○ハーモニカが大好評
「大好評」だなんていわれるとその気になって山椒の木にまで登ってしまいそうなのですが、先日とある会場で吹いた私のハーモニカが「大好評」だったというのです。多分参加した人の何人かが「良かった」といえば、感動の法則で1人が7人に、7人が5人、5人が2人がいって終息するのです。つまり1×7×5×2=70人という計算になるのです。結局は150人も集まった集会でしたが、職場へ帰ってのその人の会話が増幅させたのではないかと思われます。「大好評」の決め手はハガキと電話とメールで届きます。主催者は電話で一報を入れた後ハガキや文章でお礼をしたため、参加者はハガキとメールで感想を表現するのです。
嬉しいメールが沢山届きました。これもやはり時代の流れでしょうか。しかしそのことを書いたブログに感想が寄せられるのですが、末尾にサイトから「このメールは自動的に送信していますので、返信をご遠慮ください」と書かれているため、殆どの返信にはあて先もなく、返信のしようがなく、私のパソコン能力ではそこを越えることが出来ないのです。でも知恵ある人は私のホームページを探しホームページからメールアドレスへと入ってくれるのです。
小学校時代の私は通知表が殆ど「音楽2」でした。ところがどういう訳か中学校になったら通知表が「音楽4」若しくは「音楽5」なのです。多分中学校一年生の時の担任が西岡圭造という音楽の先生で、その若い先生に憧れたのか大事にしてもらったのか分りませんが、2階級も3階級も特進を続け、高校受験の時は音楽は満点だったのですから人の能力は分らないものです。当時の高校受験は今のような英・数・国・理・社の5科目受験ではなく音楽や職業家庭、保健体育、図画工作といった様々な9科目があったのです。私たちのような田舎者は5科目が出来なくても後の4科目で点数を稼ぐことができたのです。ひょっとしたら私たち田舎者がバランスの良い人間に成長する素地を身に付けていたのかも知れないと思うのです。
中学校になって音楽が何故よくなったのかは今でも分りませんが、小学校の頃苦手だったハーモニカは今でも苦手な楽器です。でも苦手だからと遠ざかっていただけなのかも知れないと思い、吹き始めてみると意外や意外、下手糞ながら譜面も読めないのに適当に吹けるのです。嬉しくなって吹くと少しずつ上達する「豚も褒めれば木に登る」が如く、次第に吹けるようになりました。通信販売で妻が買ってくれた2本のハーモニカを愛用して、人に聞かれると恥かしい者だから主には車の中で練習というよりは楽しむ形で吹いてきました。人間は人目に晒され失敗しないと上達しないと思うようになって、こともあろうか講演の一部に夕日とハーモニカのコラボレーションを大胆にも取り入れました。これが案外好評でその褒め言葉に乗っかって・・・・という具合です。
体感音楽という言葉を聞いたのは、私がNHKラジオ深夜便「心の時代」という番組に出演した時でした。東京のある目の不自由な方から番組を聴いたと電話がかかってきました。「私は夕日が綺麗といわれても生まれた時から目が見えないので分りません。でもあなたのハーモニカを聞いて涙が出て止まりませんでした。死んだ母を思い出したのです。母の背中で赤トンボや夕焼け小焼けの歌を子守唄代わりに歌ってくれた歌を聞いていたのでしょうね。これは私の体感音楽だと思うのです」と。そういえば私たちは子どもの頃から今日まで多くの歌をテレビやラジオから聞きながら育ってきました。
先日中島の金本房夫先生から「心が押し出す涙」という先生の講演録をいただきましたが、その中にも「向都離村の教育」の中で、「早く帰ってこ」「りんご村から」「別れの一本杉」「お月さん今晩は」「ああ上野駅」「僕はないちっち」「ふるさと」などの今は懐かしい望郷歌が紹介されています。確かに私たちの体には童謡や演歌といった様々な歌がまるでDNAのように組み込まれているのです。ハーモニカはそんな体にしみこんだ歌を思い出させ、その歌につながるふるさとや人々を甦らせてくれるのです。私のはーミニかが上手いのではなく、ハーモニカは記憶再生の道具なのだと思うと納得するのです。小学校からハーモニカが消えて久しいけれど、私が話す対象者の殆どはハーモニカを吹いた経験者なのです。
これからも、磨きはかからないものの少し練習をして、人々の古きよき日本的記憶を甦らせる道具として使いたいものです。
「ハーモニカ 聴いて思わず 泣けました メール届いて 反響びっくり」
「下手糞な ホラより吹きたい ハーモニカ 人の記憶は 何かの道具で」
「夕日など 目が見えないから 分らない 体感音楽 教えたあの人」
「ハーモニカ 車の中で 吹いてたら 窓が開いてて 不思議顔され」