shin-1さんの日記

○人間牧場ロケ風呂に孫希心入浴
 今日は宇和島から厚生年金受給者協会の山本さんがやって来ました。10月末に行われる研修会の講師を依頼されていて、その打ち合わせを兼ねて地区委員の浦田さんと、支部長の尾崎さんを伴っての来訪です。シーサイド公園で午前10時に待ち合わせをしましたが、夏休みの海水浴シーズンとあって、シーサイド公園の駐車場は午前10時前だというのに両方ともほぼ満車で、ガードマンのおじさんが汗ダクダクで交通整理をしていました。こんな状態ですから山本さんに合うのは難しいのかなあと思いつつ特産品センターの中へ入って見ると、山本さんは既に到着していて、レジの人に私のことを聞いている最中でした。
 「お目当ての人間牧場はここからさらに15分ほどかかります。私のトラックについて来てください」説明しシーサイド公園を出発しました。今日の瀬戸内海は夏特有のベタ凪ぎで山口や広島、それに愛媛の島々がまるで墨を流したように美しく見えました。私の後に続く浦田さん運転の車を意識しながら山や谷を縫うように走りましたが、多分山本さんたちは車の中で、「エッ、こんな山の中に果して人間牧場はあるの?」と不安めいた話しを下に違いありません。やがて目的地まで近づき、山道が登りから下りになって、やっと目的地の人間牧場へ到着です。水平線の家の中へ入ってカギを開け、自慢の窓を全部開けると下界の暑さとは裏腹に爽やかな風が室内に流れ込んできました。三人とも一応にその眺望の素晴らしさに驚いた様子でした。


 やがて打ち合わせが始まり、講演の演題や準備物、私のプロフィール、交通手段などなど一通りの話しを終えて雑談をしました。地区委員の浦田さんは研究熱心な方で、さまざまな資料を用意して私と深い話をしました。そのうち息子夫婦が孫を連れてやって来て気を利かせてお茶をさし出してくれました。息子夫婦は私たちの打ち合わせの邪魔にならぬようロケ風呂を沸かし孫希心を入浴させていました。やがて孫が素っ裸で上がって来ましたが、孫希心にとってロケ風呂への入浴は初体験です。私には長女夫婦に二人、長男夫婦に一人の合計三人の孫がいますが、孫朋樹は既にこの風呂を体験済みなので、今度は孫尚樹を五右衛門風呂に入れてやりたいと思っています。




 長男夫婦は山本さんたちが帰った後もハンモックを取り出して組み立てたり昼食弁当を食べたりしながらのんびりと休日を楽しんでいましたが、私は作業着に着替え、地下足袋と麦藁帽子、それに軍手といういでたちで草刈機を取り出し、刈り残していた梅林の草を刈り始めました。夏草の元気さにはこちらもタジタジで、真夏の真昼間ですから汗が流れるように滴り落ちました。途中近所の西嶋さんの奥さんがやって来てハウスみかんを差し上げるから自宅まで取りに来るよう伝言がありました。息子と二人で日頃のお礼を込めて出かけて行きました。
 帰った後も草刈りは続きましたが、そろそろ油タンクが空になるという頃になって、雨が降り出し息子たちもそろそろおいとまするというので、私も作業を中止して荷物をまとめて帰り支度をしました。今晩は姉夫婦と妹夫婦、それに私たち夫婦の三組でビアガーデンへ行く計画です。この3日間朝昼晩と忙しい日々を過ごしてきただけに体は少々お疲れモードですし、それに冷房の聞いた会議室や宿泊先も一晩中冷房が効いた部屋で過ごしたため、何処となく体調がだるかったのですが、真夏の炎天下での作業がかえって体調回復になり、シャワーで汗を流し洗濯機で作業着を洗濯する頃には、私の体はすっかり夏モードに変わって元気を回復していました。
  「冷房で 過ごしたためか 気だるさが 少し残って お疲れモード」
  「炎天下 草刈り作業 汗をかく 不思議なもので 元気回復」
  「孫希心 ロケ風呂洗礼 受けました これがわが家の 跡とり儀式?」
  「宇和島の 友人はるばる やって来て 演題などを 聞きて帰りぬ」

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shin-1さんの日記

○わが家の菜園で獲れたトウモロコシ

 今年は梅雨の明けるのが例年より10日以上も早く、雨の日を天気が悪いと嘆く人にとってはお天気が良く、真夏日や猛暑日が続いて、うだるような暑い日が毎日続いています。これほど雨が降らず照り付けると農作物の立ち枯れや、飲料水を心配しなければならなくなりそうです。わが家の菜園も元気だったナスやキューリの茎が弱り始め、収穫がゼロに近いほど落ち込んでしまいました。親父は毎日井戸からポンプで汲み上げた水をナスやキューリにやっていますが、これこそ焼け石に水の状態なのです。

 今日は大気の状態が不安定でにわか雨が降るかも知れないと、天気予報でいっていましたが、朝起きて空を見上げた限りでは雨の心配など全くない一面青空の状態でした。ところがどうでしょう。昼頃人間牧場で草刈りをしていると、一天にわかにかき曇り、かなり激しい雨が降り出しました。人間牧場にやって来た息子は「滅多にしない草刈りなどをするから雨が降るのだ」と笑っていましたが、私にとっては恵みの雨で、雨が降ることをよい事に早々に草刈りを切り上げ、人間牧場を後にしました。それでも草刈機の油タンクが空になるほど刈ったので、刈り残していた草は全て刈れたので満足しています。

 家に帰ると親父が降る雨を見ながら大喜びをしていました。このところ朝夕の水遣りが嫌になっていたこともあって、今晩は水遣りをしなくて済むのですから、私の草刈りと同じように、少ない量ながら恵みの雨に感謝しています。



 先日菜園のトウモロコシを初収穫しました。最近の日照りで、勢いよく伸びていたトウモロコシも何本かは枯れてしまいましたが、それでも一本の茎に1~2本のトウモロコシが付いて、そこから白髭が出ていましたが、最近になって白髭が茶褐色から黒くなり始めました。わが家で植えているトウモロコシはスイートコーンなので、多分食べ頃だと親父が言うものですから、試しに5本ほど収穫してみましたが、どれも虫に喰われることもなく立派に実入りしていました。早速取れたてのトウモロコシの皮を剥き、髭を取って大きな鍋の中に水を張って火にかけ、トウモロコシを入れて湯がきました。塩を一つまみ入れて20分くらい茹でたのでしょうか、お湯を捨てて取り出すと美味しい茹トウモロコシが出来上がりました。トウモロコシは茹で立てをかぶりつくのが一番、少々お行儀が悪い感じもしますが、誰も見ていないので、妻と二人で美味しい美味しいといいながら食べました。初物なので仏壇に備え、親父の隠居へも妻が一本持って行きました。

 かなりの量を植えているので、日照りの状態にもよりますが、これから10日間くらいは毎日トウモロコシの取れたてを食べれると思うと、何となく嬉しい気持ちになるのです。

 私たちがこどものころはのトウモロコシは焼いて食べるのが主流で、スイートコーンなど不味いと思っていましたが、歯状の悪い年代になると焼きトウモロコシより茹でトウモロコシの方がはるかに食べやすいのです。昔は風呂を沸かした残り火でトウモロコシを焼いて食べるのは晩夏から初秋でしたが、スイートコーンは夏の食べ物としてすっかり定着したようです。親父の水やりのお陰で、また親父が虫が入らないように一度軽めの消毒をしたため、美味しいスイートコーンを食べることが出来るのです。親父に感謝しながら今日もご相伴に預かります。

  「獲れたての コーン塩茹で 味一級 安心安全 これが一番」

  「子ども頃 風呂の残り火 利用して 焼いたとうきび 今も忘れじ」

  「食べ頃と 思う今頃 見計らい ハクビシンなど 来ぬよう網を」

  「行儀よく 並んだコーンに かぶりつく 行儀悪いが これが一番」








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shin-1さんの日記

○大分県の波紋と夫婦

 一昨日双海町のシーサイド公園へ立ち寄ると、ある人から唐突に「若松さん、あなたも教育長をしていたのですから、気が気ではないでしょう」と意味ありげな質問を受けました。「何のことですか」と問い直すと、「大分県の教員採用試験にからむ汚職事件ですよ」とのことです。どうやら暗にこの事件はイモツルの如く全国に飛び火しているようなので今に愛媛県にも、そしてあなたの身にもと思ったのに違いありません。

 確かに私は2年間の短い期間ならら、そして人口55百人の小さい町ながら教育行政のトップである教育長を務めました。小学校3校、中学校2校の人事にも深くかかわってきたことは事実です。でも今の教員人事は教育長や校長、それに当事者たる教員の意見や要望は聞いても、最終的に人事を決定するのは県の教育委員会なのです。町立ながら予算権も人事権もないのですから、教育長といえど人事にまつわることに関しては火も煙もまったく立たないのです。

 まあそんな話をしたって、一般の人は大分県の教員採用事件を聞けば、教育委員会は県も市町村もすべて同じだし、大分県が悪ければ全国の教育委員会は全て悪だと思うのは当然な話のようなのです。

 大分県で起こった今回の事件は商品券を贈るというものなのですが、中には百万円もの商品券を贈った人もいるから驚きです。もし私が教育長として百万円の商品券を貰って家にとって帰り妻に渡すと、私の妻はどういう反応をすのだろうと考えました。もちろん私は受け取るはずもありませんが、妻は「ありがとう。助かるわ」なんていうはずはなく、「返えしなさい」となだめるに違いはないのです。

 私の近所に住む若い人がパチンコにのめり込み、それがもとで離婚しました。その夫婦の別れ話に立ち会わされましたが、二人の話を聞くと奇妙なことに、パチンコにある時は夫婦で出かけ、またある時はパチンコに勝ったお金で食事をしたり家族旅行までしているのです。パチンコの全てが悪だとは思いません。ストレスの多い現代ですから、たまにはパチンコで心の憂さを晴らすのもいいと思います。しかし度が過ぎると奈落の底へ落ちるのも博打なのです。

 しかし大事なことは、お金の管理者たる奥さんが暗黙で了解し、自らも加担しているのです。お金を儲けた時はいい顔をして、負けた時は怒るこの何とも考えにくい姿には開いた口が塞がりませんでした。

 結局この夫婦は、私の説得も効かず離婚をしましたが、一番貧乏くじを引いたのは夫婦当事者でも調停に入った私でもなく、二人の子どもなのです。

 二人の子どもは兄弟でありながらまるで荷物のように二つに分けられそれぞれの親が面倒を見ていますが、母親と子どもはいいとして、父親と子どものペアーはどことなくぎこちなく、将来が心配で、復縁の話が持ち上がっています。

 大分県の今回の事件も元はといえば子どもを先生にしてやりたい親心の表れでしょうが、接見した弁護士に当事者が漏らしたように、結果的には「子どもの将来を台無しにした」ようです。悪の栄えたためしはありません。お中元の季節です。役職のない私への贈り物などする人などいませんが、せめてどこから贈り物が来たのか、あるいはどこへ贈り物をすべきか、せめて妻のチェックがあれば大分県の事件も起らなかっただろうにと思うのです。

  「教員は それ程魅力が あるのかな まるで商品 券で買えるか」

  「嘘つくな 言う教員が 嘘をつく 誰を信じて よいのか子ども」

  「今頃は ひょっとしたなら 自分にもと 一喜一憂 してる人あり」

  「先生といわれ 校長なっただけ 死ねば必ず 叙勲を受ける?」


  

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shin-1さんの日記

○ブルーベリーは本当に目にいいのか

 昔役場に勤めていた頃の同僚だった西岡栄一さんが、わが家へブルーベリーの鉢植えを持ってきてくれたのは20日も前の出来事です。「いいですか。水は2日に1回くらいバケツに汲み置きして塩素を飛ばし、ゆっくりとやってください。それ以外は何の手入れもなく、大体10キロ以上のブルベリーが8月中旬まで毎日約1ヶ月間、収穫を楽しむことができます」といって帰られました。ブルーべりといえばつい最近、その果実に含まれているルテインなどが目にいいとテレビや雑誌で宣伝するものですから、急に注目を集めている果物なのです。店頭には沢山のブルーベリーが年中並んで、少し高めながら味わうことが出来るようになりました。西岡さんは奥さんと二人で高床式観光イチゴ園を経営していますが、いち早くブルーべりーに着目し、独学で栽培技術を身につけ、数年前に観光ブルーべりー園をオープンさせました。収穫時期の違うイチゴとブルーベリーを経営の柱にするとはうまい考えですが、時々西岡さんからブルーベリーの収穫物を貰い、その味を知っていただけに、ブルーベリーの鉢植えがわが家に来てからは、毎朝の収穫がとても楽しみで、新聞と牛乳とを取り入れると同時に、ブルベーリーの熟れた果実を毎日のように収穫しているのです。

 ところが最近になって意外な二つのことに気がつきました。まずひとつは熟したブルベリーの実はちょっと目を離すとポトポトと地面に落ちてしまうのです。また取り損ねた実や収穫の際手が触れるとこれもまた地面です。最初は意識して地面に落ちたものも拾い集め、水で洗って食べていましたが、先日孫朋樹がやって来て、ブルーベリーの鉢植えの横に自分で植えたかぼちゃが芽を出して大きくツルを伸ばし始めたので、うれしくなってそこら辺を踏んだり水をやる際、ブルーベリーの木に小さい体で触るものですから、随分と実を落下させてしまったのです。孫の何気ない行動なので叱る訳にも行かず、注意をしましたが後の祭りです。しかし西岡さんは何十鉢ものブルーベリーの軟弱な実を毎日収穫する大変さをどのように克服しているのだろうと、改めて億の深さを垣間見ました。私などはたった1鉢だけでこの体たらくなのですから、この夏の暑い日のブルーベリーの管理には毎日気を揉んでいることでしょう。

 もうひとつは、一昨日の朝異常な小鳥の物音に気がつきました。台所で妻と二人が食事をしていると、何やらブルーベリーの近くが騒々しいのです。大群とまではいきませんが、5~6羽の少し大き目の鳥がブルーベリーの木の中でゴソゴソしているのです。私が近づくと一瞬にしてその鳥たちは飛び立ちましたが、どうやらブルーベリーの実を楽しみにしているのは私たち夫婦だけではなく、小鳥たちも虎視眈々と狙っているようなのです。昼間は留守がちな私たちなので、無法地帯になるため鳥の食害から守るために網を張ることにしました。あいにく親父が留守で、ブルーベリーをすっぽり覆うような網は見つかりませんでしたが、それでも気休めにとそこらにあった網を取り出して被せて旅に出たのです。

 昨晩妻から電話が入りましたが、くれぐれも用心するように注意をしたものの、少し心配な旅先の朝です。

 こうして広島県西条駅前の東横インに宿泊し、ホテルのロビーで昇ろうとする朝日を見ながらブログを書いている間も、わが気持ちは遠い自宅のブルーベリーに飛んでいるのです。

 人間牧場に植えた小さなブルーベリーの苗も草に負けてしまいそうだし、初なりのスモモもこのところの暑さでどうなっているのだろうと心配です。

 今日は午前中3時間、午後3時間とハードな講演が待ち受けています。考えても何の解決も出来ないブルーベリーやスモモのことはすっかり忘れて、いい仕事をしたいと思いブログの画面を消しました。

  「旅先で 妻のことより ブルーベリー 鳥に食われる 心配思う」

  「目にいいと 言うから食べて 見たものの 妻の老眼 相も変らず」

  「この粒を 毎日落さず 収穫す そんな緻密さ 俺にはできぬ」

  「やって来る 鳥もいい目を したいのか 啄ばむ鳥は メジロじゃないな」 

   

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shin-1さんの日記

 「今日から二日間広島県東広島市へ旅に出ます。明日は帰ります。御機嫌よう。 人間牧場主敬白」とメッセージを残して今朝早く家を出ました。毎日猛暑日の続く四国ですが、早朝の道はすがすがしく、冷房を切って窓を開け、戸外の風を取り込みながら高浜の松山観光港まで走りました。交通量の少ない早朝ゆえスムースに走れ、港までは1時間足らずで到着しました。本当は高速船に乗るのですが、東広島市の今岡さんから新採職員研修の資料を送られていて、研修に参加するメンバーからの私に対する質問に対する回答を、このところの忙しさにかまけて全て目を通していないため、フェリーだと適当な時間のため、あえてフェリーの便を選びました。

 船旅は実に快適で、船室の椅子にもたれての作業は順調に進み、音戸の瀬戸を通るころには、全てを終わっていました。

 少し甲板戸外に出て風に当たりながら知り人話しながら、のんびりゆっくりの船旅を楽しみました。宇品へは予定通り9時10分に着き、電車で広島駅を目指しました。比治山下経由の電車で約35分、さらに広島駅発西条方面行きの電車に乗り、インターネットで調べたとおり、10時45分に西条駅に到着し、昨年と同じく早坂さんの出迎えを受け中央公民館の人となりました。

 講演会は午後1時からなので課長さんや係長さん、それに今岡さんと私で、昨年と同じ店で食事をしました。

 1時からの研修会は午後の4時間全てが私の時間とあって、どのような組み立てをするか余り考えぬままアバウトな気持ちで話し込みました。今日のテーマは「若松さんの仕事が面白くなる話」だそうで、休憩を挟んでたっぷり2時間30分話をさせてもらいました。

 その後事前に送られてきていた参加者からの質問に答える形で進行しましたが、残念ながら質問と回答で1人5分を予定して話しましたが、3分の1はお話をしないまま時間切れとなってしまいました。

 いい質問が送られてきていただけに返す返すも残念ですが、この話の続きはメールでと断って時間切れ、話を終えました。

 その夜は谷川君からお誘いのあった若手職員の研修会に顔を出しました。コミュニケーションの取り方をワークショップ形式で学ぶもので、私も参加者になって学びました。朝が早かったためと、4時間に及ぶ長丁場の研修会が終わって緊張の糸が切れて少々お疲れモードでしたが、何とか若手について行くことができましたる

 その後は、近くの飲み屋に繰り出し会費制の交流会をやりました。参加した人たちも楽しい人たちばかりで、2時間があっという間に過ぎました。あくる日の研修会が午前中3時間、午後3時間と長丁場のため、10時ころ早々においとまし一人歩いて帰りましたが、帰り際隣の部屋で飲んでいた人たちと一緒になりました。私が余興で吹いたハーモニカが暖簾を伝って隣の部屋を巻き込んで、私の演奏に合わせて歌ってくれた人たちなのです。中には子どももいて嬉しくも寂しい別れとなりました。ああ今日も完全燃焼したようです。

  「海渡り 今日は海外 旅行かと 見まがうほどの 人に出会いて」

  「夜十時 気がつき早々 お暇を 東横インの ネオン頼りに」

  「この町は 二度目ことゆえ 知っている つもりが忘れ 右往左往す」

  「この町は 学生多く住むという 生かせばおもろい 町になるのに」 


                    

             

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shin-1さんの日記

○動く広告塔に電光掲示板

 私は自称「動く広告塔」と人から愛称をつけられ、自らもお遊び的に自分の名前をアメリカの顔だった高官と捩って、「愛媛のキッシンジャー」などといっていました。自分の町と自分の町に沈む夕日を徹底的に売り出すために、とにかく自分の町と夕日をまるで看板のように背負って歩きました。そして何処かまわず宣伝したのです。その結果双海町という下から数えた方が早かった町が随分有名になり、私自身もいつの間にかこんな顔でも覚えてもらうようになったのです。しかしふり返ればそれはなりふり構わぬほどで、時には道化師のような涙ぐましい努力の結果であることを知る人は少ないのです。

 今ではすっかり有名になった木になるカバンを提げて歩くパフォーマンスも、一日三枚のハガキを書くことも、また時には高座に上がって人を笑わせることも全てそんな止むに止まれるフットワークから生まれた成果なのです。そして今ではすっかり日々の暮らし溶け込んでいる、一日2本のブログを書いて自らが情報発信することも、元はといえば町を売り出す手段として始めた事なのです。

 先日三重県伊賀上野へ講演に出かけました。その模様や近鉄電車が故障して思わぬハプニングに会ったことはブログで詳しく紹介しましたが、その折大阪の街中をとっさな思いつきで、新居浜の加藤さんから国土交通省主催の観光カリスマ塾開催の折、人型パネル作製にちなんでいただいた名刺サイズの電光掲示板をこともあろうか、自分のネクタイに強力マグネットで着けて歩いたのです。普通ならこんな恥かしいことはしないのでしょうが、やはりこれも遊び心の表れでしょうか、胸を張って堂々と歩きました。

 電光掲示板には「『夕やけ徒然草』著者:若松進一 自費出版、定価500円 好評発売中」と出てくるのです。胸に何やら光る文字があると通行人は一応に驚き私の胸の当りに注目してショートコメントを読みながら横を通り過ぎるのです。そして通り過ぎざまに私の顔を一瞬「変わり者」という雰囲気で立ち去り、また振り返って私の姿を追いながら去って行きました。

 効果は抜群でした。多分私の奇抜なパフォーマンスを目の当たりにした通行人は、どこかで酒の肴にでもしながら、見知らぬ私の話しをしたに違いないと、してやったりの心境で愛媛に帰って来ました。私は町の観光協会事務局長を長年やりましたが、その折りもゼロ半ライダー観光宣伝隊というこれまた一風変わった宣伝隊を出して、世間をアッと言わせました。バイクの後に宣伝幟を立てて10台もが隊列を組んで街中を走り、時には繁華街の真ん中でハンドマイク片手に自分の町を宣伝しまくり派う夫レットやチラシを撒き散し、その足で放送局まで乗り込んでその日の夕方のニュースに飛び入りまでしたのですから、これはもう尋常ではないのです。今にして思えば顔から火の出るような恥かしい話ですが、それでも平常心のような顔をしてやったものです。

 今ではすっかり武勇伝となりましたが、その折「恥かしいから嫌だ」としり込みした新人職員に「嫌だったら役場を辞めろ。お前の変わりは幾らでもいる」と脅しまくり参加させました。驚いた事にその新人職員が今は町の観光の仕事をしているのです。

 恥かしいなんて気があったら、観光宣伝などやれぬしその成果も期待できません。要はやるかやらないかなのです。

  「電光の 掲示を胸に 大都会 知らぬ土地ゆえ 恥かしがらず」

  「夕日亭 大根心の 芸名で 作った本を ピーアールしつつ」

  「その昔 私愛媛の キッシンジャー 誰がつけたか 動く広告」

  「看板を 背負って歩いて 四十年 今じゃすっかり 有名になり」

 

 

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shin-1さんの日記

○上灘川の源流を求める小さな旅②

8p> 源流を見つけた帰り道、大きな木に出会いました、何という木の名前かは葉っぱが高いため分りませんでしたが、とにかく予にも珍しく根が道沿いにまるで大蛇のように10メートルも伸びているのです。根元にはこれまた珍しいサルノコシカケにも似た真っ白いキノコが生えて、木の直ぐ横に石で造った祠があって、何とも不気味な感じがしました。その木に寄り添うように山藤のこれまた太いツルが天に向って伸びているのです。この山藤もお見受けした所天然記念物級のようでした。

 上灘川の源流を探す小さな旅の楽しみは、途中で源流水を使って作ったうどんや素麺を食べる昼食です。民家近くの水場にテントを張ってスタッフの一団がうどんと素麺の準備をしてくれていました。手酌で水をすくって飲みましたが、やはり天然水の味は格別で、子どもたちも美味しい美味しいと飲んでいました。私も妻に作ってもらった弁当広げ、うどんや素麺に舌鼓を打ちながら子どもたちと一緒に食べました。

 子どもの一人が側溝の穴に落ちて小さなハプニングがありましたが、タンコブが出た程度で大事に至らずほっとしました。子どもたちに草笛を吹いたり、カズラを取って帽子飾りのリースを作ったりする遊びをちょっとだけ教えてやりましたが、子どもたちも真似をして遊んでいました。

(カズラで作ったリースを頭に被って得意げな大谷さん)

 昼食を終えた一行は翠小学校までマイクロバスで下りました。子どもたちは長靴に履き替えて川遊びです。折からの猛暑の中なので、子どもたちは川に入って歓声を上げました。約500メートル下流まで川の清掃です。この川はホタルの里なので随分綺麗に整備されていますが、川にはナイロン系のゴミもあって、私も沢山ゴミを拾いました。私はあいにく長靴を持っていないため、石の上を飛びながら渡ってゴミを拾いましたが、最後は子どもたちに捕まって川の中へ引っ張り込まれ、水をかけらてしまいました。

 子どもたちが遊んでいる間、スタッフは近くのピザハウスでせっせとピザ焼きの準備です。小麦粉を練って捏ねたり天日で発酵させたり、男性はピザ釜に火を入れ、甘夏柑を半分に切って生ジュースを絞ったり、一生懸命です。私も初めて小麦粉を捏ねたり生ジュースを絞りました。

(生ジュース絞り)
(捏ねて発酵させた生地を伸ばす作業)

(ピザ釜に火を入れる作業)


 やがて川遊びでびしょ濡れになった子どもたちが帰って来ました。丁度焼き上がったピザを切り分けてもらい、一人2枚ずつ食べましたが、カレー味の手づくりピザは翠地区グリーンツーリズムの目玉だけに、絞りたてのオレンジジュースとともに格別な美味しさでした。

(焼きたてのピザを食べる子どもたち)

(ピザは子どもたちに大人気でした)


 クイズグランプリを楽しんだ後、予定通り支所前に到着し解散をしましたが、初めて経験した源流を探す子どもたちの小さな旅は、もう一度今度は下灘の豊田川の源流探しが予定されています。8月にはキャンプも予定されていて、子どもたちにとっても私にとっても楽しい夏になりそうです。

 このところの戸外での活動で、私の顔も腕も真赤に日焼けして、すっかり逞しくなってきました。昨日知人に会ったら私の日焼けした顔を見て驚い多様で、「若松さんお元気そうですね」と声をかけられました。

  「人知れず 山の中にも 記念物 自慢見せたい 叶わぬ夢か」

  「遊ぼうよ 水を掛けられ 川の中 童心帰り 全身ずぶ濡れ」

  「粉を練り 粉を捏ねつつ ピザつくり 今時子ども これを喜ぶ」

  「いつの間に ピザ釜造り ツーリズム 人気抜群 繁盛してる」


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shin-1さんの日記

○上灘川の源流を探る小さな旅①

 私たちの町には大小20もの川が目の前に広がる瀬戸内海に向って流れています。いつの頃からか定かではありませんが、人々はこの川沿いに暮らし、くぁの水の恩恵を受けながら生産と生活を営んできたのです。しかしその恵みの水が一体どんな道筋をたどって私たちの元に届くのかは知る由もなく、また知ろうともしないのです。もし明日からといわず今日からこの水が途絶えるとしたら、人々は大慌てに慌ててその原因を探るのでしょうが、そんな困窮をしても、水を貯める貯水施設や水道管、それに水を管理する人たちへの問い合わせくらいで、水の命を素人はしないはずです。

 私は常々自分たちが毎日使っている水が一体どんな場所で生まれ、どんな経路を経て来るのか知りたいし、そのことを子どもたちに教えてやりたいと思っていました。学校教育ではそれなりのカリキュラムがあってそんな余裕も口出しも出来ないため、幸い私が実行委員長を務める少年少女おもしろ教室のプログラムに「源流を探る」というメニューを加えたのです。

 このところの暑さで温度計はうなぎ上りの状態で、数日前に近隣の大洲では38度を越えてその日の日本一を記録するなど猛暑日が続いていますが、子どもたちは元気に出発しました。

(市役所支所ロビーでの開会式)
(何時もの事ながらスタッフも沢山集まりました)

 マイクロバスで下流域の灘町から上灘川に沿って上流域となる奥大栄を目指しました。車内では私と運転手を務める教育委員会の木曽さんがガイドを務め、子どもたちの関心を引くため、アドリブで川の長さや川に架かっている橋の数、目指す奥大栄の在宅戸数などをクイズとして出しながら山道を進みました。やがて麓に到着しバスを降り、いよいよ源流を目指して出発です。この集落も超々限界集落でかつては10戸以上ありましたが、今は在宅戸数は4戸であちこちに空き家や崩れし家が目立ちました。
(かつては棚田の美しい地区でしたが、今は田んぼも少なくなって、永年作物であるみかんも殆どなくなり、安定収入のキウイフルーツなどが栽培されているようです)
(大きな民家もこのように崩れしままとなって、余計寂しさを感じました)


 子どもたちにとっては、説明をしなければこの集落がどんな意味があるのか知る由もありません。源流域の人たちの地道な暮しが水源を守っているのだと説明してやりましたが、果してどう聞こえたのでしょう。

 私たちは森林の中を歩き、奥大栄の名所のひとつである花の石を目指しました。夏草に埋もれて行く道も分らないようになっていたそうですが、地元の人の協力で事前に道を刈り分けてもらっていて、随分助かりました。

 花の石を後にした一行は沢まで下り森の中を源流を求めて沢沿いの道を上流へ歩きました。最初はかなりの水量だった沢もやがて水が殆どなくなり、源流を突き止めたのです。

(二本の丸木橋を渡って進む子どもたち)
(ここが源流と分り歓声を上げる子どもたち)


 空から降った雨の一滴はここから長い旅に出ます。気の遠くなるような時を越え、途中で取水されながら海まで注ぐのですが森は海の恋人とはよくいったものです。この日は都合で木を植えることが出来ませんでしたが、山の恵みに感謝するため是非次の機会にここへ木を植えたいとみんなで考えました。

  「源流を 求め旅する 子どもたち 水の尊さ 知ってくれたか」

  「降りし雨 長い旅路の その果てに 海まで注ぐ 感心しきり」

  「人住まず 崩れしままの 家寂し ここで生まれた 人はいずこぞ」

  「日々飲みし 水はここから 流れ来る それを忘れず 生きて行きたい」

 

 

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shin-1さんの日記

○隣町は今

 合併するまで近隣の市町村の位置はきっちり頭に入っていて、また隣町のニュースなどは競争という意識が強いのか、絶えず気を配っていました。特に同じ郡の同じような規模だった中山町や、同じ海を持つ長浜町、それに最も近い伊予市などは負けてなるものかと思いながら暮らしてきました。

 ところが合併してからの最近は市町の位置すらおぼろげで、また役所を退職してまちづくりの任から降りたため、何処かよそ事のような気がするのです。それでも昔の癖は治ることなく、時々頭を持ち上げるのですから染み付いているのでしょう。

 数日前八幡浜市保内町幼稚園へ講演を頼まれて出かけました。その帰りに長浜を通りかかりました。晴海工業団地に近づくと頭の上に立体的な道路が出来ているのに気付きました。工事をしていたころからこの道路は一体何処へ通じるのだろうと思っていました。ふと好奇心が頭を持ち上げ大きく左折してその道を走ってみました。案の定この橋脚の上を走る道は旧長浜町自慢の肱川嵐が展望できる公園へと通じていました。

 山道ゆえ曲がりくねった道を進んで行くと、見覚えのある嵐公園へ到着しました。この日は視界もよく展望台に上がると四方八方が一望できました。特に肱川河口に架かった新旧2本の橋が印象的に見えました。

 特に赤橋といわれる鉄橋は片勝鬨橋で日本でも珍しい近代化遺産の橋として注目されています。毎年10月下旬になるとこの橋を包み込むように靄が肱川嵐となって海上へ吹き出すのです。旧長浜町ではこれを地域資源ととらえ初嵐の日をクイズ形式で当てるコンテストなどをやっていますが、残念ながらその効果は上がっていないようです。というのもかなりの費用をかけて嵐を見るための公園を造ったものの、嵐は早朝に吹き出るため、また寒いため観光客には敬遠されて中々人が集まらないのが実態のようです。

 この日は公園に着くと見覚えのある人に会いました。役場に勤める豊茂の中田さんです。彼は今国土調査の仕事をしているらしく、私の時ならぬ来訪に驚いた様子でした。

 瀬戸内海に突き出たように見える展望台からは、坂本龍馬が脱藩の折ここを船出して渡ったであろう伊予灘の海が拓け、坂本龍馬が目指した山口県が雲にかすんで見えました。

(長浜町の埋め立て造成地はまだ空き地も見られましたが、遠望では大きな油タンクも見え、工業団地としてそれなりの成果を収めているようです)

(肱川の右岸には団地も沢山見えました)
 合併によってまちづくりの世界も大きく変容しています。これまで隣町を意識し、隣町に蔵が建ったら腹が立つといわれるほど競争した昭和の時代から平成の時代は終りを告げました。確かに競争はよくないことかもしれませんが、ある意味で競争は地域に元気をもたらしました。競争の消えた合併後は隣町がどんなことをしているのかさえも関心のない時代となっているようです。

 役場を去った私でさえもこうして東国原宮崎県知事のように「どげんかせんといかん」と思っているのですから、役所に務めている人はことさらに「何とかせんといけない」と危機感を持って生きて欲しいと思いました。

  「隣町 いつの間にやら 何処だっけ 何が起ころと 関係ないか」

  「ふるさとを 思う心を 持たずんば 国は滅びる 歴史が語る」

  「朝もやで 地域おこしを 考えた 見事外れて 寂し公園」

  「いや見事 長浜の町 橋風景 好きなアングル 皆に見せたい」

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shin-1さんの日記

○熊本県天草からのお客さん

 2007年1月15日に熊本県天草市経済同友会から講演の依頼があって車で出かけました。その日の前日娘が、切迫流産のの危険があるとかで緊急入院してしまい、孫の面倒を見なければならなくなったため、妻と二人で予定していた天草行きに急遽孫を連れて行く事になりました。孫は長い道中でしたが楽しかったことが忘れられず、一泊したホテル海心館の優しいもてなしや、講演のあったホテルアレグリア天草近くの水族館でのアザラシ、イルカなどとの出会いが忘れられず、未だに何かにつけて天草の話しをするのです。

 その後天草経済同友会の中川会長さんとのご縁も深まって、2007年6月25日に天草のご一行がわが町へ視察に来られ旧交を温めました。その同じ月には熊本県あさぎり町へ講演に行くなど様々な熊本との交流が進んだのは、多分松山と熊本を結ぶ天草エアラインの就航によるものだと、人や地域との交流にとってアクセスは大事だと痛感したものでした。

 あれから1年が経った先週7月16日、再び天草から視察団がやって来ました。今度は自治会の皆さんでしたが、中川会長さんから直接電話があったものですから、少し変わったプログラムを組んでお迎えしました。

 まず役場会議室で私の講義を1時間程度行いました。自治会のメンバーなので地域の自立について突っ込んだ話をしました。その後わが家と翠小学校、シーサイドでの昼食を挟んで人間牧場の案内です。これは中川会長さんの希望でもあったので、中型バスの乗り入れはギリギリなので気を揉みましたが、どうにか行くことが出来ました。

 まず翠小学校ですが、運良く校長先生がいらっしゃってご案内をいただきました。一行は窓を吹き抜ける爽やかな海風を感じながら今時の学校では珍しい和室で校長先生の話を聞きました。この学校が現役木造校舎では県下で一番古いこと、エコ改修の指定を受けて調査研究をしていること、この学校が地域のコミュニティづくりに果たしている役割、ホタルとのかかわりなど特色ある学校づくりについての説明に納得した様子でした。

 最近の学校は危険という名の元に門を閉ざし、心を閉ざしている学校が多いようですが、この学校は門こそ閉じていてもいつもオープンスタンスで迎えてくれます。子どもたちも先生たちもお客さんを意識せず常に自然体で迎えてくれるのです。人数的には児童数31名と小規模校ながら、やっていることや目指していることは大規模なのです。学校とは木が交わって学ぶとはよくいったものです。木はそれぞれ癖を持っていますが、木の癖組みこそが人間力を育むのだと思いました。

 人間牧場では主に限界集落のことや、住民自治、それに人間力とは何かを感じ取ってもらおうと思いました。時代が進歩する中でややもすると後退しようとしているのが今の地方の現状です。合併によって行政サービスが低下したと意識する住民、学校統合や限界集落などで将来への不安を感じている住民、住民自治といいながら高齢化と過疎の狭間で自治などやりようがないと宿命を感じ取っている住民、様々な問題が横たわっていて、これは日本全国を揺るがしているのです。

 一生懸命生きる、それでも駄目だったら潔く諦める、そんな生き方をしている私にとって、視察に来られる人に幾ら「頑張って下さい」といったって、それはもう自助努力の域を超えているのですから、「私はこんなに楽しい生き方をしています」と見せること以外ないのです。たった一度の人生だからみんな楽しく生きて行きましょう。

  「天草の 人と再び 面会す 私の生き方 素敵でしょうが」

  「漢字では 木が交わって 学ぶ書く 学校ではない 学校増えた」

  「空青く 海も深蒼 澄み切って 真夏の双海 客をもてなす」

  「俺に逢う 人が沢山 やって来る だから気張って 素敵生き方」

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