shin-1さんの日記

投稿者: | 2006年12月15日

○海を渡っても日帰り

 私たち四国に住む人間は本州に行く場合、必ず乗り物に乗って瀬戸内海という海を渡らなければなりません。橋もかからず飛行機にもそんなに乗らなかった時代は船でのんびりと渡ったものです。山口、広島、岡山、淡路など幾つものルートがあって、目的地や仕事の内容によってそのルートを決めたものです。印象深いのは高松~宇野航路で、修学旅行や遠洋航海に出かける時、宇高連絡線に乗るため高松駅から船までわれ先に走ったことを思い出します。しかしそんな古きよき時代はすっかり過去の夢物語となって、夢の架け橋三橋時代となって、本州日帰りなんて便利な社会となったのです。

 昨日は広島県熊野町の観光ボランティア養成講座に招かれて松山堀江~呉阿賀を結ぶルートを選んで3時の船に乗りました。

私の古い時刻表だと3時半の出講予定だったのですが、少し早めに桟橋に着くと既に船は入港しようとしていました。急いで身支度を整えて船に乗りましたが、もし時間に遅れていたら間に合わなかったのではないかと、早めの出発を喜びました。港には戦中から携帯で電話連絡していたので、日の丸タクシーなんて威勢のいい名前の小型車が迎えに来ており、阿賀港から山越えで熊野町まで夕暮れの雨降る中を走りました。曲がりくねった山道の途中では見返り坂と名前をつけたくなるような呉市街の夜景がとても美しく見え隠れして、なんだか得をしたような気持ちになりました。

 港から熊野までは僅か30分足らずで到着し、文化センターロビーの筆の展示を見たりしばし談笑して時を過ごしました。今回の研修会は急に決まったことなのですが、不思議なことに担当者からは何度もメールが届き万全の打ち合わせをしたのですが、私が留守がちだったため担当者の声すら聞かずに研修会のお手伝いが成立したのです。インターネット時代の凄さをしみじみと味わいました。


 熊野町は全国の筆生産の80パーセントのシェアーを持つ有数の産地です。何年か前商工会の方々が中心なって私の町へ視察に来られたことがあったので、その存在をよく知っていたし、熊野町にもそのことを覚えている人が何人かいて、出席をされていました。最近は安い中国産の筆に押されて筆の世界も不況とか、それでも筆を作る技術を化粧のための刷毛に応用し、活路を開いている話を聞いて、いい話だと思いました。熊野町は広島市に隣接している町なので高度成長時代以降流入人口が増え今は3万人で、平成の大合併もせずに単独で生き残っていますが、団塊の世代など少しずつ町民の暮しにも高齢化やふるさと意識などに対する変化が現れ始めているようです。伝統工芸士が中心になって若い後継者の育成に乗り出したり、今回の観光ボランティアの育成講座を開いたり、様々な新しい取り組みが始まってるようですが、結構なことだと感心しました。

 熊野に新天地を求めてやって来た人にとって、熊野は行きずりの地だったかも知れませんが、その子どもたちに熊野町を「ここが君のふるさとだ」と胸を張って伝えるふるさと教育は学校教育や社会教育を問わず大きなテーマではないかと思われました。自分の町を語る物語と語り部育てがこれから益々重要になってくることでしょう。

 「若松さんあなただったらどんなまちづくりをしますか」と唐突に尋ねられました。折りしも清水寺で二日前、今年の漢字が「命」と揮毫されました。あの筆を熊野産の筆にして奉納し全国に紹介してもらおうか。清水寺の向こうを張って今年の漢字を熊野でも全国公募して有名人に書かせたら面白い文化財も残るかも。なんて楽しいアイディアを考えたりしました。

 午後7時から始まった講座は盛会のうちに午後9時終了、再びタクシーで阿賀港まで送ってもらい午後10時発のフェリーで松山を目指しましたが、片道1時間50分の最短コース船の旅といいながら、我家に着いたのは午前一時近くになっていました。近いようで遠い土地、遠いようで近い土地熊野まで、日帰りの旅となりました。お土産にもらった化粧用美顔筆で妻はどんな美人に返信するのでしょうか。眠気眼で起きて待っていてくれた妻は嬉しそうに受け取り、まるで少女のように枕元に置いて夢の世界へと旅立ちました。

  「遠くても 近いと思う 日帰りに 少々お疲れ 充実しきって」

  「喉が変 喋り過ぎたか 風邪なのか 朝起き気付き ウガイすれども」

  「面白い 途中参加の 議員さん そんな声かけ メールも届く」

  「美顔筆 寝床に並べ 夢心地 妻の寝姿 何とも少女」

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