shin-1さんの日記

○愛媛県町村会研修会に参加して

 3年前愛媛県の市町村が合併して、70の市町村が20市町になりました。それまでは市に比べ圧倒的に多かった町村ですが、市が13に増えたのに比べ、町の数は松前町・砥部町・久万高原町・内子町・上島町・鬼北町・松野町・愛南町の8つに激減してしまったのです。これではどう頑張っても町村会の馬力はつきにくく、当分は苦悩の日々が続くことでしょう。

 昨日はその町村会の招きで、中級職員16名と係長職員15名合同の研修会に招かれ、「合併後の地域づくり」について、えひめ青少年ふれあいセンターで講義を行いました。少し早めに出かけたため昼食までご馳走になり、午後1時から1時間50分にわたりお話をしましたが、私の紹介を研修生として参加していた愛南町の脇田さんが担当するなど、端々で知人友人にも出会い旧交を温めましたし、講義が終了すると次の講義を担当している町村会の会長である松前町長の白石さんにもお会いすることが出来ました。

 このところ毎年のように講義を担当している私がこの研修で最も強調したかったことは、合併しなかった町が何処か置いてけぼりのような錯覚にとらわれがちですが、大きいことはいいことという風潮より、むしろスモールモアビゥティフルの考えを持つべきという考え方です。確かに愛媛県内はまるで遺伝子組み換えのように、大きな市が周辺の弱小町村を飲み込んで誕生しましたが、合併して早くも3年、合併して誕生した新しい市では早くも中央優先あるいは中央横並び、中央軸足の傾向が出始めており、端々では限界集落や学校統合などの問題が徐々に出始め、住民は将来への募る不安におののいているようです。

 そこへ行くと小さな町は小さな政府を目指してそれなりの血の通った行政が出来ているようで、既に様々な新しい取り組みや斬新な企画が打ち出され実行に移されているのです。役場職員は時代の流れと住民のニーズを的確にとらえ、住民が将来への夢や希望を持って暮らしてゆけるようしなければなりません。風通しのよい血の通った行政が出来る職員の存在こそいい町をつくる大きな力なのです。

 職員も町長も議員も、町を愛する、町のためにする、町を正しい方向に導くという共通の意識さえ持てばいい町は必ず出来るのです。

 私は講義のために壇上に立ち、私の話を聞く研修生を見渡しながら話しましたが、確かに眠ることもなく熱心に話を聞いてくれましたが、どこか迫力がないような気もしました。多分それは問題意識が弱いのかも知れません。また日頃の仕事に熱が入っていないのかも知れません。かつて私がそうであったように、研修会に何かを求め、研修会で得た成果を仕事や人生に生かせるような職員になって欲しいものです。

 講義が終わって3人の研修生が控え室に私を訪ねて来ました。二人は顔見知りでしたがこんな小さな出会いだってこれからの大きな一歩になるのです。

 「人は人によりて人となる」はある人の本の題名ですが、今までも今も、ひょっとしたらこれからも人は人によりて人となります。いい人に巡り会い感化を受ける、このくらい素敵な学びはないのです。私のような凡人に会うだけでも少しは前進の糸口になるかもしれないのです。「小さな町よ頑張れ、小さな町の職員よ頑張れ」と私はこれからもエールを送り続けます。

  「小さいと 心の通う 行政が 出来るはずです あなた次第で」

  「もう少し 元気を出して 歩こうよ さすれば明日は いいことあるよ」

  「職員が やる気を出すと 住民も 元気になって 町も元気に」

  「冷房の 効いたお部屋で 涼しいな 眠っていても 給料もらえる」


 

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shin-1さんの日記

○使わなくなった風呂敷

 先日ある会合に貰った有名なお酒を持って行きました。わが家では長家を貰うともっぱら親父が寝酒程度にたしなむ程度なので、いつの間にか古くなって料理酒として使う程度になってしまうのです。私が酒豪?だった頃は知人・友人・親類からのお中元やお歳暮はもっぱらビールだったし、講演で招かれていただくお土産も地酒でした。しかし身体の都合で8年前に酒を断ったことを知っている人は、酒を私にくれなくなったのです。でも初対面で知らない人も相変わらずお酒をくれるのです。

 先日いただいたお酒は木箱に納められ、いかにも高そうなお酒です。私は思案した挙句その酒を風呂敷に包んで持参したのです。

 一枚の布でどんな形の物も包め、何度も繰り返し使える風呂敷は近年エコアイテムとして注目されるようになっていますが、その起源は定かではないようです。奈良時代に立てられた正倉院には、所蔵品が収納専用の布で包まれており、これが現存する最古の風呂敷とされています。こうした包み布は平安時代には「ころもつつみ」、室町時代には「ひらつつみ」と呼ばれました。包み布が風呂敷と呼ばれるようになったのは江戸時代で、もともと日本古来の風呂は蒸し風呂で、座る板場に布を敷いたり、布の上で着替えたりしていました。徳川家康の形見分けの記録「駿府御分物御道具帳」は初めて風呂敷という言葉を見ることが出来る文献だそうです。ここに記されている風呂敷は風呂の敷物のことで、徳川泰平が進むようになると庶民が銭湯にに通うようになると風呂道具や着替えを包むようになって風呂敷包みとなり、包み布全てを風呂敷と呼ぶようになりました。

 江戸時代以降庶民の間で急速に普及した風呂敷は物を持ち運ぶ道具としてだけでなく、屋号や家紋を染め抜き、今でいう包装紙のように利用されたり、婚礼の道具として使われるようになりました。明治になって生活が洋風化されても戦後間もなくまで風呂敷は庶民の暮らしに欠かせない持ち物として使われましたが、昭和の高度成長によって紙袋やレジ袋が登場し風呂敷は片隅に追いやられました。しかし近年環境への関心が高まり、再び何度も使える風呂敷への関心が高まろうとしているのです。

 風呂敷の大きさは横の長さ「幅」で表しますが、一幅は36cmで基本となるサイズは中幅から七幅まで10種類のようです。最近はその包み方や結び方にもデザインが考えられ、随分おしゃれになってきましたが、男の私などは無粋な結び方で、味もそってもないようです。女性が和服で風呂敷包みを持ち、和傘などをさして下駄で石畳を歩く姿は何とも風情のある姿です。

 昔から大言壮語な出来もしない話をする人を称して「大風呂敷な人」と呼ぶようですが、風呂敷は広げるだけでなくに包み込むことも寛容でしょう。

 私は随分前は風呂敷包みを持ってどこへでも出かけていました。しかし風呂敷包みを持ったら田舎物で東京ぼん太に似ているといわれ、木のカバンを手に入れてから、風呂敷包みにおさらばしましたが、今でも風呂敷包みへの郷愁を忘れていません。木になるカバンの中には小さな風呂敷を入れて持ち歩いていましたが、それもいつの間にか机の引き出しにしまわれてしまいました。もう一度風呂敷包み復活といきましょうか。

  「風呂敷に 酒を包んで 会合へ 粋な計らい 感謝されつつ」

  「若い頃 風呂敷包みを 持ち歩く 思い出彼方 そろり復活」

  「風呂敷は 風呂に使うが 語源とは 知らぬことゆえ 酒を包みて」

  「日本人 風呂敷ひとつで 用をなし 暮しの智恵は 今も生きてる」 

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