shin-1さんの日記

○デジタル文字の世界

 パソコンでインターネット検索すると、様々な情報をいながらにして手にすることができます。パソコン音痴の私は、誰に習うでもなく必要に駆られてパソコンを触り始めましたが、それが必要最小限の習熟度であることは自他共に認めるところで、時折友人や息子に手助けいただきながら今日まで生き延びてきました。私くらいの年代の人はおおまか2種類の分かれます。パソコンとは無縁な人とパソコンを手足のように使える人です。私はそのどちらでもなくむしろ中間点くらいなところにいるようです。時々パソコンの達人である同年代の人に出会うと尊敬するし、パソコンやブログを知らないこれまた同年代の人に出会うとまったく話がかみ合わず、少しうんざり、少し優越感を持ったりするのです。

 最近はデジタル文字との付き合いが多くなって、私のブログへも書き込みが多く、その処理に要する時間も結構長くなりましたが、それでも自分を見失わない程度にパソコンに向かい合い生きていますが、新聞や雑誌に載った私の記事もデジタル化されインターネットで公開されているようです。

 私は今、【自悠くらぶ】という愛媛新聞のサイトに「人間牧場だより」というタイトルで週に一度記事を書いています。昨年の10月9日から頼まれて始めました。私の紹介した他の人は2週間に一度ですが私は最初から一週間に一度更新しています。情報は新しいに越したことはありません。でも毎日書くとなるとそれは見る方も書く方も重荷になってしまいます。でも今のスピードの速い時代に2週間に一度は遅いと思ったからの決断でした。案の定一週間毎の更新はその予定が直ぐに来て右往左往しましたが、これも慣れてくると何のことはなく、多少遅れたトラブルもありましたが、何とか目標の一年が来ようとしているのです。配信された記事はプリントアウトして一冊の綴りにしていますが、毎回千字程度の短いコラムながら結構な量になって、今更ながら積み重ねの大事さを痛感しています。

 先日東京からルポライターがやって来て、私を取材して帰りました。私の夕日によるまちづくりと人間牧場が主な内容ですが、その記事が2週に渡って掲載されるのです。第一回は7月1日、第二回は一週間遅れの7月8日だとメールで連絡がありました。「STEGE」というコミュニティサイトを検索すると、「50歳未満お断り・STAGE」「紳士と淑女の知的コミュニティ」などと書かれた文字が飛び込んできました。タイトルも「『しずむ夕日』を主役に、まちづくり。まちを活性化させたカリスマの次なる目標とは?(第1回)、人間牧場主若松進一さん」などと踊る言葉が登場していました。

 縁とは不思議なもので、このルポライターは南予出身でたまたま帰省した折、役所に勤める地元の人から私の紹介があったそうです。行き着くところこの方のお母さんを私が知っていて、取材と相成ったのです。数回のやり取りで取材、原稿校正、配信と手順を踏んだ記事が7月1日に配信されるや、その日の内にメールが入り、あらためてデジタル世界を垣間見た次第です。

 昨晩双海町出身の人からメールが入りました。このコミュニティサイトを愛読しているそうですが、私の記事を見て驚いたそうです。大阪に住んでいて67歳だそうです。もうリタイアしていていますが、加齢とともに望郷の念は強くなるそうで、今年の夏には帰郷するので人間牧場へ案内して欲しいとのメールでした。返信を打ちながら都会の雑踏の中で息を潜めるように生きている田舎出身の人のことを考えました。私は幸せです。生まれた土地で育ち、生まれた場所で暮らしている。そして生まれた場所で死ねるのですから・・・・・・。

  「この町に 生まれて育ち 死ねるとは この上ないよな 幸せ感じ」

  「デジタルの 世界も知らず 生きている 人もいるのか この世の中は」

  「お父さん 近頃パソコン 触り過ぎ そういえば昨日 二時間以上も」

  「酒辞めて パソコン始め 盃が 指先離れ 指先文字に」


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shin-1さんの日記

○相談に乗ってください

 最近私の元へある主婦から一本の電話がかかってきました。「若松さんですか。先日雑誌で人間牧場の記事を読みました。素晴らしい運動や活動をしているのですね。実は相談がありまして、私の主人が近頃うつ病なのですが、何かいい方法はないでしょうか」というのです。私は精神科の医者でもないし、ましてやうつ病は素人の力で治るほど簡単なものでないことを知っているので、通院しているお医者さんの指示に従って気長に治療するよう丁重にお断りをしました。しかしその主婦は一度人間牧場を訪ね私と会って話だけでも聞いて欲しいと懇願するので会う事にしました。

 昨日は梅雨の晴れ間で視界もよく、眼下に穏やかな瀬戸内の海を眺めることができました。やってきた主婦は40歳、ご主人は43歳だそうです。私は奥さんだけだと聞いていたのに、ご主人がどうしても一緒に行くというので連れてきたというのです。お二人は人間牧場のあちらこちらを散策しながら水平線の家のウッドデッキの涼しい陰の部分に腰を下ろし、私と向かい合って3人でお話をしました。粗方なことは奥さんから電話で聞いていたので心を解きほぐすように少しずつ話しを聞きました。

 通常、うつ病の人に「頑張れと言ってはいけない」と理解されていますが、はたして全てがそうかというと、それほど単純なものではないのです。人が生きていくには最低限必要なのは食べたり寝たりするような生活を維持していくことが必要です。そのためには日々の生活を頑張らなくてはなりません。そういう頑張りがあってこそ初めてその上に、人生の楽しさや嬉しさが生まれてくるのです。問題は頑張りそのものではなく、うつ病になりやすい頑張り方と、うつ病になりにくい頑張り方があるのです。

 「頑張って生きて辛いですか」と尋ねるとご主人は「はい」と胸の内を明かしてくれました。ご主人は頑張ること=辛いことという生き方をしているように思えました。頑張ることは辛いことだけではなく楽しいことがいっぱいあることを、私の体験を交えて話しました。

 私は人間牧場を造るために色々な夢を描きました。そして人間牧場を造るために日々頑張りました。大きな木を切り、まるで西部開拓史という映画のヒーローになったような気分で少しずつ開墾したのです。多分それは今思えば辛さと楽しさが一体であったような気がするのです。

 これを旅に置き換えればこのご主人は旅人です。歩くことは手段で日々の頑張りは単なる義務でしかないのです。旅先で何をしたいのかはっきりしないし、ひょっとしたら自分が選んだ目的地ではなかったと後悔しているのかも知れません。旅そのものはただ歩くだけではなく、見える景色や出会う人、時には美味しい食べ物だってあると期待をするのです。そうすればその旅を選んだことを肯定するような気持ちになれるのです。

 「旅の仕方を変える」「頑張り方を変える」「ものの見方を変える」、そんな話しを2時間もお話しました。こんな話で「ああ治った」と吹っ切れるほどうつ病は軟い病気ではありません。生きつ戻りとしながら自分の心を少しずつ強くしていく以外ないのです。人間牧場はそういう意味からいうと心や頭を空っぽにしてゼロに戻れる場所だと思います。今まで持っていた重い荷物や心のしがらみを一度肩から降ろし、ゼロにしないと再出発はできないのです。

 昨晩奥さんから電話がかかってきました。帰りの車の中で、そして家に帰ってからご主人と色々話したそうですが、少し光が差し込んだような感じだと話されていました。そしてまた私の話しを聞きに人間牧場へ再訪したいとご主人が言ったそうです。

 縁もゆかりもない人ですが、この奥さんにとって私は藁をもすがる気持ちだったに違いないと思い、「いつでもどうぞ」とお話しました。

  「うつ病の 人がこの頃 増えてきた 真面目人ほど 病気にかかる」

  「俺などに 相談しても 直らない それでも門を 叩く人あり」

  「ガソリンが またまた値上げ 年金で 食っている人 これまた悩み」

  「旅人の マントを脱がす そのコツは 風ではなくて 太陽ですね」

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shin-1さんの日記

○涙の話

 今年90歳になる親父が昨年の11月に白内障で手術してから、目に関することが気になり始めました。私はこれまで近眼・老眼にはなったことがなく、サングラスの類を含めた眼鏡と称するものはかけたこともなく63歳の今日をを迎えています。多分子どもの頃から目が悪くなるほど勉強しなかったせいでしょうが、80歳で死んだおふくろも死ぬまで眼鏡なしで新聞を読んでいましたから、ひょっとして目がいいのはおふくろ家系の遺伝かも知れないと思うのです。

 パソコンが普及して、子どもの頃から殆どの人がパソコンを使うようになったからでしょうか、最近は眼鏡をかけて仕事をする人が目立って増えました。特に老眼といえばお年寄りと思われがちですが、40代後半から50代前半でも老眼のご厄介になっている人は結構多いようです。そのためか眼鏡を売る店が増えていて昔は「時計・眼鏡店」なんてまったく無関係なものを組み合わせたお店が町の中に一軒くらいあったようですが、滅多に売れず開店休業のような感じでした。それがどうでしょう、時計はデジタルになって使い捨ての時代になって専門店など殆どなく、「時計宝石店」とこれまた何の関係もないようなものを組み合わせ、かろうじて生き延びているようです。ところが余り商売にならなかった眼鏡の方が繁華にお店を増やしているのですから世の中は分らないものです。

 親父を眼下に連れて行った時、眼科の病院で「ご自由にお持ち帰り下さい」という資料立てに「涙の話」という僅か10ページのパンフレットが置かれていました。何気なく手に取り何気なく車に積んで帰り、何気なく時が過ぎました。昨日車を掃除しているとそのパンフレットが目に留まりました。

 ①涙はどこからきてどこへいく

 上まぶたの外側あたりが主涙腺という涙の生産工場、ここから出てきた涙は、目の表面を一様に潤したあと、約10パーセントは蒸発し、残って古くなった涙は目の内側にある小さな穴「涙点」へ、そこから目と鼻をつなぐ「涙小管」から「鼻涙管」という涙の下水道を通り鼻腔へと流れるのです。

 ②まばたきのポンプが涙を運ぶ

 まばたきはいわば涙のポンプです。まばたきする度に目の表面に一定量の涙が送り込まれてきます。乾きそうになるとまたパチリ、私たちは一分間に約20回から30回程度のまばたきを繰り返して、目の表面をリフレッシュさせているのです。読書やパソコン作業をするとまばたきの回数は普段の4分の1くらいになるそうです。

 ③か弱い目を守る涙のベール

 涙は目が正常な働きをするために欠かせないものです。キズつきやすく、か弱い目を外界のばい菌や異物~守ります。また角膜へ酸素や栄養分を届けるのも涙の役目です。この他にもものを見るという目の働きを様々な点から支えています。

 ④涙は不思議なサンドイッチ構造

 涙の膜は油層、水層、ムチン層の三つの層から成り立っています。うち98パーセントが水層で油層トムチン層がサンドイッチののようにはさんでいます。涙は僅か7ミクロンの薄い膜、油層は涙の蒸発を、ムチン層は涙が流れ落ちないように目の表面に粘着する糊の役目を果たしているのです。

 ⑤涙が減ると危険な状態

 目が疲れたと感じるのは、その原因の60パーセントが目の乾きにあるといわれています。運転や細かい作業をしたとき、乾燥した部屋にいるとき、睡眠不足やストレスが高いときは要注意です。

 コンタクトレンズは目に大きな負担をかけているので、正しい知識で使うよう心がけましょう。

 まあこんな感じのことが書かれていました。私の最大の疑問点である悲しいときに何故涙が出るのかについては、結局分らずじまいでした。私は感動派でよく涙が出ます。これも悪いことではないにしてもどれ程いいのか分らず、次の機会に病院で聞いてみたいと思いました。

  「目に涙 分らないこと 多過ぎる 知れば知るほど 人間凄い」

  「ドラマ見て もらい泣きする お涙も 涙工場 目の上辺り」

  「顔悪い でも目だけは 母譲り 天国母に 感謝の線香」

  「眼鏡代 今まで払わず 生きてきた これから先も 涙でカバー」

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shin-1さんの日記

○フィールドワーク現地調査

 今年も愛媛大学法文学部総合政策学科フィールドワークの授業で現地調査が始まりました。今年は少し方向を変えて、合併後の地域振興とまちづくりについて、大きな街と合併した旧中島町・旧中山町・旧長浜町・旧双海町の4箇所を訪ねる計画です。その手始めとして昨日は旧中島町を学生19名とともに訪ねました。

 朝の弱い学生にとって高浜発8時30分の高速船は少々きついかも知れないと思いつつ、この便に乗らないと帰りの便が遅くなってしまうので、無理を承知で計画しましたが、学生たちは元気に10分前に集合してくれました。

 松山観光港ができてた最近は高浜港など殆ど利用することもなくなりましたが、私にとっては中島へ行く機会も時々あって忘れ難い港なのです。昨日は梅雨明けを思わせるような久しぶりの好天に恵まれ、瀬戸内の海は穏やかに凪いでいて高速船で中島本島の大浦までは僅か30分で到着しました。この日の研修会場となる中島総合文化センターまでは歩いて5分、島で唯一の信号機を過ぎると目の前に20数億円もかけた立派な建物が目に飛び込んできました。人口5千人余りの島には立派過ぎるほどの建物です。

 昨日は休館日でしたが、金本所長さんと担当の豊田さんが玄関まで向けに出てくれました。ロビーにはかなり大きい電光掲示板があって、旧中島町を初めごご島や釣島などを加えた9つの島々の位置関係について説明がありました。

 一回ロビーの直ぐ横階段下に珍しいものを見つけました。かつて私たちが乗船したことのある丸木舟です。この丸木舟は松山工業高校が愛媛新聞創刊105周年の記念事業として製作し、大分県姫島から愛媛県松山市までの海路140キロを2泊3日で漕ぎ渡ったものなのです。姫島は黒曜石の産地で黒曜石のルートを探ろうと計画された航海の運行に携わり、私は舵取り役として乗り込みました。過酷な航海でしたが、山口県平郡島、中島町由利島に立ち寄りながら無事松山梅津寺に到着した時は精魂尽き果てるほど疲れていました。まさに感動の再会でした。この場所に展示していることは豊田さんから漏れ聞いていましたが、もう遠い彼方の思い出ながら私の人生にとってこの「ゆりひめ」は、ふたみシーサイド公園に展示している丸木舟「21世紀えひめ号」とともに忘れ難い青春時代の思い出なのです。


 2階会議室での研修は金本先生が1時間半に渡って教育問題を交えながら熱っぽく話してもらいました。学生たちは一生懸命メモを取っていました。金本先生とは旧知の間柄であるのでかゆい所に手の届くような、学生にとっても分りやすいお話でした。余り時間がなかったのですが学生の質問も的確で、一斑の班長のあいさつも上手くやれたようでした。


 メタボリ気味の金本先生なので、土産は赤とんぼ先生が作ってくれた竹のとんぼを用意し、学生の代表から先生に手渡しました。その後豊田さんから離島振興法や合併前と合併後のまちづくりについて話しを聞き、町内を歩いて視察しました。島ゆえの狭い路地裏道を、元幼稚園、病院、元役場、BGプール、給食センター、統合中学生徒寮、離島センターなどなど、施設のありのままを見学させてもらいましたが、既に老朽や廃止の施設もあって、合併後の影の部分を存分に肌で感じることができました。さて学生の目にはどう映ったのでしょうか。

 

 帰り際、豊田さんと池田洋子さんのお店に会いに行ったり、豊田さんの連絡で旧友古野セキエさんが船着場まで見送りにきてくれました。先日の公友会に出会わなかっただけに嬉しい出会いでした。お互いいい歳になってきました。これからも元気で島で暮らしてください。


 フェリーを見送る豊田さん、古野さんの姿を見ながら、何年か前丸木舟21世紀えひめ号で大浦に立ち寄ったとき、古野さんが見送ってくれたことをつい昨日のように思い出しました。島人はどの人も温かい者で、ジーンときました。
  
「学生と 船で渡った 中島の そこここ訪ね 懐かし出会い」

  「島人は いつ出会っても 温かく 迎え見送り 忘ることなく」

  「過疎進み 高齢化進む 島暮らし 将来不安 見え隠れする」

  「ビオトープ 青田の上を 夏風が 撫でつ吹き抜け 音も聞こえず」

(ビオトープ、島唯一の田んぼとか)
(松山北高校中島分校にある中村草田男の句碑)

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shin-1さんの日記

○シーサイド公園で結婚式②

 昨日は恋人の聖地選定記念のイベントが行われましたが。盛り沢山なイベントの中で圧巻は何といってもシーサイド公園恋人岬の結婚式です。時折吹く強い南西の風にあおられながらも、心配された雨も上がって、バージンロードに見立てた恋人岬にはギャラリーも沢山集まり、白と青の風船が風に舞う中、お父さんに連れ添われた新婦が海沿いに向って進み、突堤のモニュメントの前で待っている新郎にバトンタッチしました。人前結婚式の始まりです。市長さんも見届け人になりました。




 しかし、若い人の発想はいいですね。私がこの恋人岬を造る時夢見ていたことを実現してくれるのですから最高です。確かにホテルや教会の結婚式もいいものですが、月並みな結婚式よりもオンリーワンの結婚式もいいものです。特に新婦の白いウエディングドレスが海と空の青にマッチしてとても印象的でした。

 この日のオープニングを飾ったのは翠校区のお母さんたちによるよさこいソーランでした。白い砂浜で踊るソーラン節はすごい迫力で、これが双海町の人かと思わせるような見事な踊りでした。恋人に聖地で出会う恋、シーサイド公園の中心で愛を叫ぶという大声感動大賞決定戦、サンセットライブイン恋人岬と、時間を追ってヒートアップした若者の熱気が見ている私たちにも伝わって大盛況でした。若いっていいねえ、でした。

 昨日は私も何かと忙しく、このイベントを見学に来た人を人間牧場に案内したり、我が家へ案内したり、会場を案内したりと、朝から右往左往しました。午後からは上島町の兼頭一司さんご夫妻も見えられ、たった2度の出会いですっかり顔なじみとなった玄君になつかれ抱っこしたりして、皆さんから「お孫さんですか?」と何度も尋ねられました。また大洲の徳永さんご夫妻も見えられ、まるで同窓会のような賑やかさで、駐車場を心配して単車での移動だったので、お陰様で随分雨にも濡れてしまいました。

 少し落ち目のシーサイド公園に久しぶりに活気が蘇えったような気がしました。合併で何かと意気消沈だっただけに、関わった人たちとこれからもできる限りのお手伝いや後押しをしようと心に言い聞かせました。

  「このパワー もっと生かして 活性化 意気消沈を 吹き飛ばそうよ」

  「お孫さん? 会う人毎に 聞かれると 玄君その気 キッスサービス」

  「一生に 一度の結婚 この浜で 誓う二人に 幸せあれと」

  「ちょっとだけ 天も味方し 雨上がる 合間を縫って イベント実行」 



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shin-1さんの日記

○恋人の聖地にモニュメントができました①

 双海町にある道の駅ふたみシーサイド公園に、「恋人の聖地」というお墨付きをいただいたお陰で、最近は何かと騒がしい日々を過してきました。全国100箇所のひとつに選ばれたのですから、それはそれとして喜ぶべきでしょうが、どうも100選なんてお墨付きは、出す方も出される方も金儲けの打算が働いて、取らぬタヌキの皮算用が多いようです。一方その選に漏れた人や地域では選ばれた所を羨ましがっているようですが、選ばれようが選ばれまいがそんなことは二の次で、新しい物語を作ればいいのです。しかし選ばれると100選の中で新たな競争が始まり、ナンバーワンやベストワンを目指して下等競争が始まるのも事実なのです。

 「恋人の聖地」に認定されたことが知らされたのは4月はじめでした。それまでに公募があって、応募したいと打診がありました。というのもシーサイド公園には私が発想して造った恋人岬があって、「恋人の聖地」としての条件は既に整っていたからです。断る理由もなく、また私が断る立場でもないので賛同の意を示したところトントン拍子に話が進み、結果的には高速道路伊予灘サービスエリアとともに愛媛県内で2箇所とも伊予市が独占する事になったのです。

 早速心ある人が集まって今後の進め方について話し合いが持たれ、私も行きがかり上その末席を汚しました。今の時代は情報が的確に早く捕らえられていて、全国の「恋人の聖地」では早くもモニュメントを設置したり様々な取り組みがされていて、それが一覧表になって写真で紹介され、いかにも競争をあおっているように思われました。様々なノウハウを持っているように見える私ですが、それはもう過去のものであって、「恋人の聖地」の選定を機に脱皮すべきと考え、私の考えは極力押さえて若い人の意見を重視するよう一歩引いた所に軸足を置いて臨みましたが、それが結果的にいい成果を出すことができたように思います。

 私の役割はモニュメントの設置でした。金を安くしかもいいものを造る、これが命題ですから私の出番は当然のことです。私はひらめきを大事にします。しかし他所の事例を見ると殆どすれがフェィスシートになってしまうので、物真似に終わってしまうのです。私が頭に描いたことを馴染みの石屋さんに話しました。この石屋さんは願い石も童謡の小路も私の発想をより近い形で具現化してくれました。故に今度も大まかな予算とアイディアをいって原案をまとめてもらいました。今はCGの世界なのでより具体的な提案を示さないとみんなが納得しないので、何度か打ち合わせをして、一度は石屋さんまで出向きフォローしました。4日前までには仕上げてもらうよう依頼しましたが、雨の烏合で少し気を揉みましたが、NHKのいよかんワイドにも間に合って、昨日の除幕となったのです。昨日は市長さんも見えられ、除幕に立ち会っていただきましたが、予想以上の出来栄えにうれしく思いました。

(市長さんも参加した除幕式)
(これが私が担当した恋人の聖地選定記念モニュメントです。表には選定のプレートがはめ込まれています)
(このモニュメントは裏からは夕日と恋人岬のモニュメントがハートに中に入るようになっています。この日はマスコミがカメラで撮影している様子が入りました)
(ハートの中に二人が入るとカメラスポットとなります。お遊びで私が一人入ってはいポーズです)

 シーサイド公園にまたひとつ新名所が誕生しました。シーサイド公園はもう夏真っ盛りで、この日は海開きに合わせるよう沖合いには海上保安庁の巡視船が訪れ一斉放水までサービスしてくれました。またアクアラングの皆さんも恒例の海底の掃除をしていただきました。

 モアイ像のある中庭には、私が15年前に植えたデイゴが見上げるほど大きくなって、真赤な花が今を盛りと印象的に咲いていました。

(燃えるように真赤なデイゴの花)

  「中庭に 自分の植えた デイゴ花 真赤に咲いて 夏を知らせる」

  「恋人の 聖地記念し モニュメント 公園に又 ひとつ想いが」

  「限られた 予算で造る 知恵ハート 恋人たちの 歓声嬉し」

  「夏の雨 降ったり止んだり しながらも 通り過ぎゆく 背中濡らして」

 

 

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shin-1さんの日記

○狂った歯車

 今朝妻と食事をしていたら、「最近あなたの財布の中身が早くなくなるような気がする」というのです。「タバコもコーヒーも飲まない上、酒まで辞めているのだからそんなこと言われたって」と腹を立てて反論すべきででしょうが、自分でも同調しているだけに反論のしようがないのです。私の場合財布を何処へでも置く癖があって財布を持たない暮しが長らく続きましたが、最近はさすがにそれもなく中身が減ったら私が恥を書かないようにと、一定額をきちんと妻が補充してくれるのです。そういう意味ではできた妻ですが、その中身が早くなくなる原因はどうやらガソリン代のようだと妻に話しました。1リッター120円前後だったガソリンが今は170円を越えているのです。私はセルフのスタンドはどちらかというと嫌いで、主に知人友人のガソリンスタンドで給油をしますが、スタンドの店員さんはさも自分が値上げしているような感じがするのか「ガソリン代が高くてすみません」と平謝りの低姿勢です。何も店員さんが悪いのではないのですが、それでも給油を終えて財布からお金を出す度にガソリンの値段の高さに驚き、「車に乗るのを極力避けようとするのです。しかし松山市をフィールドにしている私の日常活動にとって、往復50キロは縮めようのない距離なのです。

 楽しむべき食事の席が、こんな政治に対する不満をぶっつけなければならない現代社会は異常なような気がします。イージス艦あたごの衝突問題、年金問題、道路特定財源問題、後期高齢者問題、国家公務員の汚職問題など、これでもかといわれるほどの難問題が次から次へ飛び出し、その都度政党間の駆け引きで国会は空転し、日銀総裁ひとり決められないお粗末な状態となっているのです。まさに機能不全、脳死状態の内閣です。

 これまで総理の顔など滅多に拝めないと思っていたのに、何でもかんでも総理が出て、総理はまるで百面観音様のようです。それぞれ大臣がいるのですからそこできちんと対処する責任の取り方を考えないと、阿部さんのように途中で押し潰されてしまう気がするのです。これは総理と総裁を同じ人がやるために起こる弊害であり、その事に自民党はまだ気付いていないようです。

 食事の席で政治を語ることは何も悪いことではありませんが、政治を意識せずに生きていられるような、つまり投票で選んだ人たちがもっと真剣に政治に取り組んで欲しいのです。政治家は二言目には国民の意思だとかいっていますがそれは二枚舌で、国民のことを考えているのならもっとましな政治ができるはずなのです。

 平和学の第一人者であるノルウェーのJ・ガルトゥングが「戦争がないから平和だというのは、今自分は病気をしていないから健康だと思い込んでいるのに似ている」と言っているように、すでに体内で病気が進行しているのに、健康だと思い込み検査も何もしないとの同じだとすると、日本の政治的現状は知らない間に末期がんに侵されているのかも知れません。政治への非難の声は日増しに高まるばかりです。国の歯車が狂えば、国民の歯車も狂うのです。今一度狂った歯車を元に戻さないと大変なことになるような気がするのです。

  「今平和 今健康だとて 油断せず 足元固め 生きる肝要」

  「知ってます? 平和の敵は 平和です 平和に溺れ 平和崩れる」

  「財布減る 原因油 自衛策 車頼らず 思うがやれぬ」

  「年金は 下がる油は 高くなる 何処で辻褄 妻のやりくり」

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shin-1さんの日記

○水平線の家に「shin-1さんの日記」ブログコーナー設置

 先日人間牧場を訪ねてもらったわが21世紀えひめニューフロンティアグループのパトロンである、関奉仕財団理事長関宏成さんから、藤原茂さんを通じ、創業者関定さんに関する分厚い2冊の本が届きました。水平線の家のインテリアのように設えている書棚に並んだ書籍類を見ての贈呈でしょうが、有難く拝受し、早速昨日本棚に置きました。

 この本と一緒にわが書斎の書棚に無造作と思えるようにうず高く積まれていた、私のブログ「shin-1さんの日記」のプリントアウトした綴りを水平線の家へ運びました。一か月分毎に表紙をつけているもののその厚さたるや一冊2~3センチもあり、それが既に2年9ヶ月で33冊にもなっていて、田舎のオープンカーの助手席に積んで移動しましたが、積もれば積もるので中々大量なのです。

 本当は読む人のためもさることながら自分のためにも、一ヶ月毎に目次をつけたかったのですがそんな時間的余裕もなくついついそのままでのお引越しとなってしまいました。昨日はあいにくの雨で小雨が降っていましたが、濡れないように注意をして移動を完了しました。

 水平線の家の片壁の殆どを書棚にするとわたしが提案し息子もそれに同調し、大工さんにお願いしたところ、頼まれた大工さんは「若松さんそんなに大きな書棚を作って本屋さんでもするんですか?」と大笑いされました。出来上がった書棚を見て私も最初はそう思うほどでした。しかしわが書斎の半分以上の書籍類を運んでみると、既に書棚は満杯で、その後の新刊図書などはわが家から移動できないで相変わらず本に埋もれたような暮らしをしているのです。

(書棚の一角を占領したブログ「suin-1さんの日記」コーナー)

 それでも人間牧場開設時から始めたブログのプリント綴りは、最初から人間牧場へ置くつもりだったので、予定通りの引越しです。しかしいつの間にかもうその場所はなくなっているのです。昨日は書棚を少し整理をしました。そして一番手に取り易い一角をどうにか確保して順番に並べたのです。少し窮屈かも知れず、これから増えるであろうブログの綴りを思うと、何か考えなくてはいけないようです。

 私は水平線の家の「背もたれ椅子に座って本を読み昼寝をする」という本来の目的をまだ勝ち得ていません。退職して4年目を迎え暇になるであろうはずの身の回りも相変わらず忙しく、それどころではないのです。そのうちそのうちと思いつつ加齢するのでしょうが、とりあえず10年間はブログを毎日書くことを自分のささやかな目標にしたため、このコーナーはその後も健康であれば増え続けるものと思われます。

(2年9ヶ月、私のような凡人にとっては非凡な成果です)

 自分自身も読みたいし、人間牧場に来た人にも読んでもらいたいと思いコーナーを設けました。後7年後には若松進一という人間の10年間の日々の生き様が並ぶことは凄いことだと独りよがりの思いにワクワクしているところです。ブログの何であるかも知らぬまま、その操作さえも知らぬまま始めた日々の小さな営みが、ここまで蓄積するとは正直思いませんでした。でも人間はやる気になって毎日コツコツ努力すれば、それなりの成果はあるものだと平凡が非凡になることを感じた昨日でした。

  「無造作に 朝晩書きし ブログさえ 年月経てば 生きた証言」

  「ポッカリと 空いた書棚の 一角に 増えてゆくのか ブログの綴り」

  「金残す こともできない 自分だが 知恵と思いは その気になれば」

  「ブログとて 息子にゃただの 紙ごみと 一方思う 心乱れて」

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shin-1さんの日記

○塾の名札を取り付けました

 朝起きると「今日は雨か」と思わせるようなどんよりした梅雨空で、小雨が既にポツポツ落ちていました。台風崩れの低気圧が梅雨前線を刺激して、これから大雨の恐れがあるとテレビで報じていたので、人間牧場へ行くことをあきらめかけていました。でもツルインゲン豆が沢山できているので人間牧場の途中だし、いつも魚を届けてくれる親類へ持ってゆこうと収穫して出かけました。二軒の親類の叔母は大そう喜んで、お礼にチヌ、イカ、太刀魚をいただきました。久しぶりの人間牧場は、夏草が勢いよく伸びて、作物が埋まりそうになっていました。雨も小降りのようなので草刈り機に混合油を注入しスタートです。陽もささず雨に濡れた草は切れ味抜群で、随分作業がはかどりました。

(左・岡本さんと、右是沢さん)

 そのうちズボンのポケットの携帯電話のバイブレーションが肌を伝って電話の着信を知らせてくれました。慌ててエンジンを切り、作業ストップです。今日は次々電話が入っていて、気がつけば留守着信が7本もかかっていました。休憩しながら次々と連絡を取りましたが、県外もあって結構長い休みとなりました。さあ作業開始というようになってまたもや着信です。聞けば宇和島の是沢康久さんが双海町の岡本廣志さんを伴って人間牧場へ来るというのです。先日の電話予約では明日にはずだのに、私の聞き間違いかも知れないと思いましたが、どうやら明日のイベントにも参加するため今日は石畳ふるさとの宿に泊まるとのことでした。岡本さんは双海町の元町議会議長だし、是沢さんとは同級生だそうで、久しぶりに積もる話をしました。世の中狭いもので宇和島市議会の元議長の土居さん(私と水産高校の同窓)とも親類だそうで話が弾みました。

 お二人が帰った後、用意していた人間牧場塾生名札の取り付けにかかりました。等間隔にキリで穴を開け、銅でできた釘をペンチで半分に切り、裏側から開けた穴に差し込んでゆくのです。見苦しくもできないので緊張しながら一人で作業をしました。やがて時計の下の鴨居付近に釘で止め、名札を吊り下げて微調整しました。メジャーもなく紙を半分に折ったりして工夫をしたアバウトなやり方にしては上場の出来栄えに一人満足しました。偶然にも電波時計は午後3時を指していて、何かいい予感を感じさせました。

 その作業が始まる前に高知県四万十市西土佐の和田修三課長さんから電話が入り、塾生に加えて欲しい旨の申し出がありました。和田さんとは高知で一番古い付き合いなので断る理由もなく、OKする事にしました。いよいよ面白くなってきました。高知の木下さんにそのことを話すため携帯を入れたら、彼は北海道網走にいました。北海道へ行くとの連絡は先日メールでありましたが、相変わらず行動範囲の広い男のようです。

 水平線の家もこのところ、少年少女おもしろ教室などで泥んこわんぱくな子どもたちが沢山来訪して、汚したまま帰っているので、今日は丹念に掃除機をかけ、床にワックスを塗りました。小さなお皿にワックスを小出しにして刷毛で塗ってゆくのです。これだけで床は見違えるように綺麗になります。僅か25畳の広さでもワックスを一人で塗ると結構時間がかかります。地べたを這うようにして、透明な液体のため塗り斑ができないように丹念に仕上げます。そしてそのまま部屋を締め切って乾かし、次の機会に乾いたタオルで拭くと綺麗になるという仕掛けです。皆さんそれぞれ人間牧場を使って楽しみますが、草刈りも掃除も口では手伝いますと言うものの誰も手伝おうとしないのです。これまで唯一手伝ったのはわが3人の息子と、囲炉裏の灰を砥部焼の窯元から貰ってくれた稲葉真光さんくらいなものです。まあそんなものだと割り切って今日も黙々一人でやりました。

  「鯛持って 弁当持参の お客様 あっけに取られ 私驚く」

  「手伝いに 行くよというが 誰も来ず 今日も黙々 一人ワックス」

  「名札吊り 準備万端 できました 性根を入れて 完塾目指し」

  「午後三時 電波時計が 時告げる 今は間もなく 過去になりつつ」

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shin-1さんの日記

○11年目の出会い

 毎日毎日、毎年毎年、色々な人に出会い、色々な人から学び、少しずつ少しずつ進化していく自分、そのアリのような歩みを確かめるように始めた1日3枚のハガキを書く活動ももう22年になりました。単純計算すると22年×3枚×365日=24.090枚という気の遠くなる尺取虫のような歩みを振り返る時、よくぞ頑張ったと、自分で自分を褒めてやりたいような気分になるのです。

 私がハガキを出した人の中には、定期的に出す人もいれば、1回だけの人もいます。多分1回だけの人の方が圧倒的に多いのですが、昨日そのハガキと11年ぶりに再会しました。昨日所用で松山から一人の女性がわが家にやって来ました。私の都合で午前9時の約束だったものですから、彼女が松山を出たのは8時ころではないかと思われます。失礼とは思いましたが急ぎの用だったので仕方なく失礼とは思いながらこの時間を選んでしまいました。彼女は4月にもわが家へ来て今回が2回目なので、わが家への新入路が狭いという思いがあったのでしょう、車を市役所支所へ止めて500mも歩いてやって来ました。

 東屋に案内し一通り打ち合わせが済んで雑談していると、彼女は手提げバッグから封筒を取り出しました。「若松さん覚えていますか。実は若松さんの講演を聞いて、旅先からおハガキを出したんですよ。その折若松さんは丁寧にも私に返事をくれました。嬉しくてそのハガキをずっと持ってるのです」と封筒の中から一枚のハガキを出して机の上に置きました。驚いたのは私です。そんなこともうとっくに忘れていました。でも記憶の糸をたどれば確かに彼女から届いたハガキの存在は知っていました。

(私が11年前彼女宛に書いた、双海の夕日をあしらった絵ハガキです。消印は平成9年です。切手の下に押した朱色のゴム印はまだ合併していない「愛媛県伊予郡双海町」のままで、激動の後が垣間見えるようです。それにしても下手糞な字ですね。汗顔に至りです)

 というのも私は人から来たハガキの中で「これは」という素敵なハガキは小さなイーグル風のハガキ立てに入れて机の上に飾って、来客に自慢していました。彼女からのハガキも私の机の上で約一ヶ月間自慢の種にしていたのです。残念ながらそのハガキは捨てられてはいないものの、退職時のどさくさにまぎれてダンボールに入れられ、倉庫の隅に眠っているのです。いつか日の目をと思っているのですが、残念ながらその日はまだもう少し先のようです。

 自分が書いたハガキとの11年目の面会に嬉しくなってデジカメで一枚写真を撮らせていただきましたが、しかし何という几帳面な人なのでしょう。有名人ならいざ知らず私如きから届いたハガキを11年間も捨てもせず大事小事に持っていてくれるなんて感激です。でも私はこのハガキを見て字の不味さと文章の不味さに戸惑ってしまいました。でも過ぎたことなのでまあいいかと思いつつ、手にとって懐かしい再会を喜びました。

 私はお礼に、赤とんぼ先生が作ってくれた竹のとんぼを彼女の手の指先に止まらせてあげました。心地よい浜風が指先に止まったとんぼを揺らし、彼女は驚いていました。土産に一匹差し上げました。多分何処かでとんぼは驚きの目に触れることでしょうが、これもまた出会いの印となったようです。満面の笑みを忘れまいと、有無を言わさず写真まで撮ってしまいました。

 丁度庭木を剪定手入れしていた90歳の親父がそこを通りかかり、親父は座布団を二枚、それにオロナミンC2本まで用意し、久しぶりの感動に浸る気の効かぬ息子のサポートまでしてくれました。

  「9の文字 切手の上に 消印が 時の流れを しみじみ思う」

  「あの頃は 伊予郡だった 今伊予市 時の流れを しみじみ思う」

  「十年余 手元に置きし 絵ハガキと 再会なんて 感激ですね」

  「座布団と オロナミンC 差し出して 気効かぬ息子 親父サポート」

  

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