○人間牧場も建築して早7年が過ぎました(その1)
今から7年余り前の、平成17年4月に伊予市・中山町・双海町が合併し、新しい伊予市が誕生しました。35年間務めた役場を2005年3月31日教育長を最後に退職、明くる日の4月1日私は念願の自由人となり、妻の作ってくれた弁当を持ち、双海町下灘池久保の荒地に入りました。かつて母がみかん畑として大事に育てていた畑は、母の死後放任園という言葉がぴったりするほど荒れるに負かせ、人も寄せ付けないように雑木・雑草が生い茂っていました。救いはその荒地の真ん中に下のお墓へ行くため車が通れるほどの道が整備舗装され、その農道工事の時土地を提供したお礼にと、今水平線の家が建っている辺りの土地が、土木業者の手によってブルドーザーで平地にして貰っていたことでした。
平地の横には地区の人たちが信仰しているお室があって、子どもの頃母に連れられてみかん摘みや芋掘りに行った折、母とともに祈りを捧げたものでした。傍には樹齢不詳の大きなヤマモモの木が威風堂々と立ち緑陰を作っていました。持参したチェンソーと草刈機、鋸と鎌、マサカリと地堀鍬をお室の前に並べ、持参した一合ビンの日本酒と米・煮干を供え、手を合わせて作業中の安全を祈りました。
生い茂った潅木やカズラ、茨が行く手を阻み作業が容易ならぬことであることを実感したのです。以後弁当を持ってこの地に分け入って作業する私の姿に、地元の人たちも何事かと、作業する姿を見に来たり尋ねたりされましたが、私の人間牧場を造るという構想は話しても、目に見えないものだけに理解してもらえないと思い、しばらくはみかん畑だった場所を開墾する程度の軽い説明に終始していました。
雨の日を除けば来る日も来る日も、妻が買ってくれた地下足袋と麦藁帽子、作業着、軍手という出で立ちで約2ヶ月、抜開・伐採・抜根を行い、畑の真ん中でそれらを順次焼却処分しながら前へ前へと進みました。全容が見えてきたのは5月、そうこの頃でした。視界が開けたその向うには私が幼かった頃見た伊予灘の海と豊田漁港の見事な眺望を確保したのです。私の人間牧場構想の土台となるいい場所だと確信しながら、並行して設計士の息子に頼んで進めていた、中心施設となる水平線の家の設計図も5月半ばには完成し、いよいよ夢は膨らんで行きました。わが家の隠居を建築した折棟梁を務めてくれた藤建設に建築を依頼して、度々打ち合わせを繰り返し、7月から基礎工事などの本格的工事が始まり、難産の末大安の7月29日を選んで建前に漕ぎつけました。
水平線の家と名付けた中心施設の北側には、その後オーシャンビューを楽しむために畳25畳程もある広いウッドデッキを造りましたが、水平線の家の観音開きの広くて長い自慢の掃き出し窓を開けば、25畳の室内とウッドデッキで50畳もの広さを確保できるのです。
あれから7年近くが経ちましたが、ウッドデッキはホワイトファーという外国産の建材を使っているため、防腐剤を塗るなどの補修が大変で、毎年1回~2回の防腐剤塗料塗りは欠かせないのです。先日は息子と二人でウッドデッキの陰になる部分に少しコケのようなものが見え始めたので、棒刷りで綺麗のこすって水洗いをしていました。
昨日は午前中買い物に出かける妻に防腐剤の購入を頼み、午後1時に二人で作業のため人間牧場へ出かけました。途中私の農地を貸している稲葉さんの農地に、今年も鯉幟が立ったので、息子と二人で立ち寄りました。稲葉さんはタマネギの収穫作業をしていました。
稲葉さんの畑からは同じような風景ながら人間牧場とは違ったリアルさがあって、海がより近く感じられ、しばし談笑や作物の出来具合、今後の作業予定等を聞きました。
「少しだけ 七年前を 振り返る 早いもんだな 時の流れは」
「あの頃の 自分はもっと 輝いて いたとちょっぴり 感慨ふける」
「妻買いし 防腐剤積み 軽四で 息子と二人 牧場出かけ」
「子どもの日 友の農場 鯉幟 中々やるわい 感心しきり」