shin-1さんの日記

投稿者: | 2008年6月7日

○見方が違う見方

 昨日は町内の101歳で亡くなったおばあちゃんの葬式に出かけました。幾つになっても人の死に年齢の不足はないと思うのですが、葬儀に参列した人の見方は人によって違うように思いました。「おばあちゃんの年齢は幾つ?」「101歳だそうです」「うんそりゃあ大往生じゃな」と年齢から考えて長生きし寿命だと割り切る人がいます。一方で親類の人は目を真赤に腫らし、「もう少し生きて欲しかった」とお別れを辛そうにお話しされました。確かに肉親との別れは幾つになっても辛いもので、私の母も80歳、祖母は88歳であの世に旅立ちましたが、肉親の私にとっては「もう少し長生きして欲しかった」というのが本音で、母が死んで8年余り、祖母が死んで20年余りになるというのに、未だに私の心の中に行き続けているのです。

 お葬式は滅多に会うことのない人に会います。私は若い頃教育委員会に務めこの地域に度々足を運んで自治公民館活動の手助けをしていました。したがって当時はどの家にどんな家族がいて、犬が何匹まで殆ど知り尽くしていました。当然殆どの住民が顔見知りでそれは楽しい日々でした。しかしあれから三十年近くが経つと、いつの間にか若かった人たちはみんな30歳歳を取り、膝腰肩に不調を訴え、何らかの病気を持っていると訴えていました。

 「若松さん、えらい痩せたがどがいしたん」?とは、長い間であっていない人の弁です。「はい少し病気をしまして痩せました」「どこの病気ぞな?」「胆のうを患いまして」「ほうそりゃ気をつけないけませんよ」「はい有難うございます」「○○さんも胆のうを取ったそうじゃが、あの人は昔以上に肥えとりますよ」「そうですか、私は痩せる方なんでしょうかねえ」「胆のうを取った人はなんぼでもおりますから、心配することはありませんよ」「はい私もそう思って頑張ります」、てな調子で会話が弾みました。

 ところが時々出会う人は、「若松さん元気そうになったねえ。顔色もいいし毎日講演などで忙しそうですね」「はいはいお陰様です」「こないだ新聞に載っているのを見ましたが、あれはどこでの講演だったのですか」「はい金融広報委員会から頼まれての講演でした」「ほう、また偉い所ですが、どんなお話ですか」「はい人生の生活設計についてでした」「ほうまた難しいお話ですね」「いえいえ、大したことはありません」「まあ忙しいのはいいことですが、余り無理をしないように、お互い歳ですから、このおばあちゃんのように長生きがしたいですね」「はい」、てな調子でした。

 久しぶりに出会った人の見方と、時々会う人の見方はこのように同じものを見ても随分と違います。どちらも正しい見方なのですが、さて私は土地rを信じましょうか。「えらい痩せた」という話しを考えると私は明らかに病後を引きずっています。「元気になったねえ、顔色もいいし」だと嬉しい見方です。体重計に乗った時思う「もう少し肥えたい」という不安な思いと、毎日鏡を見て日々の暮しや初夏の日差しで日焼けした精かんな?顔つきを思えば「うん大丈夫」とも思うのです。

 人間は言葉一つでこうも心が動くものなのです。「少し痩せたね」といえば、それを喜ぶ人もいれば皮肉と取る人もいます。言葉は魔物です。

  「何処悪い? 痩せた体を 見て言われ はて大丈夫? 少し心配」

  「顔の色 いいじゃないかと 見て言われ 俺は元気だ 少し安心」

  「裏表 見方によって 違うもの いいよう思い いいよう生きる」

  「告別の 席でお互い 消息を 語り合うのも 変な話だ」