shin-1さんの日記

○涙の話

 今年90歳になる親父が昨年の11月に白内障で手術してから、目に関することが気になり始めました。私はこれまで近眼・老眼にはなったことがなく、サングラスの類を含めた眼鏡と称するものはかけたこともなく63歳の今日をを迎えています。多分子どもの頃から目が悪くなるほど勉強しなかったせいでしょうが、80歳で死んだおふくろも死ぬまで眼鏡なしで新聞を読んでいましたから、ひょっとして目がいいのはおふくろ家系の遺伝かも知れないと思うのです。

 パソコンが普及して、子どもの頃から殆どの人がパソコンを使うようになったからでしょうか、最近は眼鏡をかけて仕事をする人が目立って増えました。特に老眼といえばお年寄りと思われがちですが、40代後半から50代前半でも老眼のご厄介になっている人は結構多いようです。そのためか眼鏡を売る店が増えていて昔は「時計・眼鏡店」なんてまったく無関係なものを組み合わせたお店が町の中に一軒くらいあったようですが、滅多に売れず開店休業のような感じでした。それがどうでしょう、時計はデジタルになって使い捨ての時代になって専門店など殆どなく、「時計宝石店」とこれまた何の関係もないようなものを組み合わせ、かろうじて生き延びているようです。ところが余り商売にならなかった眼鏡の方が繁華にお店を増やしているのですから世の中は分らないものです。

 親父を眼下に連れて行った時、眼科の病院で「ご自由にお持ち帰り下さい」という資料立てに「涙の話」という僅か10ページのパンフレットが置かれていました。何気なく手に取り何気なく車に積んで帰り、何気なく時が過ぎました。昨日車を掃除しているとそのパンフレットが目に留まりました。

 ①涙はどこからきてどこへいく

 上まぶたの外側あたりが主涙腺という涙の生産工場、ここから出てきた涙は、目の表面を一様に潤したあと、約10パーセントは蒸発し、残って古くなった涙は目の内側にある小さな穴「涙点」へ、そこから目と鼻をつなぐ「涙小管」から「鼻涙管」という涙の下水道を通り鼻腔へと流れるのです。

 ②まばたきのポンプが涙を運ぶ

 まばたきはいわば涙のポンプです。まばたきする度に目の表面に一定量の涙が送り込まれてきます。乾きそうになるとまたパチリ、私たちは一分間に約20回から30回程度のまばたきを繰り返して、目の表面をリフレッシュさせているのです。読書やパソコン作業をするとまばたきの回数は普段の4分の1くらいになるそうです。

 ③か弱い目を守る涙のベール

 涙は目が正常な働きをするために欠かせないものです。キズつきやすく、か弱い目を外界のばい菌や異物~守ります。また角膜へ酸素や栄養分を届けるのも涙の役目です。この他にもものを見るという目の働きを様々な点から支えています。

 ④涙は不思議なサンドイッチ構造

 涙の膜は油層、水層、ムチン層の三つの層から成り立っています。うち98パーセントが水層で油層トムチン層がサンドイッチののようにはさんでいます。涙は僅か7ミクロンの薄い膜、油層は涙の蒸発を、ムチン層は涙が流れ落ちないように目の表面に粘着する糊の役目を果たしているのです。

 ⑤涙が減ると危険な状態

 目が疲れたと感じるのは、その原因の60パーセントが目の乾きにあるといわれています。運転や細かい作業をしたとき、乾燥した部屋にいるとき、睡眠不足やストレスが高いときは要注意です。

 コンタクトレンズは目に大きな負担をかけているので、正しい知識で使うよう心がけましょう。

 まあこんな感じのことが書かれていました。私の最大の疑問点である悲しいときに何故涙が出るのかについては、結局分らずじまいでした。私は感動派でよく涙が出ます。これも悪いことではないにしてもどれ程いいのか分らず、次の機会に病院で聞いてみたいと思いました。

  「目に涙 分らないこと 多過ぎる 知れば知るほど 人間凄い」

  「ドラマ見て もらい泣きする お涙も 涙工場 目の上辺り」

  「顔悪い でも目だけは 母譲り 天国母に 感謝の線香」

  「眼鏡代 今まで払わず 生きてきた これから先も 涙でカバー」

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shin-1さんの日記

○フィールドワーク現地調査

 今年も愛媛大学法文学部総合政策学科フィールドワークの授業で現地調査が始まりました。今年は少し方向を変えて、合併後の地域振興とまちづくりについて、大きな街と合併した旧中島町・旧中山町・旧長浜町・旧双海町の4箇所を訪ねる計画です。その手始めとして昨日は旧中島町を学生19名とともに訪ねました。

 朝の弱い学生にとって高浜発8時30分の高速船は少々きついかも知れないと思いつつ、この便に乗らないと帰りの便が遅くなってしまうので、無理を承知で計画しましたが、学生たちは元気に10分前に集合してくれました。

 松山観光港ができてた最近は高浜港など殆ど利用することもなくなりましたが、私にとっては中島へ行く機会も時々あって忘れ難い港なのです。昨日は梅雨明けを思わせるような久しぶりの好天に恵まれ、瀬戸内の海は穏やかに凪いでいて高速船で中島本島の大浦までは僅か30分で到着しました。この日の研修会場となる中島総合文化センターまでは歩いて5分、島で唯一の信号機を過ぎると目の前に20数億円もかけた立派な建物が目に飛び込んできました。人口5千人余りの島には立派過ぎるほどの建物です。

 昨日は休館日でしたが、金本所長さんと担当の豊田さんが玄関まで向けに出てくれました。ロビーにはかなり大きい電光掲示板があって、旧中島町を初めごご島や釣島などを加えた9つの島々の位置関係について説明がありました。

 一回ロビーの直ぐ横階段下に珍しいものを見つけました。かつて私たちが乗船したことのある丸木舟です。この丸木舟は松山工業高校が愛媛新聞創刊105周年の記念事業として製作し、大分県姫島から愛媛県松山市までの海路140キロを2泊3日で漕ぎ渡ったものなのです。姫島は黒曜石の産地で黒曜石のルートを探ろうと計画された航海の運行に携わり、私は舵取り役として乗り込みました。過酷な航海でしたが、山口県平郡島、中島町由利島に立ち寄りながら無事松山梅津寺に到着した時は精魂尽き果てるほど疲れていました。まさに感動の再会でした。この場所に展示していることは豊田さんから漏れ聞いていましたが、もう遠い彼方の思い出ながら私の人生にとってこの「ゆりひめ」は、ふたみシーサイド公園に展示している丸木舟「21世紀えひめ号」とともに忘れ難い青春時代の思い出なのです。


 2階会議室での研修は金本先生が1時間半に渡って教育問題を交えながら熱っぽく話してもらいました。学生たちは一生懸命メモを取っていました。金本先生とは旧知の間柄であるのでかゆい所に手の届くような、学生にとっても分りやすいお話でした。余り時間がなかったのですが学生の質問も的確で、一斑の班長のあいさつも上手くやれたようでした。


 メタボリ気味の金本先生なので、土産は赤とんぼ先生が作ってくれた竹のとんぼを用意し、学生の代表から先生に手渡しました。その後豊田さんから離島振興法や合併前と合併後のまちづくりについて話しを聞き、町内を歩いて視察しました。島ゆえの狭い路地裏道を、元幼稚園、病院、元役場、BGプール、給食センター、統合中学生徒寮、離島センターなどなど、施設のありのままを見学させてもらいましたが、既に老朽や廃止の施設もあって、合併後の影の部分を存分に肌で感じることができました。さて学生の目にはどう映ったのでしょうか。

 

 帰り際、豊田さんと池田洋子さんのお店に会いに行ったり、豊田さんの連絡で旧友古野セキエさんが船着場まで見送りにきてくれました。先日の公友会に出会わなかっただけに嬉しい出会いでした。お互いいい歳になってきました。これからも元気で島で暮らしてください。


 フェリーを見送る豊田さん、古野さんの姿を見ながら、何年か前丸木舟21世紀えひめ号で大浦に立ち寄ったとき、古野さんが見送ってくれたことをつい昨日のように思い出しました。島人はどの人も温かい者で、ジーンときました。
  
「学生と 船で渡った 中島の そこここ訪ね 懐かし出会い」

  「島人は いつ出会っても 温かく 迎え見送り 忘ることなく」

  「過疎進み 高齢化進む 島暮らし 将来不安 見え隠れする」

  「ビオトープ 青田の上を 夏風が 撫でつ吹き抜け 音も聞こえず」

(ビオトープ、島唯一の田んぼとか)
(松山北高校中島分校にある中村草田男の句碑)

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