人間牧場

○灘町地区の盆踊り

 私の暮らしている灘町地区では、毎年うら盆に当る8月24日に盆踊りを行なっています。盆踊りの由来は新盆を迎えた人の霊を慰めるため始まったようですが、戦後はどちらかというとお国のために亡くなった戦没者の慰霊が主目的になったようで、盆踊りに先立って夕方公民館に祭壇が組まれ、戦没者や新盆を迎えた人の遺影が飾られた場所に、お寺の住職さんが招かれて読経をしてもらって、しめやかな慰霊祭が行なわれるのです。
 私も7年前退職すると直ぐに区長に選任され、2年間慰霊祭や盆踊りの主催者となり奔走しましたが、盆踊りもその頃から年々さびれ、「やる意味があるのだろうか」と疑問を投げかけていましたが、やはり今年も踊り子が少ない寂しい盆踊りとなりました。

今年も寂しき盆踊り

 私もかつて区長だったこともあるので、踊りについては不器用ながら毎年盆踊りには参加して、踊りの輪に加わっていますが、私が踊れる曲は炭坑節、双海音頭、神輿音頭くらいなもので、地元の古い手踊りは下灘出身ということもあって、肌に会わず、もっぱら布長椅子に座って、かき氷を食べながら観戦するのです。踊り子の人数の割にはやぐらは立派で、組み立て式のやぐらは組長さんたちが朝から総出で組まれ、四方に張り巡らせたちょうちんに裸電球が点けられ、夕闇迫る午後7時から音楽が鳴り始め、誰とはなく踊り始めると、いつの間にか踊りの輪ができるのです。
 盆踊りは一年に一度の地区民の社交場となっていて、懐かしいお年寄りの姿も見受けられ、ふるさとの訛り懐かしく安否を確認していました。またこの日を楽しみに帰ってきて踊る人の姿も見受けられました。

 私たちが若い頃は、盆踊りを仕切っていたのは青年団でした。そして盆踊りは青年たちの社交場でもあったのです。私は18歳から26歳まで青年団活動をしました。その頃は青年団員も多くいて、町内のあちこちで行なわれる盆踊りに加勢するため、仲間を誘って連日連夜浴衣を着て出かけました。盆踊りはどっちかに向いていて、むしろ盆踊りに集まった男女の出会いが楽しみで、酒やビールを飲みながら深夜まで過ごしました。特に浴衣を着た若い女性の首筋にじんわり滲む汗や安物の香水の香りに、心をときめかせたものでした。
 今は町内で盆踊りをしているのは池久保と下浜、それに灘町くらいなもので、これもいつまで続くかといった風前の灯火のようで、華やかだった頃を知っているだけに心が痛むのです。

 盆踊りの衰退は時の流れなのかも知れません。でも戦没者や新盆を迎えた人たちの霊を慰めるという目的はとても優しい日本的・平和的心で、私としてはいつまでも続けて欲しいと願っています。特に戦後67年経った戦争という忌まわしい過去を語り継ぎ、平和の尊さを考えるには最良の催事だと思うのです。
 私の家でも戦没者ではない戦没者が2人います。親父の妹2人が徴用先の大阪の軍需工場で戦災に遭い、焼け死んでいるのです。亡くなった祖母の生存中の一番の悲しみは、先に逝った2人の子どものことのようで、折に触れ涙を流しながら話していました。その祖母も亡くなり親父も既に93歳の老域に達して、2人の叔母の話は消えようとしていますが、せめてわが家の跡取りを自認する私だけでも、語り継ぎその霊を慰めなければと思っています。
 8月24日の夜は、空に三日月が印象的に見えた夜でした。

  「細々と 今年もうら盆 盆踊り 輪の中入り 手足動かす」

  「若い頃 うなじ流れる 汗を見て 心ときめく 楽し思い出」

  「うら盆は 空襲死んだ 叔母二人 思い出しつつ 平和の誓い」

  「寂れ行く 盆の踊りを どうするか みんな言うけど いつもそのまま」

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