shin-1さんの日記

○とも遠方より来るあり・また楽しからずや②

 埼玉県北本市に住む工藤日出夫さんは私の大事な友人です。工藤さんの名前は「日出夫」、つまり日の出にちなんでいます。私は若松進一ながら現役時代は夕やけ課長、夕やけ教育長の異名をとっていました。つまり彼が朝日で私が夕日というのも面白い顔合わせなのです。三重県に二見ヶ浦で有名な二見町があって、字こそ違え私の町も双海町なのです。これと同じで、工藤さんに初めて東京虎ノ門の事務所で出会った時、どこか運命の出会いのような感じがしていました。あれから30年以上経ってもなお、飽きもせず交友が続いているのですから面白いものです。

 工藤さんは北海道から上京しながら今は北本市の市会議員の末席に名を連ねているのです。政治家に必要な三バンといわれるカバンも看板も地盤もない彼が何故、市会議員になったのかは別として、彼を見ていると人間に必要なものが何か、分るような気がするのです。

 彼は人を大事にします。私がまだまだ無名だった頃、彼は当時華々しく活躍していた立教大学の岡本包治先生に銀座で会わせてくれました。田舎から上京した私を見て、「田舎の海猿」と私にあだ名をつけたのは先生でした。以来先生が監修した本にも度々執筆を依頼され、恥ずかしながら文字での情報発信をさせてもらったのです。また全国公民館連合会の朝比奈博さんとの深いご縁がきっかけで、全国大会の司会という大役を仰せつかり、奇抜なコーディネートをして参加者を感嘆させたのも、イモヅルをたどれば工藤さんの種芋に行き当たるのです。

 彼はアイディアマンでした。彼が作ったPTAの本は当時注目を集めよく売れていました。本というよりはパンフレットに近い薄っぺらい物でしたが、私はこの本を使って色々な生涯学習をやったし、まちづくりや生涯学習にとって資料は大事だと思わせたのも彼でした。以来私は活字を制するものはまちづくりを制するとばかりに、様々な文筆をやりました。町に吹く風、昇る夕日でまちづくり、今やれる青春、夕日徒然草をはじめ、まちづくりシンポジウムの資料は当時は非常に珍しい発想のパンフレットとして注目を集めました。また私のアイディアも彼の影響が多分にあるようです。

 彼は昔も今も論客です。人を説得する話術は大したもので、今にして思えば市会議員になるのは当然だったかもしれないのです。私も若いころから随分議論を学びました。第十四回NHK青年の主張県代表になったり、愛媛県青年団連合会会長などを歴任しそれなりに弁論の技術は積みましたが、生涯学習の議論は彼の足元に及ぶべきもなく、ずいぶん修行をさせてもらいました。

 彼は実践家です。これは地域に根を張って生きてきた私の方に分があるような気がしますが、それでも理論に終始する都会族の人の中ではダントツに実践家のようです。

 今朝5時に昨夜から泊まっていた人間牧場で目覚め、みんなを起こして5時20分に出た朝日を見ました。穏やかに凪いだ瀬戸の海に映えていいようのない美しさでした。昨晩の深夜に及ぶ議論の余韻が漂っていました。みんなで清々しい朝の空気をいっぱい吸いながら掃除をして下山し、わが家で妻が作ってくれた朝食に舌鼓を打ち分かれました。

 埼玉県北本市の一行は今日はしまなみ海道を目指し、金毘羅参りをして帰路に着くそうです。大野事務局長と河上さんの案内でそこここを散策し午後4時05分今治から特急に乗ったと、大野さんから報告の電話を受けました。ご苦労様でした。

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shin-1さんの日記

○友遠方より来るあり・また楽しからずや①

 埼玉県に北本市という街があります。社会教育、とりわけ公民館活動が縁でその街に住む工藤さんという人と、30年も前に静岡の朝比奈さん(全国公民館連合会理事)という人を仲立ちにして知り合いました。彼は北海道松前町出身で地元高校を出て上京し出版会社に勤めた後、自らも出版会社を興し様々な生涯学習の書籍を出版していましたが、その人脈たるや広くて深く、また生涯学習にも造形が深い人でしたから、当時日本一の公民館主事を目指して孤軍奮闘していた私の情報人として大いに気が合い今日まで、私的な厚誼をいただいているのです。

 彼との縁が社会教育に留まらず私のボランティア活動にまで踏み込んだのはこれまた工藤さんの差し金によるのです。彼が深く関わっていた北本市青少年市民会議の開いたシンポジウムに、私が講師として招かれました。当時私はは無人島キャンプなどの体験談を様々な場所で話していました。私の話を聞いた海のない街北本市の市長さんがいたく感激され、北本の子どもたちを無人島キャンプで鍛えてくれないかと、予算までつけて懇願されました。早速工藤さんたち市民会議のメンバーがが中心になって公募で選ばれた子どもたちが愛媛にやって来たのです。以来10年もの長きに渡って交流事業は継続され、私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループとともにボランティア活動に熱中し、大きな成果を上げました。

 無人島キャンプは最初の目標どおり20年で終わりましたが、事業が終わった後も私的な数人の仲間との交流は絶えることなく今も続いているのです。

 昨年は「無人島へもう一度行きたい」という彼らの希望を受け入れ、6月29日から3日間愛媛県入りし、念願の無人とへ渡って島内を散策し懐かしい思い出にふけりました。今回も無人島へという話もありましたが、原油高のあおりを受けて渡船のチャーター代が高くて断念し、人間牧場での交流と相成ったのです。

 昨日は彼ら3名は飛行機で松山入りしました。仕事の都合で大野事務局長が迎えに行き、人間牧場入り予定の17時まで、日本一細長い佐田岬半島へ小旅行しました。

 私は午前中と午後に予定が入っていて、その合間を縫って人間牧場へ出かけ、掃除をしたり草刈りをしたり、風呂の燃料を給油したりしながら彼なの到着を待ちました。今回の埼玉県北本の一行は工藤さん、松本さん、峯尾さんの3人で、柳町さんは残念ながら日程の都合で来ることが出来ませんでした。私たちフロンティアグループは大野さん、豊田さん、河野さん、藤本さんに高知県四万十市の和田さんと私を加えた6人、合計9人です。

 夕方5時30分から始めた雑談会は延々12時まで5時間半にも及びました。最初の話題は人間牧場の直ぐ目の前眼下に浮かぶ無人島でのキャンプの話でした。北本から送り込んだリーダーたちのその後の消息、参加した子どもたちの安否、その当時市長だった新井さんの話や、引率して来た教育委員会の人たちの話など、まるで昨日のことのように思い出されました。しかし人の記憶とはいい加減なもので、既に記憶の彼方に消えているものも数多く、昨日は河野さんが大切にしていた当時の新聞を持参していて、それを見ながら話題を広げていたようです。

(佐田岬小旅行の案内で疲れた様子の大野事務局長)

 順番にロケ風呂に入り、壁にかけている時計が12時を回ったので、「もう寝よう」と相談がまとまり、松本さんと大野さんは2階のロフトに、豊田さんと河野さんは外のウッドデッキに、私を始め残りの人間は水平線の家の板間にそれぞれ寝場所を確保し、電気を少な目にして夢の世界へと旅立ちました。私の横へは四万十市の和田さんが寄ってきましたが、お酒を飲んでいるからでしょうが、みんないびきがひどく、特に和田さんは私の腹の上に何度も足を乗せてきて、眠れない一夜を過ごしました。でも一宿一飯、こうして仲間が雑魚寝ごろ寝ができるのも、嬉しいことなのです。

  「沖合いに 浮かぶ由利島 二十年 よくぞ続いた 青春時代」

  「北本の 仲間訪ねし 牧場で 旧交温め 五時間半も」

  「スカートを はいた先生 無人島 蚊の大群に 内股刺され(ウフッ)」

  「もうこんな 時間か寝るか 雑魚寝する 友の太足 いびきも太く」

   

 

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