○後退気味の父
大正7年9月1日に生まれた父は今年89歳になりました。40歳代でガンを発病し生死の世界をさまよった経歴を持つ父にとってはその後の再発もなくここまで寿命を保っているのですから、わが家にとっては奇跡としかいいようのない出来事なのです。一年中の殆どを遠出することもなくわが家で暮し、わが家の掃除機とでも代名詞を付けたくなるような縁の下の力持ち存在には、家族誰もが感謝しています。そして先に逝った祖母や母の分まで少しでも長生きしてもらおうと、私たち夫婦が中心になって様々な気配りをしているのですが、人間は先祖がえりとでもいうべきなのか、最近とみに何かにつけて子どものような言動が目立つようになりました。まあそれも予期した老年期の症状ですからボケたり深夜徘徊しないだけでもまだましと見てみぬふりをしながら、日々の暮しを組み立てています。
私は朝起きると、父の起床時間午前6時を見計らって隠居へ行き、その日の元気を見るのです。耳が少し遠くなったのでまるでオームのように2度声を掛けます。「おはよう」と声を掛けると振り返って「何?」と問い返してきます。私が「おはよう」と同じ言葉を繰り返すと「おはよう」と同じ言葉が返ってくるのです。そして「今日は言い日和のようだ」とか、「体の具合は」とか雑談をしながら恒例の湿布薬を肩と腰に張ってやるのです。めったに家にいない私としてはこれで父とのコミュニケーションは終りなのですが、それから父の一日が始まるようです。着替えて散歩に出かけ、帰るとパンと牛乳で軽い朝食を取り野良仕事や家の周りの清掃、庭木の剪定、飼っている鯉の餌やりなどとに角よく動くのです。昼食を済ませると軽い午睡をして水戸黄門など時代劇をテレビ鑑賞して夕方まで働きますが、夕方仕事から返った妻が夕食の準備をして隠居に運び、6時から8勺くらいお酒を飲みながら夕食です。午後7時から風呂に入って8時までに床へつくというまあ規則正しい生活です。
最近はよく夢を見るのだといいます。長年連れ添った母の夢を見るのは、「もうそろそろ迎えに来たのかも知れない」と、少々弱気なことも口にするようになったし、「来年の正月は越せない」とか、「来年は庭木の剪定や愛蔵刀の手入れもお前がやれ」とか、「飼っている鯉も俺が死んだらどうなるか」などなど、繭を細めたくなるような言葉をまるで独り言のように私に投げかけてきます。多分私にしか話せない寂しさなのでしょうが、その度に「そんなことはない」と打ち消して勇気の出るような言葉を交わすのです。一昨日から気分が悪いと不調を訴え、仕事に出かけていて妻も私も留守だったので近所に住む姉に電話をしたようでした。早速姉の配慮で近くのかかりつけのお医者さんが往診にきてくれてどうにか落ち着いたようです。昨日も出張先の青少年の家まで妻から電話がかかり、泊まる予定を変更して帰って来ました。それでも大事に至らず昨晩帰宅後と深夜、そして今朝も様子を見に隠居へ行きましたが、ま大事に至らずほっとしています。
人間は歳をとると気力も体力も次第に減退してゆきます。それは仕方のない出来事ですし誰もが経験することなのですが、いざ自分の親がそうなると意外と分っているようでもついつい粗雑な物言いをして、父親の機嫌を損ねてしまうことがよくあります。先日も何かの拍子で父親と私が口げんかをしました。今考えれば他愛のないことなのですが、少しムキになって口論しました。見ていた妻は「まだ県下が出来るくらいだからおじいちゃんもまだ大丈夫」と冷ややかでした。
いずれ私も歳をとりますが、「62歳になっても常に父という存在がいることだけでも感謝しろ」と、早くに父をなくした従兄弟は私に言います。私も反論して「62歳になってもまだわが家ではトップになれない」と笑い話をするのですが、人の運命はまあ不思議なもので、自分ひとりでは決して生きてゆけないのです。
父の目下の楽しみは正月に還暦同級会出席のために帰省する弟夫婦を一日千秋の思いで待つことです。折にふれ高校を卒業すると直ぐに大阪へ就職した弟のことを話しています。一緒にいる長男の私などどうでもいいような雰囲気です。まあこれも先祖返りのひとつでしょうか。
「ことの他 今年の正月 待ち遠し 父は指折り 数えつ日々を」
「口げんか しつつ仲良く 日々暮らす 親父と俺の 二人三脚」
「二十年 すれば私も あのように 息子と喧嘩 できるだろうか」
「背も少し 低くなったと 気付く朝 父の背中に 湿布張りつつ」