shin-1さんの日記

○息子娘のいなくなった部屋

 現在わが家には応接間と座敷を除けただけでも空き部屋が4つあります。住宅事情の悪い日本では考えられないようなことですが、数年前まで4人の子どもたちがそれぞれ一つずつ部屋を占拠していたのです。そのうち娘が助産婦という仕事柄下宿して家を出、結婚して多分永久に帰らない部屋となっているのです。2階には座敷を入れると4つの部屋がありますが、建築の仕事をしている長男も、看護師をしている次男も、警察官をしている三男もそれぞれ家を出て行きました。時々帰るため部屋はそのままで、まるで抜け殻のようになっているのです。多分次男も三男ももうこの家に帰ることはないであろうと思う時、あの賑やかだった子ども時代が懐かしく思い出されるのです。私の方針で子どもたちは4人とも県内に就職していますが、長女は夫の仕事の都合や先方親との都合でどういう道を選ぶかまだ不明な所があります。でも長男夫婦が近々わが家へ帰る気持ちになっていること以外は不明だし、確実に3人の子どもたちはこの家に住むこともないようです。

 この週末息子と娘の家族が双海の夏祭りを見るため帰って来ると連絡がありました。暑い時期ゆえ大変だと思いつつ、寝部屋を確保するため三男の部屋を掃除する事にしました。男の子の部屋らしく調度品は殆どなく、本やビデオ、パソコン類などが殆どで、昨晩三男に妻が電話を入れて何処へ片付けたらいいか相談したところ、別に要らないから処分するように言われたそうです。はてさてパソコンの本体などは既に自分の居場所に移動しているのですが、それ以外のものは処分しようにもまったく分らないのです。

 三男の部屋を片付けていて再利用できそうなものがいくつか見つかりました。CDのデッキです。わたしのCDは故障して使えないのでお遊びで使ってみたいと思っています。また三男が体力づくりに愛用していた鉄アレーは、母校である松山工業高校の機械科時代に自分が製作したものなので大事に使ってやりたいものです。整理をしていて処分しそうになったものに、三男の危険物取り扱いや、ガス溶接などの資格免許証がありました。多分居間の職場では無用の長物と思って置いて行ったのでしょうが、発見できて良かったと思いました。後は処分の対象物でゴミ袋に入れてごみに出します。

 4人の子どもの思い出は切りがないほどあります。みんな同じように産んで同じように育てたつもりでもそれぞれ個性が違うし、進むべき道も随分違っているのです。娘は助産婦という職業を選び今もお産と養育で産休していますが、やがて復職する予定です。子ども二人にも恵まれ松山市で今のところは幸せに暮らしています。長男は設計の仕事をしています。結婚し子どもも生まれまあ何とかやっています。次男は適齢期を過ぎつつあるのにまだ結婚の兆しもなく、看護師として三交代の忙しい病院勤めをしています。趣味の演劇も辞めざるを得なくなりました。極楽とんぼの末っ子は警察官として県内で働き、今は寮に入って暮らしています。

 まあそれぞれの生き道を探し当てているので心配はしないのですが、わが家に帰る回数も段々遠のき、妻は寂しいと漏らしています。4人が言い争った兄弟喧嘩も遠い昔の出来事になりつつあります。それだけ私たち夫婦も歳をとったのでしょうが、親とはいささか寂しいものだと、息子の部屋を掃除しながら思った昼下がりでした。

  「家を出て 早幾月か 過ぎたけど いつかは帰る その日のために」

  「ああこれも 手に取り思う 過ぎし日々 今頃何処で 何をしてるか」

  「鉄アレー 手に取り力 出すけれど 十回までが 限界のよう」

  「この家は 夫婦二人の 住処にて 息子の帰り 住む日を待ちつ」


 

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shin-1さんの日記

○親父の気弱り

 このところ腰の具合と歯の調子が悪い以外は体の不調を訴えていなかった親父が、毎日35度を越す猛暑に参ったのか、少し気弱になってきました。今朝6時に親父の隠居へ朝のあいさつと腰にサロンパスを張りに出かけたのですが、呼んでも部屋の中から返事が返らず、散歩にでも行っているのかと思い、20分ほど過ぎて部屋に行って見ると布団の七課に臥せっていました。聞けば暑いため昨晩は気分が優れず余り眠れなかったというのです。今朝は日課にしている朝の散歩にも出ず布団の中で過ごしていました。それでも私の声を聞いて安心したのかやわら起き上がりサロンパスを腰に貼って一時話をしました。

 親父の隠居は一戸建てで2DKとでもいうのでしょうか、座敷と寝室兼居間とダイニングキッチンの三部屋があります。周りには窓も沢山あって戸を開けていれば風が通って涼しいのですが、夕方4時ごろから6時頃までは夕凪とでもいうのでしょうか無風になって暑く感じるのです。今年は梅雨が早く明けた分暑い日が続いて、雨らしい雨は殆ど降らず、このままだと自分で育てている家庭菜園の野菜類も枯れてしまうという思いも、親父の気弱さの原因のようですが、言葉で勢をつける以外にないので、頑張るように話しました。

 このところ親父の体が縮んだように見えることがあります。まあ後一ヶ月もすれば90歳になるのですから、当然といえば当然かも知れませんが、縮んだ親父を見ながら27年後の自分の姿をを見ているようで、何処となく複雑な心境になるのです。親父は若い頃大病を患いましたがその病気を克服しての長命ですから自分ではいつ死んでも納得していると口ではいいますが、ぜも人間は生きれるだけ生きていたいのは当然の願望なのです。私にとっても親父はかけがえのない人間だけに、出来るだけ長生きして欲しいと思っているのです。

 最近親父より年下の友人知人が亡くなったり、自分の弟が亡くなったりする度に、盆が越せない、正月が越せないと、自分の寿命が少なくなったことを気にして、弱音を吐くようになりました。また知人友人が特別養護老人ホームに入ったのを聞けば、「わしは老人ホームだけには行きたくない」と予防線を張り、「この家の畳の上で死にたい」というのです。その都度「じいちゃん、心配せんでもいい」と話すのですが、そのことも気がかりのようです。まあこの歳になるまで自分のことは自分で出来たのですからもう十分なのです。

 本当はもうここらで私も本当の意味でのリタイアをして、親父の話し相手や相談相手になって穏やかな日々の暮しをさせてやりたいのですが、セミリタイアの私には、もう少し社会のお役にもたたなければなりません。幸いわが家では親父と妻の親子関係も良好で、母が死んでから10年近くになりますが、毎日夕食は親父の体を気遣って体にいいものを手づくりして食べさせてくれています。また私の子どもたちも孫たちも来れば必ず大じいちゃんといって隠居へ立ち寄って話しをしますし、近所には娘や兄弟が住んでいて時折訪ねてきてくれるのです。特に私の姉は毎日のようにおかずなどを持ってやって来ます。

 「後10年は生きて欲しい」と今朝も話しましたが、「10年なんて生きれるはずがない」と返事が帰って来ました。

「自分が子どもにしてもらいたいことを親にしてあげる」、そんなささやかなことしか出来ませんが、私のルーツだけにこれからも長生きして欲しいと思っています。

  「もう駄目と 諦め続け 四十年 生きているから あと十年は」

  「このところ 親父の背丈 縮んだが どうにか元気 百歳目指せ」

  「二十年 先に私は こうなると 親父の姿 自分ダブらせ」

  「冷房は 嫌だぞ俺は 扇風機 そのくせ夏は 暑くかなわん」 

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