shin-1さんの日記

○二冊の本①

 先日山口県教育委員会から社会教育委員研修会の講演を依頼され、美祢市と柳井市へそれぞれ出かけました。台風の進路が気になる二日間でしたが、懇親会で財団法人山口県人づくり財団の大迫女史とお会いしました。来年の2月に山口県で開かれる「第4回人づくり・地域づくりフォーラムin山口」への私の出演が既に決まっていて、事前打ち合わせを兼ねての交流となりましたが、その折別れ際「山口人物伝」という本を送るからと約束をしていました。

 約束通り今日その本が2冊送られてきました。山口県といえば吉田松陰、高杉晋作、金子みすず、伊藤博文など多くの著名人が名を連ねていますが、私が敬愛する民族学者宮本常一もまた山口県周防大島の人なのです。「夢チャレンジ・きらり・山口人物伝」VOL.1には狩野芳崖、柏木幸助、田島直人なども紹介されていて興味深く読ませていただきました。

 冒頭に紹介される人物はご存じ吉田松陰ですが、この本は中学生にも理解されるようにかなり分かりやすく書かれています。

 この年の11月、松陰はある行動に出ます。井伊直弼の意を受け、厳しい弾圧を続ける老中間部詮勝に憤り、その暗殺を企てるのです。松陰は藩の重臣にその意を伝え、武器弾薬を提供してほしいと訴え出ます。この過激な要求に驚いた藩は、松陰の身柄を拘束し塾の閉鎖を命じます。再び野山獄に投獄された松陰は、もはや藩に頼るのではなく、草の根に埋もれているような人々で日本を変革せねばならないと決意します。

 安政6年、松陰は江戸へ呼び出されます。その容疑は別の軽い事件のものでしたが、松陰は老中間部暗殺計画が知られたと思って、それを白状していまいます。自分の行動を「正義と信じていた彼らしい態度ですが、これで死罪は免れなくなりました。

 死を覚悟した松陰は、遺書ともいえる留魂録」を一夜で書きあげます。そこには、「私は30歳(数え年)でこの世を去るが、同志が私の志を継いでくれるなら、それが種となっていつか実るだろう」と、弟子たちに未来を託した言葉が残されています。安政6年10月27日(1859年)松陰は処刑されました。

 「身はたとひ 武蔵野野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」(門下生に向けた留魂録冒頭の辞世の句)

 「親思ふ 心にまさる親ごころ けふの音づれ 何ときくらん」(家族への遺言の中の辞世の句)

 彼が死んで150年が経ちました。萩の町では今も彼を松陰先生と呼びます。それは、彼の志が今も色あせることなく生き続け、私たちの行く道を照らしてくれるからなのです。

 そんな時代だったといえばそれまでですが、吉田松陰は僅か29歳という若さでこの世を去っています。私などはその倍の長さを生きているというのに、社会や人の何の役にも立たず今もなお生きているのです。吉田松陰の凄さは彼の実行力と志が多くの若者を羽ばたかせたことです。そして「人賢愚ありと雖も、各々一、二の才能なきはなし、湊合して大成する時は必ず全備するとこあらん」(人はそれぞれ才能の違いはあるが、誰でも一つや二つは必ずいいところをもっている。それを伸ばすのが教育だ)、といわれるように若者たちの才能を発見しそれを伸ばしたのです。

 わが家の隠居の床の間には吉田松陰の掛け軸を吊るしていますが、松陰の強い生き方に改めて感動を覚えました。

  「送られし 人物伝を 一気読み 改め思う 名残し人々」

  「松陰の 辞世の句読み 俺などは ただ生きている だけに等しく」

  「密航を 企て松陰 降ろされる 俺は乗船 アメリカ目指し」

  「今日沈む 夕陽の辺り 萩と聞く 松陰の里 再訪したし」

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