恥も外聞もない小さな騒動は、仲間と会えば必ず下ネタとしてスコールの思い出は語られるのです。


  「オチンチン 包帯巻いた ヨーチンも 今はすっかり 笑い話に」

  「石鹸を 塗ってスコール 待ったけど コースが外れ 肌がヒリヒリ」

  「突然に 夕立降って 雨の中 ずぶ濡れ単車 ときっめきながら」

  「雨降って 笠がなければ 濡れてゆく 詩人灰谷 思い出しつつ」

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○未利用資源を活かす

 先日伊能忠敬の測量図を見に、子どもたちと一緒に双海町高野川から伊予市森まで海岸線を歩きました。真夏の暑い太陽が照りつける海岸は足を取られて歩きにくく、参加したみんなも熱中症になることもなくいい汗をかきました。その折この海岸沖にあるであろう磯根資源は誰が利用しているのだろうと思いながら、海岸線に打ち上げられたゴミや海草を踏みつけて歩きました。

  あれから20日ほどが経ちましたが、もう一度そこら辺を見てみたいと思う衝動に駆られて、大潮の昨日一人で歩くことにしました。水筒、海水パンツ、メッシュ袋、ゴーグル、背負子などを用意しました。水筒と海水パンツ、軍手は妻に、メッシュ袋は松本さんに、そして水中メガネはシーサイドの忘れ物置き場に置かれたものを所長さんの許しを得て、また背負子はフロンティアGの大野さんからいただいて保管していたものをそれぞれ用意してトラックに積み込み、高野川出口まで行きました。

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(黒磯海岸で大汗をかいて一休みする私)

 高野川川はまだ引き潮が甘かったため、少し川の上流まで行って渡り歩き始めました。5分ほどでもう大汗が噴出しました。先日歩いた時と同じように歩きましたが、昨日はむしろ海岸線に目をやりながら歩きました。そのうち潮が引き始め、砂浜の足元には無数の白い海草が見えました。先日通った時と同じような海草でこれがどうやら天草なのです。普通天草は磯の岩肌に生えていますが、波に洗われてちぎれて漂着したものです。それが満干潮の海水や雨にさらされ白くなったのです。

 木陰で一休みしながら松本さんの用意してくれたメッシュの袋に綺麗な海草を拾い集め大きなゴミや別の海草を取り除き入れました。海から取った天草は重いのに、まるで白髪のように自然の力で晒された天草は軽くて、二つの袋一杯に入れることができました。

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 さあ今度は海中調査です。人の気配もまったくないので誰はばかることもなく脱衣して海水パンツになり、持参したゴムぞうりに履き替えて黒磯と呼ばれる磯まで泳ぎました。度重なる地すべりで改定には土分が溜まり、海水は少し濁っていましたが、水中メガネ越しにみえる海中は小魚が沢山泳いでいました。ヒジキの新芽がもう伸び始めていたり、それほど多くはありませんでしたが天草も生えていました。また磯にはフノリが沢山生えていて利用したいと思いました。海で泳ぐとあせもが引くので大助かりとばかり一人海中で戯れました。

 海岸で過ごしたのは1時間余りでしたが、もと来た道を引き返し自宅に戻りました。さあそれから採ってきた天草を発泡スツロールに水を入れ丁寧に揉んで砂やゴミや余分な海草を取りました。そして何度も水をかえて洗いました。倉庫からサナを出して干しました。この作業を毎日一週間ほど続けると綺麗な晒し天草が出来上がるのです。

 もしこの天草が実験の結果トコロテンになるようであれば、これこそ来年からは居ながらにして大量の天草を手に入れることが出来るのです。私はこの天草を人間牧場で生育中のコンニャク芋と抱き合わせて、健康食品体験プログラムの目玉にしたいと思っています。もし可能なら来年はみんなで海岸に打ち上げられた天草を拾うツアーをやって、資金稼ぎの目玉にしたいとも思っていますが、はてさてそんなに上手くいくかどうかはまだまだ先のことなのです。

 発布スチロールの箱を現地まで運んで塩水を溜め、そこで選別して海岸に干せば純度の高い天草が手に入る算段は、私の心の中で大きく広がりつつあります。差し当たり年輪塾の仲間に採った天草でトコロテンを食べさせ、議論しながら実験したいと思っています。

 

  「海岸の 漂着海草 活かしたい 未利用資源 まるで葉っぱ(上勝)だ」

  「天草は 健康食品 ダイエット 若松会社 いよいよ興すか」

  「もしこれが 金になるなら 濡れ手粟 青少年の ために使える」

  「夢を見る 寝れないほどに 興奮し 今朝も早起き 天草手入れ」

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○新標識は四つ葉のクローバー

 もみじマークは高齢者を枯れ葉のようなイメージにする「いじめ」だと、選挙を意識した政界からの猛烈な批判に警察庁が折れ、マーク表示を罰則義務から努力義務に改められましたが、高齢者の事故が多いことを理由に75歳からだった表示が70歳からに引き下げられました。警察庁も泣く子と政治家には勝てないようです。

 さてそのもみじマークですが、初心者マークの若葉に比べそういわれて見れば、確かにもみじのような感じに見えるのも事実ですが、だからといってこのマークが即高齢者をイメージするものではなく、「高齢者が運転していますので、ご注意ください」という注意をしてもらう意味では、若葉マークと何ら変わりはないのです。この問題は高齢者が一生懸命生きている自尊心を傷つけられたのであれば直さなければなりませんが、政治家が言うから直すのはちょっと筋が違うようにも思うのです。

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 さてその物議を醸したもみじマークの見直しを進めていた警察庁は、もみじマークに変わるロゴマークを募集していましたが、14573点の応募の中から四つ葉のクローバーが選ばれ、標識の様式を規定する道路交通法施行規則を改正し年内には試用が始まるようです。

 新デザインの原図考案者は、「幸せの象徴である四つ葉のクローバがシニアのSを包む。四つ葉に若々しさを表現した黄緑と緑、豊かな人生経験表す黄とだいだい色の4色をあしらい、活発な高齢者をイメージした」そうです。もみじマークの単調さに比べれば今回のマークは、これまでの暗いイメージより明るく表現されていい図案だと思うのです。

 高齢者の運転する車は主に公道を走ります。加齢で身体機能の低下した高齢者が運転する車が原因で事故を起こすことも多いのですが、もっと多いのは高齢者が巻き込まれる事故が圧倒的に多いことです。それは若葉マークを含めた一般ドラーバーの起こす事故ですから、新標識の施行を機に、お互い注意をして事故のないようにしたいものです。


 私も65歳になって統計上ではもし事故でも起こせば、高齢者の事故としてカウントされます。私が事故に遭うと「このほど、道路を歩いていて事故に遭ったおじいさんは・・・・」なんて表現がされるのですからゾッとします。後五年すれば私も四つ葉のクローバーマークをつけることを努力義務としなければなりません。

 今年の春、隣に住む80歳のおじさんが免許証を返納しました。本人はまだまだと思っていたのですが、家族の強い勧めで運転をするのを辞めたようです。時々近所に買い物に行き帰る姿を見ますが、自転車にも乗らないため両手に持った荷物の重たさや、歩き疲れた様子は何とも寂しそうです。松山の病院に行くのにも貴社や電車を乗り継いで一日がかりだとぼやいていました。私の行く末を見ているようでした。

 私は高齢になったら同居するであろう息子の家族の世話にならなければなりません。買い物や病院へ車に乗せてもらわなければなりませんが、その折息子たちが喜んで私を乗せてくれる保障はありません。その妙案としてタクシー並みの料金を払えば喜んで乗せてくれるだろうと、密かに思っています。お金で全てを解決は出来ませんが、それくらいの出費を覚悟する高齢syとしての自覚を今から準備しようと思っています。(笑い)


  「もみじから 四葉に変わる 高齢者 もうすぐ私 お仲間になる」

  「政治家が 口火を切った 騒動も 二転三転 これで落ち着く」

  「タクシーと 同じ金額 払ったら 私乗せると みんな言うだろう」

  「あと五年 この紋所 見えぬかと 言ってやりたい そんな気概で」



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