人間牧場

〇人間牧場での修行

 修行は、仏教における精神の鍛錬を意味する用語です。財産や名誉、性欲といった人間的な欲望(相対的幸福)から開放され、生きていること自体に満足感を得られる状態(絶対的幸福)を追求することをいいます。人間牧場は財産や名誉・性欲から開放された人間的平等社会をうたっているのであるなら、ある意味人間牧場での様々な活動は何の報酬もないので修行だとも思えるのです。
 数年前人間牧場を造った時、その構想を新聞で見た浜田久男さんが人間牧場建設現場を訪れ、「人間牧場で修行したい」と仰々しい申し込み書面を持ってやって来ました。7年も前の出来事ですが、私は今でもそのことをはっきり覚えているのです。人間牧場の建設だけに目と心が向いていた私にとって、この一枚の書面は「何のために人間牧場を造るのか」といった、目的(基本コンセプト)を考えさせられる、ある意味大きな衝撃でした。人間牧場へやって来る人はどうであれ、少なくとも自分にとって人間牧場は「人間修行の場所」でなければならないと思ったのです。

小豆色のススキの穂ばらみ

 私は修行の基本を「求心力」に置こうと思いました。自分の外面より心の内面を研くことです。内面を研くには座禅がありますが、私はむしろ静的な座禅手法より額に汗して働く動的な実践を重んじ、汗の代償として何かを学ぶのです。手っ取り早いのは「掃除」です。かつて松下幸之助さんから学んだ「掃除もできない人間は大口を叩くな」という言葉に心を動かされて、これまでにも掃除修行をやって来ました。今では語り草となってしまった、シーサイド公園での毎朝3時間の掃除を役場を退職するまでの12年間、やり続けることができたのも、修行だと思ってやったから出来たことなのです。
 私は浜田さんの修行入門を認め、以来たった二人だけの修行を今も続けているのです。浜田さんは一年に三~四回人間牧場へ修行と称し一人でやって来ます。そして私と二人で水平線の家の掃除をしっかりするのです。昨日は「時間が空いたから」と午前11時頃にやって来ました。私は今年最後の草刈りの最中だったので、とりあえず水平線の家の部屋内の荷物を浜田さんと二人で全部ウッドデッキに出して、部屋を空にしただけで草刈りに専念しました。

一人黙々と掃除をする浜田さん

 浜田さんは空になった部屋を箒で丹念に掃き、掃除機で埃を吸い込ませてから、板間にワックスを刷毛で塗って行くのです。普通は私と二人で分担するワックスかけを一人でするのですから、涼しくなったこの時期とはいえ、額に汗を滲ませて文字どおり孤軍奮闘でした。
 草刈機のエンジン音にかき消されて、昼の音楽サイレンも聞き取れないほどでしたが、ひとまず12時を過ぎたので、エンジンを止めて草刈り作業を中断しました。ウッドデッキに上がってみると、ワックスかけは終わりに近づいていました。その後私が持参していた妻手作りの握り飯弁当を二人で分け合って食べながら色々な話をし、浜田さんは何事もなかったように人間牧場を去って行きました。
 私の修行は、刈っても刈っても直ぐに伸びる草刈り作業です。今年も黙々と草を何回刈ったことでしょう。先日は草を刈ったばかりの人間牧場への進入路を、10メートル以上にわたってイノシシに荒され、車も通れないほどになりましたが、これも天が与えた修行だと思えば、汗をかくことの意味があるとばかりに、黙々と取り除きすっかり綺麗になりました。浜田さんと私だけしか知らない修行はこれからも続きそうです。

  「修行だと 思う草刈り 秋迎え 一段落と 一息つきぬ」

  「小豆色 ススキ穂ばらみ 秋迎え 季節の移ろい 感じながらも」

  「七年も 続いて掃除 する二人 いい汗かいて 人を迎える」

  「北東の 風吹く秋の 一日を 人間牧場 こまごま動く」  

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