○教育論議
ひと頃頻繁に多発した子どもの誘拐などが地域見守り隊などの成果か影を潜めたと思ったら、今度は親がわが子を殺したり、子どもが自ら命を断つという痛ましい事件が相次ぎ、連鎖反応社会の凄まじさをまざまざと見せ付けられるこの頃です。多分どの事件や事故もその場つくろいの責任逃れとも思える対処しかしていないから、再び起こるのではないかと危惧されているようです。今は教育基本法の改正に関する議論の高まりもあって、全国各地でこの問題が関心高く話されています。
今日もあるお店に立ち寄ったところ80歳がらみの老人に呼び止められました。「あなたはつい最近まで教育長をしていたようなのでお聞きするのですが、今の教育をどう思いますか」と言うのです。「私は今、教育長を辞めておりますので」と前置きし、折角のご指名なので持論を分り易く話させてもらいました。多分この方は私の教育に対する技量を調べたかったのでしょうが、もう一つは自分の考えを聞いてもらいたいのです。やんわり「あなたはこの問題をどう思いますか」と逆にふりました。
88歳のおじいさんが言う論点は学校、家庭、社会という3つそれぞれへの意見であり理路整然としていました。しかし「昔はよかった」という話が余りにも長過ぎて少し焦点がぼやけた感じもしましたが、まあこれだけ日本の現状と将来を思ってくれることはあり難いことなので、いっそやらせが問題になっている文部科学省のタウンミーティングにこんなおじいさんを参加させてあげたらと思いました。そうすればミーティングにかかる費用もあんな滅茶苦茶なお金がかかることもないのです。
「人間は豊になると人を頼らなくても生きて行けるような錯覚に陥る」「学校の先生は優秀で失敗や回り道経験もなく子どもの頃から褒められて育った人が多過ぎる」「親が親として親らしいことを出来ない親がいる」「世の中は便利・早い・金儲け・都会が一番とされ、不便・貧乏・田舎は遅れているような錯覚にさせている」「マスコミは自分のしていることを棚に上げて人を追及し過ぎる」などなど、いちいちごもっともなご高説伺いました。
最後の締めは「いもごり」の話でした。私たちの家庭ではこの頃になるとサトイモを畑から掘り出し、木桶に入れて水を張り十字に組んだ棒でかき混ぜるのです。棒でかき混ぜることと芋同士がこすり合わさって芋の表面の黒い皮が次第に削り取られて綺麗に洗われたサトイモが出来るのです。このおじいさんの議論はここからでした。「昔の学校はサトイモのような子どもが沢山いたから互いにこすりあって知らず知らずの間に磨かれたものです。今の学校はサトイモたる子どもが少子化の影響でしょうかちらほらで、磨き会うことが出来ないのです。ましてや十字に組んだ棒たる教師と両親がバラバラで、お互いがお互いのつまらない荒を探してののしりり合っています。大きな桶にサトイモを10個ぐらい入れても決して芋は綺麗にならないばかりか、棒も空回りですね」と締めくくられました。
いい例えです。「何かが狂っている」そう思わずにはいられない教育の現場。「あの町、あの学校で起こっている事件や事故が身近な場所で起こらない保障はどこにもない」と思いながら、「じゃあどうする」というステップアップの議論と行動が今求められているようです。
「どう思う 教育議論を 吹っかける 八十じいさん 止むに止まれず」
「俺はもう 教育長を 辞めている 辞めたからとて 蚊帳の外では」
「イモ洗い そのことさえも 死語世界 どういう例え 言えば分るか」
「その昔 こんな混乱 あったげな 明治維新や 戦後の混乱」